goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

連載エセー⑧『意識と本質』第八回、宋儒の脱然貫通。生の源泉において絶対的虚無に出会う。

2012年07月30日 | 井筒俊彦研究

連載エセー井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。
連載/第八回


宋儒における脱然貫通。生の源泉において絶対的無と出合う。
小林稔


ここまで『意識と本質』を読んできて、いくつかの課題を見出せたように思う。
 東洋哲学の根底には「本質」否定が前提となっているということ。
 禅においてそれは徹底した形を見出せるが、東洋哲学にはさまざまな「本質」否定があり、ヴァリエーションがあることが興味深い。龍樹の中観思想の影響を受け、大乗仏教には「縁起」の存在があることがわかった。禅の「本質否定」はそれで終わらない実践があり、テクストを読んで深く理解する必要があろう。ヴェーダーンタの「不二一元論」、イブン・アラビーの「存在一性論」などももう少し追求してみたいと思う。それとともに華厳経がイラン思想に与えた影響、華厳経が空海の思想に与えたであろうものを原典に当たりながら時間をかけて読み込むことが今後の課題である。その成果は、いずれ季刊個人誌「ヒーメロス」やこのブログで公表したいと考えている。しかし、ここまでの読解で何より私の興味を引いたのは、サルトルやフッサールの哲学もさることながら、リルケ、芭蕉、マラルメを東洋哲学思想から解き明かしていることである。私の研究は、以前にも記述したように、詩学の確立に活用しようとするものであり、このブログにおいても少しはポエジーについて思うままに書き込むことをしたいと考えている。

ポエジーについて①
 
原初的な詩の概念から記述され読み手に啓示をもたらすエクリチュールとしての詩までをポエジーと呼びうるならば、限りなく遠い彼方から、「私」のいる日常世界に、いわば恩寵のように足許に降りてくるのがポエジーである、というのが私の持論である。そうした構造は、井筒氏の提唱した「言語アラヤ識」と類似的な構造として説明できるように思う。彼方といいアラヤ識といい、実在する場所ではないのであるから、両者とも深層意識の構造として捉えることができよう。
 詩人は日常空間に生きることが免れない以上、ポエジーを表層意識で受け止めるしかないのであるが、言葉=詩として成立することから、言葉に始まり言葉に終わる詩人の生は必然的に表層で捉えた言葉は普遍的「本質」=言語の実在に高められていくであろう。言葉とは表層意識において私たちにものの存在を示すのであるが、普遍性をもたされているという言葉の特質において、この現実の存在は見かけのもの=虚妄であることを思い知らされる。しかし井筒氏がリルケについて解いたように、ほんとうの詩人であれば、「切れば血を流すような」手ごたえのある存在を求めている。日本においては中原中也という詩人の詩もこのような視点から解釈できるであろう。詩歌の世界に視線を転じれば、「『新古今』的幽玄追求の雰囲気のさなかで完全に展開しきった形においては、{眺め}の意識とは、むしろ事物の{本質}的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫獏たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度でなかったろうか」と井筒氏が要約し、目前の事物を認知すればすぐに普遍的「本質」を見てしまうので、意識の尖端をぼかすことによって「本質」の存在規定性を回避しようとする態度であると井筒氏は説いていた。存在規定性を越えたところに存在深層の開顕があるのだという。しかし明治時代に西洋の詩概念を取り入れ始まった現代詩においては詩歌の世界とは独立した詩概念を私たちは求めている。だが、芭蕉の世界は詩歌の世界に収まらず、現代詩を根底で支えるものがあり、井筒氏が『意識と本質』で解読している芭蕉論は、これから私が確立しようとする詩学に貢献するに違いない。
 詩人は表層においてポエジーを受け取る。そして詩は「眺め」で終わらず、「行為」が大きく関与することから主体が問われてくるだろう。ここでは、私がここ数年関心を寄せ読み解いている、ミシェル・フーコーの「自己への配慮」はより多くの示唆を与えてくれるように思う。具体的には、「配慮すべき自己」とは何かを主体が探求するとき、改心が起こり(ソクラテスでは「無知の知」)、今ある自己を捨て去らなければならないのである。井筒氏のいう「主体の意識の空化」つまり「存在解体」、ミシェル・フーコーが「哲学と霊性」で述べる「代価」というべきものを必要とするのである。無疵ではいられないのだ。私の長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』の後半のテーマである。さらにそこから詩人像をいかに表出させるかは私の今後の課題である。
 

