ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

プラトンのエロース論『パイドロス』小林稔個人詩誌「ヒーメロス」2010年より

2015年12月28日 | ギリシア論考

小林稔個人季刊誌『ヒーメロス』16号2010年12月10日発行


〔長期連載エセー〕
自己への配慮と詩人像(八)
小林 稔

35 『パイドロス』におけるエロース論(前編)その一

ゆく川の水の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(鴨長明『方丈記』)
時の流れに営まれる私たちの生は、時間の一回性という定めのもとにあり、絶えざる
〈現在〉は一瞬にして過去に変えられ記憶の闇に蔵(しま)われるが、予期せぬ瞬間に、
それがまるで、〈呼びかけ 〉であるかのように意識に呼び起こされることがある。
かつて〈私〉が占めた空間に目にした情景、それは自然であり人であり物であるが、
そのときの〈私〉の行為と結びつき浮上する。その事物の眼差しとも、感受する〈私〉
から放たれているようにも思われるその眼差しは、過ぎ去った時間をいつくしむよう
に風景を包みこみ、やがてはつぎつぎに訪れては後ずさる〈現在時〉と背中合わせに、
〈私〉は見送るしかないのだ。一方、書物に書き込まれた時間は、ページを繰るたび
にかつての時間を取り戻せるように思えるが、読書する人自身が移りゆく存在である
以上、同一の読後感を得ることは不可能であろう。言葉に記された物語は、現実の不
確かな記憶、意識的に取り出そうとすれば逃げ去る追憶に比するなら糸口が見出されやす
いのも事実である。さらに同じ書物を何度も繰り返される読書は、それを読んだとき
のかつての記憶さえも掘り起こされ、時の流れへの感慨が幾重にも深められるのであ
る。それが、これから私が論述しようとする書物、死すべきもの(人間)が不死なる
もの(神々)への切なる想いを込めた創作(ポイエーシス)、天界との系譜を探り求
めようとしたプラトンの対話篇『パイドロス』であるなら、時間へのいとおしみは深
まるばかりであり、哲学と文学の稀に見る合一を感じ入るのは私だけではないだろう。
まもなく還暦を迎えようとするプラトンが、ソクラテスから受け継いで発展させた彼
の哲学のすべてをここに駆使し、まとめあげた壮大なイデア論を紹介し、「自己へ配
慮する 」とはどういうことなのか、さらにポエジーの営みとは何かを、ソクラテス
やパイドロスにとってもしかり、読む私たちにとってもこの上なく貴重になるであろう、
ある夏の一日、パイドロスに語り聞かせたという話を順を追って辿りながら、考えてみよう。
 
 プラタナスの樹の下で
夏の日盛り、偶然にもパイドロスを見かけたソクラテスは、弁論家で名高いリュシア
スのところからきたという彼の言葉に興をそそられ、パイドロスの手にするリュシア
スの恋(エロース)に関係する論文のことを尋ねる。「 自分を恋している者よりも
自分を恋していない者にこそ身をまかせるべきである」というのがその論旨であると
いう。心穏やかならぬテーマである。なぜなら、いかなる人も自分をほんとうに
愛する人と結ばれることを願っているだろうからである。パイドロスがリュシアスに
頼んで何度もこの論文を読んでもらい、ついには暗誦するために取り上げ、早朝から
読み続け、疲れたので散歩しているパイドロスにソクラテスは会ったのである。恋の
話では右に出る者のいないソクラテスに、パイドロスは話したくてたまらない。リュ
シアスの論文が常軌を逸した話にもかかわらずパイドロスを魅了してしまったのはなぜか。
それが弁論術と呼ばれているものの技術ではないのか。二人はイリソス川に沿って背の高いプ
ラタナスの樹のところへと歩いていく。川向こうのアグラの社にはボレアスを祀る祭壇があり、
ボレアスがオレイテュイアをさらって行ったという伝説を語り合う。鬱蒼と枝をひろげたプラ
タナスの樹陰で二人は腰を降ろし素足を湧き出る泉に浸す。快い風が葉群をそよがせ、
蝉の鳴き声がしきりにしては木霊している。ここで、先ほど話に出たリュシアスの論
文を、ソクラテスはパイドロスに読むように促したのであ
った。
人里離れたイリソス川のほとりという『パイドロス』の場面設定が、プラトンのいつも
のそれではなく、『国家』という大長篇を書き上げた後の、幸せな解放感があふれたなか
でこれまで言及することのなかったプラトンの重要な思想が表明されていると、『パイドロス』
を訳した藤沢令夫氏はその著書『 プラトンの哲学』で指摘する。また彼の著「 プラトン
『パイドロス』註解」では、「彼(プラトン)の人生をみち
びく力の源泉であったソクラテスという特異な精神が、自由にものを想い自由に対話するとき、そこに起
こるであろうところの事実ともいうべきものを、的確な筆で描き出すことによって、自己の胸中に育まれ
ていた思想と感情とに、よく形を与えることができたといえる」のであり、そのような気持ちがこのよう
な状況設定に表現されているとも藤沢氏は指摘している。
 
