ヒーメロス通信


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連載エセー⑩禅の無本質的存在分節の機構「井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。」

2012年09月05日 | 井筒俊彦研究
連載エセー『意識と本質』(精神的東洋を求めて)解読

連載/第十回
小林稔



 前回はガザーリーとアヴェロイスとの論争を井筒氏の論考を追って論じてみた。アリストテレスやプロティノスの影響を受けたイスラーム的思考が、やがてイブン・アラビーの哲学に結集するまでの途上の試練と考えることもできるであろう。しかし世界の無始性と創造神の問題は容易に解決できるものではない。アラビーの哲学も、信仰としてのイスラーム者からみれば異端を免れないのではないか。ギリシアに生まれた哲学、たとえばプラトンの哲学に神は内在されている。オイディプスのように死すべきもの(人間)は運命に対して神からの離脱を求め戦いもするが、学問、芸術面では神々の守護のもとでロゴスを確立してきたのではないだろうか。アヴェロイスのロゴス的世界の主張もギリシア的に考えれば当然のことである。しかし、多神教の神概念では肯定されるものであっても、一神教ではまったく違った様相を見せるということだろうか。ギリシアにおいてもそうであったが、人間がロゴスを打ちたてながら神から遠ざかってきたともいえよう。言い方を変えれば神はより内面化されたといえるのではないかと思う。とりわけイスラーム教やキリスト教、ユダヤ教では学問や芸術は背信行為であるという考えが根強く存在する。
 井筒氏は「本質」の問題からガザーリーとアヴェロイスの論争を分析した。世界を「本質」のない事物の偶然的集積とみるか、整然たるロゴス的体系とみるかの相違であると分析する。全能の神をいかに扱うかに関わる問題であるとする。しかし井筒氏は徹底して神不在の意識を貫く「禅」においても、同じような問題に帰着するという。Ⅵの章から本格的に「禅」の問題に突入する。問題は同じでも逢着する仕方が独特であるという「禅」を井筒氏はいかに誤読していくのか、つまり未来の志向に活用(私にとっては詩学)しようと企てていくのかを読み解いてみよう。

P117-120
禅独自の無「本質」的存在分節の機構

 禅は現実を、「本質」によって固定された事物のロゴス的構造体とは見ない。(井筒俊彦)

 世界を事物の偶然的集積と見るガザーリーと、「本質」によるロゴス的体系と見るアヴェロイスの対立は「神の全能性」の扱い方によるのであるが、神不在を旨とする禅であるにもかかわらず、同じ問題を共有すると井筒氏はいう。禅から見れば「本質」によって認識するロゴス的構造体は幻影に過ぎない。すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによってすべての意識を無化し、全存在世界をカオスかするが、その先があると井筒氏はいう。いったんカオス化した世界に再び秩序を取り戻し事物が新しい形で返ってくるが、「本質」を取り戻してではなく、無「本質」的に帰ってくると井筒氏は説明する。
 事物は互いに区別されつつ互いに透明であると井筒氏はいう。『華厳経』に説かれる、「事
事無礙」の思想と同じである。中村元氏によると、「事事無礙」という言葉は華厳経を基にして中国で成立した華厳宗に説かれる言葉で、「ものごとは一つ一つお互いに異なっているのではなく、融けあっている、決してお互いに排除しあうものではなく、融けあってとどこおりがない」という意味であるという。(中村元現代語訳5『華厳経』『楞伽経』東京書籍刊を参照)
 
「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり、空闊(ひろ)くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし」(道元『坐禅箴』

 井筒氏によると、鳥が鳥であるのではなく、鳥のごとし、という。しかも鳥の「本質」に縛られていない。鳥は鳥として分節されている。「禅の存在体験の機微に属するこの事態を、禅独自の無<本質>的存在分節と呼びたいと井筒氏はいう。
「社会生活の場では使用される言語の意味分節を超えたところで生起する実存体験的事実であるからには、普通の言語的思惟によって論究することは原理的に不可能であるとわかっているが」(つまりロゴス的分析が不可能であるものをロゴス化することの困難)、この他に類を見ない無「本質」的存在分節の機構を、東洋的「本質」論の一局面として分析しようとすると井筒氏は述べている。
 禅に対するロゴス的分析の不可能性を緩和するために、井筒氏は迂回して論じようとする。つまり彼は古代インドの『バガヴァット・ギター』にある実存認識の根源的三様式を解説する。認識の三様式とは意識の三様式のことである。ではどのようなものか。
 
