ヒーメロス通信


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『ヒーメロス19号』2011年10月25日・書評「プラトン哲学の将来」三・一一以後の世界(2)」

2011年12月30日 | ギリシア論考
三、自然科学的思考の由来

 もし哲学的な世界観が現代に要請されるとすれば、これらの四つの問題を克服しなければならないのであり、「世界のあり方のありのままの正確な記述・描写になっていないからだと考えるべきであると藤沢氏は力説している。それを可能にする方法とは何か。科学を排斥しようとするロマン主義のようにではなく、本来あるべきような世界観の構築に必要なことは、近世以降に視野を限定せず、近代自然科学的な思考の由来を考えてみることであると藤沢氏は提案する。古代ギリシアにおいて哲学から分岐し発生した自然科学的思考を、人間の日常的な思考方法から探って見る必要があるという。この「ギリシア哲学と現代」において藤沢氏は自然科学的な思考の発生にまで視野を広げ論究している。

古代原子論とアリストテレス
「物」の世界と「心」の世界の二元論で一番問題になるのは、知覚と価値を無関係にして世界の基本的なあり方を
考えたことにあり、パルメニデスの考えがデモクリトスの原子論に継承され、アリストテレスが実体‐属性のカテゴリー区別を論じたときに始まったと藤沢氏はいう。原子論における世界の真実とは、物質の構成要素である原子とそれが運動する虚空間があるだけで、知覚で感じ取られるものは原子の形、向き、配列の結果による仮の姿であるということをデモクリトスは語っていると藤沢氏は解説する。これにはパルメニデスの主張、感覚に現われる現象を無批判に信用してはならない、ロゴス(理性)の判定だけを信じなければならないという現象と実在の区別をデモクリトスが解釈したものであり、結局は純粋の思惟とロゴスによって捉えられる真の実在を「物」に変貌させてしまったのだと藤沢氏は指摘する。
アリストテレスは「カテーゴリアイ」という書物で実体と属性の区別を初めて明確にした。藤沢氏の説明では、アリストテレスは「SはPである」という表現を使い、「Pで表わされる属性的なものが、Sで表わされる実体に依存して存在する」という事態の表明であると解釈したという。さらにアリストテレスの「実体の思想」には、実体とはあるものの「何であるか」を示す形相・本質と合致しなければならないとう考えがあり、「主語・述語=実体・属性」のみでアリストテレスの哲学を考えるのは危険であるが、それが後世に強い影響を与えひとり歩きしてしまったのだろうと藤沢氏はいう。
 歴史的に見ればアリストテレスの哲学と原子論は対立関係にあり、近代科学はアリストテレス主義の克服によって成立したと藤沢氏はいう。しかし、原子論における、実体そのものはすべての性質から独立し、述語的規定の染まらないものであるという見方は、アリストテレスのいう実体と属性の区別を徹底させたことになると藤沢氏はいう。変化の過程において、変化しているのは属性のほうで、実体は不変のものとして追跡できるという科学の根本的態度が決定されたことになる。
 「自然科学的思考の形成をより広い領野で考えれば、ピュタゴラス派からプラトンに通じる数学的原理の強調」をしなければならないが、「原子論が現われたその同じコンテクストのなかでプラトンとアリストテレス」の哲学が「原
子論とのきびしい思想的緊張」を経て登場したのであり、原子論とは相違する彼らの哲学の可能性を示していこうと藤沢氏は目論んでいるのである。

 日常的志向と言語
 原子論的世界像と実体・属性=主語・述語という把握方式との結びつきはごく自然のことであると藤沢氏はいう。実体と属性の区別を押し進めれば、実体は性質から剥離して価値的なものから切り離され述語的な規定から独立するからである。知覚的世界では性質の変化が絶えず起こるので、つまり私たちが知覚する像はそのつど違って捉えられるので、不変の事物を追い求めていこうとするのは自然であり、微小な部分へ向かうことになると藤沢氏は解釈する。原子論はルクレティウスやヘロンを通して近世に継承され、十六世紀後半からヨーロッパの哲学者、科学者に注目され十七世紀後半には科学的思想を支配するようになったと藤沢氏はいう。このように継承されていったことの背景には、私たちの日常的な思考と言葉の使い方に根をもっているからだと藤沢氏はいう。
 私たちが物を見るとき、物自体と知覚像を分けることは不可能である。しかし言葉にすれば性質を表わす形容詞と事物を表わす名詞は区別して考えることができるのである。中心は物のほうであり、性質はそれに依存することになるのが自然である。私たちの生存と行動の有効性のために必要なものであると藤沢氏はいう。科学的な思考法もその
延長線上にあり、二元論的下絵のさまざまな矛盾にもかかわらず私たちの思考を支配しているものなので、修正・変更するのにたいへんな困難を要するだろうと藤沢氏は指摘する。

