チャレンジ

楽しく、自然体で生活しながら、チャレンジし、感じ続ける記録です。

人ってすごい

2012-03-09 23:31:08 | 気づき
東日本大震災からまもなく一年。
TV番組で、自衛隊員が見た大震災といった内容の番組を見た。

そこで紹介されていたエピソードに心を打たれた。
人はこんなにも誰かのために強くなれるのか、優しくなれるのか、人ってすごいなって。
そして、そんな人が一人や二人ではなく、たくさんいたこともすごい。

捜索活動にあたった自衛隊員の中には、トイレに行く時間もおしがってオムツをして作業をしたり、

自分自身も津波にのまれ、流されている時に、溺れそうな人2人を抱きかかえて助け、その後も木材を束ねたものに乗っかって多くの人を助けにいったり、

福島原発に放水をする危険な作業をまかされた部隊では、隊員の多くが「私に行かせてください」と志願したり、

他にもたくさんのストーリーが紹介されていた。

そしてこれは自衛隊の隊員だけでないことも、色々なところで伝えられている。
私が参加した震災ボランティアのメンバーも泥かき作業の時など、男も女も関係なく自分自身のもてる力を精一杯出し、もくもくととりくんでいた。くる日もくる日も。

人をみくびってはいけない。人って本当にすごいな。
私もそんな人になりたい。


何かがおきる予感

2008-11-21 21:12:37 | 気づき
一週間が終わった。月曜日にカナダモントリオールからドイツに戻り、火曜早朝にベルギーに行き、水曜夜にドイツに戻った。木曜午前中に再びベルギーに行き、金曜夜にドイツに戻った。
時差ぼけは無かったと思うけれど、運転中に眠くなって気がつくと右側を走るトラックのすぐ近くを走っていた。
それからは眠くなると窓を全開にしてヨーロッパの風を身体にたくさん受けながら走った。

今週は自分自身の感情をよくコントロールできていた。

怒りたくなるような場面、たぶん怒っていもいい場面でも落ち着いて関わっていた。怒っている相手に対してもそれに反応することなく冷静にしかも暖かい気持ちで接することができた。粘り強さがあった。

自分自身の意見もはっきり言っていた。多少無謀で無邪気な意見であったかもしれないけれど、言おうと思ったことは、はっきり言おうと決めていた。いや、決めていたというよりは決まっていたような感覚。

なにかがすこしふっきれた気がする。
見失っていたものをもう一度見つけたのか、失っていたものを取り戻したのか、もっとぴったりくる言葉はきっと「私自身のコアな部分につながった」というものかもしれない。

私に与えられた役割を果たすこと、私のコアなところで大切にしているものを守るために私ができることをする。今週はそれができていたように思う。

きっと先週モントリオールで経験したことが私自身に変化を与えているんだと思う。意識にあがっていること、あがっていないことを含めて私自身の中にいろいろなものが入ってきて、それがじわじわと効いてきているのかもしれない。

冷静でいられること、それでいて内側には熱いものがある。そんな感覚が今の私にはあるような気がする。

何かがおきる予感がする。

裸を楽しむ

2008-10-03 14:59:05 | 気づき
裸に慣れてきたんだと思う。人の裸を見るのも自分の裸をさらけだすのも。
そして裸はとても自然。
自分の裸に自信があるか?と聞かれると「ある」とは言えないけれど、トレーニングの成果もあって少しはいい身体になっていきた。東山紀之とは比べようがないけれど、私は芸能人ではないのでまあ十分だろうという感じ。

前置きがながくなったが、この話は今回の旅と関係がある。
ゴールデンオクトーバーを楽しむために旅にでかけた。最初の目的地はドイツ南西部にある温泉保養地バーデンバーデン