 さて、『意識と本質』を読み進めよう。
P80~99
脱然貫通。すべての「理」の形而上的側面を究極の一点において一挙に見ること。
 
「中国宋代の儒者たちの理学」と井筒氏は書き始める。儒者とは儒学者のことであり、儒学といえば孔子を始祖とする教えであろう。「理」については筆者による説明がある。
「理」とは、普遍的「本質」のことであり、「理学」とは、その探求である。前回までに論じてきた二つの本質のマーヒーヤ、つまり普遍的「本質」に実在性を見て、深層意識的に把握しようとする探求であろう。我々の生は日常世界を基底にして営むことは避けられない以上、このような探求、「意識の深層機能を発動させるためには、それほどの(神経衰弱に落ち込んでしまうほどの)緊張と専心を必要とする」ことであるが、「宋代儒者たちのなんと静謐で、澄明の気に満ちていること」と井筒氏は述べている。
 「意識の深層機能を発動させる」ために、彼らはいかなる実践をしたか。それは「静坐」と「格物窮理」であるという。井筒氏の説明を負ってみよう。
 「静坐」とは「心内のざわめきを鎮め、同時にそれと相関的に、心外すなわち存在界のざわめきを鎮める修行」である。「窮理」(格物窮理の略)は「次第に静まり澄みきった心の全体を挙げて経験的世界の事物を見つめつつ、それらの事物の本質を一つずつ把握していき、ある段階まで来たとき、この本質追求のいわば水平的な進路を、突然、垂直方向に転じて、一挙に万物の絶対的本質の自覚に到達しようとする本質探究の道」である。井筒氏の長い引用をしたが、水平方向や垂直方向の説明がないのでここではわからないのは当然である。本書(『意識と本質』ではこの後に詳細な説明がなされている。
 「静坐」も「窮理」も『中庸』の「未発」「已発」の概念に基礎を置いていると井筒氏はいう。心の未発動状態(意識のゼロ・ポイント)は全存在界の未展開状態(存在のゼロ・ポイントを意味する。「已発」は意識のゼロ・ポイントから発動した状態であり、同時に存在のゼロ・ポイントから様々な事物事象として展開した存在界のあり方を指すという。意識と存在、内と外の相関関係に注意しなければならないし、東洋哲学に共通する特徴であると井筒氏はいう。
 宋学は、(宋学に限らず東洋哲学に通低する特徴であるが)意識と存在、内と外は密接な相関関係にあり、究極的には一つであると、井筒氏は指摘する。実践的には、心が鎮静すれば存在界も鎮まる、反対に心が動揺すれば事物も動揺するということを意味し、心の処理から入り込むようになる。
 「静坐」における内的構造を井筒氏は次のように説明する。表層意識では、心はいつも未発状態にある。感覚、知覚が外界の対象を追い、欲望が刺激され、感情が起き、想念が渦を巻く。このような絶え間ない内的状態を通常、意識という。「絶え間ない」意識を微視的に見れば実は、連続ではなく断絶であると考える。一定期間の緊張の後に弛緩が起こる。つまり「心は動から静に移る」。それを繰り返すのである。動から次の動の間に瞬間、静が起こる。これを「未発」と呼ぶが、普通の人はそれがあることに気がつかない。訓練によってはっきりと捉えることができるのだ。さらに訓練によってその間隔を、つまり「未発」
を長びかせることができる。経験的世界において心の動の中に心の静を求めることを宋儒たちが求めるのはこのことであると井筒氏はいう。
 「未発」は表層意識を越えて深層意識に及ぶ。表層意識の領域では多くは「已発」状態にある中にわずかに「未発」があるが、修行するにつれて「未発」上体の占める割合が多くなる。そうすると「已発」は微力な動になり、「已発」でありながら全体が「未発」という状態になる。さらに「未発」が深層意識領域に入り込んでいき、意識のゼロ・ポイントに究極すると井筒氏は説く。しかしそれで終わない。「今度は逆にあらゆる心の動きがそこに淵源しそこから発出する活発な意識の原点として自覚しなおされなければならないからである」と井筒氏はいう。ここにおいて「未発」は「已発」の根源、「喜怒哀楽」の源泉と考えられるのであると井筒氏は指摘する。つまり意識のゼロ・ポイントの極点がどうじに全存在界のゼロ・ポイントである、意識「未発」が意識{已発}の源泉であることによって、全存在界生起の源泉でもあると井筒氏は説く。形而上的「未発」が形而下的「已発」として発動する一点に、全存在界を統合的に基礎づける形而上的「理」が成立、自己分節を繰り返して、無数の個別的「理」(実在する普遍的本質)となって経験的世界の事物に「本質」的根拠を与えていく。表層意識で捉えられた事物を深層意識で無化し、それらを一者として基礎づける唯一絶対の形而上的「本質」があり、それが千々に分れ、特殊化し、存在の形而下的次元で無数の「本質」を形成する、それらを下次元の「本質」を考究し、それぞれの「本質」に還元しつつ、上次元の「本質」(唯一絶対の「本質」)まで追求することが「窮理の道」であると井筒氏は説明する。
 「窮理」(格物窮理)とは、経験界にある事物、事象を観察し、それらに内在する先験的「理」を窮め、突如として万物の唯一絶対の「理」に翻入する道を意味すると井筒氏はいう。一見、禅と区別のつきにくい修行において、宋儒は「心の動の重要性」を強調するという。彼らは禅の無心、「何事も知らず何事とも見ず」という禅の境地に批判的であった。だが、「窮理」において禅とは明確に異なると井筒氏はいう。「窮理」とは、最後の飛躍の前の段階で事物の綿密な観察を旨とし、「事物に内在する永遠普遍の<理>、すなわち永遠普遍の「本質」を求めることであり、悟りに至る修行道程として、表層意識にひろがる事物の「本質」を探究するのに反して、禅は悟った後に「無心」の目を持ち経験的事物に実践的に接していくが、事物の本質を求めたりはしないと井筒氏は指摘する。
 「存在界の事物には必ず本質がある」という宋儒の確信は、プラトンのイデア論と同じであると井筒氏は考えている。そこで重視されていたのが『孟子』であったと井筒氏はいう。孟子の「物あれば則あり」。宋儒は物あるところ、必ず「理」があるとした。全存在界は無数の「理」の織りなす網の目、整然たる秩序を持った構造体であるという考えがあり、孔子の正名論につながると井筒氏は指摘し、「表層から深層に及ぶ存在界の真相(「事物」の「本質」)を探究する」ことを「格物窮理」と呼ぶのだと彼はいう。
 また井筒氏は次のようにもいう。「理」は我々の経験的世界と根源的に関わっていて、「形而上的「理」が必然的に形而下的姿で現われる。つまり「理」は形而上的であるとともに形而下的でもあると。井筒氏は朱子や周氏などの人物の名を挙げて説明しているが、ここではなじみがないので省略する。井筒氏のいおうとすることは十分理解できたように思う。普通の人の目には、「経験的事物の存在の深み」は見えない。表層意識には「理」は表層的存在様式である形而下的側面だけを示すのである。「窮理」の道に入る人は個々の「理」がばらばらに見えるが、ほんとうはひとつの「理」しかないのである。つまり形而下的側面だけしか見えない。それを手がかりに「窮理」の道をさらに進めていくうちに「脱然貫通」、すなわち「理」の形而上的側面を究極の一点において見てしまう、意識の最深層の突如たる開示であると井筒氏は説明する。しかし万有の唯一の究極的「本質」である「太極」は、あらゆる事物の「本質」が無に帰して消滅する無「本質」の一点、全存在のゼロ・ポイント、つまり「無極」でもあると井筒氏はいう。
 宋儒の「窮理」はマラルメの本質探究と違わないと井筒氏は考える。コトバの音波の振動となり空しく消える経験事物の消滅に続き、その「忘却」の向こうに、経験的世界の死を背景にして立ち現われる事物の永遠の「本質」を見ることがマラルメにとっての本質探求であったし、「本質」の凄絶な自己顕現こそが、「虚無」(Néan)の絶望の超克であったと井筒氏は宋儒の「脱然貫通」の体験を比べている。マラルメが知らずしてなぜそこまでの経験をしてしまったのか、やがて文学行為の観点からも解明されなければならないが、マラルメのように死や忘却の彼方においてではなく、存在の経験的次元において躍動する生命そのものの中に探求したのであり、修行の果てにはあらゆる「本質」の高次の宋儒は形而上性において「絶対的無」と出合う。そこには絶望の影もないという。なぜなら経験的事物の死による成立ではないからであると井筒氏は説く。むしろ生の源泉であったのである。経験的事物を無化する形而上的無本質を、あらゆる「本質」の実在的原点を己の形而下的自己限定として見たのである。無極であり太極、無・即・有。「理」の形而上的無限における無と有。その矛盾的相即のうちに、宋学的「本質」把握の東洋的性格を見るべきであろうと井筒氏は主張する。以上、井筒氏の解説を読んできたが、解説それ事態は決して難解なものではない。
 ここ(Ⅳ)まで読んできて、井筒氏が『意識と本質』の初めの部分でいう、東洋的哲人のあり方、つまり表層意識と深層意識を同時に機能させることができる一例を、今日の読解で知ることができた。それは「本質」否定から理解されることである。仏教ではこの経験世界を「名と形」の世界と捉え、それが呼び起こす形姿があるだけで実質はないとする。今もう一度読み返すと以前より深く理解できたように思えた。もう少し先を読んでいけば今回のことが深く理解されるであろう。