 恋していない者の通俗的道徳
――自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである。
このリュシアスの論文の論旨は、すでにパイドロスからソクラテスに伝えられた。い
まやソクラテスを前にしてパイドロスはその全文を朗誦し始めるのであった。
『 パイドロス』では、恋に関する三つの話を俎上に挙げ論議することになる。一つ目
はパイドロスが読み上げるリュシアスの論文である。その要旨を七つの部分に分け
まとめてみよう。
一、恋をしている人たちは欲望がさめたのちには、恋のために自分を犠牲にしたといって
相手につくしたことを後悔するが、恋をしていない人たちにはそれがない。相手につくし
たのは恋の力ではなく自らの自由意志によるものであり、相手に喜んでもらえることを
心を込めてする以外何もないからである。
 二、恋する人たちは言葉や行為によって強い愛情を表現するがゆえに人は自分を恋する
人たちを大切にすべきであると考える。したがって、のちに別の新しい恋人ができたとき、
新しい恋人をより大切にすることは明白である。このような、いわば災いを持った男
(恋する人)に貴重なものを捧げなければならない理由はない。恋する人たちは正気では
なく、自己を支配することができない病人である。最もすぐれた人物を選ぶ場合、恋して
いる人から選ぶとすれば少数の人たちから選ぶしかないが、君を恋をしていない
人たちから選べば、君のためになる人を多数の者から選ぶことができる。君の愛情に値する
人物を見出す公算が大きい。
 三、世間の掟をおそれ、相手との交際が世間に知られることが心配だという場合を考えて
みるとき、恋している人たちは他の人たちからうらやまれると考え、恋が結ばれるまでの苦
労をいろいろな人たちにいいふらし虚栄心に駆られ見せびらかそうとする。またいっしょに
いるところを世間の人たちが見たら、恋の欲望をとげたか、あるいはとげようとしていると
ころだと思うだろう。一方、恋していない人たちは自分自身に打ち勝つ人たちだから、評判
のためではなく最善のことを選ぶだろう。そして相手といっしょいても世間の人たちは、
友情やほかの楽しみゆえにいっしょにいるので語り合うのはやむをえないことだと考える
だろう。
 四、友愛は永続させるのが難しい。恋をする人たちは何かあれば自分の損害になるとみな
すので、彼らが自分の恋人が他の人たちと交わるのを阻もうとする。財産を持っている人た
ちは金の力で、教養のある人たちは知性によって自分を打ち負かすのではないかとおそれる。
恋される君は、恋する人以外を敵にまわすことになるだろう。また君が恋する人より分別を
働かせれば仲たがいになる。恋をしていない人なら、

