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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

演奏会、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年刊より

2012年07月21日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

演奏会
小林稔


 会場は静まり返った。ときおり 咳をする声があちらこち

らで響いた。彼は鍵盤に落とした視線を上げ 背筋を伸ばし

た。真っ暗闇の中で、観客は息を呑んだ。

 左手の五指が 小指から鍵盤の上を這っていく。六連符が

波のように 満ちては曳いていった。ショパンのノクターン

害七番嬰ハ短調、作品二十七の一。左手の序奏が少しずつ波

のように高まり、波に浮上して 右手の人差し指、中指が 

もの憂い旋律を打ち始めた。

 主題が見え隠れするが、泡のように低音部の闇の中に消え

ていく。左手が低い三連符の音を 小さく刻み 繰り返す。

同時に 右手の重音が ゆっくりと大きな波と共に 悲壮な

高まりを見せて 激しさを増していく。

 右手の波のリズムが 変化をもたらしながらも、孤独な想

いを抱えこんで 嵐のように荒れ狂った。

 空が引き裂かれる。暗雲が裁ち切られ 青空が覗く、次の

劇的展開を予測していたとき、鍵盤を走り回る十指が あま

りにも突然停止した。

 沈黙の瞬間が訪れた。永遠にも似た一瞬であった。すぐに

弾き出せばいいのだ。かなしいかな 彼の腕から力が消えて

いた。許されるなら 鍵盤の上に 半身をうなだれてしまい

たかった。彼の体重で ハンマーで叩いたような不協和音を

会場いっぱいに響かせただろう。

 楽譜は頭上から消え失せ、指は彼に従うかのように 配列

を忘れていた。

 彼は このまま何時間でも、ピアノの前に座っていたかっ

た。だが、彼を裏切った指は 鍵盤を左から右へと走り抜け

た。青空が絶望の淵に かいま見えた。待望の勝利の歌が鳴

り響いたと想うつかの間、半音階の階段を 左手が最強音で

転げ落ちていく。再び 夜の静かな波が 鏡に映されたよう

に、寄せては曳いていく。三度の和音が 失意を優しく包み

込んで、終盤に水を注いでいった。

 演奏会は終わった。会場は深い闇の中で息をつめた。彼の

踵を波が寄せ来るようであった。


Copyright2012 以心社 無断転載禁じます。

ガラスの道、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月20日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

ガラスの道
小林稔


 粉粉に打ち砕かれ 散乱したガラスの舗道を、素足で歩い

ている。うつむく額に 朝の光が射して、利之は人ひとりい

ないビルディングの谷間をひたすら歩いた。

 羽撃(はばた)きの音が足元で発ち上がった。鳩が飛び立

ったのか、と顔を起こして見たが 思い違いで、記憶を何か

がよぎっていったのだ。踏みしめるガラスの音と 血の破線

だけが、彼の証であるかのようだ。とりわけ悲惨を育ててい

るわけではない。汚れていない画布を水で洗うように、群れ

から離れたこの子羊は、歩いていると 頭の中が透けてくる

ような気がするのだ。

「今日は、ぼくは十四歳になったんだ。希望なんていったっ

てさ、ぼくには力がないから」

 そんな思いに気を取られていたら、左足の踵に挟まったガ

ラスの板が 舗道を滑って、利之は転んだ。ガラスの割れる

音が周囲に響くと、利之の耳元にも共鳴した。

だから、やなんだ。もう考えるのはよそう」

 膝小僧を抱えていたが、力が抜けて、静かに両腕を伸ばし

指は耳元で広げられた。利之の体の輪郭が、朝の光で消えて

いきそうな気配。

「時間だ。時間が来たんだ。時間がぼくを追いかけている」

 靴音がいくつもやって来て、舗道に光るガラスの破片を震

わせている。よろけるようにして立つと、ガラスが背中から

胸に突き刺さっていた。傷みは微塵もない。肩をすぼめては

足跡の真ん中に 滴り落ちる血の破線を引きながら歩いた。

 ガラスのかけらが 風に揺すられ 触れて鳴っている。

 なんという静けさだろう。どうしたことか、舗道に姿を見

せていた人と自動車が、石膏の模型になっていた。

 どこまでも続くガラスの散らばった道の向こうから、フラ

ッシュの洪水が迫った。

 やさしいソプラノのアリアが降ってくる超高層四十七階の

窓窓。四つ角のポリバケツから溢れた残飯。廃品回収の罎。

公衆トイレの便器。風俗営業の看板。踏まれ 舗道にこびり

ついた新聞紙。物たちの眼差しが、静かな動きを止めた彼に

狙(ねら)いを定めていた。



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鏡、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月18日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より



小林稔



 肩から提げていた黒の縁取りの 白い布製のカバンを座敷

に放り投げたが、祐一はカバンを見つめて 少しとまどいを

感じた。

 母は台所にいる。俎(まないた)を打つ包丁の音がしてい

たが、急にとだえた。

「ゆうちゃん、帰ったの?」

 祐一は その言葉に引きずられ、半開きの扉の向こうで背

中を見せている母親を 盗み見した。友達と会う約束を破ろ

うとしている自分に苦笑しながら 階段を音立てて上がって

いった。

(ぼくはいつも一人で部屋にいるんだ。勉強なんかするわけ

でもないのに)