Copyright 2012 以心社
無断転用を禁止します。

連載エセー⑦井筒俊彦『意識と本質』解読。マラルメの絶対言語。「私は花!と言う…」

2012年07月16日 | 井筒俊彦研究

連載エセー井筒俊彦『意識と本質』(精神的東洋を索めて)解読。

連載/第七回
 マラルメの絶対言語、「私が花!と言う・・・」


『意識と本質』Ⅲ

P63~74
普遍的「本質」(マーヒーヤ)肯定論の三つのタイプ

西洋哲学の歴史において中世という時代は「本質」および「存在」といった存在論の基礎概念が確立された時期であったと井筒氏はいう。そこで繰り広げられた哲学上の術語が近代哲学から現代哲学に至るまで引き継がれている。グローバルな世界の流れが「日本人の哲学思考」に融合し西洋化している現代的状況で、私たちがこの『意識と本質』をすでに論議しているが、このように「本質」を論議する場合にさえ、西洋中世が揺曳しているのだと井筒氏はいう。そして西洋中世哲学に持ち込まれたイスラームを考えなければならないのである。その東洋思想の広大な領域を、先にも述べた「共時的構造化」を目指して井筒氏は横断しようとしていたのである。
 井筒氏は『意識と本質』のⅠ、Ⅱと書きついてきてⅢを始めるこの地点で、我々読者に、自らの思想の立脚点を明らかにしたといえよう。つまり彼の使う「本質」という術語は西洋中世哲学のそれであること、そして中世のスコラ哲学的概念に比較哲学を導入し、東西の思想の「地平融合」の実現に向けての一歩になることを願っているのだということが表明されているといえよう。
 イスラーム・スコラ哲学と呼びうるものが、西洋のスコラ哲学に影響を与えたということを考えると、先述したようにイスラームの神秘主義がギリシアの哲学と対立しイスラームの哲学を、十一世紀から十二世紀の、アヴィセンナ、ガザーリ、アヴェロイスたちが、「新プラトン主義的に解釈されたアリストテレス」の思想(ギリシア科学と新プラトン派の注釈が次々にアラビア語に翻訳されたと井筒氏は指摘)を取り込んだのである。そして彼らの著作がラテン語に翻訳され中世カトリック教会に取り込まれ中世スコラ哲学が形成され、ヨーロッパ哲学の形成に多大な影響を及ぼし現代に至る。
 ここでわかったことは、イスラーム哲学はアリストテレスの「本質」概念に遡るということである。そこから影響を受けた西洋スコラ哲学においても同様である。
 スコラ哲学において、「本質」は「存在」と対立し相関する概念であることに注意が必要であると井筒氏はいう。どういうことかを井筒氏の説明で追ってみよう。
 Xが現前している。それを認識するとき、「・・・の意識」が生起する。「Xの意識」とはXが現前していると仮定しての、「Xの存在の意識」、「存在するXの意識」であると井筒氏はいう。しかし、このようなXの知覚が成立する以前の、原初的な、分析的理性の働き出していない状態での「Xの意識」を考え、「無分節的に何かが我々に意識に向って自己を提示しているだけ」の状態を措定する。次の段階で、理性が割れ目をつけて、「本質」と「存在」に分けると考える。ここで始めてXが存在する何々として意識される。「理性の本源的分割作用」、それこそがスコラ哲学上の存在論の第一歩であると井筒氏はいう。Xは存在することによって例えば「花」であるのではなく、何か別の原理の働きがある、それが「本質」であると井筒氏は説く。しかし「本質」は「存在」を保証せず、両者が一体になってXは存在する「花」となるのだという。 
 「本質」は一般者でなければならない。どの花にも共通する一般的性質において提示する。花は個別性を剥奪され無記的なものになる。「すべて存在するものは個体であるというのはスコラ哲学の大原則である」と井筒氏は指摘する。「この花」はただの花とは根源的に違う何かが現成しているという考えが起きたとき、そこにあるのは、普遍的「本質」とは違った、もう一つ別の「本質」でなくてならないという存在感覚が生じてくる。先述したように、イスラムのスコラ哲学はこのような考えから、二つの「本質」を措定する、つまり普遍的「本質」のマーヒーヤと個体的「本質」のフィウィーアがあると井筒氏はいう。
 東洋哲学に見られる「本質」否定の立場が強くある中で、他方において、存在する事物の実在性の中核として認める「本質」肯定の立場がることを井筒氏はⅢで論じようとしているのである。
 存在する事物の実在性にのみリアリティーを見る、個物のユニークな独自性を保持するリアリティーを「本質」とするフウィーヤを押し進めれば、もう一方の普遍的「本質」は概念的一般者になる実在性を剥奪される。ところがこの普遍的「本質」は濃厚な存在感を持って実在すると主張する人が古来東洋にも西洋にも存在したと井筒氏は指摘する。しかも、一般者の「本質」は物の名と密接に結びついているという。
 マーヒーヤ肯定論の三つのタイプを井筒氏は分類する。
一、 普遍的「本質」マーヒーヤは存在の深部に存在する。それを把握するには深層意識を見ることができるようになる必要がある。
二、 シャーマニズムやある種の神秘主義を特徴づける根源的イマージュの世界。存在者の普遍的「本質」が濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプ、元型として現われる。例として、イブン・アラビーの「有無中道の実在」、アフラワルディーの「光の天使」、易の六十四掛、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロト」などがある。
三、 一の型が深層意識的体験によって捉える普遍的「本質」を、ここでは表層で理知的に認知するところに成立すると考える思想。古代中国の儒学、孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシューシカ派特有の存在範疇論などがある。


ここから『意識と本質』Ⅳ に入る。

P74~80
マラルメと言語的意識の極北。

「本質」実在論の第一のタイプの例として、東洋哲学の前に西洋の近代詩人マラルメを井筒氏は取り上げている。個体的「本質」にリアリティーを求めたリルケの意識の降りたところは、しかし一種の深層意識領域であったと井筒氏はいう。リルケと対蹠的な立場に立つのがマラルメである。マラルメの求めた「本質」は、「個物の個体性を無化し、無化しつくしたところに・冷酷にきらめく星の光のように浮かび上がってくる普遍的「本質」の凄まじい形姿であった」と井筒氏は説明する。そしてこのような「本質」を言語的意識の極北地帯に求めたともいう。
 言語的意識の極北と何か。「仏教を知ることなしに、私は虚無(le Néan)に到達した」というカザリスへの手紙に書いているように、井筒氏によれば、「日常的事物はことごとく自らを無化して消滅」し、この万物無化の体験は精神錯乱に陥るほどの狂気を感じさせるが、マラルメは虚無を突きぬけ、美(le Beau)を見出したのだと井筒氏はいう。

「美」―一切の経験的、現象的事物が夢まぼろしのごとく消え沈む虚無、「忘却」(l´oubli)の向う側に、彼が見出したこの「美」(le Beau)こそ、彼にとって、普遍的「本質」、永遠のイデア、の絶対美の実在領域だった。あらゆる生あるものの消滅する死の世界。だが、彼は歓喜した。常識的人間の目で見れば、死と絶滅以外の何ものでもありえないこの「美」の領域を、存在の永遠性の次元(l´Eternité)と彼は呼んだ。
                           『意識と本質』P76