自らの徳によって君に対する望みをとげた人たちなので、嫉妬することはなく、君と交わろ
うとしない人たちを憎むだろう。君との交わりを望まないということで自分が軽蔑されたよ
うに思うからである。
 五、恋する人たちは、相手の性格や身の上を知るより前にまず肉体を欲するものである。
だから欲望がさめてしまえば恋人と親しくし続けるかどうか疑問である。恋していない人た
ちは前から親しい間柄なので、欲望を満たされても愛情は減退せず、むしろ将来を約束する
記念として心に残るであろう。
 六、恋する人たちは相手の機嫌を損ねるのをおそれ、欲望に心の目が曇っていることもあって、相手を
ほめそやすものである。恋する人たちにとって恋とは、ことが上手く運ばないときは痛手と感じさせるも
のであり、ことが上手く運んでいるときは、喜ぶ値打ちのないことでもよしと思わせるものである。恋し
ていない人なら現在の快楽にかしずくことなく、将来を考え君と交わるだろう。私(リュシアス)は恋の
奴隷ではなく、自分自身の支配者なのだ。つまらぬことに腹を立てたり、強い憎しみを掻き立てることは
ない。人を恋するのでなければ強い愛情は生まれないのではないかという君の疑問に答えよう。息子を親
は大切に、息子は親を大切にするように、恋愛的な欲望からではなく、別の営みによって結びついている
のである。
 七、最も切に求める人たちにこそ身をまかせなければならないとするならば、最もすぐれた人たちにで
はなく、最も貧困な人々に対してであるということになる。なぜならそのような人々こそは、最も大きな
悪から救われるわけであるし、よくしてくれた人たちに、だれよりも深い感謝の気持ちをいだくだろうか
らである。しかし、身をまかせて然るべき相手(恋していない人)は、そのことを切に求めている人たち
ではなく、そのことに値する人たちである。君の若い盛りの美しさを享楽しようとする人たちではなく、
君が老いたとき、自分のよきものを君に分け与えてくれるような人たちである。わずかの間だけ熱を上げ
る人たちではなく、生涯を通じて変わることなく親しい間柄になるような人たちである。君が若さの盛り
をすぎたとき、そのときこそ自分の特性を示す人たちである。
 
恋する者の打算とは
リュシアスの論文を読み上げたパイドロスは、その言葉の使い方に心酔してしまっていた。ソクラテス
は、パイドロスが読み上げるときの歓喜に輝いている、「神が乗りうつったような 」表情に感動したと語
る。茶化されたと思ったパイドロスは、リュシアスの論文の真価をソクラテスに問う。ソクラテスの判断
は次のようであった。
修辞的な面では、語句の一つ一つが明確で引き締まって、かつ綿密に磨きがかけられていてよいが、同
じことを何度もくりかえした話に思われる。同一の主題に対してあまり話の種類を持ち合わせていないし、
あるいはこの種の主題には関心がないというようである。結局、同じ事柄をいろいろ言い方を変えながら
上手く話せるぞと得意になっている印象である、とソクラテスは語った。したがって、この主題において
欠けているものはなにもないというパイドロスの讃美とは折り合わないものとなった。
 そこでソクラテスは、リュシアスの話に見劣りしない話を、主題を変えずに話してみたいと言い出す。
恋している者より恋していない者に身をまかせるべきだという主題が、ソクラテス自身からその場で創ら
れ話されたのである。それが『パイドロス』で語られる二つ目の話である。その要旨を追ってみよう。
 