 唇を真一文字に結んでみたが すぐに眉がゆるんでしまう。

机の引き出しから鏡を取り出し、手のひらにのせた。顔を斜

めに構え、そっと鏡を覗いた。うしろめたい気持ちがした。

 伸びすぎた坊主頭のてっぺんは 寝癖がついて毛が立って

いる。そこを指で押した。鏡の視線と合わないようにして、

鏡を裏返そうとしたとき、鏡の眼が祐一を捕らえてしまった。

 少年を見逃すまいと、大きく瞠(みひら)いた眼は手のひ

らの中で ジリジリと迫る。

(これはぼくの眼だ。だってそうじゃないか。おかしいじゃ

ないか)

 何度も自分に言い聞かせた。鏡の中の大人びた眼は 彼の

言葉を翻(ひるがえ)した。鏡を持つ手は硬直し、心臓はわ

なわなと震えた。もう見続けることはできない。魔法にかか

ったように、祐一は視線を逸(そ)らすこともできなかった。

(がんばるんだ。もう少しだ)

 そういう声が 頭の奥から聞こえた。知らないうちに 祐

一はその声に自分の声を重ねていた。声は次第に高まり い

く人もの合唱になった。そして突然 やんだ。

(もう少しだ。もう少しで、ぼくは君になるんだ)

 祐一は思わず 大声で叫んだ。それは自信に満ちた声だっ

た。頬を涙が伝って、すぐに祐一の顔に微笑みが帰ってきた。

 鏡の中にも同じ微笑みがあった。

親指、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月17日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より


親指
小林稔



「おれの家に遊びにこいよ」

 ぼくはその言葉に、脅迫に近いものを感じたので、いやと

は言えず うなずいた。以前、母に連れられて 診察室のド

アを押したことがある。そこは高宏の家だった。父親は ず

いぶん前になくなっていて、母親が医者をしていた。

 隆宏と遊んだことは ほとんどなかった。性格がまるっき

り反対で、隆宏は 川向こうの学校の番長と喧嘩しに行くガ

キ大将であった。

「ごめんください」

 消毒液の臭いがした。隆宏の母親が白衣で姿を見せた。ぼ

くのすました顔を見るなり、吹き出しそうになった。彼女の

あとについて 奥の部屋に行くと、畳の部屋の真ん中の掘り

炬燵に座っている隆宏がいた。学校で見る彼とは ずいぶん

様子が違って ほっとした。隆宏は炬燵から抜け出し、かく

れんぼしようと言った。ぼくが鬼になり 柱に額をつけ目を

つむった。一、二、三。ぼくは数え始めた。隆宏の声がしな

くなった。振り向いて、廊下に出た。廊下は長く続いていて

静まり返っていた。

 呼んだが返事がない。ドアの把手(とって)が左と右に並

んでいる。ガタン、という音がした。三つ目の把手をそっと

握ったとき内側から勢いよく 体ごと引っ張られた。真っ暗

だった。ドアが閉まった。だれかがいる。闇に手を差し伸べ

た。

「タカヒロくん、開けて!」

 笑い声が聞こえた。隆宏の笑い声だ。ぼくは安堵を覚えて、

泣き出しそうになった。

 炬燵のあった部屋に戻ると、隆宏は押し入れから布団を引

き出し、体を巻きつけながら倒れた。

「もう、死んじゃったよ」と隆宏は言った。

 ぼくが力一杯、布団を持ち上げると ちぢんだ隆宏が 畳

に転がった。ぼくは四つんばいになって跳びのった。隆宏の

シャツを胸元までめくったとき、おなかが膨らんだ。唇をつ

けるとおはじきのような おへそが持ち上がって、ぼくの舌

に絡まった。右足の親指を噛んだら、隆宏の眉がゆがんだ。


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魔物のように、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月15日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月より


魔物のように



    母親フミエが、浴室のガラス戸のすきまから 息子の裸体

を見てしまったのは、着替えを運んだときのことであった。
 
蜘蛛のように伸びた四肢には ぞっとするものがあった。

まぎれもなく私の産み落とした息子であったが、一個の生き

物が動き回っていることに 喜びを感じ、服従させてきたこ

とに 満足さえも感じてきた、とフミエは思った。

 ほとんど口をきくこともなくなったが、母親の意のままに

行為する息子ミサオの、男の姿態を見てしまったフミエには、


十四年間育んできた愛情が、忌まわしい嫌悪に刺し違えられ

る瞬間でもあった。

 水を得た魚のように、母親の手のひらに踊らされるからく

り人形でしかなかったが、それだけに、いつか私を逆襲する

不吉な生き物が 確実に育ちつつある、という思いに、フミ

エは恐怖するのであった。家庭教師に息子を預けたのも、そ

んな憶測からであった。

(ママ、ぼくには お兄さんがいたのですね。あなたはぼく

に隠していたけれど、ずいぶん前から知っていました。生ま

れてすぐに死んでしまったのですね。しかし、ぼくのそばで

息をしています。横になるとぼくの耳に息を吹きかけてくれ

ます。気持ちよくなって眠りに落ちます。ぼくをこんなすて

きな場所からさらっていく時間が憎いのです)

 フミエは夢から覚めた。息子の声が枕の上を浮遊している

ような錯覚に捕らえられた。

なぜか落ち着かない気持ちになり、起き上がって階段を降

りていった。天窓から月の光が洩れていた。息子の部屋の扉

の前に立ち、跪いて鍵穴に目を当てた。驚いたフミエは 叫

び声を上げそうになったが、声を殺し、息を飲み込んだ。
 
寝台の脚に蛇が絡んでいる。微笑みを浮かべて眠る息子の

傍らに、男の影が、ぴったりと貼りついていた。