四、哲学的世界観の方向性と諸条件

 二元論的思考がいかに人間の生存と行動のための有益性に合致したものであるかを見てきたが、そのような常識にいかに哲学的思惟が関わるべきかを藤沢氏は展開している。日常的思考の全否定は避け、そのメリットを生かしながらも無条件なのめりこみに抵抗し拒否する態度が必要であると藤沢氏はいう。

哲学的思惟の志向する世界観の方向
 科学的思考に支配されてきた世界観がさまざまな問題点を引き起こしてきたのは、それが「正確でないこと、世界のありのままの記述・描写となっていないことを意味すると考えなければならないことを意味すると考えなければな
らない」と藤沢氏はいう。そこから藤沢氏はプラトンやアリストテレスのほうへ導いていこうとする。特にプラトン哲学は原子論的世界観と実体・属性=主語・述語の考えとの緊張関係から生まれたものであるからである。またアリストテレスの実体・属性の考えと原子論は切り離しえないのだが、後世のアリストテレス哲学の継承にからむ問題があり、アリストテレス自身は「原子論的世界観との対決をふまえた、別の豊かなモティーフを内包している」と藤沢氏は指摘する。

世界観の諸条件
 プラトンやアリストテレスの哲学を論議する前に、要請される世界観の条件を藤沢氏は確認する。(A)全体的視野の確認。(B)「物」と「心」の二元論的な下絵を描きかえること。(C)二元論的下絵を変え全体性を統一するには、「物」的な実体を解体し解消すること。「世界は事実の総体であって、物の総体ではない」(ウィトゲンシュタイン『哲学論考』)。「物」の解体と同時に、物の尊厳性を確保することを目指すものであるということ。(D)無性質の「物」的実体を退ける。「実在する対象としての物理的事物が原因になって、その結果として、実在ならぬ現象としての知覚像がわれわれに現われるという説明は、それが「物」と知覚像との原理的・絶対的な区別を内包しているかぎり、無用にして有害であり、基本的に誤った記述である。(E)世界のあり方、あるいは個々の事象を記述するための最も基本的な記述方式は、「主語・述語」というかたちではありえないということ。それぞれの知覚像ないし知覚的性状が現われることだけを述べるような記述方式を考えること。「これは机である」という表現するより、「ここに机がある」という表現のほうが自然である。「主語・述語」の語法に変えて場の描写的な記述方式にするということ。

五、哲学的世界観の可能性をプラトンとアリストテレスの哲学に即して検討

 プラトンの哲学について

 右に列挙した(A)から(E)の五項目は、プラトンが確立しようとした哲学的世界観の基本と合致するが、後世のプラトン解釈に困難な問題があると藤沢氏はいう。特にイデア論の解釈者における、主語・述語=実体・属性の記述方式から抜け切れずに、イデア論の誤りを指摘することがあるという。つまり私たちの常識がいかに根深く浸透しているか、そしてそこから剥奪して考えることの困難さを痛感させられるということである。
 プラトンの世界解釈の根本には、人間の生き方の原理と自然解釈の原理の合一が目指され、価値と事実、善と存在という二元論の解消があると藤沢氏は主張する。「国家」ではイデアのイデアとして、〈善〉のイデアが表明されている。(A)(B)は受け入れるものの、(C)(D)(E)に対しては批判的・否定的な見方をする者が多くいるので、そのことに重心を置いて話を進めていこうと藤沢氏は述べる。

