ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

朔太郎論「光ある芸術の真髄」小林稔個人詩誌「ヒーメロス32号」より

2016年02月16日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの

光ある芸術の真髄

 白秋宛ての朔太郎の書簡に、「私は絶大なる恐怖と驚愕と羞恥と困惑との間に板ばさみとなって煩悶して居ります。私は恐るべき犯罪(心霊上の)を行なったために天帝から刑罰されて居るのです」という言葉がある。河村政敏氏(『月に吠える』)によれば、天帝よりの刑罰とはエレナという人妻との密通と関連し、白秋の「ソフィーと呼んでいた人妻との事件」と重ねられ、その衝撃と罪の意識が「浄罪詩篇」製作の動機となり、「一旦浄罪が始められれば、それは逃げられない刑罰として実感され、自虐的神経に作用されていよいよ深められ、ついには人間の原罪的な思念にまで進んでゆく」。ついには懺悔者のイメージに発展するという。しかし佐藤氏は、「病者の歪みとして、罪として問い、告発せざるを得なかったところにこそ、彼のいう「浄罪」に真義はあったのではないか」と問い、「その人の全存在本能が傾注されて場合に」始めて、「光ある芸術ができる」(大正四年四月二七日)とは、朔太郎の詩観の本髄をなすものでもあったと論じている。つまり、「疾患」が詩作の進化への起因になっているということを言いたいのであろう。佐藤氏は、「疾患」を詩法として「すべて見えざるものを」をも見る「見者」たることと、「疾患」をその歪みと罪のゆえに、これを浄め、正し給えと祈らざるをえないこと、ここに「霊と肉」との祈りと詩の、一元的な把握があると佐藤氏は主張する。「疾患」を否定的に受け止める「浄罪」があり、肯定的に受け止めれば、信仰の発見によって、キリストに救われることによって「素人詩人」から免れる、まさしく信仰と詩は一元として捉えられているのだという。

 私の唯一、敬慕する詩人である鷲巣繁男氏は、朔太郎の「天上縊死」に触れ、ダンディズムであろうと抒情としての懺悔であろうとも、「祈りの形を天上の縊死者として感得した」のであり、後期の作品『氷島』の「感情の荒くれ」に照応して見えるという。詩人を貫く希求、「文学というおぞましい存在」との苦悩となるかどうかは、彼の全生涯と全作品を注視しなければならないと述べている。(『クロノスの深み』)先述した歌集『ソライロノハナ』で朔太郎が言う「ロマンチィックの幻影」が消えた後の「本物の世界…醜い怖ろしいあるもの」、(それゆえに短歌から詩に転向することになったのであろう)、「信仰を発見しなければ『素人詩人』に終わるに違いない」と危惧させた、「文学のおぞましさ」を詩の出発点に立った若い朔太郎はそのとき直覚したのであろう。

  詩誌「ヒーメロス32号」2016年2月4日発行から一部掲載。



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