 マラルメが己の詩人としての使命としたこととは、経験的事物から永遠の「本質」を救出すること、時間の支配をマーヒーヤの実在性の次元に事物を昇華させることであったと井筒氏は主張する。現象的世界は偶然(le Hazard)に支配されている。不断に変化し一瞬もとどまらぬ経験的事物のざわめき、永遠不易の「本質」の直視を妨げる一切の現象的存在要素をマラルメは偶然と呼ぶと井筒氏はいう。「この上もなく純粋な氷河地帯」とカザリス宛の手紙で自ら言うように、「万物が無生命性の中に凍てつき結晶化した氷の世界」と井筒氏は表現するのであった。マラルメをここまで追い込んだポエジーの必然は顧みられなければならない。ボードレールの要素の何がこれほど彼を非人間的世界に連れ出したのか。今後の私の課題である。しかし井筒氏は救いを見出している。存在無化と偶然性破棄の彼方に「純粋に光り輝く新しい姿で、それらの事物は立ち現われてくる」と井筒氏はいう。
 物の普遍的「本質」を実在的に呼び出す「絶対言語」(le Verbe)とは何か。
 
 「私が花! と言う。すると、私の声が、いかなる輪郭をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、我々が日頃狎れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁たる花のイデーそのものが、音楽的に立ち現われてくる。                       
           マラルメ『詩の危機』

 詩人が絶対言語的に「花」という語を発するとき、日常的に感覚的実体として現われていた「花」が、いったん消え去り、花を見ていた詩人の主体性も消える。生の流れが停止しあらゆるものの姿が消えると、消えた「花」が、形而上的実在、つまり永遠の花となって忽然と姿を現わすと井筒氏はいう。絶対言語とはいえ、詩人といえども使うのは普通の言語以外のものではない。しかし「絶対言語的に使う」と井筒氏はいう。
 このことは、井筒氏の提唱する「言語アラヤ識」を想起させもする。意味エネルギーが表層意識に浮上し言葉がもたらされるが、表層においては逆に名を呼ぶことによってものが存在を開始する。類似と差異を明確にしてみたいとテーマである。コトバは経験的事物の記号ではなく、指示言語でもない、逆に事物を消すことが普遍的実在の生起であると井筒氏は説く。
 ここにはプラトンのイデアの世界を彷彿とするものがあると私は考える。アリストテレス的意味での「本質」をさらに遡り、プラトンに至る必要があろう。井筒氏も言っている、マラルメにとっては、神の宇宙創造にも比すべき一つの根源的創造行為だったのではないか、この本質探求の道程をマラルメは修道院で神を求める修道士のいとなみに比していることは意味深いことではないかと。




次回第八回に続く。  Copyright2012 以心社 無断使用を禁じます。






連載エセー⑥井筒俊彦『意識と本質』解読。物の見えたる光、芭蕉と本質論

2012年07月12日 | 井筒俊彦研究
連載エセー⑥井筒俊彦『意識と本質』解読。
小林稔

連載/第六回

『意識と本質』Ⅰが終わり、ここからⅡの記述が始まる。Ⅰでは、東洋的思考には
いかに「本質」否定の概念が徹底してあるのかをみてきた。井筒氏はこの『意識と
本質』を世に発表した一九八二年の後に、「本質」否定についてもう少し深く追究
した論文を発表している。このブログで紹介しようとしたが、厖大な分量になるの
で割愛した。しかし前回イブン・アラビーについてはやや詳しく解説してみた。い
つか新プラトン主義との関連を掘り下げて論じてみようと考えている。
資料としては下記の書物がある。

 『意識の形而上学』
 「Ⅲ存在と意識の構造」『超越のことば』
 「意味分節理論と空海」『井筒俊彦著作集9』
 「文化と言語アラヤ識」『井筒俊彦著作集9』

さて『意識と本質』Ⅱ を読み始めよう。

P34~39
「ものの心をしる」
 井筒氏は、東洋哲学の伝統には、これまで論じてきた「本質」否定とは逆に、
「本質」の実在性を全面的に肯定する思想潮流があるという。『意識と本質』Ⅱに
おいて論じられるであろう。
 本居宣長は中国思想にみられる抽象概念を「くだくだしくこちたき」として極度
に嫌ったことを井筒氏は指摘する。『玉勝間』の「「かの宋儒の格物到知窮理のを
しへこそ、いともいともをこなれ」として、抽象概念のもとになる普遍者、つまり
「本質」などは、生命のない死物にすぎなかったであろうと井筒氏はいう。
中国的思考の抽象的・概念的に対して「宣長は徹底した即物的思考法を説いた」と
し、その例として、「物のあわれ」があると井筒氏は指摘する。どういうことか。
井筒氏の説明によると、物にじかに触れる、そして物の心を内側からつかむ、それ
が正しい認識方法であると宣長は考えたのだという。「心ある人」と宣長がいうの
は、概念的「本質」の世界は死の世界であるのに対して、眼前にある事物は、生き
て躍動する生命あふれる実在性を具えているので、それを捉えるには「実存的感動」
を「深く感じること」意外にないということであると井筒氏は解釈する。
 眼前の「前客体化的固体」(メルロー・ポンティ)、認識以前の「原初的実在性
における個物」の心を捉えることは「言語的意味以前の実在的意味の核心」(メル
ーロー・ポンティ)を直感的に把握することであると井筒氏はいうが、「個物の実
在的核心を」「客観対象的に認知することはできないという。「xを花というもの
もの、自分に対立する客体として認知することそのものうちに、すでに「花」とい
う言葉の意味分節作用を通じて、xを普遍化する操作が含まれているからである」
と井筒氏は説き、「この普遍性をこそ「本質」と呼ぶ」のだという。このような見
方で考えると、宣長のいおうとすることとは、「本質」回避であり、直接無媒介的
直観知(非「本質」的直観知)とでもいえようかと井筒氏は解釈する。しかし「物
の心」を事物の「本質」とする別の立場も考えられると井筒氏は指摘する。つまり
二つの違った意味の「本質」を考えることができるのだ。

一、自然に人が見出すままの原初的事物の、個体的実在性としての「本質」。
 二、意識の分節機能によって普遍化され、概念化された形で事物が提示する「本質」。

 「一」を個体的「本質」、「二」を普遍的「本質」とし、井筒氏は「本質」の区
別を考察していく。イスラーム哲学にはこの二つの「本質」を術語的に区別して考
える伝統があると井筒氏はいう。