私の住むデュッセルドルフから380km、3時間ちょっとのドライブで着いた。ガイドブックによるとここバーデンバーデンはローマ時代にさかのぼる歴史があるらしい。街にはカラカラ浴場とフリードリヒス浴場という2つの大浴場がある。カラカラ浴場の名前はローマのカラカラ帝が湯治にきたことに由来する。カラカラ浴場は水着をつけて楽しむ温泉プールになっていて日本の温泉の感覚とは少し違っている。ここには過去3度訪れており温泉プールだと思えばそれなりに楽しいけれど、日本の温泉のような楽しさを味わうことを期待していると、期待を大きくはずされる。

今回はより日本に近い温泉を楽しむために、そして裸を楽しむためにフリードリヒス浴場に行った。ここは日本のように裸で入る温泉。そしてこの温泉は曜日によって混浴の日と男女別々に入浴する日があって木曜日だけが別々に入る日になっている。ただ、木曜日であっても館内中央部の大天蓋のある浴場は混浴になっている。

フリードリヒス浴場を訪れた昨日木曜日は男女別々に入浴する日だったので、男性の浴場を楽しんだ後、大天蓋のある浴場に混浴を楽しみにいった。
期待通り、男性だけでなく女性の入浴客もきていて混浴の時間を楽しんだ。
とてもゆったりとした美しい空間にいる裸の男女。すごくいい感じ。

自分自身の裸をさらすこと、裸の空間で自然でいられることはとても大切なこと。
それは実際の裸体であっても心であっても同じ。
長年ひっかかっていたことが一つ実現できたことを喜びながら裸の時間を楽しんだ。

無駄のない動き

2007-08-28 04:41:02 | 気づき
私は無駄のない動きが好きだ。好きを通り越して、無駄の動きでないと認めないぐらいに思っている。

いつごろからそうなのかと考えてみると、一つ思い当たるのが工場での作業についての話をきいた20年くらい前のこと。
ねじが入っている箱のレバーを右手で押し、でてきたねじを左手で取り、左手でそのままねじ穴に押し込む。その間にレバーを押した右手はその右側にぶら下がっている電動ねじ回しをつかみ、右手とねじをさしこんだあとの左手を使ってねじ回しを固定しねじを締め付ける。ねじ回しにかけている両手を離して、また右手でねじのが入っている箱のレバーを右手で押し、でてきたねじを左手でとり...
実際はねじを閉めるだけでなく3つくらいの動作を流れるような無駄のない操作で進めていくように動きが決められている。

私もそこまではいかないが、流れるような動作を心がけている。シャワーを浴びるときにシャツを両手でつかんで脱ぎ、左手はそのままはずさずに脱いだシャツをつかんで洗濯籠の中に入れる。左手がシャツを動かしている間に右手はズボンのベルトをつかんでバックルが外れる方向に動かし、左手の作業が終わったときに左手を添えてベルトをバックルからはずす。左手はベルトをつかんだままズボンのベルト通しから引き抜く。それと同じタイミングで右手はズボンのボタンをはずし、チャックをずらす。(シモネタを想像させるような内容には特に意図はない)

その道何年という人達をプロと呼ぶとしたら、プロと呼ばれる人達はなべて動きに無駄がないように思う。料理人がそうだし、マッサージ師がそうだし、ダンサーがそうだし、とにかくプロは動きに無駄がない。
プロかプロでないかを分けている私なりの一つの基準は動きに無駄がないことかもしれない。

服を脱ぐときの私の動きはプロだと思う。食事の後片付けの動きもプロだと思う。車に乗り込んでエンジンをかけて動き出すまでの動きもプロだと思う。他にもちょっとした動きではプロとよべるような動きが結構ある。

でも、プロでない動きも多いことに気がついた。エクセルやワードで資料を作る時には、何度も印刷をしてそれをみながら修正をかける。「これで終わり」と思って印刷した直ぐ後にまた何度もおなじような修正を繰り返す。

プロではない。

他にもプロではないことを探そうとしたが、あんがいいい線いっていることが多いかもしれない。
そういえば、新しい場所を訪れたときに、そこでいろいろな情報を収集することもわりといい線いっている。

