チャレンジ

楽しく、自然体で生活しながら、チャレンジし、感じ続ける記録です。

”今日やらないものは、明日もやらない”

2007-08-31 05:24:00 | 大切な人
”今日やらないものは、明日もやらない” という言葉を最近すごく意識している。

これはたとえば仕事の資料作成の依頼を受け、今日やればいいのに「今日は気分がのらないから明日やろう」と先延ばしにすると結局明日もやらないということ。
別のたとえでは、体重を落すために食べる量を減らそうと決めておいて、今日からではなく明日からやろうと先延ばしにする。そうするとやはりその次の日もやらないということ。

今日やると思ったら、今日中にやるまたは今日から始めることが大切。

この言葉のインスピレーションをくれたのは中野明信さん。



中野さんは私が以前通っていたジムに所属している。
2004年にニューヨークで行われたアマチュアボディビルダー世界大会で優勝し今はプロボディビルダーになっている。
自分自身の筋肉の限界まで追い込んでいく精神力には、トレーニングを見ていて本当に驚いた。

そんな中野さんも初めてボディビル大会に出ることをジムの会長に勧められたときは”今年は無理なので、来年出場します”と答えたそうだ。

ところがそれを聞いた会長からは”今年出ないものは来年も出ない”と言われて思いっきりぐさっときて、カチンときた。そして売り言葉に買い言葉で”それじゃ出ます!”と大見得をきったところから世界チャンピオンに至る道が開けたそうだ。

”今年出ないものは来年も出ない”といった森田会長はこの人。


たんたんと語る言葉に、人の気持に火をつけるものを持っている。私も何度か火をつけてもらった。そして中野さんの話を通じて今も火をつけてもらっている。

”今日やらないものは、明日もやらない”だから今日からやる。

”今日やらなくていいものは明日やる”という習慣がついてた私にとってはすごい進歩だ。

相槌の上手な人?

2007-08-30 05:47:28 | 身近な出来事
いつも私に親切にしてくれるドイツ人の女性は話を聞くのがとても上手い。

私のつたないドイツ語でも「フ~ン♪、フ~ン♬」とリズミカルに相槌を入れて熱心に聞いてくれる。ドイツ語の「フ~ン、フ~ン」は日本語の「ふ~ん、ふ~ん」とほとんど同じような意味をもっていて、同じような場面で使われる。

ついでに言えばドイツ語に「アーソー」という相槌があるが、これも日本語の「あーそー」とほとんど同じような意味をもっていて、同じような場面で使われる。

日本でも相槌上手の人には話がしやすいように、「フ~ン♪、フ~ン♬」といって話を聞いてくれるこの女性にはとっても話しがしやすい。

私が言葉に詰まって話が出なくなった時も、そんな私を見て「フ~ン♪、フ~ン♬」と相槌というか、しっかり聞いているよというコミュニケーションをしてくれるので、なんとか話を続けることができる。

今日私が廊下を歩いている時のこと、廊下の曲がり角のむこうから聞きなれた「フ~ン♪、フ~ン♬」という相槌が聞こえてきた。「フ~ン♪、フ~ン♬」「フ~ン♪、フ~ン♬」「フ~ン♪、フ~ン♬」「フ~ン♪、フ~ン♬」と何度も聞こえてくる。

廊下の角ですれ違う時、お互いの眼があった。
私は「ハロー」と挨拶をした。その人は私を見て「フ~ン♪、フ~ン♬」といって歩いていった。

その人は私と挨拶を交わした後も「フ~ン♪、フ~ン♬」「フ~ン♪、フ~ン♬」「フ~ン♪、フ~ン♬」という相槌をうちながら廊下を一人で歩いて行った。

私はこれからこの女性のことを『相槌おばさん』と呼ぶと思う。

やりたいことリストを作ろう

2007-08-30 05:16:29 | 身近な出来事
日本も少し涼しくなってみたいだけど、ドイツはもう寒くなってきた。
布団をしっかりかけて寝ないと明け方に寒さで必ず眼が覚める。
家の近くのたくさんの葉っぱをつけた木も、茶色の葉っぱが増え、落ち葉が日ごとに増えてきた。



空に浮かんでいる雲も、力強くもくもくした一つの塊だったものが、小さな断片へと変わっている。ギラギラしていた太陽もその明るさはのこしながらも優しさと落ち着きをもった光の塊へと変化している。



あと3日で9月。

新しいチャレンジが始まる月。たくさんの新しい出会いもある。仕事のイベントもプライベートのイベントも目白押し。きっとあっという間に9月は終わるんだろうな。

自分をどれだけ開くことができるか。開いたところで相手をそして自分の周りにおきることをしっかりと受け止める。自分自身をしっかりと保ちながら、ありのままの自分を出していく。
そんなことができたらきっと素敵な9月になると思う。

