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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

道元「山水経」に説く「水の現成」 小林稔評論集『来るべき詩学のために(一)』より

2012年11月22日 | 井筒俊彦研究

連載/第十三回

小林稔

 「水、水を見る」。道元が「山水経」に説く「水の現成」とは。

 

無「本質」的分節なるものが、いかにして「本質」抜きで成立するのか。

以下、井筒氏の言説を追ってみよう。(P168~180) 

 「本質」とは元来、存在の限界付けである。存在界を一つの全体と見て、これを現実と呼ぶ。その中の一つの部分を他から切り離して独立したものと見立てる。これが「本質」である。こうして局所的に措定された「本質」をめぐって一つのものが組み立てられる。コトバによって名指しされるものは、このような形で私たちの意識に現前する。これが分節Ⅰである。このような経験的世界を大乗仏教は妄念の世界、空華、と呼ぶ。分節Ⅱを真の現実(真如)と考えるからである。分節Ⅱが分節Ⅰと分かつのは無分節である。存在の究極的無分節態は、存在(存在=意識)のゼロ・ポイントであり、意識と存在の二方向に分岐して展開する創造的活動の発出点である。しかも無分節者が最高度の存在充実である。

 「無」に瀰漫する存在エネルギーが発散してものを現出させる。

 分節Ⅱにおいてそのものを覚知する。この次元の意識にとって、経験的世界(現象界)の事物の一つ一つが、無分節者の全体を挙げての自己分節なのである。「無」全体がそのまま花となり鳥となる。局所的限定ではなく、現実の全体が花であり鳥である。つまり無「本質」的なのであると井筒氏はいう。この存在の次元転換(分節Ⅰと分節Ⅱの転換)は瞬間的出来事であるから無分節と分節は二重写しになる。すなわち「花のごとし」である。

 すべてのものが無分節者の全体の顕露であるがゆえに分節されたものが他のものを含む。

  「しるべし、解脱にして繋縛なしといへども、諸法住位せり」(道元)

 水は水の存在的位置を占め、山は山の存在的位置を占めて、それぞれ完全に分節されてはいるが、しかしこの水とこの山とは「解脱」した(無「本質」的)水と山であって、「本質」に由来する一切の繋縛から脱している。ところが、分節Ⅰにおいても水が低所に向かって流れるだけと見るのは偏った見方である。地中を流通し、空を流通し、上に流れ、下に流れ、川となり、深い淵となり、天に昇っては雲となり、下っては流れを止めてよどみもする。しかしこのような分節Ⅰの境地にとどまっている限り、水の真のリアリティーはつかめない。分節Ⅱでは無分節者が全エネルギーを挙げて、自己を水として分節する。 

「水のいたらざるところあるといふは、小乗声聞教なり。あるひは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり。心念思慮分別裏にもいたるなり。覚知仏性裏にもいたるなり」

「一切衆生、悉有仏性」という根本命題の存在論的意味である。一滴の水の中にも無量の仏国土が現成するとも言われる。しかし、水の中に仏土があるのではなく、水すなわち仏土なのである。水の所在は過去、現在、未来の別を超越して、どの特定の世界にも関わりがない。しかし水は水として存在する。したがって「仏祖のいたるところには水はかならずいたる。水のいたるところ、仏祖かならず現成するなり」。

 『正法眼蔵』第二十九「山水経」の中で、道元は無「本質」的分節の自由性を、彼独自の先鋭な論理で考究しているが、「山水経」の主題は、有「本質」的分節のために枯渇している存在を、無「本質」的次元に移して、本来の生々躍動する姿に戻そうとすることにある。無分節者が自由に不断に分節していく。私たち人間が感覚器官の構造とコトバの文化的制約性に束縛され行なう存在分節は分節様式の一つに過ぎず。例えば、天人の目になり、魚の目になって、新しく分節し直してみればわかるということを道元はいっているのだと井筒氏は解釈する。しかし道元の存在分節論はさらに続き、先に挙げたような視点を含めた高次の視点に表われる「髄類の諸見不同」を超えて、「水、水を見る」ところに跳出しなければならないと道元はいうと井筒氏は説明する。

「水が水を見る」に至って、分節Ⅱは幽玄な深みを露にする。水が水そのもののコトバで自らを水と言う。水の自己分節。水が水自身を無制約的に分節する、これが水の現成であるが、水が水自身を水にまで分節するということは分節しないのと同じであり、分節しながら分節しない、それこそが無「本質」的存在分節の真面目であると井筒氏はいう。

 井筒氏は、「本質」否定論に対立する「本質」肯定論の第一の型である、宋儒の「格物窮理」を説明するついでに、正反対の.禅の無「本質」論を取り上げ、より明確にしようとしたが、その他これから井筒氏が述べようとするであろう肯定論の第二型においても対立を明確にするという理由があってのことなのだという。

それでは、その肯定論の第二型とは何か。井筒氏の言葉を下記に引用すれば、

 {詩的想像力、あるいは神話形成的想像力によって深層意識のある特殊な次元に現われる元型(アーキタイプ)的形象を、事物の実在する普遍的、「本質」として認める一種の象徴主義的「本質」論の立場である。グノーシス、シャマニズム、タントラ、神秘主義などなど。東洋哲学の領域において、顕著な位置を占め、その広がりは大きい。何処からともなく湧き起こって、意識の仄暗い深層にうごめきつつ、そこに異様な心象の絵模様を描き出す元型的「本質」。その世界を、無「本質」主義の禅はまったく知らない。あるいは知っていても、全然問題にしない。}

 Ⅷ P180~

 ここから第二型の肯定論に入る。(第一型の肯定論は、宋儒の「格物窮理」であった。)

