ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「群れのなかで彼より美しい者はいなかった」小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年刊行(以心社)より

2012年05月22日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』
小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社刊1999年6月30日

 1994年、一人の若者との宿命的と感じられる出遭いがあり、意思を砕かれたことから始まる。(後記より)


群れのなかで彼より美しい者はいなかった
小林稔

E駅の改札を出て 左手のコンクリートの柱に
身長165センチメートルを凭れてタバコをくわえている君を
私の瞳がとらえたのは
二十年前 君が私の住む町の程近くで
この世に命を授かってからの初めての一瞬である。

おとなびた仕草は それだけで
上着を脱ぎ捨てたばかりの少年の抜け殻を想起させて
君の短い髪は風になびいているように後ろに流れ 前髪も流される
君の光る黒い 微笑んでいる瞳は
私の心臓を一撃する銀製の針であった。
汚れたTシャツと芥子(からし)色の綿パンと濃灰色のブーツが
青年と命名するには どこかしら幼い
君の肉体を隠蔽(いんぺい)している。

十六歳の君を飾ったであろう男たちの
安ピカの宝石にうずもれて
君はことさら磨かれていったようだが、
それは君が見捨てた男たちの風の伝言に過ぎない。
父と別れ兄の事故死にあった君と
こうしてめぐり逢った。

放されたと思った私が放そうとしたとき
真夜中に君はカーを跳ばして私の家に乗り捨てた。
愛することに倦み疲れていた
私の止まり木に 突然に舞い降りた青春。
弟と呼ぶにはあまりにも若すぎる君は
私の人差し指に君の親指を絡めた一つの夜を
忘れ物でするように残して去っていった。

スクランブル交差点を未踏の未来が走り渡る。
私の胸の鼓動が君の鼓動に重なり脈打ち
私の胸に君の血液は流れ出すので
群れのなかで君より美しい者はいない。
路上で私の見上げるあの空のなんという青さよ。
空は私の心を曇りなく写す鏡面なのだろうか?


                      
              ★題名を金子国義氏の画題から拝借した。

オベリスク  小林稔第四詩集『夏の氾濫』から

2012年03月09日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

オベリスク  
小林稔

すっぽりえぐられた私の胸の入江に夕陽が落ち
魂をかすめていった君の幻影がたゆたって
いくつもの帆船を浮かべてみたが無残であった。
海水にもつれあった神経の糸が見え隠れして
私を海上の道に連れ出さない。
その一本が君の心臓に弱電を送りつづけている。
可能な限り遠くへ旅立つ君の瞳に 砕けた私の破片が見えているのだろうか。

教会でモーツアルトのレクイエムを聴く。
垂れ込めた鉛色の空のした
ふたりの脳髄を声が昇りつめるが、
サンミシェル広場に向けてサンジェルマン通りを急がなければならない。
カルチュラタンの路地を散策し
リュクサンブル公園に行くと 噴水のある泉に舟を浮かべている男の子がいる。
サンミッシェル通りを外れまで歩くと
地下鉄ポートロワイアル駅の近くに昔泊まった安ホテルがある。
水晶のようにきらめいている君の瞳に私の心は弾む。
コンコルド広場のオベリスクに辿り着こうと
交差点に立つ君と私が見えるが、
いつのまにか君は梅田の陸橋を渡って人混みにのまれ消えてしまった。

  空までつづいた坂道をぼくは歩いて行くんだ。
  粉々になった兄を拾いに、
  記憶を火で焚きながら、かつて喜び勇んだぼくが、
  今は不安でぼろぼろになった身体を引きずり
  坂の反対の斜面を登ってくる男に逢いに行くんだ。

初めって逢った日の君の微笑む顔がいくども私に向けられ
向けられるたびに優しく、向けられるたびに強く
私の心に烏口が引かれるので痛い痛い。
君に逢うまでの私の過去は消えてしまった。
たぐり寄せる糸がどんな時の流れに漂うのか。
砕けた夕陽が水面に揺れている。

いっそ夕陽になって揺れてみようか。
  
             小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年6月30日発行より。


小林稔第4詩集『夏の氾濫』1999年以心社刊(旧・天使舎)からの一編を紹介

2011年12月27日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』
小林稔第4詩集『夏の氾濫』1999年以心社(旧・天使舎)残部僅少1800円からの一編。