「2学期からはこうするぞ!」みたいな感じで、9月を前にしたこの時期にはなにか決意したい習慣がついているのかな? やりたいことリストでも作りたい感じがしている。

うん、作ろう。

クラブサンドよ永遠に

2007-08-29 04:44:23 | 身近な出来事
今日は日帰りでベルギーのブリュッセルに仕事にいった。
ブリュッセルまでは、私の住んでいるデュッセルドルフから車で2時間走れば着く。

ブリュッセルといえばグランプラス。



仕事でいくときには、残念ながら広場を散歩するような時間はとれない。

時間がないなかでも必ず立ち寄るのがパン屋。お目当てはクラブサンドイッチ。
25cm位の長さのフランスパンのバゲットの横からナイフを入れて、中にカニカマボコのドレッシングあえをはさんでいる。
カニカマボコ以外はレタスもトマトもきゅうり卵もなにもはさまれていない。

でもこれが最高に美味しい。やみつきになる味。以前ベルギーに住んでいた頃は毎日のように食べていた。

家で同じように作ってみても同じ味はだせない。かにかまぼこが違うのか、ドレッシングがちがうのか...とくにドイツで同じ味をだそうと思ってもだせない。
だからたべたければベルギーで買うしかない。

パン屋にいくとクラブサンドは売り切れだった。

私は見放されたのか。いやまだ見放されてはいなかった。そこにはクラブサンドに使われているバゲットがあった。「そうだ、このパン屋のバゲットをつかえばクラブサンドに近い味がだせるかも」と気がついた。
ドイツへの帰り道、クラブサンドのことを考えながらドライブした。

家につくと、たまたま知り合いが家に来ていた。
そして私がおわびをしないといけない状況がおこっていた。

ベルギーで買ったバゲットはおわびの品のひとつとして、私の手元を去っていった。

無駄のない動き

2007-08-28 04:41:02 | 気づき
私は無駄のない動きが好きだ。好きを通り越して、無駄の動きでないと認めないぐらいに思っている。

いつごろからそうなのかと考えてみると、一つ思い当たるのが工場での作業についての話をきいた20年くらい前のこと。
ねじが入っている箱のレバーを右手で押し、でてきたねじを左手で取り、左手でそのままねじ穴に押し込む。その間にレバーを押した右手はその右側にぶら下がっている電動ねじ回しをつかみ、右手とねじをさしこんだあとの左手を使ってねじ回しを固定しねじを締め付ける。ねじ回しにかけている両手を離して、また右手でねじのが入っている箱のレバーを右手で押し、でてきたねじを左手でとり...
実際はねじを閉めるだけでなく3つくらいの動作を流れるような無駄のない操作で進めていくように動きが決められている。

私もそこまではいかないが、流れるような動作を心がけている。シャワーを浴びるときにシャツを両手でつかんで脱ぎ、左手はそのままはずさずに脱いだシャツをつかんで洗濯籠の中に入れる。左手がシャツを動かしている間に右手はズボンのベルトをつかんでバックルが外れる方向に動かし、左手の作業が終わったときに左手を添えてベルトをバックルからはずす。左手はベルトをつかんだままズボンのベルト通しから引き抜く。それと同じタイミングで右手はズボンのボタンをはずし、チャックをずらす。(シモネタを想像させるような内容には特に意図はない)

その道何年という人達をプロと呼ぶとしたら、プロと呼ばれる人達はなべて動きに無駄がないように思う。料理人がそうだし、マッサージ師がそうだし、ダンサーがそうだし、とにかくプロは動きに無駄がない。
プロかプロでないかを分けている私なりの一つの基準は動きに無駄がないことかもしれない。

服を脱ぐときの私の動きはプロだと思う。食事の後片付けの動きもプロだと思う。車に乗り込んでエンジンをかけて動き出すまでの動きもプロだと思う。他にもちょっとした動きではプロとよべるような動きが結構ある。

でも、プロでない動きも多いことに気がついた。エクセルやワードで資料を作る時には、何度も印刷をしてそれをみながら修正をかける。「これで終わり」と思って印刷した直ぐ後にまた何度もおなじような修正を繰り返す。

プロではない。

他にもプロではないことを探そうとしたが、あんがいいい線いっていることが多いかもしれない。
そういえば、新しい場所を訪れたときに、そこでいろいろな情報を収集することもわりといい線いっている。

先週初めてポーランドのワルシャワを情報収集のために訪れた。忙しかったこともあり、朝一番の飛行機でワルシャワに入り、夕方のフライトで戻ってきた。

短い時間だがプロの動きができたおかげでワルシャワの市内観光までやってきた。

百聞は一見にしかず。





おまけにワルシャワの人を驚かすことをしてきた。

初めてのワルシャワで、目的地にむかうバスを無駄のない動きで見つけて乗り込んだ。乗り込んだのははいいが、降りるときにどうすればいいのかがわかなかった。日本やドイツのバスにあるような降車をリクエストするボタンはどこにもついていない。
注意深くバスの中の人の行動を見ていたが、誰の行動からも降車を知らせる方法をみつけられなかった。
もう一度注意深く車内を見渡すと。3列くらい前方の窓枠のところからゴムのようなものがたれていて、そこに三角の形をした一辺3cmくらいの金属がついていた。遠目ではあるがそれを引っ張るようなサインも書かれているように見えた。
私が座っている窓枠のところも少しゴムが長いもののおなじようなものがついていた。