 人間の表層意識に出没する怪物たちの棲息地は深層意識内である。ふだんは姿を現さない。この内的怪物たちが深層意識領域にとどまる限り、あるべき形で働く限り、それぞれの役割があり、時には幽玄な絵画ともなり感動的な詩歌を生み出すものをもっていると井筒氏は指摘する。チベット・ラマ教美術の不気味な空間に浮かぶ異形のものたち、胎蔵界マンダラの外縁、外金剛部院を充たす地獄、餓鬼、畜生、阿修羅など輪廻の衆生。本来の深層意識の観想地域を離れて、表層意識に出没し、日常世界をうろつき廻るようになるとき、人間にとって深刻な実存的、あるいは精神医学的な問題が起こってくると井筒は解説する。心理学では、イマージュ形成こそ、人間意識の、他の何物によっても説明できない、最も本源的な機能であるといわれていると井筒氏はいう。ここで井筒氏が言おうとするのは、イマージュの場所は、深層意識だけではなく、表層意識にもあって、イマージュの性格も働き方も根本的に違うということであり、どう違うのかが、これからの論点になる。

 

以下、第十四回につづく

 

 

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言語アラヤ識の意味的「種子」と絶対無分節者。連載エセー第12回・井筒俊彦「意識と本質」解読。

2012年11月01日 | 井筒俊彦研究
言語アラヤ識の意味的「種子」と絶対無分節者

連載エセー井筒俊彦『意識と本質』解読


連載/第十二回

Ⅶ P153-166

 経験的世界のあらゆる存在者が無「本質」なのだと知ることが、坐禅修行者の向上道への第一歩であり、事物の無「本質」性を大乗仏教では「空」と呼び、「本質」に該当する語は仏教全般で「自性」(じしょう)と呼ぶので、無「本質」性の意味での「空」を「無自性」というと井筒氏は説明する。
 「経験的世界において表層意識の対象となる一切事物の実相は「空」であり、その空性は、理論的には、一応、因縁所生ということで説明される。原始仏教の縁起哲学につながる非常に歴史の長い考え方である。」と井筒氏はいう。しかし、「無」の理性的理解ではなく、「人間の実存的了解であり、意識そのものにある根本的次元転換を予想する禅人間的了解である」とも彼はいう。つまり、禅の実践道を経て現成する「無」なのである。理論で了解するだけであるなら、表層意識の領域の外に踏み出せない。表層意識で了解されたものは、すでに有「本質」的に分節されてしまうので、無分節は「表層意識が完全に打破されつくしたところにはじめて現われる深層意識的事態」と井筒氏は指摘する。無分別が深層意識事態として現成することを禅では「無」と呼ぶのだと井筒氏はいう。
 否定的表現の「無心」と、肯定的表現の「心」が同義語として使われているのが禅の特徴であり、「無心」の絶対性を説きながら、「心」という肯定的表現を用いるのは、絶対的無分節者が本源的に内蔵する存在エネルギーへの示唆があるといえるからかもしれないと井筒氏はいう。さらにこのような事態の形而上学的・存在論的側面を「真空妙有」と呼ぶという。それが示す実在他見の中心軸を「無分節から分節(Ⅱ)」へといい直そうと言う。絶対的無分節者は、不断に自己分節していく創造的な「無」であり、宇宙に漲る生命の原点、世界現出の太源であると井筒氏はいう。
 洞山良价(とうざんりょうかい)807-869年、中国の唐代の禅僧で、曹洞宗の開祖。
彼は、全体的無分節の現成する意識・存在の境位を「正位」、分節(Ⅱ)の境位を「偏位」と名づけたという。

 「正位は即ち空界にして、本来、物無く、偏位は即ち色界にして万象の形有り『語録』

 「正位」と「偏位」は同時に成立するということが正偏説の眼目である井筒氏はいう。このことを洞山は濃密な詩的形象で描いている。

 銀盌(ぎんなん)に雪を盛り、明日に鷲を蔵(かく)す 『宝鏡三昧歌』

 韶山寰普(しょうざんかんぷ)の『五燈会元』六では、
 鷲飛んで霄空(しょうかん)(大空)は白く、山遠くして色深青(遠山の青は大空の青と見分けがたい)
 
白一色の全体の中に白いものがひそみ、限りない深青の拡がりの中に深青のものが伏在する。何ものも弁別できないという点では無であり無分節だが、しかしそこに何かが無いわけではない。「心の体(絶対無分節の意識)は虚空のごとくに相似て、相貌有ること無く、亦一向に是れなるにあらず((だからといって、ただ否定的に何もないというわけではない)。有にして而も見ずべからずなり)という黄檗(おうばく)禅師の言葉(『宛陵録』)が思い合わされると井筒氏はいう。
無分節の中に分節線が引かれているが見えない。分節線はどこにひそんでいるのか。
言語アラヤ識的深層の奥底に、意味的「種子」として隠れていると考えることができるという。しかし言語ごとに微妙な差異があることも指摘する。サンスクリットにおける事物(存在分節)と中国語における事物(存在分節)は違っている。しかし、存在分節は根源的無分節者の自己分節であり、分節されて現出してきたあらゆる事物の総体は同じ一つの全体的存在世界を提示すると井筒氏は指摘する。

存在世界を構成する一切の分節を、それぞれの言語のアラヤ識的意味「種子」を通じて、可能的に含んでいるということであると井筒氏はいう。無分節から分節Ⅱの向下道として体験的に覚知するのは、文節Ⅰから無文節へ至る向上道より難しい。
「山河大地を転じて自己に帰するは即ち易く、自己を転じて山河大地に帰するは即ち難し」という長沙景岑(けいしん)の言葉の意味するところであると井筒氏はいう。分節をいったん無化して「無」の境地に立ち、次に無化した事物を、「本質」を措定することなしに、経験的次元に建立し直さなければならないのだ、井筒氏はそれを存在の無「本質」的分節と呼んでいる。
内に秘められた「無」の存在エネルギーは、経験的次元で事物を分節していくが、無分節の境(意識・存在のゼロ・ポイント)を辿ってきた人と、そうでない人とではまるで別物に見えると井筒氏は指摘する。
絶対無分節者の自己分節は、人間の意識に現成するに過ぎない。意識の場においてコトバの本源的意味作用を通して分節世界は現出する。分節Ⅱは、無「意識」から働きだしてくる意識であるから、言語アラヤ識の意味分節機能においてもふつの意味分節とは違うと井筒氏はいう。つまり分節Ⅰは有「本質的分節」であり、分節Ⅱは、あらゆる存在者が互いに透明である。花が花でありながら、花として現象しながら、しこも花であるのではなく、花のごとし、であるという。他の一切に対し自らを開いた花、であると井筒氏はいう。