『むかしあるところに美しい若者がいた。たくさんの求愛者の中に口の上手な者がいて、その若者を誰よ
りも恋しているのに、恋していないと信じ込ませておいた。ある日、その若者に、ひとは自分を恋してい
る者よりも、恋していない者に身をまかせなければならないのだということを説得しようとして次のよう
に語った。
「どのような議論でもはじめにしなければならないことは当の事柄の本質である。考察をするとき、それ
を知っていると決め込んで同意を得ておかないから、自分自身とも相手ともいうことが一致しない。した
がってここでは〈恋〉とは何であるか、お互いの同意にもとづき定義しておこう。
恋とは一つの欲望であり、恋をしていない者でも欲望を持つことは知っている。それでは、恋している
者と恋していない者とを何によって区別したらよいか。その前に注意することがある。一人ひとりのなか
に、われわれを支配する二つの力がある。一つは生まれながらに具わった快楽への欲望であり、もうひと
つは最善のものを目指す後天的な分別の心である。分別の心が理性の声によって最善のもののほうへ導き
勝利を得るとき、この勝利に〈節制〉という名が与えられ、欲望が盲目的に快楽のほうへひきよせ、支配
権を得るとき、この支配に〈放縦〉という名が与えられる。
「盲目的な欲望が、正しいものへ向かって進む分別の心に打ち勝って美への快楽へと導かれ、それがさら
に、自分と同族のさまざまな欲望にたすけられ、肉体の美しさを目指し、指導権をにぎりつつ勝利を得る
ことによって勢いさかんに(エローメノース)強められる(ローステイサ)とき、この欲望は、まさにこ
の力(ローメー)という言葉から名前をとって、〈恋〉(エロース)と呼ばれるにいたった」のである。こ
れが恋の定義である。
次に、恋している者と恋していない者がそれぞれ相手にどのような利益や有害なことをもたらすのかを
考えてみよう。欲望に支配され、快楽の奴隷である者は相手が自分にとって快いものにしようとする。ひ
とは病んでいるとき、自分に逆らわないものが快く、自分より力強いものや等しい力を持ったものはいと
わしいと感じるものである。したがって恋する者は愛人を自分より劣った者に仕立て上げようとする。無
知で臆病で弁論の能力がなく愚鈍な者にしようとする。そうなることによって快楽を得る。だから恋する
人は嫉妬深いといえる。有益な交わりから愛人を遠ざける。叡知を高めるような交わりをさまたげるとき、
害悪は最大である。つまり、自分が軽蔑されるのをおそれ、神聖な哲学の営みから愛人を遠ざけずにはい
られないのである。愛人はわれとわが身を毒することになり、恋する者は保護者としても交際相手として
も決して有益な人間ではない。
善をさしおいて快楽を求める人間のいいなりになると身体の状態はどうなるかを考えてみよう。恋する
者は、柔弱な者、太陽の当たらない蔭で養われた者、労苦と鍛錬の汗を知らず軟弱な生活をおくる者、自
然の美しさがなく人工的に身を装う者などを追いかけるのである。また所有しているものに関してどのよ
うな害があるかを考えよう。恋する者は相手が神聖なものから見捨てられ孤独の身であることを願う。父
もなく母もなく身内もなく友達もないことを望んでいる。財産もないことを願い、長く快楽を味わおうと、
相手が結婚もせず、子供を持たず、家も持たないことを願っているのだろう。
神様は悪しきものにその場限りの快楽を与えた。しかし恋する者は相手にとって有害だけでなく、これ
ほど不愉快なものはない。同じ年代の者同志であれば互いに似ているので楽しみがわき親しみも感じられ
ようが、それでも飽きるということがある。まして年上の者が若い愛人と四六時中いっしょにいて欲望に
駆り立てられ、楽しみを味わいながらしつこくかしづく。しかし、愛人のほうはどんな楽しみや慰めがあ
るのだろうか。恋する者の老醜は耐え難く、絶え間なく強いられ、他の人との交わりを禁じられ見張られ
る。やがてその恋がさめると、それまでの将来の約束を果すときがくると、それまでの恋と狂気に代って
理性と節度を取り戻し、むかしの人間ではなくなっている。つまりかこの負担からの逃亡者になるのであ
る。相手は彼の後を追いかけなければならなくなる。恋に捉えられ理性を見失った人間には身をまかせる
べきでないことを前から心得ておくべきだった。したがって恋する者の愛情は心からのものではなく、飽
くなき欲望を満足させるために、相手を餌食と見なして愛するのだということを心に留めておかなければ
ならないのだ。』

ダイモーンの合図
このようにソクラテスが語り続けたとき、いつものように彼にダイモーンの合図が訪れたのであった。
ダイモーンの合図とは、彼が何かの行動に出ようとするとき彼を躊躇させる内部の声といったものである。
それゆえ話を中断せざるをえなくなったのである。
ここまでのソクラテスの話は〈恋〉の本質を明確にし、恋する者とその愛人の立場を広範囲に把握し、
〈恋〉が有害であることを十分に描き出して見せたものである。ソクラテスにとって分別心が欲望を押さ
える〈節制〉というものは尊重されるべきものであるが、『パイドロス 』の後半、ソクラテスの語る二番
目の話では、「世の多くの人々が徳とたたえるけちくさい奴隷根性 」としてソクラテスが強く否定するも
のであった。つまり藤沢氏が指摘するように、正気と節制をたたえ、狂気と恋を非難するのは、人間的次
元においてのみ正当であるにすぎないということである。したがって、神的と呼ばれる狂気や恋があるこ
とを二つの話は見逃していたことになる。
ソクラテスは初めから、「自分を恋している者よりも自分を恋していない者に身をまかせるべきである」
というリュシアスの論文の主題に異を唱えていたのであったが、リュシアスと同じ主題のもとでまずは一
つの話を創作したのは、この神的と呼ばれる狂気と恋を明確にするためであろう。リュシアスがパイドロ
スを口説き落とす策略であり、さらに弁論術が真実を追究するよりも人の心を魅了する術であることを見
抜き主題を大逆転させる第三の話(ソクラテスによる二番目の話)を展開するための、ソクラテスのとい
うより著者プラトンの構成上の攻略であったと考えられるのである。

