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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「つのぶえ学習塾」小林稔詩集『白蛇』掲載より

2015年12月14日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より


つのぶえ学習塾
小林稔


 鶏の鳴き声と羽音が聞こえたので、もうすぐだな、とアキ

オは思った。

 農家が左右にまばらに建っている細い道。

 アキオの家と一キロメートルと離れていないのに、ずいぶ

ん遠くへ来てしまったように思う。そこは養鶏場も経営する

幼稚園。夕方、中学生を教える塾に、と園長は考えた。

 道の真向かいに教室があった。アキオは急いでブレーキを

引いた。砂利にタイヤを取られ自転車は傾いた。その場にア

キオは手をついて倒れてしまった。

 初めてはめた鎖の腕時計のバンドに血が少しついていた。

左の手首に、ひりひりと痛みが走った。

 このまま帰っちゃおうかな、とアキオは思った。とにかく、

道に散らばった教科書とノートを拾わなければならない。

 アキオはちょっと顔を上げた。

 鶏舎の方から 女の人がやって来るのが見えた。屋根に落

ちた夕陽が、その人の着ている木綿の衣服に注いで 薄紫色

に染めていた。

「アキオくんね。先生が教室で待っています」

 その人はアキオをしばらく見ていたが、また歩き出し ア

キオの近くに来て言った。

「そんな細い腕では、折れてしまうわ」

 女の人はアキオの腕をそっと持ち上げた。背が高く、瞳が

薄い青色をしている。園長の奥さんだろうと思った。

 アキオの手首の傷口から血が滲み出ている。

 きれいな人だ、とアキオは思った。大人の女性を感じたの

は 初めてのことであった。

 アキオはさっきから 一言も言葉を発していなかった。そ

の人は消毒液をアキオの傷口に浸し、包帯を巻いた。

 消毒液が傷口にしみていたが、その女性の優しさに包み込

まれ、アキオは幼子(おさなご)のように立っていた。




copyright 1998 以心社 無断転載禁じます。


つのぶえ学習塾、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年刊より

2012年07月31日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より


つのぶえ学習塾
小林稔


 鶏の鳴き声と羽音が聞こえたので、もうすぐだな、とアキ

オは思った。

 農家が左右にまばらに建っている細い道。

 アキオの家と一キロメートルと離れていないのに、ずいぶ

ん遠くへ来てしまったように思う。そこは養鶏場も経営する

幼稚園。夕方、中学生を教える塾に、と園長は考えた。

 道の真向かいに教室があった。アキオは急いでブレーキを

引いた。砂利にタイヤを取られ自転車は傾いた。その場にア

キオは手をついて倒れてしまった。

 初めてはめた鎖の腕時計のバンドに血が少しついていた。

左の手首に、ひりひりと痛みが走った。

 このまま帰っちゃおうかな、とアキオは思った。とにかく、

道に散らばった教科書とノートを拾わなければならない。

 アキオはちょっと顔を上げた。

 鶏舎の方から 女の人がやって来るのが見えた。屋根に落

ちた夕陽が、その人の着ている木綿の衣服に注いで 薄紫色

に染めていた。

「アキオくんね。先生が教室で待っています」

 その人はアキオをしばらく見ていたが、また歩き出し ア

キオの近くに来て言った。

「そんな細い腕では、折れてしまうわ」

 女の人はアキオの腕をそっと持ち上げた。背が高く、瞳が

薄い青色をしている。園長の奥さんだろうと思った。

 アキオの手首の傷口から血が滲み出ている。

 きれいな人だ、とアキオは思った。大人の女性を感じたの

は 初めてのことであった。

 アキオはさっきから 一言も言葉を発していなかった。そ

の人は消毒液をアキオの傷口に浸し、包帯を巻いた。

 消毒液が傷口にしみていたが、その女性の優しさに包み込

まれ、アキオは幼子(おさなご)のように立っていた。




copyright 1998 以心社 無断転載禁じます。

遊戯、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月28日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