先週初めてポーランドのワルシャワを情報収集のために訪れた。忙しかったこともあり、朝一番の飛行機でワルシャワに入り、夕方のフライトで戻ってきた。

短い時間だがプロの動きができたおかげでワルシャワの市内観光までやってきた。

百聞は一見にしかず。





おまけにワルシャワの人を驚かすことをしてきた。

初めてのワルシャワで、目的地にむかうバスを無駄のない動きで見つけて乗り込んだ。乗り込んだのははいいが、降りるときにどうすればいいのかがわかなかった。日本やドイツのバスにあるような降車をリクエストするボタンはどこにもついていない。
注意深くバスの中の人の行動を見ていたが、誰の行動からも降車を知らせる方法をみつけられなかった。
もう一度注意深く車内を見渡すと。3列くらい前方の窓枠のところからゴムのようなものがたれていて、そこに三角の形をした一辺3cmくらいの金属がついていた。遠目ではあるがそれを引っ張るようなサインも書かれているように見えた。
私が座っている窓枠のところも少しゴムが長いもののおなじようなものがついていた。

私はサンフランシスコの路面電車を降車するときには、社内に張り巡らされている紐を引っ張ることを思い出した。
私は、自分の観察力と過去の経験を結びつけて状況を判断する無駄のない思考力にプロを感じた。

私の降りるバス停が次になったとき、私はおもむろにたちあがり、窓枠についている三角形の金属を下に引っ張った。ゴムが少し伸びたがなにかサンフランシスコの停車合図の紐とは感触が違う、さらに引っ張ってみたところ、そのゴムは窓をとりかこむようにして伸びながらはずれてきた。

どうもこれは降車合図のための紐ではなさそうだと気付いた。ゴムは1mほど窓から外れていた。
このゴムは窓を車体に固定するためのパッキンの役割をはたすものだったようだ。

ゴムを惹く動きに無駄はなかったが、やったことは全く無駄だった。

バスは次の停留所に何もないようにとまった。
ワルシャワのバスは全ての停留所にとまるようになっている。停留所の間隔が長いから降りる人も乗る人いる。ワルシャワのバスの動きには無駄がない。これもプロのしわざだろうか。

運命という限界線

2006-03-16 23:43:17 | 気づき
 悩んでいる人と話をしている時に必ず見えてくるのが限界線です。

 自分自身の持つ能力や可能性に限界線を引いていて、「私の能力はこんなものだ」「これ以上は自分にはできない」「私はこんな人間だ」と決め付けているように感じます。

 この限界線は防衛線にもなっていて、限界線の向こう側から「あなたは素晴らしい才能を持っているよ」「あなたの力はこんなものじゃないよ」とか、「助けてあげるからこちらにおいでよ」と声をかけ、その線を越えて入ろうとしても、その線は硬く閉ざされ超えることができません。

 たまには相手に自信をもってもらうために、その人の言う「限界」が正しいと感じ「能力の限界かな」と感じた時でも「そんなことはない」と励ます時もあります。

 でも多くの場合、私は本当にその限界線は正しくないと感じているから「そんなことはない」といっているように思います。
周囲から客観的に見たほうが、本人よりも、その人の能力や限界線が妥当かどうかがよく見えるような気がしています。

 「人の能力には限界はない。自分自身が限界線をひいたところが限界になる」と私は信じています。

 ただ、今日気づきました。こんな私にも限界線があることを。

 それは自分の能力についてではなく、変化に対しての限界線です。

 私は「私におきることを変えられない」と思っていることに気がつきました。運命という言葉のほうがイメージが湧きやすいのかもしれませんが、それは変えられないと思っているようです。

 私自身は「待ち」という状態や、その感覚は好きではなく、自分からどんどん責めていく、開拓していくことが好きです。

 でも、時々動きが悪くなることがあったり、方向を見失なうことがあります。こういったときには、運命という自分が引いた限界線に支配されているような気がします。

 運命という限界線を自分自身で引いて、自分はそれを変えられないと思ってます。

すじ焼きと私

2006-03-11 20:08:14 | 気づき
 京都からの仕事の帰りに神戸の実家に帰ってきました。

 神戸に帰ると必ず出かけるところがあります。それは駅前にあるお好み焼き屋で、そこに『すじ焼き』を食べに行きます。

 『すじ焼き』とは、関西風のお好み焼きの具として、牛すじとこんにゃくを甘辛く煮込んだものを使ったお好み焼きです。いかやぶたといったものの代わりに、お好み焼きの表面にざっとこの牛すじ&こんにゃくをしきつめます。

