ヒーメロス通信


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夏の氾濫、小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年(旧天使舎)以心社刊より

2012年08月29日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年(旧天使舎)以心社刊より


夏の氾濫
小林稔


泡しぶきが砂の要塞に雪崩れて、
洪水のように乗り上げる。
あなたの胸の扉を拓くと海が見えた。
海底ではピアノが物憂い音を鳴らしている。
突如、蒼穹を割ってきんいろの雷霆(らいてい)が落っこちた。
あなたはいない。
潮風はたしかにあなたの在処を教えているのに
ぼくは その謎のもつれた糸がほどけない。
海の青と空の青の彼方から沸き立つ微風が
鳥の羽ばたきのように書物の紙片を繰っている。
きっと あなただ、
息のあなたがぼくの髪をなびかせている。
砂が焼いた足裏を海水が鎮めてくれるけど
親指の震えが止まらない。
真綿のような雲が流れるのを見ていたら
背中から抱えられる気配に振り返って
ぼくの視線は砂の上の自分の影を捕らえた。

      私の領土に臨んだのは君だ。
      私の広げた両の腕の入江が仕掛けた罠に、
      迷い込んだ小鳥のような瞳の粗雑と無垢が君だ。
      君が運んできた若さが、褪せた私の青春をよみがえらせ
      私は躍った。悔やむことが何になる。
      君は肉をひくひくさせ 歓喜の声を洩らしたのだ。

あなたの微笑みに隠された獣の匂いがこわい。
あなたの優しさが ぼくの柔らかい部分に走る刃物だ。

      「さあ、地獄へ行こう」と戯れる私に、
      「うん、いいよ」と君は、はにかみに答えた。
      二人の笑いで視界がちぎれ、白痴の地獄の扉が軋んだ。
      海色に染まった君だから、もう父の家には帰れない。


デルフィー。世界の臍。古代のギリシア人がそう呼んだ聖域。
アポロン神殿の廃墟に立つと風が垂直に身体を吹き抜けた。
涯から来た私はもう一方の涯のアジアに視線を投げた。
私の胸に耳を載せよ。君には聞こえるだろうか。
旅から旅へと駆り立てた私の青春の血の鼓動が。

      知るもんか。あなたの匂いを石鹸で洗い落とせたらいいのに。
      あなたの視線をぼくだけに奪っていられたらいいのに。
      時間が止められるなら、
      波のレースの階段を 石蹴りするみたいに片足で昇ってみせる。

海の微風は君に何を唆(そそのか)したのか。

      父に叛逆(そむ)いたぼくの罰。あなたの汚れた策略。

喰らい合う渇きの肉が精神を妊(はら)ませる莢(さや)なのだ。

(飯を炊き葱を刻む日常の比喩をめくれ。せめぎ苛む肉の欲を解き未明の路上
に立ち、踏み込む街角のざわめきを予感する静かな朝に出立せよ。
偶像をぶち割れ。己の身体から湧き出る力のみを信ぜよ。贋神を攫まされるな。
愛こそ世界の謂い。愛と美の力学を構築せよ。)


海から冷たい微風が寄せている朝、
太陽は大空を赤らめ水面を揺さぶり始めるが、
まだ海底に沈んだままだ。
島は岩肌をあらわに眠っている。

太陽が昇ると 静寂が薄明といっしょに左右の端に追われていく、
物質文明の罠に陥った子供たちから遠く離れて。
彼らが墜ちる地獄はない。神もない。
ついにハルマゲドンが到来する、ことはない。
煙のように現われては消えていく、
甘えながら反抗する猫っかぶりの、おお兄弟たち。
世界は失われていない。
太陽は約束をしたように世界を照らすだろう。

私たちの情愛が世界を拓く千年紀の終わりと始まり、
陶酔と睡りの後で物質は歓喜に打ち震えるだろう。
岩礁が波に目覚めるだろう。

いつも今だ、現在だ。
君が扉を開けると潮があふれ花びらあふれ

死するならば夏。廻(めぐ)り還るならば海。




Copyright 1999 以心社
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夏の扉、小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年刊より