プシュケーこそは万有のいちばん元のもの
 ギリシア語のプシュケーは「生命」、ソーマは「物質」に対応する言葉であるが、広範囲に意味をもち前者は「魂」「心」「いのち」を、後者は身体・肉体をも意味すると藤沢氏はいう。プラトンにおいては「人間の生き方における
個人の魂と肉体との関係としてきびしい対立のもとに語られている」が、「プラトンの思考が宇宙論や自然学につながる世界解釈的な局面へと向けられて行ったとき、プシュケーもまた、それに応じた局面においてとらえられるように」なったと藤沢氏は指摘する。つまり、プシュケーとは『パイドロス』において「自分で自分を動かすもの」と定義されることにより、「万有全体・宇宙全体の動きの根源」とみなされるようになったということである。しかしそこで直面するのは、プシュケーとソーマのどちらが第一次的なものかという問題であるとし、それに対して明確に答えているのは、「法律」の第十巻の自然主義的な無神論に対する批判の箇所であると藤沢氏はいう。自然主義的な無神論とは、「自然・万有の最も基礎にあるのは、およそプシュケーというものをもたないところの、火・水・土・空気などの物質であって、そういう要素的物質の偶然的な結合によって、あとから生物が生じ、全宇宙が生じ、さらにそれに伴っていろいろな価値的なものが生じたのだ、と主張する立場」であると藤沢氏は指摘する。プラトンが激しく批判したのは、非物質的なソーマを世界の基礎に据え、生命や価値を第二次的に位置づけたことであり、先述したような近代自然科学の根本想定と合致するであろうと藤沢氏は指摘する。
 タレスに始まる自然哲学ではプシュケーの観念と物体・物質(ソーマ)の観念が未分化であったが、原子論ではプシュケーと物体・物質は区別され、プラトンは物体・物質(ソーマ)の観念を徹底的に再吟味して、プシュケーを「動きつつある成り行きの過程」へと解消し還元したのだと藤沢氏は主張するのである。現代物理学の立場、つまりすべての素粒子、原子が形づくられるもとはエネルギーであるという考えは、ヘラクレイトスの「火」を「エネルギー」に置き換えられるとするハイセンベルクにならって、むしろプラトンの「プシュケー」こそがそれにより相応しいと藤沢氏は主張する。

「物」的実体の解消と知覚の分析の作業
 『饗宴』『国家』『パイドロス』という中期の著作で表明されたイデア論の難点をプラトン自身が反省し、『パルメニデス』において批判的質問を設定し、それに対応できるだけの基礎固めの作業をしていったと藤沢氏はいう。自分の書物において自己批判を展開し、さらに思想を補強するという、この素晴らしい作業は「対話」という形式でなければ果しえなかったのではないかと私は考える。言葉の作用としてもつ「対話性」(ディアロゴス)は個人の思考においても絶えず有効であることの証明である。プラトンが『パルメニデス』を著した後、つまり基礎固めの結果として提示したのが、先述した(C)(D)(E)であると藤沢氏はいう。
 〈思惟されるもの〉(=イデア)と〈知覚されるもの〉の厳格な区別において、まず〈知覚されるもの〉の徹底的な資格審査が必要とされたと藤沢氏は論を進める。感覚界の中に、恒久不変の実体的なものがあるとするならイデア論は不要になる。プラトンは『テアイテトス』という著作でアンティテーゼ(プロタゴラス説)を吟味する。つまり「知識とは知覚することにほかならない」というテーゼである。徹底的な審査の結果、「物」的実体の存在する余地はないと認定される。それは「純粋の現象一元主義では知識の最終的な根拠が説明できないことの認定であることに注意しなければならない」と藤沢氏は指摘する。『テアイテトス』では、知覚の対象が現実の知覚の事態に先立って
独立に存在し、知覚の現場を離れても固定的にとらえられるようなものとして存続するという考えにプラトンは反対し否定している、つまり知覚の因果説的な問題設定の枠組=客観的対象の物理的事物が存在しそれが原因で知覚像が生じるという考えはきっぱり否定され、こうした「物」的実体の解消という論点は原子論の世界観の拒否へと導かれると藤沢氏はいう。しかしプラトンは最小単位となる微粒子、火や水や土は現象の説明のための思考の方便として認めているが、原子論者のように万有を構成する要素として認めているのではないと藤沢氏は主張する。結果としていえることはプラトンにおいては、原子論を全否定するのではなく原子的な微粒子の段階で分析を止めずに、それは「エネルギー」に相当するプシュケーがもとになって数学的パターンの下に形づくられる、第二次的な資格のものと見なされていると藤沢氏は解釈する。

