ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

夏の扉、小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年刊より

2012年08月04日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

小林稔第四詩集『夏の氾濫』(旧天使舎)以心社1999年刊より


夏の扉
小林稔

髪を濡らす雨のしずくが背のくぼみに落ち

スニーカーの底も水びたし、

走りぼくの全身のぬくもりで

シャツの胸もとから皮膚の匂いがたちこめたけど

あの道の角のくちなしの花のせいかもしれない。

あなたと離れていると

ぼくを包んであるあなたの気配にたたずみ

聾唖(ろうあ)のように 心の扉を閉ざしてしまうんだ。


    私の部屋の錠をこじあけたのは君だ。

    鉄のように沈んだ私の心の水底に

    突如、光が射したのだ。


いつも時間はあなたの側で流星のように去ってくのに

ぼくは何度この道を辿りなおさなければならないのだろう。

雨水に喰らいついてぬかるんだ泥の道を転がっていたい。


    私は直ちにペンをとろう。

    君は私の足跡の踵に親指を踏んで

    私の持間を辿るだろう。君は私から世界を築いていくだろう。

    私は君の新鮮な朝の地平から幾たびも君と旅立つのだ。



あなたの家が見える。

いまは雲を割って光が屋根に射している。

雨滴が きのうまでのぼくを脱ぎ捨てた。

あなたの胸に走って、あの日の時間をつなげなければ。

友もいらない父母もいらない、あなたの腕さえあれば。


    いつかは君は知るだろう。

    この世のことは泡のように消える比喩なのだ。


    私は花びらをむしり取るように記そう、夢見られた生命を。



愛されているのに哀しみにおかされるのはなぜ。

愛しているのにせつなさに泣きたくなるのはなぜ。

あなたの記憶が ぼくの体に染みて

別れの挨拶が嘘になってしまう。

茜色の空に水の流れが触れて

あなたを納めた棺(ひつぎ)が運ばれていく夢を見た。

あなたの胸でぼくの幼年のころにまどろんでいたい。


    行こう、君の扉を壊して

    肉の震えのままに夢を夢見よ。

    ともに歩む道程で私は朽ちるだろうけれども


    君の足音は私の耳にいつまでも響くのだ。

    いまこそ書き留めなければならない、

    鍵盤を指でなぞるピアニストのように。


あなたの家の扉につづく石段を踏んで行くと

追憶が洪水のようにあふれ

夏の風を吸って ぼくは立ち止まる。

チャイムを鳴らせば 扉の硝子にあなたの影が映るだろう。

それまでは 破れそうな心の糸を思いっきり曳いて。



copyright 1999 以心社
無断転載禁じます。


コメントを投稿