「水清くして底に徹す。魚の行くこと遅遅たり。空広くして闊(ひろ)くして涯(かぎ)りなし。鳥の飛ぶこと杳杳(ようよう)たり」(宏智『坐禅録』)
魚は魚として、鳥は鳥として分節されながら、鳥と魚の間には存在融和がある、つまり、分節されているかのごとしの事態、これが存在の「真如」と呼ばれるものであると井筒氏はいう。「真如」とは絶対無分節、すなわち「無」だけではなく、真に深い意味での「無」であるという、そのことによって「有」なのである。存在分節である限りにおいて、互いに相通し、透明であり、無礙であると井筒氏は解説する。
分節Ⅱの存在透明性と開放性は分節Ⅱの無「本質」性によるものであり、「本質」で固めてしまわないかぎり、分節はものを凝結させず、ものとものを融合させるものである。華厳哲学のいう「事々無礙」のことであると井筒氏は指摘する。

(次回第十三回につづく)

経験的世界の事物の「本質」はどこからくるのか。井筒俊彦『意識と本質』解読。第十一回

2012年09月24日 | 井筒俊彦研究

連載/第十一回
小林稔

Ⅶ P139-153
 経験世界の事物の「本質」はどこからくるのか。


 井筒氏は、「本質」を媒介としない事物の分節なるもの、つまり無「本質」的分節を、形而下的、形而上的全体的側面において構造化し、禅的分節論の全体的構造の中に正確に位置づけ、「禅らしい生命の躍動」を露呈しようとする。
 トーマス・マートンの禅の定義、「禅とは主体と客体の彼方なる純粋有の存在論的意識であり、あるがままの存在を直接無媒介性において、じかに捉えることである」という記述は、根本的に静的であって力動的ではないと井筒氏はいう。深い瞑想に沈みこんだ意識の観照性に究極する。主体としての我もなく、客体としての物もなく、脱自的意識の地平に顕現してくる純粋存在、存在そのもの、に当然として見入る無心の目、マートンの脳裏にはプロチノス的一者観照の恍惚の追走的形象が浮かんでいたかもしれないと井筒氏はいう。
 しかし、それは禅の体験の一部分に焦点を合わせたもので全体ではない。井筒氏は、全体的にダイナミックな認識論的・存在論的過程、あるいは出来事として捉えられなくてはならないという。
 修行道としての禅は、見性体験を頂点とする三角形として形象化される。底辺の経験的世界、頂点に向かう向上道(未悟)と、経験的世界に向かう下降道(已悟)。このプロセスにおいて「本質」は変貌して現われてくると井筒氏はいう。彼は、この未悟→悟→已悟という形で措定したものを、分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)という形に置き換えてみる。分節(Ⅰ)と分節(Ⅱ)は同じ世界であるが、無分節をへているかいないかによって内的様相を異にするという。分節(Ⅰ)は有「本質」的分節、分節(Ⅱ)は無「本質」的分節であるからである。


 「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。空劫已前の消息なるがゆえに。而今の活計なり。朕花未崩の自己なるがゆえに、現成の逸脱なり。山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳、かならず山より涌達す。順風の妙功、さだめて山より逸脱するなり。」正法眼蔵山水経、道元禅師


 而今の山水(今眼前にする山水)は、経験的世界で見る山水(分節Ⅱ)とは同じであって同じでない。而今の山水は、「ともに法位に住して」(一定の存在的位置を占めて)、「究尽の功徳を成せり(全体露見的な働きを示す)。「空劫已前の消息なるがゆえに」、「朕花未崩の自己なるがゆえに」、そのようなことが起こるのだと道元はいう。「而今の山水」は、山と川として分節されていながら山であること、川であることから超出して(「本質」に束縛されずに)自由自在に働いているのだ、ということになると井筒氏はいう。つまり分節(Ⅰ)は有「本質」的に分節された山や川であるのに対して、分節(Ⅱ)は無「本質」的に分節された山や川なのである。(カッコ内の解説は井筒氏による)


「老僧、三十年前、未だ参禅せざる時、山を見るに是れ山、水を見るに是れ水なりき。後来、親しく知識に見(まみ)えて箇の入処有るに至るに及んで(すぐれた師にめぐり遭い、その指導の下に修行して、いささか悟るところあって)、山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず。而今、箇の休歇(きゅうかつ)の処得て(いよいよ悟りが深まり、安心の境地に落ちつくことのできた今では)、依然(またいちばん最初の頃と同じく)、山を見るにただ是れ山、水を見るにただ是れ水なり」(『続伝燈』二十二、『五燈会元』十七)。

 清原惟信が禅者として己の生涯を振り返り三つの段階に分ける。第一段階は、禅の道に入る前の時期。普通の人として自己の外なる世界を見つめる。世界は有「本質」的に分節されている。第二段階は、参禅してあらゆる事物が「本質」の留金を失う。「本質」結晶体が融けて流れ出す。分節線が拭き消される。見る主体はそこにはない。すべてが無「本質」。第三段階は、再び有の世界。無化された事物が有化され現われる。第一段階と同様に分節された世界である。しかし本質は戻らない。山や川には本質がない。このような山水を「而今の山水」といったのである。(井筒氏の解釈)。本質(Ⅰ)では、言語アラヤ識にひそむ「種子」の作り出す「本質」を基に行なわれる。我々の常識的世界、存在的不透明性の世界である。このような「本質」決定は誰が、何が決定するのかが問題になると井筒氏はいう。
 常識的世界では、本質ははじめから各々の事物に備わったものだ。創造主なる神を措定する一神教的世界では「本質」決定は神がする。イスラム哲学では、神が宇宙を創造したとき、まず「存在」という無限定のリアリティーを創っておいて、それを「本質」によって様々に限定していったという論と、それとも第一に様々な「本質」を創っておいて後からそれに存在性を与えたとする論に別れ、スコラ哲学上の大問題になったのだと井筒氏は指摘する。十三世紀以降のグノーシス哲学では、神そのものを無限定的「存在」リアリティーとし、それの様々に異なる自己限定態として事物の存在を考え、そのように限定された形で抽象的に把握し仮構する、と考えるので、イスラムも仏教に近くなるという井筒氏の主張するところは十分納得できよう。(カッコ内の解説は井筒氏による)
 