主語・述語の記述方式から「場の描写」的な記述方式へ
 プラトンの書物『ティマイオス』において場(コーラー)の概念が初めて登場したと藤沢氏はいう。彼は「このもの」をx,述語として語られる知覚像をF、イデアをΦで表わし説明する。「場のここに〈火〉のイデア〈Φ〉がうつし出されて〈F〉いる」、あるいは「〈火〉のイデア〈Φ〉の似像が場のこの部分に受け入れられて“火”〈F〉として現われている」という記述方式が『ティマイオス』に採用されているという。(C)や(D)で取り上げた二元論的下絵を描き変え、無性質の「物」的実体を虚構として斥ける知覚像一元の認識論の立場を貫くには、この「場の
描写」的な記述方式を取らざるを得ないことになると藤沢氏は指摘する。先述したようにプラトンには「パルメニデス」で展開したイデア論への反省がある。つまり「似像とその原範型」という表現と並んで使われた「分有する」という用語が破棄されたのであった。「あるもの(x)が美しい(F)のは、そのもの(x)が〈美〉のイデア(Φ)を分有しているからにほかならない」という記述の仕方のことである。藤沢氏によると、この記述方式は主語としてこのもの(x)を立てることによって、実体的なものがまずあって、美しいという性質を属性としてもつというわたしたちの日常言語に深く浸透している記述方式に取り込まれてしまう怖れがあるからである。プラトンは学園アカデメイアなどでイデア論についての討論(対話)を多く重ねて反省に導かれていったのではないかと藤沢氏は指摘する。それらの総括として自らの書物『パルメニデス』においてイデア論批判を自らに設定し対話形式でイデア論を堅固な思想にしたのである。
 「場のここに〈美〉のイデア(Φ)の似像が現われている」という、「場の描写」的な記述方式によって「主語・述語=実体・属性」に基づかれた世界像とはまったく相違した、イデア論を土台とした新しい世界像をプラトンは提出し
たのだと藤沢氏はいう。しかしその後の哲学史において、この土台が蔽いかくされ、つまり「分有」用語による方式と見なす習慣から抜け切れず、誤読がくり返され今日に至っていることは不幸なことであると藤沢氏は主張する。

美の遍歴とイデア論
 「美という知覚像が場のここに現われている」という表現ではなく「美のイデアの似像が場のここに現われている」と、イデアを想定しなければならない理由は何か。与えられた知覚像が美として判別されているという経験的事態を藤沢氏は語る。美は主観的なものだとよく言われるが、芸術作品の美しさの判断が、専門家と素人で違うということが起きる。これは主観的な違いであるといって済まされるだろうか。またプラトンが『饗宴』で語ったように、「一人の人間の美しさから出発し者が次々と新しい美に目が開かれていった、そういう美の遍歴における段階の差異、前進の度合いというものは、われわれの経験のうちにやはり重要な意味をもっている」と藤沢氏は解釈する。つまり美を知覚する主体の経験(遍歴)が知覚像の美の判別に関与するということである。ということは、美における規範的・基準的な何か、「美とは何か」という先天的な何かがあるということである。プラトン流の言い方をすれば、「まさに〈美〉であるところのもの」であり、それこそがまさに美のイデアである。イデアは「われわれの経験の中にそっくりそのまま現われることはないけれども、原因や根拠であり、現実の知覚像は、この規範(原範型)がうつし出されるように(似像)が成立する」と藤沢氏は解釈するのである。イデアは美に限らずあらゆるものに想定できる。