鳥少年
   小林稔

雲塊が落ちそうな空を見つめる君の瞳に稲妻走り、
愛されることの恐れに胸がひくひく傷むジギタリスの花陰。
雲の切れ目に青空が見えた。
遠方には街のざわめきと太陽の射す家々の屋根。
ずいぶん待たされた夢が 教室の黒板に赤いチョークを曳くように
逸る心を私は抑えられぬ。

      きのうまでは見知らぬあなたが、
      ぼくを讃える眼差しに、いまはどうして応えられよう。
      ぼくのあなたへの想いが追い越されるのはつらい。

私には聞こえる、漆黒の闇で喉を絞め叫んでいる声が。
受話器のコードから私の耳朶を震わせる。
苦しみにあえぐ声か、それとも悦びに打ち震える絶頂の声か。
だが、彼方の闇から私の寝室の闇へ投げられたその声が
私を叫んでいるとは限るまい。

      優しさに弱いぼくなのに見つめられると脚がすくんでしまうんだ。
      あなたの眼差しは ぼくを針金で幾重にも戒めるから、
      あなたから遠く離れて あの雲のように風に流れに身を任せていたい。

片翼を広げ一枚一枚の羽の付け根をついばむ嘴。
満月が君の軀の輪郭を描いて痺れが脊髄に奔ると、横腹から皮膚を剥がし銜えた。
肋骨の下の臓腑は月の光にさらされて、しめやかに虹色に輝いた。
私の眼差しから逃れたと想った君の秘め事を
鍵穴の向こうの私の眼が捕えたのだ。

      あなたから離れていると 春の微風にさえ心が揺れて
      支えをなくした樹のように倒れるから、
      カーを走らせて 夕暮れの街を鳥のように飛ぶんだ。

さあ、おいでいとしい者よ。
天の極みに昇りつめ、一気に転げ墜ちている私の胸に全速力で飛んできなさい。
限りある命は終りになるにつれて加速する。
抱えられた君のしなやかな胸に私は旅路で摘んだ果実を与えよう。
息絶えた私を君の翼で連れて行っておくれ。

      いくつもの朝がぼくを道端に捨てて行った。
      背中に掌を充てると翼はもぎ捕られていた。
      あなたを求めた時間も微睡(まどろ)み消えてしまうんだ。

昔日の私をいとおしむように 私は追憶の沼の縁を彷徨う。
すべては一冊の白いページに綴られた書物。
かつての想いだけが残って 鳥の囀りは私の脳裡を去った。


   アンジェリック
  
  両翼を広げた食卓の上の、かつての栄光を鈍い光にとどめた銀のナイフ
  のために室内は暗く、真鍮の花飾り、モロッコ製の陶器の花瓶、銹色の
  錫の器が置かれ、闇との輪郭を光が眠るように奔っている。鏡を嵌めた
  大きな額が項垂れ、花瓶からこぼれる薄桃色と緋色の薔薇を蔽うように
  映している。夏の気怠さを匿した液状の花びらのため(その向こうに主
  人のいない椅子がある)水銀を遊泳する夜へぼくたちは旅立つ用意があ
  る。片隅の戸棚で珈琲挽きが、とうに亡くなった女性歌手の唄を奏でる
  さなか写真立ての微笑する男の子二人が野原で遊んでいる。開いた扉の
  後で火の粉が舞っている。青磁の水滴とヒスパニアの絵皿が、オルガン
  の反響するマントルピースの燠火に照らされ(ガニュメデをさらったゼ
ウスのようにではなく)次第に傾斜を強めていく鏡は、ぼくたちが闖入
を了えた背後でゆっくり倒れ、食卓のものたちを崩した。青い蛍光色を
放つ銀の玉が数珠繋ぎになった道をぼくたちは歩いていくだろう。天井
に吊った蝋燭のシャンデリアが降下すると食卓を焔で満たした。爆音が
室内に反響し鳴り止まず、ぼくたちの笑い声に交じり合った。


ISBN978‐4‐9906200‐2‐8C0092 \1800
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