2012年08月04日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年刊より


夏の扉
小林稔

髪を濡らす雨のしずくが背のくぼみに落ち

スニーカーの底も水びたし、

走りぼくの全身のぬくもりで

シャツの胸もとから皮膚の匂いがたちこめたけど

あの道の角のくちなしの花のせいかもしれない。

あなたと離れていると

ぼくを包んであるあなたの気配にたたずみ

聾唖(ろうあ)のように 心の扉を閉ざしてしまうんだ。


    私の部屋の錠をこじあけたのは君だ。

    鉄のように沈んだ私の心の水底に

    突如、光が射したのだ。


いつも時間はあなたの側で流星のように去ってくのに

ぼくは何度この道を辿りなおさなければならないのだろう。

雨水に喰らいついてぬかるんだ泥の道を転がっていたい。


    私は直ちにペンをとろう。

    君は私の足跡の踵に親指を踏んで

    私の持間を辿るだろう。君は私から世界を築いていくだろう。

    私は君の新鮮な朝の地平から幾たびも君と旅立つのだ。



あなたの家が見える。

いまは雲を割って光が屋根に射している。

雨滴が きのうまでのぼくを脱ぎ捨てた。

あなたの胸に走って、あの日の時間をつなげなければ。

友もいらない父母もいらない、あなたの腕さえあれば。


    いつかは君は知るだろう。

    この世のことは泡のように消える比喩なのだ。


    私は花びらをむしり取るように記そう、夢見られた生命を。



愛されているのに哀しみにおかされるのはなぜ。

愛しているのにせつなさに泣きたくなるのはなぜ。

あなたの記憶が ぼくの体に染みて

別れの挨拶が嘘になってしまう。

茜色の空に水の流れが触れて

あなたを納めた棺(ひつぎ)が運ばれていく夢を見た。

あなたの胸でぼくの幼年のころにまどろんでいたい。


    行こう、君の扉を壊して

    肉の震えのままに夢を夢見よ。

    ともに歩む道程で私は朽ちるだろうけれども


    君の足音は私の耳にいつまでも響くのだ。

    いまこそ書き留めなければならない、

    鍵盤を指でなぞるピアニストのように。


あなたの家の扉につづく石段を踏んで行くと

追憶が洪水のようにあふれ

夏の風を吸って ぼくは立ち止まる。

チャイムを鳴らせば 扉の硝子にあなたの影が映るだろう。

それまでは 破れそうな心の糸を思いっきり曳いて。



copyright 1999 以心社
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海よ、小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年刊より

2012年07月30日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』
小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年より

海よ
小林稔

海よ、私の身をどこへ連れ出そうとしているのか。
私が生まれて間もない頃、世界は重油で浸されていた。
今また、私は揺籃の海に漂う流木のようではないか。
君の声が舞い上がる蝶のようで、
いくつもの海原を渡ってくる気がしてならないではないか。

(音を消したテレビの画面で、ビルが崩れ落ちていく。炎が上がり、民家の外
壁が厚紙のように舞い、倒壊した家の人々が泣き叫んでいる。盛った砂山が、
打ちつける波に壊されるように、私の心が霧散する音、を聴き取っていた。見
えていたものが見えなくなる。)

生命が物質に宿るとき何が起こっているのだろう、
と、初めてこんなことぼくらは話したね、と言いながら
きらめいた君の瞳の奥に、
宇宙の塵のような君と私の、危うい結びつきの糸のようなものを私は見たのだが、
それが真実結ばれていたか知れなかった。

真昼の青の海は私の細胞に染み亘る。
岸辺に泡と消える波のように
私の想いが寄せてはまた滅びて寄せる。
やがて時が経ち、私の肉体と君の肉体がばらばらに失せ、
土になり岩になり樹木になるだろう。

私は今日、曲がりくねった道を曲がりくねって
一握りの人と会い、君に遠くから叫んで
いくつもの顔のバリケードに阻まれ、
封印されて今は私も解読できない伝言を君に伝えようとする、

海よ、私の想いをどこへ漂着させようとするのか。
私が見て、聞いて、触れて、味わったこの世界への欲望と断念、
その言葉と意味をどこへ辿り着かせようとするのか。




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終わりと始まりと、小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年6月30日刊より

