ヒーメロス通信


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言語アラヤ識の意味的「種子」と絶対無分節者。連載エセー第12回・井筒俊彦「意識と本質」解読。

2012年11月01日 | 井筒俊彦研究
言語アラヤ識の意味的「種子」と絶対無分節者

連載エセー井筒俊彦『意識と本質』解読


連載/第十二回

Ⅶ P153-166

 経験的世界のあらゆる存在者が無「本質」なのだと知ることが、坐禅修行者の向上道への第一歩であり、事物の無「本質」性を大乗仏教では「空」と呼び、「本質」に該当する語は仏教全般で「自性」(じしょう)と呼ぶので、無「本質」性の意味での「空」を「無自性」というと井筒氏は説明する。
 「経験的世界において表層意識の対象となる一切事物の実相は「空」であり、その空性は、理論的には、一応、因縁所生ということで説明される。原始仏教の縁起哲学につながる非常に歴史の長い考え方である。」と井筒氏はいう。しかし、「無」の理性的理解ではなく、「人間の実存的了解であり、意識そのものにある根本的次元転換を予想する禅人間的了解である」とも彼はいう。つまり、禅の実践道を経て現成する「無」なのである。理論で了解するだけであるなら、表層意識の領域の外に踏み出せない。表層意識で了解されたものは、すでに有「本質」的に分節されてしまうので、無分節は「表層意識が完全に打破されつくしたところにはじめて現われる深層意識的事態」と井筒氏は指摘する。無分別が深層意識事態として現成することを禅では「無」と呼ぶのだと井筒氏はいう。
 否定的表現の「無心」と、肯定的表現の「心」が同義語として使われているのが禅の特徴であり、「無心」の絶対性を説きながら、「心」という肯定的表現を用いるのは、絶対的無分節者が本源的に内蔵する存在エネルギーへの示唆があるといえるからかもしれないと井筒氏はいう。さらにこのような事態の形而上学的・存在論的側面を「真空妙有」と呼ぶという。それが示す実在他見の中心軸を「無分節から分節(Ⅱ)」へといい直そうと言う。絶対的無分節者は、不断に自己分節していく創造的な「無」であり、宇宙に漲る生命の原点、世界現出の太源であると井筒氏はいう。
 洞山良价(とうざんりょうかい)807-869年、中国の唐代の禅僧で、曹洞宗の開祖。
彼は、全体的無分節の現成する意識・存在の境位を「正位」、分節(Ⅱ)の境位を「偏位」と名づけたという。

 「正位は即ち空界にして、本来、物無く、偏位は即ち色界にして万象の形有り『語録』

 「正位」と「偏位」は同時に成立するということが正偏説の眼目である井筒氏はいう。このことを洞山は濃密な詩的形象で描いている。

 銀盌(ぎんなん)に雪を盛り、明日に鷲を蔵(かく)す 『宝鏡三昧歌』

 韶山寰普(しょうざんかんぷ)の『五燈会元』六では、
 鷲飛んで霄空(しょうかん)(大空)は白く、山遠くして色深青(遠山の青は大空の青と見分けがたい)
 
白一色の全体の中に白いものがひそみ、限りない深青の拡がりの中に深青のものが伏在する。何ものも弁別できないという点では無であり無分節だが、しかしそこに何かが無いわけではない。「心の体(絶対無分節の意識)は虚空のごとくに相似て、相貌有ること無く、亦一向に是れなるにあらず((だからといって、ただ否定的に何もないというわけではない)。有にして而も見ずべからずなり)という黄檗(おうばく)禅師の言葉(『宛陵録』)が思い合わされると井筒氏はいう。
無分節の中に分節線が引かれているが見えない。分節線はどこにひそんでいるのか。
言語アラヤ識的深層の奥底に、意味的「種子」として隠れていると考えることができるという。しかし言語ごとに微妙な差異があることも指摘する。サンスクリットにおける事物(存在分節)と中国語における事物(存在分節)は違っている。しかし、存在分節は根源的無分節者の自己分節であり、分節されて現出してきたあらゆる事物の総体は同じ一つの全体的存在世界を提示すると井筒氏は指摘する。

存在世界を構成する一切の分節を、それぞれの言語のアラヤ識的意味「種子」を通じて、可能的に含んでいるということであると井筒氏はいう。無分節から分節Ⅱの向下道として体験的に覚知するのは、文節Ⅰから無文節へ至る向上道より難しい。
「山河大地を転じて自己に帰するは即ち易く、自己を転じて山河大地に帰するは即ち難し」という長沙景岑(けいしん)の言葉の意味するところであると井筒氏はいう。分節をいったん無化して「無」の境地に立ち、次に無化した事物を、「本質」を措定することなしに、経験的次元に建立し直さなければならないのだ、井筒氏はそれを存在の無「本質」的分節と呼んでいる。
内に秘められた「無」の存在エネルギーは、経験的次元で事物を分節していくが、無分節の境(意識・存在のゼロ・ポイント)を辿ってきた人と、そうでない人とではまるで別物に見えると井筒氏は指摘する。
絶対無分節者の自己分節は、人間の意識に現成するに過ぎない。意識の場においてコトバの本源的意味作用を通して分節世界は現出する。分節Ⅱは、無「意識」から働きだしてくる意識であるから、言語アラヤ識の意味分節機能においてもふつの意味分節とは違うと井筒氏はいう。つまり分節Ⅰは有「本質的分節」であり、分節Ⅱは、あらゆる存在者が互いに透明である。花が花でありながら、花として現象しながら、しこも花であるのではなく、花のごとし、であるという。他の一切に対し自らを開いた花、であると井筒氏はいう。

「水清くして底に徹す。魚の行くこと遅遅たり。空広くして闊(ひろ)くして涯(かぎ)りなし。鳥の飛ぶこと杳杳(ようよう)たり」(宏智『坐禅録』)
魚は魚として、鳥は鳥として分節されながら、鳥と魚の間には存在融和がある、つまり、分節されているかのごとしの事態、これが存在の「真如」と呼ばれるものであると井筒氏はいう。「真如」とは絶対無分節、すなわち「無」だけではなく、真に深い意味での「無」であるという、そのことによって「有」なのである。存在分節である限りにおいて、互いに相通し、透明であり、無礙であると井筒氏は解説する。
分節Ⅱの存在透明性と開放性は分節Ⅱの無「本質」性によるものであり、「本質」で固めてしまわないかぎり、分節はものを凝結させず、ものとものを融合させるものである。華厳哲学のいう「事々無礙」のことであると井筒氏は指摘する。

(次回第十三回につづく)

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