 『すじ』と聞くとこりこりとした触感を想像されるかもしれませんが、ここのすじはよく煮込んであるせいか、それとも素材そのもの特徴かは知りませんが、いかやぶたなんかよりも柔らかいんです。こんにゃくのほうが少しこりこりとした触感を感じるくらいです。
 
 今日食べたのはこの『すじ焼き 大』で780円でした。
 
 母親のおごりです。
 
 私が好きなことをよく知っている母親は、神戸に帰ってくると必ず「お好み焼きを食べに行こう」と誘ってくれて、そしてごちそうしてくれます。

 このお好み焼き屋に始めていったのは小学生のころで、その時も母親が連れて行ってくれました。母親と買い物にでかけると「お好み焼きたべて帰ろう」とよく連れて行ってくれました。

 母親といっしょにお好み焼き屋にいって、母親がお金を払ってくれる。子供のころと同じですね。

 「もう大人なんだから、いつまでも子供の時のようにしなくていいよ」と私がいっても「まあ、いいから」といってお好み焼き屋に連れて行ってお金を払ってくれます。それだけでなくいろいろなこともしてくれます。

 親にとっては、いくつになっても子供は子供なんでしょうか?
 それとも私の中にある、子供の部分が見えていて、まだいろいろなことをしてやらないといけないと思うんでしょうか?

 きっと後者のほうだと思います。
 
 自覚していなくても自分はまぎれもない大人で、自分は責任のある仕事をしていて、そして「自分はリーダーだ!」とか言ったり、やったり、親の知らない世界でしているわけですが、親からしてみれば、まだまだ子供の姿が私の中に見えるんでしょう。

 親は正しいと思います。私はまだまだ子供だと思います。

うどんの汁

2006-03-10 19:30:07 | 気づき
 今日は午前中は岡山、午後は京都で仕事をしていました。

 岡山というところは、香川に近いせいか『讃岐うどんや』さんがたくさんあるんですね。
岡山駅から一つ東の高島駅というところから歩いて仕事先に向かったんですが、駅近くに何件かある食べ物やさんには全て『讃岐うどん』の看板がかかっていました。
うどん屋さんだけでなく、お好み焼きやさん、寿司屋さん、喫茶店などいろんな店に『讃岐うどん』の看板がかかっていました。

 私が育った神戸も、私が子供のころにはうどん屋さんがたくさんありました。
3件食べ物やがあればその内の1件はうどん屋さん、もう1件はお好み焼き屋さん、あと1件が喫茶店だったり寿司屋だったり中華料理屋さんだったり、多少おおげさかもしれませんが、そんな記憶があります。

 そんなこともあって、うどんは小さいころからよく食べていて、うどんにはいろいろな思い出があります。

 駅前に立ち食いうどん屋さんがあって、ここは小学校のころに塾の始まる前によく友達と一緒に食べに行きました。
メンバーに体の大きなのが一人いて、彼はうどん一杯では足らず、一方で2杯目のうどんを食べるお金をもっていなかったので、他の友達が食べ終わったころに「汁を残すんなら俺にくれ」といって残った汁を全部飲んでいました。

 うどん屋さんを見るとこの記憶がいつもよみがえってきます。そして「私には彼と同じことはできないな、どうやったらできるんだろう」と感じていたことを思い出します。

 「たとえお腹が空いていて汁を全て飲みたいと思っても、汁を残さず飲むのは格好が悪い。いくら汁が欲しくても、汁をくれと人にお願いをするのは格好が悪い。そんな格好が悪いことをためらいもなくできる彼は私が持っていないものを持っている。」 

