ヒーメロス通信


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詩の相互批評について・詩は個を始点とし個を超えたものとして作品化されるものである

2012年06月08日 | 現代詩提言
現代詩への提言②
小林稔

詩の相互批評について
 ――詩は個を始点として個を超えたものとして作品化されるものである。

 先日、季刊詩誌『舟』147が送られてきて、ブログの同人雑誌批評に二編(木野良介「肉、それも食肉について」と日笠芙美子「水の家(6)」の、私の心に残った詩を取り上げてみたが、同誌に「舟、レアリテの会発足の覚え書」(一九七五年五月)と題された、西一知氏の記事が掲載されていた。私が日ごろ考えている詩に対する思いに共感するところがあった。そのことを要約し、その記事の最後は、「なぜ同人雑誌なのか」という問いを残して論文は終えられているので、私なりに考えをまとめてみたい。

一、詩作は文学的営為と考えられてはならない。なぜなら詩は詩が発生する場所すなわち人間の行為のレベルで獲得されるものだからである。補足するなら、詩は商業主義と別次元のところで書かれるものであると西氏は言おうとしているのではないだろうか。既成の文学的世界に執着する安易な精神とその営為に訣別すべきである。
二、美に一つの普遍的規範というものはない。そうでなければ、創造することはありえない。創造は生ある人間にとって、必要かつ最低限の行為なのだ。詩作は一つの行為であり、感受性を通して深められていかなければならない。それなしに精緻な論理的展開も批評もない。
三、詩人の行為は個の生の危機との戦いである。詩作はいまや文学のためにあるというよりも個の生の復権のためにあるべきだ。

 以上が西氏の論文の私なりの要約であり、強く共感するものである。私がこのエセーで言いたいのはここからである。つまり西氏が疑問に付して終えた、「なぜ同人雑誌でなければならないのか」ということの私の回答である。

 同人雑誌を発行する意義は何か。私はその相互批評にあると思っている。詩は一詩人を超えた領域で他者(読む者)の心に痕跡を残し共有されることで、初めて成立するものであるという信念が私にあるからである。詩を作り、同人雑誌に載せ批評を仰ぐことに同人雑誌の意義があるということは多くの人に理解されるだろう。実際はどのように相互批評がなされているかを考えたとき、私の経験から考えてみたとき、非常に無自覚になされているのではないかと思う。発表する場だけを求めて同人になる人もあろう。先に述べた、詩は個人を超え作品化されるものであるとすれば、同人たちはまず最初の他者(読む者)になりえるのだ。しかも自らに詩作をする人でもある。とうぜんのことであるが、読み手の質を問わずに他者の心に作品がどのように届いているか、どのように伝達されているかが重要である。自分の作品を自分で批評し完璧を目指すことは重要である。しかし優れた作品というのは、自分にとって未知の部分を残したものが含まれている。すべて知りつくした作品をどうして他者の目にさらす必要があろう。それは人から絶賛を求めるだけである。絶えず未知の領域に自分をさらし、他者の視線を気遣いながら、つまり活用しながら、漸近線のように不可能な完成に近づけることではないだろうか。
 詩の相互批評のあるべきかたちを具体的に述べてみよう。まずは同人雑誌の合評の仕方について考えてみよう。作品と作者を切り離し、作品を独立させ、いかに個を超えた領域に作品が到達できるのか、それにはどのような表現が使われるべきかを論じる。ここで注意しなければならないのは、一人の意見は絶対的に正しいということはないということである。自分の詩を読んだ一人の他者がいるということを知ること、その他者に対して別の他者には異なる印象があるということ、またある人の批評から別の人が学び、気づくことが起こるということを知ることが大切である。また批評する人がどのような人か、つまり批評眼があるとか、素晴らしい詩の書き手であると自分が認めている人からの批評だからと納得してしまう必要はない。作品と批評する人の無記名性がなければ充分な相互批評は成立しない。言い方を変えれば、自分の作品を棚に上げて、他者の作品を批評すべきである。それでは何を基準に論じるべきか。詩作をする人同士の批評である場合は、個を超えた領域での完成、どのような表現が他者の心に触れる表現になりえるかという一点に絞られるのではないだろうか。さまざま人たちの意見があろう。意見に対する意見などが交差する過程を経て、最終的には作者の判断に任されることになる。作者自身がさまざまな意見に対して批評する能力、つまり何を利益に活用できるかが問われるのである。では批評する他者にはどのような利益があるか。表現の問題を他者の詩を材料にして論じ、そこで普遍化される詩の概念や技術をやがて書かれるであろう己の詩に活用するのである。結果として言えることは、作者が意識できなかった自分の詩に他者による新たな発見がもたらされ、さらに深く考える契機になることが最もよい批評といえるだろう。
 ここでは同人雑誌に発表した後に行なう合評の意義について述べてみた。なぜ同人雑誌でなければならないのかという問題に相互批評の意義を挙げて論じてみたが、他の批評には別の意義があることを忘れてはならない。一方的に発表する批評や、一人の詩人の詩の根底を抉り出すまとまった批評とは批評の意義が異なるのである。

 「既成のモラルと美学への反抗、そして、いきるということが本来、あらゆる形骸化したものによる庇護を拒絶し、みずからの内なるものを顕在化するその創造行為の中にあるとするならば、詩人の行為はおのずから最も厳しい前衛性を帯びてくるであろう。」・・・「個の意識およびメンタリティの最も深い次元における『人間再生』の最前線としての苦悩と、栄光を担うことでなければならない」という西氏の言葉を肝に銘じて、詩作のみならず、あらゆる批評の根底に据えるべきであろう。


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