遊戯
小林稔


「きたねんだよ」

 少年の怒声(どせい)が飛んで、寝室の壁に 亮一はブチあ

たった。天井の照明が揺れている。

 亮一は 少年にされるがままだった。抵抗はなかった。

「このやろう」と叫んで、少年は亮一の首につかみかかった。

至近距離で 少年の瞳を凝視した。少年の手が緩んだら少年は

の唇が 亮一のそれに、かすかに触れた。あわてて壁に張り付

いた亮一の体から視線を逸らし リビングに駆け込んだ。

 少年の笑い声がする。テレビの音量が増す。亮一は脱ぎ捨て

てあったズボンとシャツを拾い、ゆっくりと身にまとった。自

分の首に指先を触れてみた。熱かった。知らずに少年の息づか

いを 真似ていた。涙が線を引いて足の指に 落ちた。

 亮一がリビングに現れると、カーテンを降ろした暗闇の中で

ソファーから身をのり出して テレビに釘付けになっていたい

る少年がいた。画面から溢れる光が、少年の目鼻立ちを稲妻を

走らせたように映し出した。亮一は肩を並べた。

 許してくれ。亮一は心の中で叫んだ。裸の膝小僧を握ってい

る少年の手の指が 小刻みに震えている。

 亮一が少年を見つめて笑ったのは不覚であった。少年は視線

を乱した。消し忘れた浴室の明かりが廊下を照らしていた。

 少年は歩いていって蛇口をひねり、指を水に浸して、唇を何

度もぬぐった。

「もう、おれ帰るから」

 少年は昨日と同じ言葉を棒読みする。


 亮一は寝室のワードローブから学生服を引き抜いて、少年に

着せ替える。ズボンに少年の脚を通すため曲げると、ギーとい

う音がする。腕を袖に差し込む度に、少年の前髪が亮一の顔に

触れた。ベルトを締めつけると 少年の上体が浮いて亮一の胸

にバタンと倒れた。

 少年はゲームを終えたように体を起こし、うつむいたまま笑

みを浮かべて すたすたと帰っていった。扉の閉まる音が部屋

中に響いた。





Copyright 1998 以心社 無断転用を禁じます。

鏡の中の海、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月26日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

鏡の中の海
小林稔


 砂にタイヤを取られ 傾いた自転車を降り、倒れかかる自

転車を 両手でハンドルに力を込めて起こした。

 海辺には 赤や黄色の人の群れが犇(ひしめ)いている。

私は素足になり歩いて行った。

 遠くには 島と見間違えるほど大きな旅客船が 浮かんで

いる。沖に視線を向けていた私の踝(くるぶし)に 冷たい

感触があった。ボールが私の足元から飛んで行き、私の肩を

掠めて海に飛び込んでいく少年がいた。どこからボールは来

たのだろうと振り返ると、もう一人の少年がいた。

 私は はっとして眼を疑った。海に向かった少年と、私の

うしろに立っている少年は、同じ顔、姿かたちをしているで

はないか。短く刈られた頭髪が 海水に濡れ光っている。日

焼けした顔に 羞(はじ)らいの表情を浮かべ、肩甲骨をく

っきりと現わし、背中を見せて 波打ち際を二人は走った。

 おそらく双生児であろう、一人が ボールを海に目がけて

蹴ると、もう一人の少年が」泳いで跳びつき 投げ返した。

 二人は砂浜に上がって向かい合った。鏡に映し出された二

つの像のように思われた。照りつける太陽の下、少年の背中

で、真っ青な海が波しぶきを浴びている。私は羨望(ぜんぼ

う)と嫉妬(しっと)の念に駆られ、胸が張り裂けそうに感

じていた。私の視線が二人の少年の肌を刺したのか、はたま

た偶然にか、少年は視線を投げ返したのである。私は怖れに

も似た不思議な想いで受け留めたが、どこにも返しようがな

かった。私は潮風にあおられ、少年たちから遠ざかった。あ

の少年の 振り向いて投げられた眼差しは、脳裏に 幾度と

なく反芻(はんすう)された。かつて見たと想われた、記憶

の中の眼差しに相違なかった。

 砕け散る波しぶきで白く霞んだ海岸線を、私はどこまでも

歩いた。胸に宿った空虚の念は埋めようがなく、さらに広が

っていった。




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射的場、小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

2012年07月25日 | 小林稔第3詩集『白蛇』
小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

射的場
小林稔

 アキオの歩いていく方向に逆らって 中学生の一団が通り

過ぎた。そのとき、横を歩いていた友達がいないことに気が

ついた。遠くまで視線をやったが、見つからない。ジェット

コースターから喚声が上った。

 遊園地に来たのは初めてだった。いくつもの顔から 友達

の顔を探そうと 背伸びして見回した。人の流れが壁のよう

に立ちはだかり、何重にもアキオを取り巻いているように思

えてくる。瞳が潤んできた。こんなところで友達の名前を呼

ぶわけにはいかないだろう。

 人の流れが切れると すきまができる。アキオはそこに身

を置き、何度か繰り返しているうちに もといた場所からは

ずいぶん離れてしまっていた。入口さえ辿れない、と思うと

不安が増してきて 次第に伏し目がちになっていた。

 そのとき、人に流れの切れ目に 異様なものの気配を嗅(か)

いだ。まさか、と思って今度は瞳を瞠(みひら)いたが、もう

疑いはなかった。それはアキオの動きを追う銃口であった。

眼球を抜かれたような銃口が 執拗にアキオを捕らえて離さ

ない。全身が凍てついたように感じた。通行人の背中に隠れ、

またすぐに現われ、銃口がアキオに向けられていた。

 アキオのうしろでコルクを抜き取ったような音がして跳び

上った。そのあと続けて二回鳴った。

 銃口は狙いを逸らした。中学生が銃を肩から降ろして 背

中を見せ 群衆の背中に消された。アキオは群衆の壁に分け

入った。射的場だったのだ。棚に景品が並んでいた。さっき

の中学生が ゲームウオッチを倒すと、見ている子供たちか

ら驚きの声が湧き上がった。アキオは恐怖から放たれ、脱力

感を感じて立ちつくしたまま、コルク玉の行方を眼で追って

いた。

 息が止まるような恐ろしさを 身を持ってしたアキオは、

もう以前の自分に戻れない、と思った。


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