ソクラテスという人物の主体を考えたとき、ダイモーンの存在は切り離すことができない。二番目の話
を中断したのもダイモーンの合図が訪れ、「 神聖なものに対して何か罪を犯しているから、自らその罪を
浄めるまでは、ここをたちさることならぬ、とこうぼくに命じたように思えた」からである。
藤沢氏の訳注によると、ソクラテスが積極的に話をするときはいつも、えらい人から聞いた話であると
か、神が乗りうつったとか、夢に見たとか言い訳をし、自分には知識がなく、他人の思想が生まれるのを
たすける、産婆術のような役目をするだけだと語るのが常であると指摘する。プラトンが自分の主張を直
接述べずに、対話を駆使して自らの哲学を完成させる方法と通底しているように思われる。( この論考の
最後に踏み込んで考察してみたいと思う)。 ダイモーンとは神と人間の中間的な存在であることは前回に
触れたが、プラトンがプシュケーの本性を明確にする以前に、ソクラテスは死者の霊や神霊を祭るがゆえ」
(『ソクラテスの弁明』(24C)に告訴され処刑されたのであり、後で論じるが、神々の天上での行進に
従うが地上に墜ち人間の肉体に宿るとされるものがダイモーンであると『パイドロス』では語られている
ように、古代ギリシアにおいても認めがたい存在であったことが知れる。後代のキリスト教世界でのデー
モン、つまり悪魔的なものや異教的な神とどの程度に関連しているのだろうか。
 ステファン・ツヴァイクは『デーモンとの闘争 』という書物で、「一種人力を超えた、あるいは現世を
超えたといってもいい力に駆り立てられ、それぞれの住み心地よい生活を捨てて情熱の破滅的な颱風のな
かに突き入り、命数に先んじて精神の怖ろしい惑乱、感覚の致命的な陶酔に落ちて、狂乱し、あるいは自
殺し果てる」英雄的形姿を、ヘルダーリン、クライスト、ニーチェに見ている。ツヴァイクは「人間各自
に根本的かつ本来的に生まれついた焦燥をデモーニッシュなもの」でありこの焦燥はわれわれを人間的な
ものから抜け出させ根源的世界へ駆り立てるものであるという。また彼はそれを「ファースト的衝動」とも
呼び、創造の原動力であり自然のめぐりの内部に存在するものと考えている。(私のエセーの主題と哲学
と霊性とのつながりという点で重要であるが、別の章で論じることにしたいと思う。)
『パイドロス』では、ソクラテスの行為を抑制させるものとしてダイモーンがあるが、真理から逸脱する
ときや、人間的な道徳に隷属しようとするときに警告されるものである。かつて神々といた天上界、いわ
ば根源へとソクラテスを導く力といえよう。恋する者の神的狂気とのつながりから、ダイモーンとの関係
が類推されるが、キリスト教の文献を詳細に調べ上げなければ断定はできないので筆を置こう。
 
われわれのもとにある魂で、至上権を握っている種類のもの(理性)については、こう考えなければなり
ません。――すなわち、神が、これを神霊(ダイモーン)として、各人に与えたのであるー―と。そして、
そのものはまさに、われわれの身体の天辺に居住し、われわれが、地上の、ではなく、天上の植物であるか
のごとく、われわれを天の縁者に向かって、大地から持ち上げているものなのだと、わたしたちは敢えて主張
したいのですが、この主張は、至極正当なものだということになります。何故なら、(われわれの)神的なる
部分は、魂が最初にそこから生まれたそのところ(天)に、われわれの頭でもあり根でもあるものを吊るして、
身体全体を直立させているわけですからね。……(中略)……学への愛と、真の知に真剣に励んで来た人、自
分のうちの何ものにもまして、これらのものを鍛錬して来た人が、もし真実なるものに触れるなら、その思考の
対象が、不死なるもの、神的なるものになるということは、おそらくまったくの必然事なのでしょう。
(『ティマイオス』90‐B)