 仏教は神の創造を前提としない。しかし「本質」を備えている。そうであるなら、事物の「本質」は一体どこからくるのか。(井筒氏)

 仏教では、人間の倒錯した意識の働きによって「本質」は現われると考える。「本質」は仮構であり虚構である。このような表層意識の働きを妄念と呼ぶ。(井筒氏)

 
 「唯だ妄念に依って差別あり。もし妄念を離るれば唯だ一真如なり」(法蔵『妄尽還源論』)

 
 意識が「本質」仮構的に働きさえしなければ、存在は粉々たる分節の様相を消して、その本質的「一」性に返るということでもあると井筒氏はいう。分節(Ⅰ)から無分別に向かう向上道への第一歩は、経験界の事物のすべてはほんとうは無「本質」であると悟るときであり、そこでは意識のどのような深層次元が拓かれ、どのような存在風景が現出するのだろうかを井筒氏は考察していきたいのだと語る。たいへん興味深いことである。
 次回から禅の本格的解明に入る。心して向かわなければならないだろう。




次回、第十二回につづく。

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連載エセー⑩禅の無本質的存在分節の機構「井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。」

2012年09月05日 | 井筒俊彦研究
連載エセー『意識と本質』(精神的東洋を求めて)解読

連載/第十回
小林稔



 前回はガザーリーとアヴェロイスとの論争を井筒氏の論考を追って論じてみた。アリストテレスやプロティノスの影響を受けたイスラーム的思考が、やがてイブン・アラビーの哲学に結集するまでの途上の試練と考えることもできるであろう。しかし世界の無始性と創造神の問題は容易に解決できるものではない。アラビーの哲学も、信仰としてのイスラーム者からみれば異端を免れないのではないか。ギリシアに生まれた哲学、たとえばプラトンの哲学に神は内在されている。オイディプスのように死すべきもの(人間)は運命に対して神からの離脱を求め戦いもするが、学問、芸術面では神々の守護のもとでロゴスを確立してきたのではないだろうか。アヴェロイスのロゴス的世界の主張もギリシア的に考えれば当然のことである。しかし、多神教の神概念では肯定されるものであっても、一神教ではまったく違った様相を見せるということだろうか。ギリシアにおいてもそうであったが、人間がロゴスを打ちたてながら神から遠ざかってきたともいえよう。言い方を変えれば神はより内面化されたといえるのではないかと思う。とりわけイスラーム教やキリスト教、ユダヤ教では学問や芸術は背信行為であるという考えが根強く存在する。
 井筒氏は「本質」の問題からガザーリーとアヴェロイスの論争を分析した。世界を「本質」のない事物の偶然的集積とみるか、整然たるロゴス的体系とみるかの相違であると分析する。全能の神をいかに扱うかに関わる問題であるとする。しかし井筒氏は徹底して神不在の意識を貫く「禅」においても、同じような問題に帰着するという。Ⅵの章から本格的に「禅」の問題に突入する。問題は同じでも逢着する仕方が独特であるという「禅」を井筒氏はいかに誤読していくのか、つまり未来の志向に活用(私にとっては詩学)しようと企てていくのかを読み解いてみよう。

P117-120
禅独自の無「本質」的存在分節の機構

 禅は現実を、「本質」によって固定された事物のロゴス的構造体とは見ない。(井筒俊彦)

 世界を事物の偶然的集積と見るガザーリーと、「本質」によるロゴス的体系と見るアヴェロイスの対立は「神の全能性」の扱い方によるのであるが、神不在を旨とする禅であるにもかかわらず、同じ問題を共有すると井筒氏はいう。禅から見れば「本質」によって認識するロゴス的構造体は幻影に過ぎない。すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによってすべての意識を無化し、全存在世界をカオスかするが、その先があると井筒氏はいう。いったんカオス化した世界に再び秩序を取り戻し事物が新しい形で返ってくるが、「本質」を取り戻してではなく、無「本質」的に帰ってくると井筒氏は説明する。
 事物は互いに区別されつつ互いに透明であると井筒氏はいう。『華厳経』に説かれる、「事
事無礙」の思想と同じである。中村元氏によると、「事事無礙」という言葉は華厳経を基にして中国で成立した華厳宗に説かれる言葉で、「ものごとは一つ一つお互いに異なっているのではなく、融けあっている、決してお互いに排除しあうものではなく、融けあってとどこおりがない」という意味であるという。(中村元現代語訳5『華厳経』『楞伽経』東京書籍刊を参照)
 
「水清くして地に徹す、魚行きて魚に似たり、空闊(ひろ)くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし」(道元『坐禅箴』

 井筒氏によると、鳥が鳥であるのではなく、鳥のごとし、という。しかも鳥の「本質」に縛られていない。鳥は鳥として分節されている。「禅の存在体験の機微に属するこの事態を、禅独自の無<本質>的存在分節と呼びたいと井筒氏はいう。
「社会生活の場では使用される言語の意味分節を超えたところで生起する実存体験的事実であるからには、普通の言語的思惟によって論究することは原理的に不可能であるとわかっているが」(つまりロゴス的分析が不可能であるものをロゴス化することの困難)、この他に類を見ない無「本質」的存在分節の機構を、東洋的「本質」論の一局面として分析しようとすると井筒氏は述べている。
 禅に対するロゴス的分析の不可能性を緩和するために、井筒氏は迂回して論じようとする。つまり彼は古代インドの『バガヴァット・ギター』にある実存認識の根源的三様式を解説する。認識の三様式とは意識の三様式のことである。ではどのようなものか。
 
P121―123
 古代インドの宗教哲学詩『バガヴァド・ギーター』について

 『バガヴァド・ギーター』はサーンキヤ哲学の世界像に基づいていて、実在認識の様式が「三徳」の段階に分けられると井筒社いう。「三徳」とは、「原質」すなわち始めから内在する三つの根源的な存在展開的エネルギーのことであり、「純質」「激質」「暗質」がある。これらは均衡を保って微動だにしないと井筒氏はいう。しかし均衡を破ることがあるとそれぞれの方向に動き出し自己展開を始める。これら三種の存在エネルギーの混合により、我われの感覚器官や意識、外界の事物も現象し経験界を形成するという。