〈善〉のイデア
さまざまなイデアを総括するのが〈善〉のイデアであるとプラトンの書物『国家』で表明されている。「ある知覚像FがほかならぬそのFとしてわれわれに現われることは、原範型Φの価値性がうつし出されて現われることを意味する。したがって価値(善)は事実(存在)のうちに浸透しきっていることになるので知覚に与えられる、天然自然の「物の尊厳性」と「価値」を考える最終的な手がかりになると藤沢氏はいう。知覚像をFとして判別することは、私たちが行動の合図として受け取ることであり、その知覚像にはさまざまな表情が感知される。知覚像FはイデアΦによって根拠づけられているので、Fとしての判別は価値的な判別を意味している。イデアΦの規範性もまた価値的な規範性でなければならない。さまざまなイデアは〈善〉のイデアによって総括されているので、〈善〉性とも言うべき価値性がFにうつし出され現われていることになると藤沢氏はいう。さらに藤沢氏は、プラトンは〈悪〉や〈醜〉のイデアさえ語っていて、「普通のレベルでの価値と反価値、狭義の善悪の区別を超えたある根源的な価値に究極的にはつながるような物や事の尊厳性を内にひめているといえる」と述べている。

アリストテレスの哲学と〈エネルゲイア〉の思想

最終章第八章では、アリストテレスに触れプラトン哲学との相違を検討し、求められるべき世界観の諸条件(A)(B)においてはアリストテレスの哲学も合致するものがあることを藤沢氏は指摘する。つまり全体的な視野の確保と二元の統一である。アリストテレスは世界・自然に関わる学問(自然学、第一哲学)と人間の生き方・行為に関わる学問(倫理学、政治学)に厳重な境界線を引いたことは、プラトンとの大きな相違であると藤沢氏はいう。しかし前者の自然学、形而上学(第一哲学)そのものは目的=〈善〉を優先原理とした価値的な学問であるという。つまり世界・
自然における事実はそれぞれのものが自らの(形相)の可能性を実現させて行く動きであり、支配しているのは純粋の形相=現実態と考えられた最高価値としての神、アリストンである(「形而上学」)と藤沢氏は解説する。しかし倫理学や政治学とは境界線を引いてはいても間接的には「ニコマコス倫理学」にあるように、人間の生き方に関わる倫理学に投影させているとも藤沢氏は指摘する。
一方、原子論に対しては、「生成消滅論」「天体論」などにおいて批判し斥けねばならなかった理由は、原子論がマテリアリズム(質料主義)の立場を保持し、〈形相〉や〈善〉の原理を排除しているからであると藤沢氏はいう。アリストテレスは十七歳でプラトンのアカデメイアに入門し、二十年間学んだことから、哲学の根本モティーフは共有していると指摘する。要請される条件(E)の「場の描写的記述方式」においては「主語・述語=実体・属性」の記述方式を確立したアリストテレスであれば、とうぜん激しく対立するものである。アリストテレスにとっては、プラトンの〈場〉の概念はは主語xを不可欠とする「分有」用語に代え、イデアΦ(原範型)とF(その似像としての知
覚的性状)のみによって現象を記述することを根拠づけるものであったし、プラトンの〈場〉の概念を〈質料〉の概念と同一視して「〈場〉とは(イデア)を分有するもの」であると解したのだと藤沢氏はいう。

アリストテレスの実体の概念
 アリストテレスの実体の概念は、知覚からも価値からも独立した「物」的実体を意味するものではなく、実体とは形相・本質と一致するものであるということは右に述べた。「つまり、物と知覚像との剥離を、アリストテレスは正当に斥けている」と藤沢氏はいう。そしてアリストテレスは、プラトンの自然学の立場を原子論のそれと同一と見なしていて、イデアに対する無理解と関係があると藤沢氏は主張する。アリストテレスの主語・述語=実体・属性の記述方式を徹底させれば「物」的実体の概念に行き着き、知覚的性質との剥離を起こさせ、逆に原子論の世界観を根拠づけるものになる。アリストテレスの考えた記述方式によって彼の意図した〈実体〉概念を貫徹し、全体性を獲得し二元論的な下絵を解消することがどのようにして可能なのかは哲学的にたいへん興味のあることであると藤沢氏はいう。アリストテレスはこの問題に正面から立ち向かい展開して行ったと藤沢氏は述べるが、この『ギリシア哲学と現代』を論じる場ではその全貌を論議することは相応しくないとする。独自のフィールドで真剣に論じられるべきであると示唆しているのである。