 漠然とですがこんなことを感じていたように思います。

 そしてこれはうどん話だけではなく、その当時の話だけでもありません。

 「汁を残さず飲む」ことは、自分自身の力を全て出し切って一つのことをやりとげること、人の目を気にせず、自分に必要なこと、やりたいと思うことをやること。

 「汁をくれと人にお願いをする」ことは、自分が必要とするもので自分が持っていないものを他の人に出してくれようお願いすること、人の力をかりること。

 今の私の課題です。

飲みに行きたい雰囲気

2005-10-28 23:24:35 | 気づき
 家でお酒を飲むことはめったにないが、今日は珍しく飲みたい気持になって缶ビールを飲んだ。

 350mlの缶ビールだからすぐになくなってしまうのだが、飲みながら今週あった出来事を考えていた。

 本当にばたばた続きの忙しい一週間。

 月曜日に今後の流れを決める重要なステージを終え、その結果を踏まえて今週のばたばたが始まったのだが、そんな月曜日がもうずっと前のことのように思える。それくらい今週はいろいろなことがばたばたと進んでいった。

 そんな一週間が終わったことに乾杯。それを乗り切ったことにまた乾杯。

 でも本当はこの乾杯を私一人ではなく、一緒に仕事を進めているチームであげたかった。チームのメンバー一人一人が本当によく頑張ってくれたから今週を乗り切ることができた。

 10月に新たに結成したチームがだんだんチームらしくなってきたような気がしている。皆バタバタしているからコミュニケーションはそんなにとれないが、そんな中でもだんだんとつながりができてきたように思う。

 リーダーである私がそのために何かをしたわけではない。むしろ私はやるべきことをろくにやっていない。私以外のメンバーが素晴らしい。ただそれだけ。

 本当は、乾杯なんかあげているのではなく、自分のだらしなさを反省しないといけないのだが、私は反省するのが嫌い。そして、私は私。リーダーらしくないところも多いが、少しはリーダーらしいところもあると思っている。

 来週もまた新たなばたばたが始まって、当分皆で飲みに行くことは難しそうだ。でも、飲みに行くことがだんだん楽しみになってくるようなそんなチームの雰囲気になってきた。

自分に変化をおこす

2005-10-25 22:07:03 | 気づき
 たとえ自分が置かれている状況が自分にとって好ましくても、それが続くと時間と共にそこにいることが嫌になってくる。何か変化を求めて行動を起こしたくなる。

 欲張りなのかもしれない。

 今よりももっと良い状況が作れるかもしれないと思って、欲を張って変化をおこそうとしているのかもしれない。

 実際のところ、そのような気持が私の中にあると思う。少なくとも、今よりも悪い状況になりたいから変化を起こすのではなく、結果的にはより良い状況にしたいと思うから変化を起こそうとしている。

 自分にとってよりよい状況とは何だろう?

 例えば仕事の場合、より高い給与、より高いポジション、よりネームバリューのある組織、よりよいオフイス環境を得たいと思っているのだろうか?

 確かにそういう面も自分の中にはある。

 少なくとも過去にはあった。

 でも最近強くおもうようになってきたのは、それらが全て揃ったとしても仕事がつまらなければそこにはいられない。仕事がおもしろいと思えることがとても大切。その上で他の要素がある程度のレベルでバランスが取れればそれが望ましい。

 こんなことを考えるのは、今の仕事をつまらないと思っているからかもしれない。

 何がつまらないのか?

 仕事そのものはとても大切なことをやっていると思っている。さまざまな刺激もある。気を使うことが多く精神的にシンドイことも多々あるが、シンドイだけではない。楽しさもあるし、シンドイこと以上に達成したときの喜びは大きい。仕事をつまらないと思っているのではない。

 ただ確実にいえるのは、もうすぐ6年間同じ仕事を続けていること。こんなに同じ仕事を続けるのは初めてのこと。仕事を始めてからの最長記録。

 そのことに飽きているのかもしれない。

 新しいフィールドにたってみたいと思っているような気がする。自分らしさが出せて、それで実績をあげることができて、やっていてとても楽しくて、楽しいのは自分だけでなく一緒に働くメンバーや、私が提供するものを受ける人も楽しんでいる、そんなことが実現できるフィールドに立ちたいと思っている。
今の仕事でもそんな場面はある。