 原実在から経験的世界へ、存在の形而上的未展開態から形而下的展開態へ――この過程はサーンキヤ独自の存在論として古代インド哲学界では重要な位置を占める。(井筒俊彦)

 井筒氏はこの「三徳」論を踏まえた『バガヴァド・ギーター』の認識の三段階を論じるのである。
 第一、「純質的」認識
  全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡知の煌々たる光。
  「あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節されたもののうちに無分節の実在を見る。」)『バガヴァド・ギーター』

第二、「激質的」認識
  現象的他者の間に動揺ただならぬ意識。
  「あらゆる経験的事物のうちに、個々別々なさまざまなものを、個々別々に識別する認識。」『バガヴァド・ギーター』

第三、「闇質的」認識
 愛憎に縛られた沈重な意識。
  「ある一つの対象に、まるでそれですべてであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執着する狭溢な認識。」『バガヴァド・ギーター』

 これら「三徳」は典型的に東洋的な射程をもつ理論であるということも可能で、「無心」「有心」「執心」に対応すると井筒氏は述べる。意識のこのような有り様は、古来東洋では、人が発心に向かって実存的に方向転換する機縁になりえるものとして重要視されてきたが、哲学的見方からすれば「執心」は「有心」の特殊な面であり、人がある対象に愛着や嫌悪を感じるのは事物が差別されるからで、事物が差別されるのは実在がさまざまな存在者として意識に分節されるからで、「執心」は「有心」の経験の上にはじめて生起する、「有心」そのものの派生態にすぎないと井筒氏は解説する。

 P124-131
実在の無分節的真相を露呈させる禅

 井筒氏は、禅における意識の三段階を、僧璨(そうさん)の『信心銘』の冒頭の四句を挙げて、『バガヴァド・ギーター』が基づくサーンキヤ哲学の「三徳」のアナロジーを指摘する。

 至道無難  
 唯嫌揀択
 但莫憎愛
 洞然明白

(大意――実在体験の究極の境位は難しいところは何もない。あれがよい、これが悪いと選びの心動くからいけないのだ。好きだ嫌いだの執着さえなければ存在の真相は了々と眼前に露現する。)

意識の激質態は「有心」で普通は「意識」と呼ばれているものである。
「無心」(至道)の境地と揀択・憎愛の境地のあいだに「有心」の境地が介在するが、この四句では、闇質態が激質態を通らず純質態に結びつけられていると井筒氏は説く。

 「心を擬する」とは意識のエネルギーを一定の方向に向かって緊張させ、その先端に一つの対象を認知することである。禅においては「心を擬する」は「至道」への最大の障礙(障害)である。
  「心を擬すれば即ち差(たが)い、念を動かせば即ち乖(そむ)く」(臨済)
「心を擬する」ことは現実を本質的に分節し、個々別々のものとしてしか見ることができないから障礙になる。人間の意識は通常、「有心」の段階において分節的意識である。存在は究極において「絶対無分節者」であると考えるから分節意識が働き出すと存在の真相は無限の彼方に姿を隠すと井筒氏は説く。したがって分節意識は経験的世界における我われの普通の心の状態であるから、通常我われは存在の真相をまったく見ていないことになる。

 先に『バガヴァド・ギーター』を「共時的構造化」として参照したが、井筒氏は次に『楞伽経』(りょうがきょう)の意識三相説を考察している。
 意識三相説とは、「真相」「業相」「転相」である。

真相――絶対無分節に実存を見る境地。禅の「無心」にあたる。
    「大乗起信論」では「心真如」ともいう。
    絶対無分節的意識が、それ自体に内在する存在分節の性向に促され動き出す。
    そのとたんに、根源的無分節のリアリティーは分裂し、主・客の対立が現われる。
    このような存在分節の性向を「不覚」や「根本無明」という。
業相――主・客が現われたその境地における意識を「業識」(ごつしき)と呼ぶ。
    分裂した存在の主体的側面と客体的側面が、我意識と意識から独立した対象的事物の世界である。「私が→花を、見る」「花が→私に、見える」という経験的世界が現象することになる。
転相――このように経験的意識を「転識」という。存在リアリティーをさまざまに分節し、無数の分割線を引いて個々別々なものとして認知された事物の間を転々と動き回る「妄覚」であるという。

 「業識」に端を発し、錯綜する「本質」線を至るところに画きつつ縦横に伸長する「転識」が経験的次元での我われの意思の自然なあり方であり、その意識の成立基盤が存在分節機能であると井筒氏はいう。「本質」を通して、ある対象を他の一切から分別されたものとして構成し、意識的志向性の焦点を絞るといえるが、普通の人であればこのプロセスは一瞬にして行なわれる。それは分節が文化的に与えられ、現実は始めから分節されているから、いつでもどこでも成立してしまうのであり、むしろそうした形で与えられている存在が現実なのだと井筒氏はいう。さらに出来合いの分節が言語に記憶されていると説く。

 存在全体をどう分節するか、どこに区切りの線を引き、どんな事物を立てるかは文化によって異なる。つまり、いろいろな「本質」が始めから文化的に措定されて与えられていて、それぞれの文化によって現実は、それぞれ違う「本質」の聯合的総体であると井筒氏は指摘する。

 ソクラテスも孔子も、それぞれの文化の規定する「本質」体系の制約を脱することはできなかった。「本質」は創造されるものではなく、発見され、正しく捉えられるべきものであったと井筒氏は述べている。