2012年07月28日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』
小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年刊より


終わりと始まりと
小林稔

波動が周囲に揺れをおびき寄せ、

君を捕らえたときの私の胸を震わせているのに

君はいない。

いったん曳いた潮が記憶の糸を海原に靡かせているのに、

そいつが再び私の胸に満ちてくるから、

重力をなくした私の肉体が不在の君を握りしめている。

外套を脱ぐように輪郭を

与え合ったのだから

一刻も早くこの郷愁に別れを告げなければならない。


君の微笑は蝶のように舞い上がって私の目蓋に消えていく。

失速する未来への想いに胸が引きちぎられ

目覚めると 君の名を呼ぶ。

君は薄闇のどこからか現われるから 私も微笑する。

幻影の君が微笑しているのか、微笑している私が幻影なのか分からなくなる。

でも 目覚めるのを終わりにするわけにはいかない。


踵をくるりと返す君の素足の指先から まっすぐに道が伸びている。

たよりなく静かな足音を響かせ、白い空の境に去っていくだろう。

その道は私の故郷へ続いていて、君が擦れ違うと

私の記憶が一つ一つしおれていく。


君が背を向けた道を私は辿らなければならない。

道端の花が私の足元で咲くと、君の匂いが立ち込めてくる。

かつて君を包んだ私の指が、唇が、眼が、胸が、君のかたちをさぐり直そうとする。


     (昨日のまでのぼくをどこに置いてきてしまったのだろう。)

     (ぼくを呼んでいる声がする。それは道の向こうから聞こえてくる。)

     (あなたは誰?)


いつか君と逢えるときがあるなら、この道の果てではないのだろうか。

白髪の老人が私と道端で擦れ違った。

私には覚えがなかった。

老人はしばらく私を見つめていたが、

やがて私が進む道と正反対の道を歩いていった。



copyright 1999 以心社

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「腸をくわえる少年」・小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年以心社(天使舎)刊行

2012年05月24日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』
小林稔第四詩集『夏の氾濫』以心社(旧天使舎)1999年6月30日刊行

腸をくわえる少年
小林稔


薔薇の飾りのある額縁が 室内の出入り口の扉であった。
踏み込んで向こうの闇に消えてしまう君を 追いかける私は
閉じた硝子戸のまえで 昼の記憶をなくしてしまう。
毎夜 闇に浸される君の部屋を訪れたことはない。

君は蝶を呼んでいるのだろう。
寝台の白いシーツに包まれて眠る君の
吐いた息が闇に満ちているだろう。
シーツから伸びた褐色の四肢を
蝶が付着して 君は幸福な夢を陶酔しているのだろう。
君は衣服を脱ぎ捨ててもダンスシューズを履いていると仮定する。
跳躍自由自在。
片足を額につくまで上げている君を写す鏡のまえで踊っているのだろう。
あまりにも突然に倒れる夢を君は見ているのだろう。

(海辺をぼくは走っている。)
(太陽光線が ぼくをさらってしまいそうなくらいきつい。)
(空は青く海は青くぼくの体も青い。)
(あなたの眼差しから逃げられないからぼくは必死で走るのだ。)
(昼の裏側に辿り着きそうになるまで。)

腕が不安定な曲線を作って ほころびたTシャツを胸にまとわせ、
古着の綿パンに脚を通させると
君の斜め頭上から鈍い稲妻が洩れる。
右腕を水平に上げ指に挟んでいるのは腸=蝶だ。
コレクションの人体模型から剥ぎ取った。
君が全身の筋肉を張りつめるとベルトが外れ
ズボンが腰までずり落ちるので
折れた槍のようにペニスが垂れてしまうのであった。

三人の君が闇のなかで絡み合っている。
蛇のように密着して接吻するAとB。
CがAとBを背中から交互に抱くと
いつのまにかAとC、BとCは入れかわる。
愛し合い一つに溶けた君は蝶をくわえる少年の姿を硝子に写して
額縁を跨ぎ 蛍光色を浴びようと街を彷徨うから、
私のコードレスが君の受話器のベルを鳴らしても
君の部屋の闇を白けさせてしまうのだ。


★題名を金子国義氏の画題から拝借した。