 ただとにかく飽きっぽい性格と、新しいことにチャレンジしたいという気持ちがだんだん大きくなっている。

私らしさ

2005-10-05 23:01:36 | 気づき
 ここ3年、この時期になると突然に仕事が忙しくなる。急にという言葉もしっくりこないくらい突然に仕事が忙しくなる。

 じっくりと腰を落ち着けて考える時間がなくなり、走りながら、動きながら考える。
最初は自分の周りで起きることのスピードについていけずあたふたする。どうしていいかわからず、ただばたばたしている。

 でも、この状況にもある時から急になれてくる。

 たとえていうなら「この状況は右に進む、この状況になったから次は左に進む、道をふさぐこの石は動きそうにないから進路をいったん大きく変えて慣性をつけて一機にいく、前の溝は思いっきり勢いをつけてなんとかジャンプする」といったように状況に左右されながらも、こっちだと思う方向に主体的に進んでいくことができるようになる。

 頭の中もそれまで33回転でまわっていたレコードが45回転で回りだす感じになる。自分の言葉が45回転でなり始め、それでも聞き取れるようになる。
 
 今日になってそんな感覚に少しづつなりつつあることを感じた。 

 でも正直なところ完璧に仕事をこなせてはおらず抜け漏れが多く出る。致命的なミスがでないのが救いで、なんとか目的地にすすんでいける。

 「ゆっくりと仕事をしているときよりも、ばたばたやっている時のほうがあなたらしくて、生き生きしている」と私を良く知る人から言われた。

 この言葉を聞いて、自分自身が少しわかったような気がする。私の場合はゆっくりと腰を落ちつけてより高いレベルの仕事を行う状況よりも、ばたばたとしながらも、その環境をコントロールしその中での最善を尽くす状況のほうが、私らしい能力を発揮できているように思う。

お互い必要なのに一緒になれない

2005-10-02 22:33:24 | 気づき
 3年前に中小企業診断士という資格をとった。知らない人は全く知らないが、当時も今も、社会人に最も人気のある資格の一つ。

 経済産業省は2001年に資格の位置づけを国家資格に格上げし、試験内容もMBA的な内容に変更した。この試験の合格者を、経営の専門的な知識を身につけた人材として認定し、日本の経済の裾野を支える中小企業の育成を図ること等を目的としている。

 とはいっても、税理士や会計士、社会保険労務士などのように、その資格を持っているものでないと認められない業務というものは中小企業診断士にはほとんどない。また、資格をとったからといって必ずしも中小企業にとって有益なアドバイスができる能力を身につけているわけではない。

 こんなこともあってか、中小企業診断士として独立して中小企業のコンサルティングをしている人は極めて限られている。そして資格取得者の多くは中小企業の育成に全く関わっていないだけでなくその多くは大企業に属しているという現状がある。

 昨日、今日と中小企業診断士の更新研修に参加したが、参加者のほとんどがこのような参加者だった。

 研修では、課題を抱える中小企業のコンサルティングをケーススタディーの形式で5人のチームで行い、経営者へのアドバイスをまとめ発表するところまでを行う。

 紙面のケーススタディーではあるものの、皆真剣に取り組む。職業はさまざまで、資格の取得目的もさまざまではあるが、資格取得の学習を通じて学んだこと、自分の能力を活かしたいと考えている人が多い。

 「世の中の中小企業の多くが様々な課題を抱えており、さまざまなアドバイスを必要としている」と研修講師の先生が話されていた。

 能力を活かしたいと思っている中小企業診断士と、経営のサポートが必要な中小企業の経営者、お互いのニーズがあるのに、一緒になれない。

 世の中にはこんなことがよくあるが、何とかならないものだろうか考えていた。

触感、そして抱きしめる

2005-09-25 18:21:31 | 気づき
 すごく久しぶりに人の手を握った。それも握手ではなく、2~3分間眼を閉じてお互いにいろいろな握り方をしたり、手から腕、肩まで触れて相手を感じる。手の『触感』を頼りに、手を握っている相手の存在を感じ、相手の内面まで感じることが目的だった。