 言語(ラング)は既成の諸「本質」体系的記録であると井筒氏はいう。

 ある一つの文化共同体に生まれ育ち、その共同体の言語を学ぶ人は、自覚なしにその文化の定める「本質」体系を摂取し、それを通じて存在をいかに分節するかを学ぶ。学ばれた「本質」体系は全体的に「文化的無意識」の領域に沈殿して、その人の現実認識を規制する。井筒氏はそれを「言語アラヤ識」と呼んでいるという。人は普通、その存在に気づかない。しかしそれは時々刻々働いている。「転識」が働くとき、その底に「言語アラヤ識」が働いている。ものが存在するのは、「言語アラヤ識」の暗闇から、そのつど、ある特定の「本質」が呼びさまされてきて、その意味的鋳型で存在を分節しているからだと井筒氏はいう。しかし、文化的無意識としての「言語アラヤ識」の中に、「本質」が完成した形で整然と収まっているのではなく、「本質」を意識のこの深みまで追求してくれば、それらはすべて潜勢態特有の存在性の希薄さの中に幽隠してしまうものであるし、この領域にはまだ「本質」として定着できない、あるいは結晶しきれない、無数の浮動的な意味体が、結びつ解かれつしながら流れている。唯識哲学ではこの場で「種子」(しゅうじ)が形成されていくと考えると井筒氏はいう。それらの「種子」が機会あるごとに潜勢態を脱して「転識」的意識の表面に現勢化し、そこに「本質」を作り出し経験的事物を分節すると井筒氏は解説する。

 「言語アラヤ識」の深みから自然に生え出てくるとしか言いようもないような「本質」。無意識の所産であればこそ、経験的意識にからみつくその執拗さは凄まじく払拭することは困難である。しかしこのような事物の「本質」的分節構造を毀せば、経験世界は収拾のつかないカオス状態になり、意識主体もその本来の認識機能を完全に喪失するが、禅は、存在の究極的真相を体認するため、あえてこの危険を犯そうとすると井筒氏は指摘する。

P131-139
「本質」は「言語アラヤ識」の意味的「種子」の現勢化した姿である。(井筒俊彦)

 存在の絶対無分節と経験的分節の同時現成こそ、禅の存在論の中核をなす。絶対無分節者でありながら同時に、自己分節して経験的世界を構成していく。無分節がそのまま、その全存在エネルギーを挙げて自己分節する。「有心」からいったん「無心」に出て、その境位からひるがえって「有心」の見ていた経験界の事物を「無心」の目で見直す必要がある。そうして初めて、存在の無「本質」的分節がわかると井筒氏はいう。
 ものをその名で呼んで分節しながら、同時にそれを絶対無分節者としても見る目が働いているので、禅における言葉の使用は不自然な印象を与えると井筒氏はいう。

人あって雲門文偃(ぶんえん)に問う、「樹凋み葉落つる時、如何。」
師曰く「体露金風」(『広録』上、『五燈会元』十五)

(満天下寂寞たる秋景色。木は凋み、葉は落ち尽して、目に立つものもない。蕭風と秋風吹き渡るこの無一物の荒野に、大樹がその体を露出する。)(井筒俊彦)

経験的呪物の落ちきった実在の地平に絶対的無分節者が自らを露にする。その瞬間それはすでにさまざまな事物として自己分節している。「本質」によって凝固させられずに。
(井筒俊彦)

次回第十一回につづく。

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ガザーリーとアヴェロイスの論争、連載エセー⑨井筒俊彦『意識と本質』解読。

2012年08月13日 | 井筒俊彦研究

連載エセー⑨井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。
連載/第九回
小林稔


ガザーリーとアヴェロイスの論争。
ギリシアの哲学的思考と一神教の神がどのように共存できるか。



P99-P105
意識の垂直的方向からの考察と水平的方向からの考察。

 意識に表層・深層という二重構造を措定して、前回見た宋儒の「脱然貫通」や禅の説くメタ意識としての無-意識を考えるとなると、意識という語の意味領域を拡大し、意識でなくなってしまうところまで押し進めなければならないが、しかし意識の意味領域から排除せず、それを含めて意識(、、)を総合的(、、、)に構造化(、、、)しなおすことによってはじめて新しい東洋哲学の意識論が基礎づけられると井筒氏はいう。もちろんこれは意識の垂直的方向からの考察のことである。例えば、禅の説く「無心」。それは消極的な否定論ではなく、むしろ「有心」の極限であるという。意識と存在の究極的原点。『意識と本質』を読み進めるにつれて禅の考察が深められていく気配を感じ、期待するところが大きい。
 また、井筒氏は意識の水平方向からの考察として文化意識の問題を取り上げる。文化共同体が根源的には一つの共通言語に支えられた言語共同体であるという。つまり文化テクスト間の相違によって、人間意識もさまざまな類型学的差異を示し、さらにいかなる角度から、どの単位に認識証明を与えるかが文化ごとに相違すると井筒氏は説明する。例えば、イスラーム「原子論」論争を「本質」論の観点から述べてみたいと井筒氏はいう。
 イスラーム的意識の顕著な特徴は「神中心的な意識である」。「コーラン」に描かれたアラーは万物の創造主、天地の主宰者であり、それを否定するイスラーム哲学はないと井筒氏はいう。もし、前回に説いた宋儒の「理」体系をセム的一神教の文化構造に持ち込むとたいへんな危険思想になりかねないと井筒氏はいう。実際、「理」体系に対応するアリストテレスの「本質」体系の思想がイスラームに流入してきたとき、「原子論」論争が起きたのである。つまり多神教の文化に育まれたギリシアの哲学がイスラーム哲学の形成に与えた問題である。文化間の衝突といえよう。