私はサンフランシスコの路面電車を降車するときには、社内に張り巡らされている紐を引っ張ることを思い出した。
私は、自分の観察力と過去の経験を結びつけて状況を判断する無駄のない思考力にプロを感じた。

私の降りるバス停が次になったとき、私はおもむろにたちあがり、窓枠についている三角形の金属を下に引っ張った。ゴムが少し伸びたがなにかサンフランシスコの停車合図の紐とは感触が違う、さらに引っ張ってみたところ、そのゴムは窓をとりかこむようにして伸びながらはずれてきた。

どうもこれは降車合図のための紐ではなさそうだと気付いた。ゴムは1mほど窓から外れていた。
このゴムは窓を車体に固定するためのパッキンの役割をはたすものだったようだ。

ゴムを惹く動きに無駄はなかったが、やったことは全く無駄だった。

バスは次の停留所に何もないようにとまった。
ワルシャワのバスは全ての停留所にとまるようになっている。停留所の間隔が長いから降りる人も乗る人いる。ワルシャワのバスの動きには無駄がない。これもプロのしわざだろうか。

後悔の先にあるもの 変化、そしてチャレンジ

2007-08-27 00:41:08 | 覚えておきたい考え
後悔に支配される人生は嫌だ。
後悔は私が起こすいろんことにともなって、頻繁に私のところにやってくる。

後悔について気がついたことがある。これは後悔と行動との関係。

行動を起こした時に後悔がやってくる。「なんでこれをやってしまったんだろう」「やらなければよかった」といった後悔。

行動を起こさなかったときにも後悔がやってくる。「なんであのとき行動をおこさなかったんだろう」「なぜやらなかったんだろう」といった後悔。

どっちも後悔だけれど、行動を起こしたときの後悔と、行動を起こさなかったときの後悔は違うように思う。
後悔を引きずる時間の長さが違う。行動を起こさなかったときの後悔はその後ずっとそれを引きずっていく。「なんであのとき行動をおこさなかったんだろう」と度々思い出してしまう。何度も何度も繰り返し思い出してしまう。そのインパクトがじわじわと長い時間にわたって効いてくる気がする。

行動を起こしたときの後悔は行動を起こした直後にやってくる。それはかなり強いインパクトを持っている場合も多い。

ただ、もし時間を戻すことができて、もう一度行動をおこすか、起こさないかの選択をすることができたとしても恐らく行動する選択を選ぶと思う。
行動を起こしたときの後悔の先にあるものは変化、そしてチャレンジ。
ひょっとしたら行動をおこさないことが正しかったとしても、たとえそうだとしても行動を起こすさないと何もはじまらない。何も変化はおきない。
このことを強く感じている。

開くことから始まる変化

2007-08-26 06:05:12 | 覚えておきたい考え
動けない自分がいた。何もやる気がおきず、どんどん小さくなっていく自分を感じていた。変化が欲しいという気持はあっても、内側から盛りあがっくる情熱、自分自身をつき動かすようなものはない。自分自身がどんな変化をおこしたいのか答えをもっていないからかもしれないし、そのことをつきつめる真剣さがないのかもしれない。ただ、変化が起きることを待っている。きっと誰かから変化を起こしてもらうこと、変化が与えられるのを待っているのだと思う。

そして私はどんどん小さくなっていく。外への扉を閉ざし、自分の心をとざし、次第に私は私自身の中に孤立していく。

こんなことが2ヶ月くら続いただろうか...

これまでは変化は外からやってくるものだと思っていた。確かに私のこれまでの人生を振り返ったときに多くの変化は外からやってきた。外からやってくる変化に「これだ」と思ったらしがみつき、変化を私自身のものにしてきた。
だから変化がやってくることを待っていた。

でもふと気がついた。変化は外からやってくるかもしれないが、変化が起きるときにはその前に私のなかで準備がはじまっていることを。自分自身を開き、そこに入ってくる刺激を受け止めていく。いろんな刺激の中に自分が反応するものを直感で感じ取ってそのことを心の中に、頭の中にとどめて置く。
これが私の中での準備。この準備ができると、そのことに関わる次の刺激が必ずやってくる。刺激は直ぐ来るときもあれば、忘れた頃にやってくることもある。
そしてその刺激が変化へと繋がっていく。

全ては開くことから始まる。

閉じた2ヶ月を過ぎて、どんどんどんどん底に沈んで、そして底を打った。そこから浮上してくる時に刺激がやってきた。私は反応した。

そして今変化が現実のものとしてやってこようとしている。