 触感を体験したのは今日始めて出会った人。3人とこの触感を確認したが、この体験がなければ感じ取れなかった相手のぬくもりや豊かさを感じ取れた気がする。

 そして私は『触感』を普段ほとんど意識せず、そして使っていないことに気がついた。私に限らず多くの人にとって、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の『五感』の中でもっとも使っていないのが、触覚つまり『触感』ではないかと思う。

 人と人とが接する時、触感以外の感覚はフルに活用しているが、触感を使う機会はあまりない。ビジネスの場で海外の人とは握手をするが日本人同士だと握手をすることはほとんどない。
同じ組織のチーム内では男性同士でも握手をすることはほとんどないし、ましてや女性とは握手をするようなことはほぼ皆無に等しい。

 でも今日の体験を通じて『触感』がとても大切なことを実感した。五感の中で唯一温度を感じられるもの、人と人との関係で相手の体温を感じ、相手の存在を確実にそして最も強く感じられるものだから。

 「抱きしめるという会話、子供をもっと抱きしめてあげてください」というコマーシャルがあった。抱きしめることは親子の関係のスタートであって最も大切なことというメッセージがそこにはあったと思う。

 今日参加したインプロの体験コースでは、他にもいろんなことを学んだが、私の一番の気づきはこの『触感』の効果だった。

 抱きしめる、『触感』といえば、夏休みにサンフランシスコ郊外で受けたリーダーシップ研修の期間中、よく抱きしめたり抱きしめられたことを思い出した。心がすごく揺れる場面が多く、その揺れる心を抱きしめることでお互いに受け止めていた。

さりげないサポート

2005-09-13 23:08:43 | 気づき
 おはずかしながら...

 最近風呂に入る前に必ず鏡の前でポーズをとる。前を向いてポーズ、後ろを向いてポーズ。

 ジムに通っている成果がだんだん出てきて筋肉が大きくなってきた。ジムで見る人達に比べるとまだお子様サイズだが、それでもトレーニングを始める前と比べれば明らかに違いがわかる。

 週3回通っている成果もあるが、それに加えて先生がトレーニングに付き合ってくれる効果も大きいことを今日あらためて感じた。

 
 肩の真ん中の筋肉を鍛えるマシーンを久しぶりに試そうと、重さ50kgにセットした。すぐに先生が近づいてきてマシーンに手を添えていつものようにサポートをしてくれた。8回くらいあげたところで私はもう限界を感じていたが、「あと2回!」という先生の声。
へろへろになりながら2回あげた。

 ぜいぜいいっている私に「重りが軽すぎますよ。もっと重くしたほうがいいですよ」と先生は言う。私は「この重さで限界です、これ以上重いと上がりません」と答えた。
それに対して「そんなことはないですよ」と先生は言って、他のトレーニングのサポートに入った。

 私は半信半疑で重さを20kg増やして再びトレーニングを始めた瞬間「あっ!」と気がついた。
20kg増えたのに、さっきよりも全然軽い。
先生がさっきサポートしてくれていたのは、重りを上げるサポートではなく、重量の負荷をかけることをしていたのだ。

 筋肉の発達は、①適切な負荷、②栄養、③休養で実現されるため、軽すぎるウエイトでは効果がない。

 サポートする相手の状態を見ながら、時には重量の負荷をかけることを先生はしていたのだった。

 トレーニングだけの話ではないと思う。

 時には負荷を取り除き、時には逆に負荷をかける。人の成長のサポートとはそういうものだと思う。
これがさりげなくできるととてもかっこいい。

 そういえば、先生の口癖は「すごいですね」。

 先生のサポートを受けて、自分の限界まで挑戦した時に、先生は必ずこの言葉を口にする。

離れてみてわかること

2005-09-08 23:38:22 | 気づき
 以前お世話になっていた人に会いに行った。

 約束のない突然の訪問にも関わらず、私を暖かく迎え入れてほとんど一方的に私の話を聞いてくれた。
私が嬉しそうに話をしているときには一緒に嬉しそうにしてくれ、困った話をしていると一緒に困ったようにしてくれた。