P106~116
ガザーリーの偶然性の哲学とアヴェロイスの因果律の実在性

 イスラームの「原子論」が、かの古代ギリシアの「原子論」とどのような相違があるのかは資料を読み込まないと今の私には理解できないが、井筒氏によれば、普遍的「本質」の実在性を認めるか否かという立場の対立に帰着するという。つまりイスラーム的意識がギリシア哲学の「本質」概念とどのように抵触するかということである。宋儒の「理」体系は事物の一つ一つに普遍的「本質」という存在根拠があるということとギリシア哲学とは受け入れられものであろう。この点においてイスラームには問題になったと井筒氏は指摘する。イスラームの思想家がギリシア哲学を取り入れたのはアリストテレスの哲学を通じてであった。その第一のものは因果的思考方法であるが、因果律で統一された存在秩序としてのコスモスが、一度イスラームの意識に持ち込まれたとき、宗教的世界像に大きな問題を投げるのだ。すなわち因果律的存在観は、天地の創造主、主宰者である全能の神の否定につながるものだからである。因果律の世界は永遠不変の偶然性を否定する動きのとれない世界とイスラームの原子論者は考え、神の介入を許さない世界と映ったのである。イスラームの原子論者は偶然主義の立場を取り、「全存在界は、互いに鋭い断絶によって分離された無数の個体の一大集積として表象される」と井筒氏は説く。無限定な世界だからこそ神が奇跡を起こすことができる。もちろん原子論者と呼ばれる以上、経験界の一切の事物を、それ以上分割できない不可視の微粒子にまで分解する。しかし、それらの複合体として現象するすべての経験的事物の間に、空間的・時間的な隣接ということ以外に連結を認めないという井筒氏の指摘を考えれば、ギリシア哲学の原子論者たちとは自ずと異なる。
 「原子」とはそれ以上分割できない「実体」を意味し、その「無特質性」とは不変の性質や属性をもたないということであり、それらによって構成されると考える経験的事物もまた無記的であり不変の性質や属性をもたないとイスラームの原子論者は考えたのだという。一切存在者の無作用性、無力性という思想を展開し、その上での経験界の因果律の無効を主張したと井筒氏はいう。つまり「本質」否定に直結することは明らかである。井筒氏はそれに繋がる西暦十二世紀のガザーリー(原子論を哲学的に大成した人)とアヴェロイス対決について説明している。