P121―123
 古代インドの宗教哲学詩『バガヴァド・ギーター』について

 『バガヴァド・ギーター』はサーンキヤ哲学の世界像に基づいていて、実在認識の様式が「三徳」の段階に分けられると井筒社いう。「三徳」とは、「原質」すなわち始めから内在する三つの根源的な存在展開的エネルギーのことであり、「純質」「激質」「暗質」がある。これらは均衡を保って微動だにしないと井筒氏はいう。しかし均衡を破ることがあるとそれぞれの方向に動き出し自己展開を始める。これら三種の存在エネルギーの混合により、我われの感覚器官や意識、外界の事物も現象し経験界を形成するという。

 原実在から経験的世界へ、存在の形而上的未展開態から形而下的展開態へ――この過程はサーンキヤ独自の存在論として古代インド哲学界では重要な位置を占める。(井筒俊彦)

 井筒氏はこの「三徳」論を踏まえた『バガヴァド・ギーター』の認識の三段階を論じるのである。
 第一、「純質的」認識
  全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡知の煌々たる光。
  「あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節されたもののうちに無分節の実在を見る。」)『バガヴァド・ギーター』

第二、「激質的」認識
  現象的他者の間に動揺ただならぬ意識。
  「あらゆる経験的事物のうちに、個々別々なさまざまなものを、個々別々に識別する認識。」『バガヴァド・ギーター』

第三、「闇質的」認識
 愛憎に縛られた沈重な意識。
  「ある一つの対象に、まるでそれですべてであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執着する狭溢な認識。」『バガヴァド・ギーター』

 これら「三徳」は典型的に東洋的な射程をもつ理論であるということも可能で、「無心」「有心」「執心」に対応すると井筒氏は述べる。意識のこのような有り様は、古来東洋では、人が発心に向かって実存的に方向転換する機縁になりえるものとして重要視されてきたが、哲学的見方からすれば「執心」は「有心」の特殊な面であり、人がある対象に愛着や嫌悪を感じるのは事物が差別されるからで、事物が差別されるのは実在がさまざまな存在者として意識に分節されるからで、「執心」は「有心」の経験の上にはじめて生起する、「有心」そのものの派生態にすぎないと井筒氏は解説する。

 P124-131
実在の無分節的真相を露呈させる禅

 井筒氏は、禅における意識の三段階を、僧璨(そうさん)の『信心銘』の冒頭の四句を挙げて、『バガヴァド・ギーター』が基づくサーンキヤ哲学の「三徳」のアナロジーを指摘する。

 至道無難  
 唯嫌揀択
 但莫憎愛
 洞然明白

(大意――実在体験の究極の境位は難しいところは何もない。あれがよい、これが悪いと選びの心動くからいけないのだ。好きだ嫌いだの執着さえなければ存在の真相は了々と眼前に露現する。)

意識の激質態は「有心」で普通は「意識」と呼ばれているものである。
「無心」(至道)の境地と揀択・憎愛の境地のあいだに「有心」の境地が介在するが、この四句では、闇質態が激質態を通らず純質態に結びつけられていると井筒氏は説く。

 「心を擬する」とは意識のエネルギーを一定の方向に向かって緊張させ、その先端に一つの対象を認知することである。禅においては「心を擬する」は「至道」への最大の障礙(障害)である。
  「心を擬すれば即ち差(たが)い、念を動かせば即ち乖(そむ)く」(臨済)
「心を擬する」ことは現実を本質的に分節し、個々別々のものとしてしか見ることができないから障礙になる。人間の意識は通常、「有心」の段階において分節的意識である。存在は究極において「絶対無分節者」であると考えるから分節意識が働き出すと存在の真相は無限の彼方に姿を隠すと井筒氏は説く。したがって分節意識は経験的世界における我われの普通の心の状態であるから、通常我われは存在の真相をまったく見ていないことになる。

 先に『バガヴァド・ギーター』を「共時的構造化」として参照したが、井筒氏は次に『楞伽経』(りょうがきょう)の意識三相説を考察している。
 意識三相説とは、「真相」「業相」「転相」である。

真相――絶対無分節に実存を見る境地。禅の「無心」にあたる。
    「大乗起信論」では「心真如」ともいう。
    絶対無分節的意識が、それ自体に内在する存在分節の性向に促され動き出す。
    そのとたんに、根源的無分節のリアリティーは分裂し、主・客の対立が現われる。
    このような存在分節の性向を「不覚」や「根本無明」という。
業相――主・客が現われたその境地における意識を「業識」(ごつしき)と呼ぶ。
    分裂した存在の主体的側面と客体的側面が、我意識と意識から独立した対象的事物の世界である。「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」という経験的世界が現象することになる。
転相――このように経験的意識を「転識」という。存在リアリティーをさまざまに分節し、無数の分割線を引いて個々別々なものとして認知された事物の間を転々と動き回る「妄覚」であるという。