魂の神的な部分が真の霊魂の名に値し、われわれに神が賦与したダイモーンであると井筒俊彦氏は『神
秘哲学』でいう。ダイモーンは「われわれの身体の最上部に棲み、天上界との本源的親縁性によって、わ
れわれをあたかも天界の植物であるかのように地上から天上に向かって曳き上げようとする」。「天涯はる
かな遠の家郷に翔り還ろうとして痛ましい焦燥の念に燃えるのがダイモーンなのである」という。またダ
イモンは神と人間の中間者であるから、プラトン的愛は神に向かう上昇的志向性と解されるが、絶対者(
神)が相対者(人)を引き上げようとする呼びかけであると、『ティマイオス』のテクストを挙げ、井筒
氏は指摘する。またイスラムの神秘主義(スーフィズム)へのプラトン的愛が与えた影響を論じている。

 魂(プシュケー)の不死性と世界霊魂
エロースが神であるならば悪いものでありうるはずがない。ソクラテスにこれ以上語ることを静止させ
たもの、つまりダイモーンの合図をしっかりと受け留め、神々に対して侵した罪を浄めるために「取り
消しの詩(うた)」をささげエロースの神に償いをしようと決意する。「 われわれの身に起こる数々の善
きものの中
でも、その最も偉大なるものは狂気を通じて生まれてくるのである」と語る。したがって、自分に恋をし
ている者は狂気であり、恋をしていない者は正気であるという理由で、後者に身をまかせるべきだと主張
する物語は真実の物語ではないとソクラテスはきっぱりと語るのであった。神から授けられた狂気によっ
て尊ばれた予言術や疾病や災厄からのがれた古人の例、またムッサの神々から授けられた神がかりと狂気
によってなされる詩作などを挙げ、技巧だけでなされ、狂気に授からない創作は、狂気による詩の前では
輝きを失うとソクラテスは語り、恋という狂気こそ神から授けられたものであり、真の知者には信じられ
ることであると指摘することで、ソクラテスの二番目の物語(全体では三番目)を始めた。
 まずソクラテスは魂の本性について真実をつきとめることから始めた。「魂を配慮しなさい」という言
葉は、ソクラテスがひとに会うたびに説いて廻った言葉であった。「もともとソクラテスの教えの中心は、
人間もしくは自我というものの本体をプシュケーとしてとらえ、何よりもまず魂を大切にして、これをで
きるだけすぐれたものにしなければならぬと説くところにあった。プラトンの仕事も、根本においては、
このようなソクラテスの教えから出発して、人間の魂について想いをひそめ、プシュケーに関する考え方
を発展させていくところに、そのすべてが成立するともいえる」と藤沢氏は「プラトン『パイドロス』註
解」で述べている。それでは、『パイドロス』のなかでソクラテスが語る魂についての話に耳を傾けてみ
よう。
 つねに動いてやまぬものは不死なるものである。他によって動かされるものはいつか生きることをやめ
る。しかし自己自身を動かすものは動きをやめない。他の動かされるものにとっては動の源泉であり、始
原となる。それが魂の本性である。自分で自分を動かすものは滅びることもなく、生じることもなく、不
死なるものである。外から動かされる物体は魂のない無生物であり、内から自分自身の力で動くものは魂
を持った生物である。藤沢氏によると、魂の不死生は『パイドン』や『国家』で論証されてきたが、自己
運動者として魂の不死を証明したのは『パイドロス』が初めてであり、後期の『ティマイオス』や『法律』
ではこの考えが引き継がれていると指摘する。『パイドロス 』では魂を他のすべての物体に活動を与える
「動」の原理ととらえ、天体の運行を支配する「動」と連絡させる考え方が新しいものとして登場してい
るともいう。個人の魂と宇宙全体の活動力との結びつきは『ティマイオス』のミュートスに明確な表現を
与えられていると藤沢氏は述べる。プシュケーなるものをエネルギーとしてとらえ、宇宙規模において考
えるというそのこと自体はプラトン特有の思想ではなく、古代ギリシアの自然哲学の伝統である。しかし
『パイドン』、『国家』では個人の魂のあり方の考察であったが、『 パイドロス』では人間の魂の不死とい
う思想に到達した後に、イデア論と結びつけ、死後の運命に対する表象と結びつけていることが特徴とな