 過去に嬉しいとき、苦しいときを一緒に経験してきた人だから、私の話し方や表情を見ているだけで、それがどの程度嬉しい話なのか、こまった話なのかも瞬時に感じていたと思う。私の話の内容を少し聞くだけで状況はほとんど手に取るようにわかっている。

 私がアドバイスを欲しいと思っているのかどうかもよくわかっている。

 ひとしきり話を聞いてもらった後、私は少しすっきりした気持でその人と別れた。
 「たいへんだけど大丈夫だよ。またいつでも気軽に来なさい。」と別れ際に言ってくれた。


 私にいろいろな影響を与えてくれ、ビジネスについて、マネジメントについて、リーダーシップについて大変多くのことを教えてくれた人。この人に会わなかったら私は今の私ではなかったと思う。  

 叱られることもしばしばあったし、それ以上にほめられる事もあった。
 話はしないでも、いつもその人の存在感を感じていた。この人に納得してもらう、この人をいい意味で驚かすようなことをやってやるといつも私は思っていた。

 時には、過度にプレッシャーを感じ、私自身の力を十分に発揮できなかったこともある。でも多くの場合は、このプレッシャーを跳ね返すことが私のエネルギーとなっていたように思う。

 そして、一緒にいるときは、私はあまり素直でなかったようにも感じている。何かいらない力を、体に心に私自身がかけていたように思う。

 距離を置いてみて、少しづつ私の中から余計な力が抜けていく。
 
 少しづつ素直な私がでてくると、あらためて、私が一緒に過ごしていた人のすごさがわかってくる。

 今度会う時は、さらに素直な私になって、また新たな関係からこの人のすごさを学べる気がしている。

自分で引いた限界を超えられない

2005-09-07 23:29:37 | 気づき
 ジムに行くと最近必ずやることがベンチプレス。寝転がった状態でウエイトを挙げる。胸の筋肉を盛り上げたいと思い取り組んでいるのだが、私はとにかく腕の力がないので軽いウエイトでも相当きつい。胸の筋肉が刺激を受ける前に腕が、手首が悲鳴をあげる。

 このトレーニングをやっていると、ジムの先生がトレーニングをサポートしてくれることが多い。今日もそうだった。

 でも、ベンチプレスをサポートしてもらうのは正直いってとてもきつい。私は先生がイメージしているよりもはるかに少ない回数で、自分自身の限界を感じる。

 「先生もうだめだ~」と私はすぐ弱音を吐く。先生は「まだまだ」となかなかやめさせてもらえない。「はいもう1回、もう1回!」という声が続き、へろへろになりながら、ほとんど先生の力で挙げてもらっているような状態で最後の2回くらいはウエイトを挙げている。

 手首がもともと弱いため、やっていて本当にきつく感じている部分もあるが、それよりも私自身の気持の弱さが限界をしいている部分が大きいように思う。

 先生はそのことをよく知っている。3セット目の10ラウンドくらいで「先生限界です~」というと、「そんなことで厳しい世の中をわたっていけるのか!」という言葉がかなり厳しい口調で返ってきた。

 この言葉を聞いてとても悔しかった。

 でも、先生のいうとおりだと思う。私は甘い。私の甘さ、弱さがこのトレーニングに現れている。

 悔しさを乗り越えて、限界まで取り組もうとしたが、それでも自分の壁はなかなか乗り越えられない。本当に悔しいからもう1セット取り組んだが、だんだん疲れがでできたこともあり、限界がどんどん低くなっていく。

 結局モヤモヤした気持でジムをあとにした。自分で引いた限界を超えられず。限界に挑戦する根性もなく、今日は敵前逃亡だった。