〈エネルゲイア〉対〈キーネーシス〉
 プラトンの哲学が今後の世界観の構築に有効であることを見てきたが、ある意味で逆行するようなアリストテレスの哲学においても、ある部分において「世界観としての別の可能性」を探ろうとする藤沢氏の意図がこの書物の最終章において見える。それはエネルゲイア(現実性)の思想である。この言葉はアリストテレスの造語であると藤沢氏はいう。デュナミス(力・能力)という古くからの語を組み合わせ、〈現実性〉(現実態、現勢態)と〈可能性〉(可能態、潜勢態)という対立概念が、〈形相〉と〈質料〉というもうひとつの対立概念と結びつき、アリストテレスの自然学や形而上学に大きな役割を果していると藤沢氏は指摘している。しかし藤沢氏がここで述べようとするのは、〈エネルゲイア〉の概念を〈キーネーシス〉(動き、運動)と対置させ表明したアリストテレスの思想である。
 私たちが当然のことのように、時間や空間における能率主義、功利主義を感受している。藤沢氏は運動体と距離を例に挙げ説明している。列車が「できるだけ短時間で目的地に到着すべく走行する」ように、私たち自身が運動体として日々、行動している。行為には目的があり、速く達することを望ましいこととするのは、人間の宿命であり、自然のことであるが、アリストテレスは「運動体としてある行為・行動は、ほんとうは行為でも行動でもなく、まさしく運動(キーネーシス)以外の何ものでもないのだ」と言い、「人間が人間として行なうほんとうの行為・行動とは、効率や能率の観念が入り込む余地のないようなあり方のものでなければならないと考えたと藤沢氏はいう。このようなあり方をアリストテレスは〈エネルゲイア〉(活動、現実活動)と呼んだのである。
 この〈エネルゲイア〉の思想は「人間本来の行為と生活のあり方を根本的に問い直すものであり、アリストテレスの哲学の中心概念であるとすれば、キーネーシスと対置しながらより明確にしていかなければならない」と藤沢氏はいう。藤沢氏はいくつかの例を挙げエネルゲイアとキーネーシスの違いを記述しているが、今ここにそれらを紹介する紙幅はないが、アリストテレスの説明を紹介している部分をまとめてみよう。「学ぶ」「歩く」「家を建てる」などはキーネシスであり、「見る」「思惟する」「善く生きる」「楽しむ」などはエネルゲイアとしている。相違点は何か。(1)キーネーシスは行為自体を目的としないが、エネルゲイアはそれ自体が目的である。(2)キーネーシスは現
在と完了と乖離するが、エネルゲイアは現在がそのまま同時に完了である。(3)キーネーシスは目的に到達するまで不完全であり、その形相は未完成であるが、エネルゲイアはいかなるときにも完全であり、その形相は完成されている。(4)キーネーシスは時間のうちにあるが、エネルゲイアはそうではない。(5)キーネーシスは「どこからどこまで」という条件で本質を規定されるが、エネルゲイアはそうならない。(6)キーネーシスは速さと遅さがあるが、エネルゲイアにはそれらがない。藤沢氏はアリストテレスの『形而上学』と『ニコマコス倫理学』から整理してこのように述べている。キーネーシスでは行為の目的は到着点にあり、どれだけのことをどれだけの時間に「なしてしまったか」ということが重要になるので、効率や能率の観念との結びつきは必然的であると藤沢氏はいう。人間本来の行為のあり方がエネルゲイアであるとアリストテレスが考えるのは、「行為自身が目的」、つまり「目的が行為のうちにあり」、「どれだけの時間」という時計の時間とも無関係に、つねに完全でつねに形相を実現しているといえ、効率や能率とも無縁であると藤沢氏は説明する。