っていると藤沢氏は指摘するのである。「 ただひとりの人間の問題にとどまるものではなく、宇宙全体の
さだめられた秩序という、このなにか厳粛で客観的なものの中に、確固とした対応をもつのでなければな
らぬ」、つまり『パイドロス』のミュートスは、世界霊魂という考えを明確にした画期的なものであり、
「特定の学派との接触」が機縁となっているであろうと藤沢氏はいう。それでは特定の学派とは何であり
どのようなものなのかを考えてみよう。
 井筒俊彦氏は『神秘哲学』で、ギリシア哲学史上に大きな役割を与えた「二つの霊魂観」を論じている
が、それによると、一つは「内的霊魂観」ともいうべきもので、身体の外部から内部へ侵入し宿る霊魂で
ある。霊魂は元来、彼岸的存在であって一時的に身体を仮の宿とし、肉体が滅びればそこから離れ、永遠
に生きつづけるという考えである。もう一つは宇宙に広がる「普遍的生命力」であり、全宇宙の運動の原
理であるという考えである。これは前六世紀、ミレトス自然哲学に現れた新思想であるという。前者の「
内的霊魂観」こそディオニュソスの宗教がオルフェウス・ピュタゴラス秘儀集団に間接的に取り入れられ、
ギリシア精神に浸透していったものであり、後者はディオニュソスの狂乱が直接的に知性化され精神化さ
れて新しい思想を生み出したのであろうと井筒氏は主張している。その二大潮流が再度新しい統一に達し
形而上学に結集するが、そこに辿りつく経路の相違によって各哲学者の思想的色調は著しく異なるという。
(紀元前七世紀から六世紀の大混乱時代、人々を圧伏してきた王家は倒され、下克上の世になり、海外貿
易は著しく発展し巨万の富を築く人々が現れた。「我」の自覚がうまれイオニアに抒情詩と自然哲学が時
を同じくして興隆する。詳しくは井筒氏の『神秘哲学』を参照していただきたい。)ディオニュソスの野
蛮な狂乱をギリシア哲学に巧みに取り入れたのであった。「その
最初の哲学的所産が紀元前六世紀イオニア人の王都ミレトスに誕生した自然学、さらにその論理的形而上
学的発展の結果がエレア学派の存在論である」と井筒氏はいう。しかし、多くの民衆の宗教的欲求を満た
すこができなかった。人々の心を掴んだのは、「彼岸の至福を約束する通俗的神秘主義」、古くからの、農
耕祭祀の主宰神デメテールやペルセポネーなどの密儀宗教である。このような密儀宗教にディオニュソス
神が侵入し結合したのである。先述した「内的霊魂観 」はこのような密儀宗教に育まれてきたものであるが、
それを思想的哲学的に昇華したのがオルフェウス・ピュタゴラス的秘儀集団であったと井筒氏はいう。
 藤沢令夫氏の指摘する、『パイドロス』のミュートスに影響を与えたという「特定の学派 」とは、具体
的に言えばオルフェウス・ピュタゴラス教団であろう。井筒氏はピュタゴラス教団の中心的思想は「霊魂
の輪廻転生」であり、「先行するオルフィズムに直結する接触点」であるという。井筒氏によると、「トラ
キアの詩人祭司」オルフェウスの名によって生まれたこの彼岸宗教は、ディオニュソス宗教を精神化し霊
魂不滅と霊魂輪廻の教義を形成し、典礼と禁欲によって永生の浄福を確保する道を宣教し全ギリシアに広
がりをみせる。ここにはじめて確立されたという霊肉二元論はプラトンの思想に大きく参与していると井
筒氏は指摘する。教団が物語るオルフェウス的神話では、人間の肉体はティタンから生じたとし、ディオ
ニュソス神はザクレウスと同一視される。ザクレウスはペルセポネーとゼウスの間の子供で世界統治をゼ
ウスから痛くされていた。ゼウスの敵であるティタンたちは世界支配を目論みザクレウスを食い殺す。し
かし心臓だけは女神アテナによって救い出されゼウスに返すと、ゼウスはのみくだしセメレとの間の子と
して誕生させるのである。このように一度死んで甦ったザクレスは神でありながら人間として昇天し最高
神になった。(詳しくは『神秘哲学』参照)つまり、肉体はティタン的な悪の要素を持ち、霊魂はディオニュソ
ス的な善と聖の真我であるので、「 現世の生活において肉体に宿る霊魂は、天上から堕ちてきた悲しい流
浪の身でなければならぬ」と教団では考えられていたのだと井筒氏はいう。

 


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