ヒーメロス通信


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「経験世界の事物の本質はどこからくるか」井筒俊彦『意識と本質』より

2015年12月29日 | 井筒俊彦研究

連載/第十一回
小林稔

Ⅶ P139-153
 経験世界の事物の「本質」はどこからくるのか。


 井筒氏は、「本質」を媒介としない事物の分節なるもの、つまり無「本質」的分節を、形而下的、形而上的全体的側面において構造化し、禅的分節論の全体的構造の中に正確に位置づけ、「禅らしい生命の躍動」を露呈しようとする。
 トーマス・マートンの禅の定義、「禅とは主体と客体の彼方なる純粋有の存在論的意識であり、あるがままの存在を直接無媒介性において、じかに捉えることである」という記述は、根本的に静的であって力動的ではないと井筒氏はいう。深い瞑想に沈みこんだ意識の観照性に究極する。主体としての我もなく、客体としての物もなく、脱自的意識の地平に顕現してくる純粋存在、存在そのもの、に当然として見入る無心の目、マートンの脳裏にはプロチノス的一者観照の恍惚の追走的形象が浮かんでいたかもしれないと井筒氏はいう。
 しかし、それは禅の体験の一部分に焦点を合わせたもので全体ではない。井筒氏は、全体的にダイナミックな認識論的・存在論的過程、あるいは出来事として捉えられなくてはならないという。
 修行道としての禅は、見性体験を頂点とする三角形として形象化される。底辺の経験的世界、頂点に向かう向上道(未悟)と、経験的世界に向かう下降道(已悟)。このプロセスにおいて「本質」は変貌して現われてくると井筒氏はいう。彼は、この未悟→悟→已悟という形で措定したものを、分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)という形に置き換えてみる。分節(Ⅰ)と分節(Ⅱ)は同じ世界であるが、無分節をへているかいないかによって内的様相を異にするという。分節(Ⅰ)は有「本質」的分節、分節(Ⅱ)は無「本質」的分節であるからである。


 「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫已前の消息なるがゆえに。而今の活計なり。朕花未崩の自己なるがゆえに、現成の逸脱なり。山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。順風の妙功、さだめて山より逸脱するなり。」正法眼蔵山水経、道元禅師


 而今の山水(今眼前にする山水)は、経験的世界で見る山水(分節Ⅱ)とは同じであって同じでない。而今の山水は、「ともに法位に住して」(一定の存在的位置を占めて)、「究尽の功徳を成せり(全体露見的な働きを示す)。「空劫已前の消息なるがゆえに」、「朕花未崩の自己なるがゆえに」、そのようなことが起こるのだと道元はいう。「而今の山水」は、山と川として分節されていながら山であること、川であることから超出して(「本質」に束縛されずに)自由自在に働いているのだ、ということになると井筒氏はいう。つまり分節(Ⅰ)は有「本質」的に分節された山や川であるのに対して、分節(Ⅱ)は無「本質」的に分節された山や川なのである。(カッコ内の解説は井筒氏による)


「老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。後来、親しく知識に見(まみ)えて箇の入処有るに至るに及んで(すぐれた師にめぐり遭い、その指導の下に修行して、いささか悟るところあって)、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇(きゅうかつ)の処得て(いよいよ悟りが深まり、安心の境地に落ちつくことのできた今では)、依然(またいちばん最初の頃と同じく)、山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり」(『続伝燈』二十二、『五燈会元』十七)。

 清原惟信が禅者として己の生涯を振り返り三つの段階に分ける。第一段階は、禅の道に入る前の時期。普通の人として自己の外なる世界を見つめる。世界は有「本質」的に分節されている。第二段階は、参禅してあらゆる事物が「本質」の留金を失う。「本質」結晶体が融けて流れ出す。分節線が拭き消される。見る主体はそこにはない。すべてが無「本質」。第三段階は、再び有の世界。無化された事物が有化され現われる。第一段階と同様に分節された世界である。しかし本質は戻らない。山や川には本質がない。このような山水を「而今の山水」といったのである。(井筒氏の解釈)。本質(Ⅰ)では、言語アラヤ識にひそむ「種子」の作り出す「本質」を基に行なわれる。我々の常識的世界、存在的不透明性の世界である。このような「本質」決定は誰が、何が決定するのかが問題になると井筒氏はいう。
 常識的世界では、本質ははじめから各々の事物に備わったものだ。創造主なる神を措定する一神教的世界では「本質」決定は神がする。イスラム哲学では、神が宇宙を創造したとき、まず「存在」という無限定のリアリティーを創っておいて、それを「本質」によって様々に限定していったという論と、それとも第一に様々な「本質」を創っておいて後からそれに存在性を与えたとする論に別れ、スコラ哲学上の大問題になったのだと井筒氏は指摘する。十三世紀以降のグノーシス哲学では、神そのものを無限定的「存在」リアリティーとし、それの様々に異なる自己限定態として事物の存在を考え、そのように限定された形で抽象的に把握し仮構する、と考えるので、イスラムも仏教に近くなるという井筒氏の主張するところは十分納得できよう。(カッコ内の解説は井筒氏による)
 

 仏教は神の創造を前提としない。しかし「本質」を備えている。そうであるなら、事物の「本質」は一体どこからくるのか。(井筒氏)

 仏教では、人間の倒錯した意識の働きによって「本質」は現われると考える。「本質」は仮構であり虚構である。このような表層意識の働きを妄念と呼ぶ。(井筒氏)

 
 「唯だ妄念に依って差別あり。もし妄念を離るれば唯だ一真如なり」(法蔵『妄尽還源論』)

 
 意識が「本質」仮構的に働きさえしなければ、存在は粉々たる分節の様相を消して、その本質的「一」性に返るということでもあると井筒氏はいう。分節(Ⅰ)から無分別に向かう向上道への第一歩は、経験界の事物のすべてはほんとうは無「本質」であると悟るときであり、そこでは意識のどのような深層次元が拓かれ、どのような存在風景が現出するのだろうかを井筒氏は考察していきたいのだと語る。たいへん興味深いことである。
 次回から禅の本格的解明に入る。心して向かわなければならないだろう。




次回、第十二回につづく。

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