〈活動〉の主体としての〈エネルゲイア〉
 〈エネルゲイア〉はプシュケーの活動であり、〈キーネーシス〉はソーマ(物体)の運動であると藤沢氏は結論する。〈キーネーシス〉(運動)において主体は「動かされるもの」であり、〈エネルゲイア〉においては、主体は「活動者自身」であるという。つまり「私たちの行為が能動的であるか受動的であるかの、際どい違いである」と藤沢氏は主張する。具体的には、私たちが「心をこめ、魂をいれ気を入れることによって」「能率や効率の呪縛から解放されてあるということは、間違いのない事実であろう」と藤沢氏はいう。また「生きる」ということにおいても「本来プシュケーの最も基本的な活動であり〈エネルゲイア〉であるべきもの」である。私たちは人間を「ひとつの運動体」(誕生から死まで)のように考え表象し、その中で積極的な態度も制限されているものであるが、アリストテレスが「形而上学」で語るように、「よくいきること」は〈エネルゲイア〉の活動であると藤沢氏は主張しているのである。人間の生を運動体のイメージで表わすなら、「物があって、その物が、時間・空間の中で、動く」ということであり、この図柄の上に効率主義・能率主義的な行動観が成立するのであるから、この命題を「運動(キーネーシス)の論理」と呼ぶことを藤沢氏は提案する。人間の生や行為のあり方は「運動の論理」ではとらえられず、無縁な事態の言表でしかないと藤沢氏はいう。ますます力をもってきた現代の効率主義・能率主義的な行動観はマテリアリスティク・メカニズムと呼ばれる世界観・自然観と、根底においてつながっていて、私たちの行為や仕事の質と内実は「どれだけの分量をどれだけの時間でなし終えるか」という観点の中に解消されてしまうと藤沢氏は指摘している。

常識の有効性の取り込みと反省と批判の堅持
 初めてアリストテレスによって考え出された〈エネルゲイア〉の思想がある一方で、アリストテレスによって初めて提示された「主語・述語=実体・属性」の記述方式が強化されてしまった、〈エネルゲイア〉との対立概念である「運動の論理」に基づく世界観の確立に大きく寄与してしまったという〈背理〉がある。藤沢氏のいう「主語・述語=実体・属性」の記述方式から由来する「相殺効果」があるゆえに、「アリストテレスの哲学の全般的性格についての最終的判断が困難となる事情」があると藤沢氏は指摘する。
 「運動の論理」に基づいた世界・自然の見方、つまり効率・能率を求める生き方は私たちの生存と行動に必要とされたものであり、「日常的思考と言語」の中に根をもっていたことはこの書物でたびたび語られてきた。藤沢氏の主張は、行為・行動においても、常識のもつ有効性・有益性というメリットを生かしつつ、しかものめり込むことなく抵抗と批判の態度を堅持しなければならないというものである。「運動の論理」にのめり込むことは、つまり「効率主義・能率主義を決定的な支配原理とすることは、われわれ自身の生と行為のあり方を根源的に物の運動へと変質させること」であり、「代償として魂を奪われ、われわれの生と行為が本来もつべきあらゆる内的な価値と充実を放棄すること」になり、常識のもつメリットも失われるだろうと藤沢氏は警告する。
 「近代化もしくは現代化の奔流によって、人間におけるあらゆる〈エネルゲイア〉的可能性がつぎつぎに圧殺されるいくのを許さないためには、そしてそれがもたらす数々の便宜・便益を人間にとってのほんとうの価値につなげるためには、われわれは、それを推進させている「運動の論理」の素性と本性を見据えることによって、活を求めなければならない」と藤沢氏は主張するのである。