P40~45
「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」
 イスラーム哲学者ジョルジャーニ(十五世紀)の『存在の階層』に対する註解を
井筒氏は次のように引用している。「いかなるものにも、そのものをそのものたら
しめているリアリティーがある。だが注意すべきは、このリアリティーは一つでは
なく二つであるということだ。その一つは具体的、個体的なリアリティーであって、
これを術語でフウィーヤという。もう一つは普遍的リアリティーで、これをマーヒ
ーヤと呼ぶ。
 「フウィーヤ」は「一般的意味での本質(マーヒーヤ)」といい、「マーヒーヤ」
は「特殊的意味での本質(マーヒーヤ)」と呼ばれている。
「特殊的意味での本質」としてのマーヒーヤは、アリストテレスの「本質」(それ
は何であるか)をアラビア語に移したものであり、その答えとして与えられるもの
は、「xの永遠普遍の自己同一性を規定するもの」として「本質」は定位されると
井筒氏はいう。これこそが完全に抽象化した「普遍者」、「一般者」である。
 「一般的意味での本質」としての「フウィーヤ」は「一切の言語化と概念化とを
峻拒する真に具体的なxの即物的リアリティー」であり、「フウィーヤ」は「これ
であること」という意味であると井筒氏はいう。
 「切れば血のほとばしる」実在性のおいて存在させているのは「個体的リアリテ
ィー」だけ、つまりフウィーヤだけであるとする考え方があるが、われわれの表層
意識がそれに視線を向けたとき、実在性の色褪せた、共同的な形姿で現われざるを
えない、それが普遍者としての「本質」、つまりマーヒーヤであると考える人がい
ることを井筒氏は指摘する。
また普遍的「本質」こそ、具体的、個体的に成立させる存在根拠であると考える人
もいるという。経験的世界に存続させる根拠としての個別のリアリティーを「個的
独自の個的実在性に認めないで、むしろそこに個的形態で顕現している普遍的「本
質」に認める人たち、「本質」は普遍的でありながらしかも実在すると考える人た
ちがいると井筒氏はいう。

P47~50
フッサール現象学における「本質」
 井筒氏によると、マーヒーヤ(「本質」の普遍性)とフウィーヤ(「本質」の個
体性)の不安定さは、フッサールの現象学の「本質」理解の曖昧さに露呈している
という。フッサールの現象学的還元と形相的還元の二重操作を経て本質直観的に把
握した「本質」は、上のどちらの「本質」だったのであろうかと戸惑うと述べてい
る。どういうことであろうか。
 われわれの意識経験に現われる具体的な事象は、「本質」を求め「類化」や「形
式化」をほどこせば、「具体的生の現実から遠く引き離された無色透明な普遍者で
ある」ことになろうと井筒氏はいう。フッサールの後裔者はその抽象性から脱出し
ようと解釈的努力をしているという。例えばエマニュエル・レビナスがいる、あるい
はメルロー・ポンティがいる。ポンティは、「引き離された本質」とは言語化され
た「本質」のことであるが、現象学的還元における「本質」は生きた現実の、躍動
するものであると述べていると井筒氏はいう。
 仏教におけるコトバの意味分節機能が及ぼす「妄念」の働きを考察した井筒氏は、
深層意識における意味的アラヤ識を考えれば、表層意識に現われていない「種子」
の働きがあることを指摘する。フッサールの「本質直観」は、前言語分節的意識が
語りかける何かを現前させるものであるとポンティの解釈からいえないこともない
という曖昧さを残してしまうと井筒氏はいう。

P50~53
リルケの「本質」
 マーヒーヤとフウィーヤという二つの本質を考えたとき、リルケのような実存的
体験を重視する詩人はフウィーヤ、つまり「個体的リアリティー」に強い関心を示
すことを井筒氏は指摘する。経験的事象にこそ詩の磁場であることは現代において
詩人であろうとする私においても共通するものである。経験の一回性は重要な意味
作用をもつ。しかもそこで感受した形象を詩人自身の内面世界に引き込んでいくだ
ろう。「そのものの純粋な形象を、日常言語より一段高次の詩的言語にそのまま現
存させようとする」のだと井筒氏はいう。言い方を変えれば、フウィーヤからマー
ヒーヤへの過程が創作行為であると私は考えるが、逆は真ではないであろう。リル
ケにとってマーヒーヤを通してものを見ることは、「ものの本源的個体性を最大公
約数的平均価値のなかに解消してしまうこと」だと井筒氏は主張する。しかし問題
は言語的意味分節において、つまりリルケが詩的言語で表現するときに起こる困難
さである。井筒氏によれば、フウィーヤ(個体的リアリティー)は表層意識には自
己を開示しないことをリルケは知っていたという。ノーラに送ったリルケの手紙で、
彼は次のようなことを述べていた。「内部の深層次元において、ものは始めてもの
として、その本来的リアリティーを開示する」と。このことは、事物の真の内的リ
アリティーが、すべてを言語意味的に普遍化する表層意識の対象にはなりえないと
いうことと、表層意識と異なる意識の次元の存在があるということを伝えているの
だと井筒氏はいう。その深層領域にあるフウィーヤ(個別的リアリティー)を言語
化する、つまり「フウィーヤを非分節的に分節し出さなければならない」のであり、
「表層言語を内的に変質させるによってしか解消されない」であろうし、「異様な
実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語が誕生する」ことになると井筒氏は
結論する。

P53~61
芭蕉の「本質」
 宣長の関心のあった詩的言語は、リルケの高次言語とは違って「マーヒーヤの顕
在的認知に基づくコトバ」であると井筒氏はいう。それは「和歌の言語」であり、
「一切の事物、事象が、それぞれその普遍的「本質」において定着された世界」だ
からである。
 しかし普遍「本質」的に規定された世界に飽き足らない詩人たちがいたと井筒氏
は指摘する。平安朝の「眺め」を彼は解説する。「新古今」的幽玄追求において
「眺め」の意識は「茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識
主体的態度ではなかったろうか」と井筒氏は問う。眼前の具体的な事物を認知した
とたん、普遍的「本質」が見えてしまうのだが、「できるだけぼかすことによって、
本質の存在規定性を極度に弱めようとする」のだと解釈する。
 
ながむれば我が心さへはてもなく、行くへも知らぬ月の影かな
                          式子内親王

 井筒氏によると、「詩人の意識は事物に鋭く焦点を合わせていない。それらは遠
い彼方に、限りなく遠いところにながめられている」という。視線の先で、事物は
「本質」的限定を越え、そこに存在深層の開顕があるという。この「眺め」意識は
事物のマーヒーヤを否定するものではなく、肯定するからこそぼかそうとするのだ
と井筒氏は指摘する。
 
 さて芭蕉についての考察に入る。芭蕉は上のような態度は取らなかった。フウィ
ーヤを追求する激しさにおいてリルケとひけを取ることはなく、詩的実存のすべて
をかけて追求したと井筒氏はいう。しかし普遍的な本質であるマーヒーヤの実在性
を否認することはなかったもいう。事物のフウィーヤはマーヒーヤと同一であると
考えた。普遍的なものと個体的なものが具体的存在者の現前において結びついたこ
とになる。つまり「概念的普遍者ではなく実在的普遍者としての「本質」が、いか
にして実在する固体の個体的「本質」でもありえるのか。」このアポリアを以下の
ように井筒氏は解読する。
 普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべ
きことを芭蕉は説いたのだと井筒氏はいう。芭蕉の俳句では、マーヒーヤがフウィ
ーヤに突如転成する瞬間が詩的言語に結晶するという、実存的緊迫に満ちた瞬間の
ポエジーであったのだと井筒氏は主張する。