 「業識」に端を発し、錯綜する「本質」線を至るところに画きつつ縦横に伸長する「転識」が経験的次元での我われの意思の自然なあり方であり、その意識の成立基盤が存在分節機能であると井筒氏はいう。「本質」を通して、ある対象を他の一切から分別されたものとして構成し、意識的志向性の焦点を絞るといえるが、普通の人であればこのプロセスは一瞬にして行なわれる。それは分節が文化的に与えられ、現実は始めから分節されているから、いつでもどこでも成立してしまうのであり、むしろそうした形で与えられている存在が現実なのだと井筒氏はいう。さらに出来合いの分節が言語に記憶されていると説く。

 存在全体をどう分節するか、どこに区切りの線を引き、どんな事物を立てるかは文化によって異なる。つまり、いろいろな「本質」が始めから文化的に措定されて与えられていて、それぞれの文化によって現実は、それぞれ違う「本質」の聯合的総体であると井筒氏は指摘する。

 ソクラテスも孔子も、それぞれの文化の規定する「本質」体系の制約を脱することはできなかった。「本質」は創造されるものではなく、発見され、正しく捉えられるべきものであったと井筒氏は述べている。

 言語(ラング)は既成の諸「本質」体系的記録であると井筒氏はいう。

 ある一つの文化共同体に生まれ育ち、その共同体の言語を学ぶ人は、自覚なしにその文化の定める「本質」体系を摂取し、それを通じて存在をいかに分節するかを学ぶ。学ばれた「本質」体系は全体的に「文化的無意識」の領域に沈殿して、その人の現実認識を規制する。井筒氏はそれを「言語アラヤ識」と呼んでいるという。人は普通、その存在に気づかない。しかしそれは時々刻々働いている。「転識」が働くとき、その底に「言語アラヤ識」が働いている。ものが存在するのは、「言語アラヤ識」の暗闇から、そのつど、ある特定の「本質」が呼びさまされてきて、その意味的鋳型で存在を分節しているからだと井筒氏はいう。しかし、文化的無意識としての「言語アラヤ識」の中に、「本質」が完成した形で整然と収まっているのではなく、「本質」を意識のこの深みまで追求してくれば、それらはすべて潜勢態特有の存在性の希薄さの中に幽隠してしまうものであるし、この領域にはまだ「本質」として定着できない、あるいは結晶しきれない、無数の浮動的な意味体が、結びつ解かれつしながら流れている。唯識哲学ではこの場で「種子」(しゅうじ)が形成されていくと考えると井筒氏はいう。それらの「種子」が機会あるごとに潜勢態を脱して「転識」的意識の表面に現勢化し、そこに「本質」を作り出し経験的事物を分節すると井筒氏は解説する。

 「言語アラヤ識」の深みから自然に生え出てくるとしか言いようもないような「本質」。無意識の所産であればこそ、経験的意識にからみつくその執拗さは凄まじく払拭することは困難である。しかしこのような事物の「本質」的分節構造を毀せば、経験世界は収拾のつかないカオス状態になり、意識主体もその本来の認識機能を完全に喪失するが、禅は、存在の究極的真相を体認するため、あえてこの危険を犯そうとすると井筒氏は指摘する。

P131-139
「本質」は「言語アラヤ識」の意味的「種子」の現勢化した姿である。(井筒俊彦)

 存在の絶対無分節と経験的分節の同時現成こそ、禅の存在論の中核をなす。絶対無分節者でありながら同時に、自己分節して経験的世界を構成していく。無分節がそのまま、その全存在エネルギーを挙げて自己分節する。「有心」からいったん「無心」に出て、その境位からひるがえって「有心」の見ていた経験界の事物を「無心」の目で見直す必要がある。そうして初めて、存在の無「本質」的分節がわかると井筒氏はいう。
 ものをその名で呼んで分節しながら、同時にそれを絶対無分節者としても見る目が働いているので、禅における言葉の使用は不自然な印象を与えると井筒氏はいう。

人あって雲門文偃(ぶんえん)に問う、「樹凋み葉落つる時、如何。」
師曰く「体露金風」(『広録』上、『五燈会元』十五)

(満天下寂寞たる秋景色。木は凋み、葉は落ち尽して、目に立つものもない。蕭風と秋風吹き渡るこの無一物の荒野に、大樹がその体を露出する。)(井筒俊彦)

経験的呪物の落ちきった実在の地平に絶対的無分節者が自らを露にする。その瞬間それはすでにさまざまな事物として自己分節している。「本質」によって凝固させられずに。
(井筒俊彦)

次回第十一回につづく。

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