贈られてきた同人雑誌から(5)
朝倉宏哉「シューズ」、清水正吾「怒り」
詩誌『幻竜』15号2012年3月20日発行
朝倉宏哉「シューズ」
娘からもらったシューズを捨てることができない。なぜならマラソンの思い出があり、アジアを旅した思い出があり、東日本大震災の地を訪れたり、おそらく原発事故の放射能をともに浴びたシューズだからだ。
このシューズを履いて
ガンジス河のヒンディー教の聖地を歩いた
内モンゴルの草原で馬に乗り
ゴビ砂漠でラクダに乗った
このシューズを履いて
初めて市民マラソンに挑戦した
「シューズ」第三連
十年間一緒してくたびれ果てたおまえ
擦り減ってよぼよぼなおまえ
切なく愛しいおまえ
さようなら
二〇一一年の年の瀬に
「シューズ」第七最終連
長年愛用してきた物はなかなか捨てられないものである。ともに過した思い出の時間を捨てることになると思われるからだ。生きることは時間の帯に乗って死へと進んでいくことであることは否定できない事実だ。後ろ髪を引かれながらも、来るべき時を迎え入れなければ残された人生の時間を本当に生きたことにはならない。経験は記憶として堆積されていき、未来の時間を何処かで無意識に決定していくことだと私は考える。私たちが詩作において言葉を置いていく行為は、自分の死が見届けられないからだ。
誰もが知る「切ない思い」を最終連で描きながらも、有限な人生の時間と詩作の意味を考えさせる作品であった。
清水正吾「怒り」
腹からの、怒りは、消えない
言えない、口にだせない
はぎしりの奥歯、唇をくいしばり
さらに出せない
己に怒る
「怒り」第一連
人はなぜ怒りをもつのか。口に出せず内側に閉じ込めることによってさらに怒りは激しくなる。怒りを原動力に生きているとさえ思う人もいる。私個人としては、詩作の根本は怒りにあると思っている。しかし、言葉という媒体を動かすことによって、行為では満たされない怒りを抑制する解決があるとも考えている。私がもし言葉を失うことがあるとしたら、怒りは暴力として行使されるかもしれないとさえ思うこともある。ここで私が言う言葉とは一義的に意思を伝え合う流通言語ではない。普遍性と個別性をあわせもつもの、自己と他者を止揚する機能をもつ言葉のことを私は言おうとしている。
「怒りの日」は、神が
イスラエルと世界を裁く、終末の日
「怒り」第六連部分
「怒り」が「裁き」となる旧約の神。システィナ礼拝堂にミケランジェロが描いた「最後の審判」を思い起こさせる。それを信じているうちは、悪は人間の手に負えないものとして神に委ねたであろう。しかし、「神が死んだ」世界では、「怒り」はテロリストや独裁者に委ねられるという原子爆弾の恐怖、あるいは原子力発電を無防備に操作する人間の愚かさという恐怖に変えられてしまったのではないだろうか。
二十一世紀の
腹からの、怒りは、消えない
メルトダウンした、人工の原子
銀白色の、発癌の毒、プルトニウムpu239は
どうして、くれるか、冷水をかけ続け
怒りの、沈静に、一万年かかる
「怒り」第七最終連
詩人の怒りはどこに向けられるのであろうか。東電や政府に怒りをぶつけても解決できない、人間の科学万能主義に対する怒りであり、想像を超えている。筆者が訴えるように、現実は悲惨な状態に追いつめられている。このような状況下に置かれた私たちの現実のもとで、世間によく見かける言語の面白さで評価を受けているような、現実から視線を逸らし仮想現実に遊ぶ詩作は根拠が失われたと考えてよい。詩は経験である。経験であるということの意味することは、詩人の主体を強く持ち続け試作するということ以外にはない。詩人の意識の軟弱な「当たり前の日常」を描くことでない。そうなる危険を避けようと現実の経験を詩作から遠ざけていると思われても仕方がないであろう。本当の詩人には、特異なものを描こうとするときの言葉との葛藤があるはずだ。なぜなら言葉は普遍性を特質とするからである。個別的なものを詩人が表現しようとするとき、非現実や非知の領域に突き進まざるを得ない。初めから仮想現実に向かう詩人とは「似て非なるもの」がある。仮想現実が現実を侵食するというのはファンタジーの世界である。ファンタジーと詩は全く異なる。言葉の不可能性を詩人は主体として引き受けなければならない。それに反して、主体が見えない現代詩が多過ぎるではないか。書かれたものは何らかにおいて書き手の思いを表現するものだが、その程度のものではなく、積極的に主体が関わる詩が書かれるべきである。そうでなければ卓越した言語表現は砂上の楼閣に過ぎない。本当の詩人とは経験世界に詩人の生き方を探り、言語表現と格闘する人のことではないだろうか。
話がそれたようだが、この詩を読んで考えたことである。
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