  物の見えたる光、いまだ心に消えざる中(うち)にいひとむべし
                            芭蕉
 永遠不易の「本質」、それは事物の存在深層に隠れた「本質」であると井筒氏は
指摘する。「物」と「我」が分裂し、主体(物)が自己に対立するものとして客観
的に外から眺めることのできる存在次元を存在表層と呼ぶとすれば、存在深層とは
存在表層を越えた、「認識的二極分裂以前の根源的存在次元」であると井筒氏は分
析する。この事物の普遍的「本質」、マーヒーヤを芭蕉は「本情」と呼んだのであ
る。
 井筒氏によると、芭蕉のいう「本情」は表層意識では捉えられず、直接触れるに
は根本的な変質が行われなければならない、この変質を芭蕉は「私意をはなれる」
と表現し、このような美的修練を「風雅の誠」と呼んだのだという。さらに、「本
情」は不断に表れるものではなく、ものを前にして突然「・・・の意識」が消える瞬間
があり、そういう瞬間にこそ、ものの「本質」がちらっと光るのだと井筒氏は説く。
「物の見えたる光」のことである。
 さらに井筒氏の解釈に沿って要約していこう。人がものに出会う瞬間に、人ともの
との間に一つの実存的磁場が現成し、人の意識は消え、ものの「本情」が自己を開示
するというのだ。「物に入りて、その微の顕われ」ることである。
 すなわち、永遠不変の「本質」が、芭蕉的実存体験において、突然、瞬間的に、
生々しい感覚性に変成して現れるのだと井筒氏はいう。普遍者が瞬間的に自己を感覚
化する、この感覚的なものが、その場のおけるそのものの個体的リアリティーであり、
マーヒーヤがフウィーヤに変貌する瞬間であるという。

 フウィーヤだけを意識し、マーヒーヤを概念的虚構とするリルケと、マーヒーヤの
形而上的実在性を認め、感性的表層に変成するフウィーヤの瞬間を捉えようとする芭
蕉との違いは明確になった。この二つの型に共通することといえば「即物的直視」で
あろう。しかし「即物的直視」を排し、マーヒーヤをイデア的純粋性において直観し
ようとする詩人がいると井筒氏はいう。顕著な例としてマラルメを挙げる。哲学的に
は普遍的「本質」の実在論につながるものであるといい、井筒氏は『意識と本質』Ⅲ
においてマーヒーヤ実在論を東洋哲学に探ることになる。

次回第七回につづく copyright2012 以心社

連載エセー⑤井筒俊彦『意識と本質』解読。イブン・アラビー「存在一性論」

2012年07月06日 | 井筒俊彦研究
連載エセー⑤井筒俊彦『意識と本質』解読。

連載/第五回
小林稔


P29-P33
イブン・アラビーの「存在一性論」

 経験界の事物を真実在者の現われに過ぎないものとし、経験的存在者を表層意識の概念思惟的な虚構とし否定することは、ヴェーダーンタ哲学と変わることはない。

 イブン・アラビーによれば、世界すなわち全存在界は唯一無二の真実性である絶対無分節の「存在」が様々な「限界線」によって分節された形で我々の表層意識に現われたもの。
                         『意識と本質』Ⅰ

 ヴェーダーンタ哲学との相違は、「絶対無分節実在としての一者と、現実界において見られる分節的多者との結び付きが直接的でなく間接的である」という点にあると井筒氏は説く。実際に、一者から多者の間に「有無中道の実在」という中簡領域を設定する。分節的多者性を、純粋「存在」そのものの文節的自己展開と考える。つまり、「一者がそれに内在する自己分析的性向に促されて積極的に分節展開し、多者となって存在的に顕現する」ことであると井筒氏は分析する。中間領域として設定する「有無中道の実在」においては内的に可能性としてすでに分節された段階であり、分節の方向性を決定する。それが存在「限界線」の原形、すなわち「本質」の原初的形態であると井筒氏はいう。表層意識に現われる事物の「本質」は、有でもなく無でもない「存在範型」が俗締的に有として色褪せて顕現したものと考えられると井筒氏は説明する。つまり「絶対一者の間接的自己顕現」として見ることできる人には、「本質」もまた実在的なのだ」と言えるという。純粋「存在」の分節的自己展開と考えるのであり、シャンカラのように「マーヤーの働きであたかも多者であるかのようにわれわれに見える」のとは違うと井筒氏は指摘する。
イブン・アラビーの本質論は、「本質」非有説と「本質」実在説の中間にあるが、現象的な経験界の事態としては「本質」は真の意味では実在しないとする態度が見られると井筒氏は考えるという。

 もう少しイブン・アラビーの哲学に踏み込んでみよう。
イスラーム文化に内在する神秘主義をスーフィズムと一般的には呼ぶ。全く関係のない二つの潮流である、哲学とスーフィズムが対立と接近を繰り返して、ついに融合し、イスラーム的な哲学が誕生した。
スーフィズムと哲学の融合は、西暦十二世紀後半から十三世紀前半であり、その時期に出現した二人の偉大な思想家が、イランの哲学者スフラワルディーと、上で述べてきたアラビアの哲学者イブン・アラビーであるといわれている。イブン・アラビーはスペインのコルドバで生まれ育ったアラブ人で、後にコルドバを離れ旅をしてシリアのダマスカスで亡くなった。スフラワルディーはイランの人でアラビーと同様にシリアに移り住みアレッポで亡くなったと伝えられている。シリアがイスラーム文化の一大中心地であったことが知られる。井筒氏の著作『超越のことば』(Ⅲ 存在と意識の深層)によると、彼らが生まれる以前からスーフィズムは新プラトン派の哲学の影響を受け独自の理論を成立させていたという。「アリストテレスをプロティノス風に解釈する過程を通じて」、神秘主義としての新プラトン主義と接していたので、イスラーム哲学ははじめから神秘主義に触れていたといえるが、神秘主義と哲学は長い間、敵対関係にあったと井筒氏は解釈する。
 スーフィズムは本来思想ではなく、禁欲修業の道であった。哲学の方は、アリストテレスの哲学が主流であった。イスラーム世界でいうファルサファー(哲学)は、「ギリシア哲学をイスラーム的コンテクストにおいて一神教的な教義、あるいは一神教的信仰に適合したような形で展開したもの」であると井筒氏は述べる。