 まずガザーリの考えを井筒氏の記述から理解してみよう。
 この世に存在するすべてのものは何ら働きをもたない。事物固有の働きを認めない。しかし実際は「火に触れれば紙が燃える」のはどうしてか。それは「自然の慣習」であり、「偶然の出来事」であると彼は考える。なぜそういう慣習はあるのか、「神の恣意」、「かくあれ!」で決められるのだという。神から独立した因果律というものはない。因果律はなく慣習に過ぎない。それを破るのが奇跡であると彼は考える。
 存在界は偶然性の世界である。人間から見ればそう見えるだけであり、偶然に支配されたように見えるこの世界が存続可能であるのは、「神の瞬間的創造」のおかげなのだという。「神の瞬間的創造が間断なく連鎖するので存在は存続しているように見える」のだとガザーリは考えていたと井筒氏は説明する。ガザーリの因果律否定は「本質」否定ではなかったが、アヴェロイスは「本質」否定の何ものでもないと批判したのである。
 アヴェロイスとはどんな人なのか。井筒氏によれば、アヴェロイスは、ガザーリの因果律否定は「本質」否定と直結し、それは「理性的動物」と定義される人間の間化にほかならないという主張であり、人間とは、本来己の理性(ロゴス)を自由に行使して事物の理(ロゴス)を把握する」存在であるという主張である。アヴェロイスは気性の激しい人であったと井筒氏は著書『超越のことば』でいう。両者ともにアリストテレスの考えを継承しているのだが、アリストテレスの哲学を歪曲し批判するガザーリーの態度が気に入らなかったし、「一者からいかにして多者が出てくるか」、そしてその絶対一者がいかにして「世界を創造するか」というイスラーム思想の核に当たる箇所を、ネオ・プラトニズムの「流出」論に求める哲学的解釈にアヴェロイスは批判的であったと井筒氏は指摘する。
「そもそもどのような具体的事情で、イスラームの中に突然「哲学」が生起し、興隆し、やがてトマス・アクイナスをはじめ中世期の西洋哲学者たちを驚嘆させるほどにまで合点したのだろうか」と井筒氏は問題提示をし、ガザーリーとアヴェロイスの前の世代のアヴィセンナという人物を考えなければこの論争の実像は見えてこないという。詳しくは『超越のことば』を参照されたい。アヴィセンナを考えるには、イスラームと哲学の本来的な関わりを把握しなければならないのである。イスラームにとって哲学はまったく異質な世界であった。ギリシアの「地中海的人間の思惟感覚」の「ギリシア的ロゴスの哲学」と、「人格的一神教の宗教思想」とは相容れないものであった。八世紀半ばのイスラーム世界の統一というアッパース朝の興隆に応じて、ギリシアに対する関心が高まったといわれている。そこで「アリストテレスを中心とする古典ギリシアの哲学書が次々にアラビア語訳されていった。イスラーム文化のギリシア化のこの傾向は、第七代の教皇アマムーンに至って絶頂に達する」と井筒氏は『超越のことば』で記述する。さらに続けて、「八三〇年、アマムーンはバグダード(アッパースの首都)にギリシア学術研究センター「智の家」を創設する。ここではギリシア哲学・科学の基礎的研究が、主として原典翻訳という形で強力に推進されたという。これは中国においてなされた仏典漢訳状況に匹敵するほどの「驚嘆すべき組織性をもって行なわれた」という。このようにして「イスラーム的宗教性のコンテクストの内部で」「ギリシア的思惟を独創的なイスラーム的哲学に変貌させていった」と井筒氏は解釈する。このようなイスラーム哲学創出の動向は十世紀のファーラービーという哲学者の出現で顕著になる。井筒氏によれば、彼の哲学は「アリストテレスの論理学と形而上学を基礎に据え、プラトンの思想をそれに協調するような形で解釈しながら、両者の合一点に己の立場を定め、さらにそれをイスラームの伝統的宗教思想に合致するような方向に展開させた」のである。それを完成に導いたのがアヴィセンナであると井筒氏はいう。
 井筒氏の『イスラーム哲学』によると、アヴィセンナはイスラームのスコラ哲学を初めて体系化した人である。彼の父親は教育に熱心に人物で、息子の優れた天分を見つけると、算術、代数、幾何学を幼い時期に習得し、彼の家にイスマーイール派の思想家が出入りしていたので、そこから多くの影響を受けた。ファーラービーの著書を通じてギリシア哲学を学び、後にアリストテレスの『形而上学』を何度も読み、それでも理解したという気になれなかったが、アヴィセンナはファーラービーの『アリストテレス形而上学の基本概念』を読んで完全に理解した。彼の後半生は波乱続きのもであった。政治的勢力に巻き込まれ、牢獄、監禁、陰謀などに満ちた生活であったという。しかしこの動乱の時期以後に彼の哲学は大成した。伝記的な事柄は井筒氏の書物に任せ、ここでは彼の思想がいかなるものであったのかを考えてみよう。もちろんそれも井筒氏に頼らざるを得ないのであるが。『超越のことば』で井筒氏は、アリストテレス哲学にネオ・プラトニズム的思惟が全面的に混入していることが第一の問題であるという。つまり「一者」から経験的存在世界の階層的発出を説く典型的なネオ・プラトニズム的『流出』哲学であったし、むしろイスラーム的宗教思想の哲学的再構築を積極的に可能ならならしめるものとして受け取られるようになったと井筒氏はいう。ガザーリーにとっては「流出」論的世界像は、神の絶対自由意志による世界創造と全面的に対立するものであり、アヴェロイスにとってはアヴィセンナの考えはアリストテレスの歪曲として映ったのである。両者ともアヴィセンナを批判した。
 アリストテレスは全存在世界には時間的な始まりがないと考える。これはイスラームの世界創造説を否定することになる。『コーラン』ではある特定の時の一点において、世界が存在し始めると考える。「ある特定の一点」を考えることは、それ以前の時間が、「何一つない空虚な時間」があることになる。しかし「アリストテレスのいうように時間は運動の尺度で、動くもののまったくない、つまり、神学が想定するような世界の存在以前の状態にあっては、時間は存在しえないはずである」。だから「世界の創造以前の時間があるとするなら、それは時間以前の時間ということになろう」。哲学者からすれば、神と世界の間に時間観念を導入なしに原因論的、つまり因果関係的前後関係でなければならないと井筒氏はいう。アリストテレスの形而上学的体系では、神は万物の第一動力因として定位され、自らは動くことなく、他の一切の存在者を衝き動かす究極の原因であり、アヴィセンナは神を、このアリストテレス的第一動力因を存在現出の絶対原因、あるいは第一原因として捉えなおしたと井筒氏は解釈する。またこのように捉えた神は時間とは無関係であると井筒氏はいう。しかしイスラームの立場からすれば困難な結論を導く。まぜなら、神がある、それと同時に世界はある。少しのずれもないはずである。神が永遠的存在者であれば世界も永遠的存在者である。では「創造」はどのように捉えるべきか。無時間的事態でしかありえない。神の存在そのものが、絶対的必然性の結果として世界を存在させる。このように哲学者は神の天地創造を、無時間化し変質して、「創造」の事実を正当化しようとする。
 ガザーリーは「創造」の形象に固執する限り、時間概念の導入は不可避的であると考えた。「神は有った、しかし世界はまだなかった」という創造以前の状態を述べる命題には、Aの有とBの無、のほかにCという時間の第三の要素が不可避である。第三の要素がなければ「存在した」は「存在するだろう」と違わないことになる。ガザーリーのこの所論にアヴェロイスは賛成する。しかし、Aを世界、Bを世界と考えるところにヴァザーリーの考えに間違いがあるとアヴェロイスはいう。神は元来、無時間的存在であり、時間の中にはないからである。「神は世界なしに存在した」や「神は世界とともに存在した」という場合に無時間的に解さなければならないとアヴェロイスはいう。しかしガザーリーは、時間とはまったく純粋に主観的な形式に過ぎないと考え、存在の客観的事態とは無関係である考えると井筒氏はいう。それに対してアヴェロイスは、「時間的先行・後行を、神と世界との間の関係に適用することはできない」と彼の書物で述べている。つまり、時間はジュン主観的な直観の形式ではなく、客観的に存在論的な基礎を持つ、リアルなものだという立場を取ると井筒氏は説く。「創造以前の時間」も客観的実在性を持つ以上、神学者がいうような意味での「創造」を理解することができない。したがって無時間的事態としての「創造」以外に「創造」なるものをアヴェロイスは認めることができないのだと井筒氏はいう。
一般に、一神教では「無からの創造」は、何も無いところから存在世界が創り出される、つまり「創造」以前には何も無く、神の「あれ!」の一声で世界が出現する。有の出現の素材となるべきものの絶対的不在を意味するが、アリストテレス系のイスラーム哲学は徹底的に否定すると井筒氏はいう。アリストテレスの考えでは、何かが生成するのは、必ず何かから生成すると考える。絶対的無からは生成しないとするが、「創造」が行なわれるには先行する何かが無ければ起こりえないのである。そこで哲学者は相対的な無を考え、「質料」と呼んでいる。この「質料」(素材)をアヴェロイスは「相対的無の状態における有」、すなわち「潜勢態における存在」(存在可能性)と規定する。したがって「創造」とは潜勢態における有を、現勢態における有に移行されることであり、それを生成と呼ぶ。「質料」を現勢的有に転換させるものが「形相」であると井筒氏はアヴェロイスの考えを要約する。
このように「無を相対的有と考え、創造を可能的存在者(質料)の現実的存在者への転換と考える」アヴェロイスの考えは、『コーラン』的存在生成観と本質的に相容れないものであったと井筒氏は指摘する。
 アヴェロイスの思想は、中世ユダヤ最高の哲学者マイモニデスのラテン語訳と通じて十二世紀、西欧カトリック思想界に持ち込まれ、大きな波紋を起こしたと井筒氏はいう。その影響は大きく、カトリック教会は一二七七年、アヴェロイスに対して異端宣告をした。事物がそれぞれ「本質」をもち、内在的ロゴスの指示のままに作用するのであれば、歴史的展開のプロセスに神の自由意志の介入する余地が無くなるということでイスラームの原理主義者たちから危険視されたのだと井筒氏は解説する。
 哲学が一神教の神学に融合するときに生じる問題を論じてきたのであるが、神学が信仰としての宗教を締め出し、科学的思考を促進してきたといえるのではないかと私は思う。
ともあれ、井筒氏がここで述べたかったのは、「本質」の有無が文化的な枠組み次第で、重大な問題を引き起こすということであろう。また文化的パラダイムにおける意識のあり方によって「本質」の問題性がさまざまにかわると井筒氏はいう。「意識はいろいろ違った仕方で意識でありうる」というメルロ・ポンティの言葉を、この章の冒頭にもってきた意味が理解されるのである。

(第十回につづく)

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