 東日本大震災以降の生き方

 この『ギリシア哲学と現代』という書物の冒頭で、藤原氏はシュラクサイの野外劇場を訪れたときの思いを語っている。シケリア出身のエンペドクレスの著作、例えば『自然について』や『カタルモイ』は、前者が「叙事詩の韻律を用いて書かれた詩」で「自然学的な見方で世界を見ているのに対して」、後者は「宗教的な、あるいは人間の生の意味を問うような内容なので」長い間、近世以降の解釈家たちに問題を引き起こしてきたが、「世界・自然の理法のもとにおける人間存在の意味と、そのあるべき生き方ということ」と考えるならば、このように一体的に考えるのはエンペドクレスのみならず、「ソクラテス以前の哲学者」にはよく見られることであると藤沢氏はいう。
 エンペドクレスが書物に表したころには、すでに悲劇というジャンルが確立していた。先にも述べたようにホメロスの叙事詩から受け継がれた「文学」と見なされていたが、「文学」の主題には哲学的主題が表明されているので、これらをプラトンやアリストテレスがやがて確立する「哲学への動き」と考えることができるのではないかと藤沢氏は主張するのである。つまりソクラテス以前の哲学者たちの自然への考察と、ソクラテスやソフィストたちの人間の考察があり、両者を統合したのがプラトンやアリストテレスであったのではなく、「世界・自然と人間・人生」に関する一体的な仕方で追求されていたということである。換言するならプラトンやアリストテレスの確立した哲学には、自然科学的な思考と、文学的な主題が統合されているということであろう(今日、文学は哲学をのり越えた総合的なものとして確立すべきだと私は思うが)。しかしアリストテレスは自然学や形而上学と、倫理や政治の学の間に境界線を明確に引いたのであった。今日、私たちの通念となった図式はこの時生れたのである。(西洋がギリシア哲学を取り入れたのは多くはアリストテレス経由であったことを思い起こそう)。藤沢氏がこのことを問題にするには、自然科学的な知識、つまり世界・自然のあり方における〈知〉と、倫理・モラル、つまり人間の生き方・行為のあり方における〈知〉が分断されていることにおける現代的状況での問題が深刻になっているからである。むしろ両者の均衡が求められると藤沢氏はいう。
 「大気汚染」「水質汚濁」「地盤沈下」「大地汚染」「日照権の問題」などはエンペドクレスがうたいあげた「四元」が変質されつつあること示しているといえると藤沢氏はいい、そうした変質の中に生きる人間の行為・行動のあり方、人間の思想・経験・意識構造も汚染されつつあるのではないかと藤沢氏は危惧する。自然科学が価値観や人生の意味を関心の外に置きひたすら客観的なあり方に集中する(「没価値性」)によって成果を上げてきたと藤沢氏はいう。
 「世界・自然のあり方の探求と、人間の生き方・行為のあり方への探求とは、けっして別々のことではなく」、「切り離すことができない一体的なもの」であり、いつの時代でも根源的なものである。しかし「近世以降自然科学の高度の発達とそれを取り込む工業化社会・産業社会の強固な機構」が相まって、一方では多くの「便宜・便益をわれわれにもたらすとともに」、他方では「自然環境と人間自身の行き方を共にさまざまな仕方で変質または汚染するマイナスの波及効果を及ぼしつつある」と藤沢氏はいう。「世界・自然のあり方を認識する〈知〉と、人間の生き方や行為を導くべき〈知〉との非本来的な分裂」。「自然科学そのものがむしろ積極的に採用してきた方法」ではなかったのかと藤沢氏は主張する。
 人間の科学が原子爆弾を発明し原爆投下を行なったという消しがたい事実、原爆を廃絶しようとしながらも先進国と称する国々が廃棄できない現実がある。さらに平和利用と称して開発した危険な原子力発電所の開発がある。確率によって安全性を主張するが、ゼロでない限り起きれば百パーセントの的中である。古代の原子論からの長い歩みが辿り着いた地点である。今回の福島原発事故にひるむことなく科学の高度な技術をさらに開発することによってより安全性を高めようという主張もある。しかし藤沢氏は「自然科学の知見」が先述してきたような「部分的な認識であることを特質とするとすれば、工業化社会の機構もまたそれ自体としては、物質的な便益の量産ということに視野を限定して」「やはり部分的な認識の上に成立している」以上、安全性は保たれない。このことはしっかりと肝に銘ずるべきであろう。原子力発電も「近代科学の根本想定を軸として形づくられた世界観」をもとに開発されている以上、「必然的に、人間の他の局面における思わざるマイナスの波及効果を生み出すことは避けられない」と藤沢氏は指摘する。
 二つの異質な世界観、一つは現代の主役である自然科学と工業・産業機構の共通の根とみなされる「運動論理」的な世界観であり、もう一つは、この世界が内包するいくつかの難点を克服する条件に基づき考えられたプラトンのイデア論とアリストテレスのエネルゲイアの思想のなかに見られた世界観がある。それらを再生し現実化することに努めるほかないはありえないと藤沢氏はいう。地球と人類存続の危機に直面してそれらを回避すべき方途に、プラトンとアリストテレスの哲学は重要な示唆を与えるであろう。


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