 イスラーム哲学の発展史を井筒氏の『超越のことば』から要約すると次のようになる。
第一期――十一世紀から十二世紀
 イブン・スィーナー(イランの哲学者、西洋ではアヴィセンナという名で知られた)と、イブン・ルシド(アラビアの哲学者、西洋ではアヴェロイスという名で知られた)がいる。イスラーム哲学はアリストテレスの著作をギリシア語からアラビア語に翻訳する作業から始まったといわれているが、アヴィセンナが、新プラトン派の強い影響があると思われるのは、彼のアリストテレス解釈が著しく新プラトン派であったからであり、アヴェロイスから見ればアリストテレスの思想が歪曲されてイスラームに取り入れられた責任はアヴィセンナにあると考えたであろうと井筒氏は指摘する。
アヴィセンナのスーフィズム的傾向に比べて、徹底的にアリストテレス主義者であったアヴェロイスは、スーフィズムに真正面から対立することを意識していたと井筒氏はいう。
アヴィロイスの思想はトマス・アクィナスに決定的な影響を与え、その後ローマ教会内部に大きな波紋を投げたと井筒氏はいう。
第二期――十二世紀後半から十三世紀前半
 すでに論じたスフラワルディーとイブン・アラビーである。イブン・アラビーにおいて神秘主義と思弁哲学は融合一体化し、イスラーム神秘哲学の出発点となったと井筒氏はいうが、イスラーム神秘哲学を理解するためには神秘主義そのものを深く理解しなければならであろう。井筒氏によると、神秘主義の特徴としてリアリティーの多層的構造があるという。経験的世界は存在の外側、表側あるいは表層に過ぎず、いくつもの層が垂直的方向に広がっている。存在領域の多層的構造である。下に行くほど暗く、知覚や知性では暗闇に迷い込んでしまうだけだ。このように表層から深層までの全体を現実リアリティーと考えることが神秘主義の初歩的段階であると井筒氏はいう。
 第二の特徴として挙げられるのが、上で見た多層構造に対して、見る人間の意識にも多層構造があるということである。客観的現実の多層と主観的意識の多層には対応関係があるということである。意識と現実、つまり主体と客体を区別することは神秘主義の立場では考えず、主体的世界と客体的世界の存在秩序が区別されるのは、あくまで表層的事象であり、深部に分け入れば区別は薄れ最後はなくなると井筒氏は指摘する。客観的現実と主体的意識が混淆し一体となっていて、力点の置き所によって客体的現実になったり、主体的現実になったりして現われてくると井筒氏はいう。意識の深層が開かれれば現実の深層が開けるということであるが、感覚や知性に基づく認識形態は根強いものであり、修行が必要になる。これが第三の特徴であると井筒氏はいう。意識を日常的状態から観想(瞑想)と呼ばれている状態に導くための特別な修行方法を必要とすると井筒氏は説く。瞑想状態にあるとき、自我意識の消滅、自分という主体の消滅が必要とされる。なぜなら経験的自我は偽りの自我であるからである。自我を消滅させると真の闇が訪れる。神秘主義にとっては、この闇こそが本当の光であり、全存在が全宇宙が煌々と光の海と化する。それが真我、真の主体として自覚される。仏教でいうと無と空にあたると井筒氏は解釈する。
 スーフィズムはシャーマニズムと同様に、意識の深層のイマージュ化が特徴であると井筒は分析する。意識の働きが内面化され深化され、スーフィー自身の言葉で言えば、魂の鏡が磨かれていくにつれ、思いもかけないイマージュが現われてくる。
 「人間を肉体と魂との結合と考え、魂の救済にその宗教性のすべてをかける」というセム的な一神教の形態をイスラームは重要視する。イスラーム哲学の霊魂観とスーフィズムの霊魂観の違いは、前者は魂は人間自我の座であるのに対して、後者は魂は人間の実存を神の自己実現の場、神が自己を現わす場所として自覚させるものであると井筒氏は説く。
 先ほど述べたアヴィセンナは、「われ」の意識を中心にその回りにあらゆる意識の働きが生起し、その全体が霊魂と考えている、つまり霊魂とは自我意識の場であると考えたと井筒氏は解釈する。しかしこのような考えをスーフィズムは否定する。自我の危険性から脱出するためにスーフィズムの修行があると井筒氏はいう。スーフィー的意識構造について井筒氏は『超越のことば』で詳しく分析しているので関心のある方はひも解かれるとよい。
ここでは深層意識のスーフィー的構造と唯識的構造を比較して終えたいと思う。スーフィーズムでは五つの層に分ける。ナフス・アンマーラ、ナフス・ラウワーマ、ナフス・ムトマンナ、ルーフ、シッルと次第に深層に降りていく。それぞれ違った魂がある。仏教の唯識では第一段目に、表層意識の領域に五つの識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)があり、それより深いところに、第二段目に五つの感覚器官を統合する、ものについて思惟する働きのあるところ、その一段下に、つまり第三段目に第七末那識、ここが自我意識であり、その一段下に阿頼耶識という潜在意識の領域がある。整然たる四階層的意識の構造モデルであると井筒氏は解説する。スーフィズムの意識構造モデルは自我意識の消滅の過程として立てられるのに対して、唯識の構造モデルは、煩悩の働きそのものの構造化であると井筒氏はいう。「意識の表層を支配している煩悩の根を、より深くより深くさぐっていくと、その究極の場としての阿頼耶識に到達する。」それは「われわれの迷いの根源的、究極的根源があってそれが暴露されるからこそ、それをさらに悟りに転換させる可能性が成立する」のであり、阿頼耶識の本来の働きを停止し、新しい性質のものに変質させることにより、自我意識が消滅し、自我意識によって引き起こされる存在的妄想も消えうせることになる」と井筒氏は解釈する。スーフィズムでは、最深層に下りていけば自ずと自我意識が消滅するのであり、その絶対無が神の顕現につながっていく。人間的意識の「無」から心的意識の「有」へと転換していくところにスーフィズムの特徴があると井筒氏はいう。
 このスーフィズム的主体の「神的われ」の絶対境地から、人間的理性の次元に降りてきて哲学的に思惟し始めたらどんなことになるかを井筒氏は考察する。哲学的思索へは行かず、スーフィズムに留まって文学の道に分け入る人も多いが、体験を基にして哲学を始める人もいて、その最も偉大な哲学者が先ほど名前を挙げたイブン・アラビーとスフラワルディーであった。
「意識のゼロ・ポイントに忽然と現われる実在のゼロ・ポイント」は、スーフィズムでは「ハック」と呼ばれていて、大乗仏教の「真如」や「空」、禅の「無」と比べることができると井筒氏はいう。イブン・アラビーは「存在」と呼んでいる。「絶対無」としての存在であり、存在者ではない。ハイデッカー的にいえば、「ザイン」であって「ダス・ザイエンデ」ではないと井筒氏は説明する。「存在はそのゼロ・ポイントにおいてのみ真相を開示する」とはいえ、一般の人たちには現象学的形態しか見えないので、そこに見えるものをほんとうにあるものと思い込むが、アラビーは例えば花があるのではなく、存在があるだけだという。つまり「存在的エネルギーがここで花という形に仮に結晶して自己を現わしているとでも言うべき」であり、「絶対無限定な存在(絶対的一者)そのものを頂点において、その自己限定、自己分節の形として存在者の世界が展開する」ということになると井筒氏は解釈する。頂点が存在のゼロ・ポイントでは、絶対の無でありながら、一切の存在者が出てくる究極の源であり、大乗仏教でいう「真空が妙有に切りかわるところ」に該当すると井筒氏はいう。
 存在モデルとしての三角形を考えたとき、三角形の全体を生命的エネルギーとしての「存在」の自己展開の有機的体系と見ることができ、頂点にその「存在」(絶対的一者)を置き、この三角形を二本の底辺で切ると三つの大、中、小の三角形が頂点を共有し重なっているように見える。三角形の頂点をアハドと呼び、小さい三角形の底辺をワーヒドと呼ぶ。アハドを「絶対一者」とすると、ワーヒドは依然として一者ではあるが外的には一者ではあるが、内的にはもう白紙でないような一者、つまりすべての数を可能的に含んだ一であり、イブン・アラビーの哲学的体験では、このワーヒドが「アッラー」に当たると、井筒氏は解釈する。これでわかるように、アラビーはアッラーの上に神以前の状態を置いている。一番上の底辺から次の底辺までの台形の部分をワーヒディーヤと呼び、神の自意識の世界、存在が潜在的に分節されている領域であると井筒氏はいう。さらに下の台形のカスラと呼ばれている領域は多数の世界、神の世界創造の世界である。先に述べたワーヒディーヤの領域は、存在エネルギーが結晶点を見出してはいるがまだ現実に存在する事物ではない、存在元型が現われる領域であり、アラビーはこの存在元型、あるいは神の意識の内的分節を「有無中道の実在」と呼んでいると井筒氏は説く。アラビーが、これらの「有無中道の実在」は固定したものではなく、流動性をもった存在の鋳型、事物の根源的イマージュを生み出すものとして表象していて、「有無中道の実在」という鋳型を通じて、「存在」と呼ばれる永遠不滅の想像エネルギーが、われわれの経験的、現象的世界として実現すると考える、これが「存在一性論」であると井筒氏は解釈する。

 イブン・アラビーの思想は、長い歴史の過程でテクスト解釈上さまざまな哲学的学派を生んだのであるが、上で紹介したのはイブン・アラビーに淵源する「存在一性論」学派の思想であると、井筒氏はいう。アラビーは厖大な量の書物を書き残したが、その難解さから俗人には閉ざされた世界であった。理性的に思想体系を仕上げ、アラビーの秘教的教説に形而上学的構造を与えた、門下のサドルッ・ディーン・クーナウィーがいて、彼はイブン・アラビー派の最高権威となったと井筒氏はいう。


次回第六回につづく copyright 以心社 無断転載禁じます。


連載エセー④井筒俊彦『意識と本質』解読。「不二一元論的ヴェーダーンタ哲学」

2012年07月03日 | 井筒俊彦研究
井筒俊彦『意識と本質』解読。
小林稔


連載/第四回

 前回では、「本質」否定の考えが広く東洋思想の基底にあることがわかった。

『大乗起信論』では、「一切の言説は仮名にして実なく妄念あるのみ」とする。
       井筒氏は、遺作となった『意識の形而上学』でさらに深く追求している。

ナーガールージュナ(龍樹)の中観思想
存在者は実在性がなく、ただ「縁起」という相関関係において存在性を保つ。

禅の考え方
     「本質」抜きの存在分節を実証的に認知しようとする。
     「本質」を喚起するコトバを「本質」抜きで使う。

上記のような事柄を『意識と本質』(岩波文庫)をテクストにして検討した。

今回は、シャンカラの不二一元論的ヴェーダーンタ哲学から始めてみよう。

P26-P29
不二一元論的ヴェーダーンタ哲学
 仏教と同様に「本質」否定から始めて最後にはそれと正反対の結果に辿り着くという不二一元論とはどういう考え方なのか。仏教では形而上学の極点に「空」や「無」が置かれるのに対して、ここではその極点にブラフマン(梵)という最高度にリアルな実在を据えると井筒氏は説明する。現実の世界が分節された「存在」であふれているが、真の姿では決してなく、絶対無分別であるものが私たちの表層意識を通して屈折し、ゆがんで現われた偽りの姿、虚妄の映像であるとする点では、仏教となんら変わることがないという。実際にはないのにあると見えるのは、「名」が意味的に指示する「本質」を妄念し、ものとして立てるからであるという考えまでは仏教の考えとは相違ない。しかし、シャンカラは、絶対無分別の実在者(ブラフマン)が限定された形で現われるから、あるように見えると考える。つまり「我々の経験世界は、我々自身の意識の「忖託」(何かに所属していないものを、所属しているように押し被せること)的働きによって、さまざまに分節されて現われるブラフマンの仮象的形姿にほかならない」という考えであると井筒氏は解釈する。

どこにも分節線のない絶対一者が、分節された形で我々の表層意識に映るのだ。絶対一者が客観的に自己分節するわけではない。
                         『意識と本質』Ⅰ

 私たちが深層意識に下りていき分節された形が払拭されたなら、絶対無分別者の実在者が現われる。深層意識からかんがみれば現実の全ての事物は虚妄に過ぎず、ブラフマンの「名と形」的な歪(ひずみ)であり、ブラフマンの限定的現われである限り、経験的事物にある種の実在性が認められると井筒氏はこの不二一元論を説明する。たいへん解りにくいが、井筒氏は別の角度から言い直している。つまり、「個々別々の事物の個々別々の「本質」は虚妄であるが、そのかわり彼(シャンカラ)はすべての経験的事物に唯一絶対の「本質」を認める」のだろうという。「本質」の無性を追いつめながら、最終的には「形而上学的絶対有」に辿り着く。仏教哲学とこのヴェーダーンタ哲学、終着するところは前者は絶対無分節的無であるのに対して、後者は絶対無分別的有と別れるのである。
井筒氏は『超越のことば』においてさらに詳しく論究している。その中の「Ⅴマーヤー的世界認識」では、「存在世界はひとつの巨大な意味的「幻影」(マーヤー)である」というシャンカラを含めた古典的不二一元論があり、「東洋的主体性のあり方の根源的現成形態」としての「マーヤー的意識の基底構造」を「それ本来の哲学論理的整合性において解明し」、「その思想内容を、東洋的言語哲学の根源形式に関連づけて、読みなおそうとすること」を主題として論述するという。
「マーヤー的主体なるもの」は普遍的な思想であるが、特に東洋では「無常観」として受け留められてきた。世界や存在を虚妄とする感性は情緒的な気分を生み出し、通俗的(俗締的)哲学を生んだ。しかしヴェーダーンタの不二一元論は、「マーヤー哲学」として通俗的哲学に対立すると井筒氏はいう。存在の虚妄性は、意識の段階によって見え方が異なってくるという。事物事象が「自己同一的にそのもの自体」と把握される俗締(通俗)的段階から、「哲学的思索の進展につれて」存在性の基盤を奪われ、「相互相関的」になり「夢幻的性質を帯びてくる」。大乗仏教では最高位に達すると「全存在が空化され無化される」と井筒氏は説明する。不二一元論においても仏教と同様に、俗締から真締(哲学的)への移行を辿るという。しかし仏教と異なるところろは、ヴェーダーンタでは、経験的世界の存在的他者は俗締敵段階においてすでに夢幻化されていること、さらに仏教における「真締的知の極限」では「存在が一挙に空化される」が、ヴェーダーンタでは「真締的知の極限において存在は絶対化され有化される」ということであると井筒氏は説く。それ(有)は俗締的段階で経験する「有」ではない。絶対的否定において覚知される「有」であり、「有性の極」を「ブラフマン」とヴェーダーンタでは呼ぶという。
このようにして井筒氏は不二一元論を解釈していくのだが、これ以上ここで進めることはしない。関心のある人は『超越のことば』を読むことを勧める。『意識と本質』の解読に戻ろう。

仏教哲学では、「本質」はどこまで追っても「無」であり、「現象界の存在者は縁起のみ有」であるが、一方では「一切の存在者に共通する絶対唯一の「本質」という考え方が、東洋哲学の本質一般において、一つの典型的な思惟形態を提示している」と井筒氏は主張する。イスラームのイブン・アラビーの存在一性論もその一つであるという。

(次回第五回につづく) copyright以心社 無断転載を禁じます