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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「アンドロギュヌス」 小林稔詩集『白蛇』より掲載

2015年12月30日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
アンドロギュヌス

          梨の果実を想わせる色と窪み。薄く皮を剥いだら 血が滲

         み出るだろう。十四歳の誕生日を迎えたころから 啓之は自

         分の軀の変調に気づき始めた。サッカーのボールを蹴り上げ

         ていると不安は消える。このまま雨に打たれ、泥だらけにな

         って校庭を転げ回りたい。彼の飼っている犬のシロのように。
        
         
          深夜、快い痺れが 脳天から足の指先に走った。啓之は

         毛穴を刺す針の痛みに目を覚ました。軀を突き抜けた痙攣を、

         もう一度、記憶の中で甦らせた。隣の部屋で空缶を床に落と

         した音がした。机上に開かれたままの数学の教科書。スタン

         ドの豆電球が 彼の脱いだ学生服を 闇の中に浮かび上がら

         せていた。

          午前四時。啓之は 魚のように身をくねらせて射精した。

         初めて襲った言い知れぬ虚脱感に怯えた。彼を囲むガラスの

         容器に 無数の罅(ひび)が走った。母親は息子が見えなく

         なり、息子は旅仕度を始めるだろう。だが、時間はゆっくり

         としか回らない。CDデッキ、ビデオ、ビデオテープ、ずら

         っと並んだ参考書。天井を凝視した。弟と遊ばなくなって、

         ずいぶん時が経つ。わけもなく心が昂(たか)ぶる。壁を叩

         いた。すぐあとで少女のように うなだれ首を落とした。う

         しろからそっと抱かれたら 崩れてしまいそうだ、と啓之は

         思った。そんな自分の弱さに腹が立つ。窓を開けると、冷気

         が頬の皮膚をかすめて部屋の闇を顫(ふる)わせて消えた。

         月が射し込んでいた。アンドメダ星雲から〈使い〉がやって

         くるような気がする。一輪の白い百合が少女の姿を纏(まと)

         い、啓之の胸に降りてくるのだろう。指のすきまから零(こ

         ぼ)れて失ったものを救い上げるように。


          真昼、啓之の脚からボールが空高く舞い上がり、空に吸い

         込まれたか、に思われた。彼は走った。ただひたすら走った。


「天省湖にて」 小林稔詩集『白蛇』より掲載

2015年12月28日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』1998年11月刊(旧天使舎)以心社より

天省湖にて

    
      眠りから覚めた。明けやらぬ空の高みから呼ぶ声がした。

     少年はキャンプから抜け出て、かすかに輪郭を見せる連峰に

     視線を馳(は)せる。水面に漂う靄(もや)を映す湖を 山

     々が屏風(びょうぶ)のように重なり合い囲んでいる。

      どのくらいの時が流れたであろうか。東の空が明るみ始め

     た。湖水から立ち昇る靄がいっせいに消え、一条の光が水面

     を走る。

      もう一度、少年を呼ぶ声がしたように思った。低い朝の光

     を背に受けて 妙林山から馬の背まで稜線(りょうせん)が

     くっきりと浮かび上がった。

      少年は立ちすくむしかなかった。青い山影に陽が射し始め、

     ふと見れば、何やら動くものがある。金属板のうねりのよう

     な音を聞いたのであった。耳の奥から発する音のようにも聞

     こえたが、右に左に尾根を辿りながら降りてくる。

      怖れからか 少年の心臓は早鐘のように打った。うしろか

     ら少年を覆うようにして立つ地蔵岳が、静まり返った鏡の湖

     面を覗いていた。

      
      きんいろの日輪が妙林山の山頂にかかった。左手に視線を

     移すと、一頭仕立ての馬車が山腹を走っているのが見えた。

     蹄の音が 馬車の動きに遅れて軽やかに追っている。

      闇が光に変わるように、怖れが懐かしさに打ち消され喉元

     まで込み上げた。

      馬車は湖の対岸に来た。湖が波立ち、空と山と少年の立つ

     小砂利の道をかき乱した。鈴の音が湖の淵を辿りながら、一

     段と高まった。葉叢(はむら)が湖水に いっせいになびい

     ている樹木を縫って、馬車は駆けてくるのであった。

      
      少年は身動きならない。馬車が砂利を踏みしだく音。馭者

     のかけ声はするが、姿はない。
 
      少年の立つ遊歩道を 馬車は疾駆し眼前に飛び込んで来た。

     少年の目にしたものは 幌に凭(もた)れ、瞼をふせたまま

     の父の姿であった。

    「おとうさん!ぼくを連れていって」
 
      かろうじてこぼれた少年の言葉を崩すように 馬は躍りか

    かり、激しく軋む車輪の音を耳に残して馬車は遠ざかった。


「銀幕」 小林稔詩集『白蛇』より掲載

2015年12月26日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年刊

銀幕
小林稔

      男の子は 姿見の前に立ち、額に ゆかたの紐を結わえた。
  
     一昨日、姉と見に行った映画館の、銀幕に映し出された若武

     者になりたい、と思った。

      上目使いに 鏡面に映った男の子を睨(にら)んだ。肩を

     はだけて、剣を傾け 闇を切り裂く。
 
      死角から現われた男がいた。男の子は身を翻(ひるがえ)

     すと 男の胴に刀を滑らせた。どっしりとした手ごたえがあ

     ったので、男の子は よろけた。

     「えい、えい」
    
      たちまちにして 姿勢を正し、見えない敵に向かって剣をか

     ざし、畳の上を進んだ。
 
      不覚にも 男の子の胸元を突き刺す敵の刃(やいば)があ

     った。傷口から血が噴き出している。
  
      男の子は身をよじって、もがき、倒れた。

     「オノレ、にっくきやつ、覚悟いたせ」
 
       男の子はしろ目を出しながら 畳の上を這い 叫んだが、

     ようやく立ち上がった。乳首の下の裂けめから 地が流れ、
      
     股を伝って 踵で止まった。
    
      一人の敵に斬(き)りかかったとき、男の子は力つきて、

     身を仰向けにして倒れた。
 
      男の子は信じていた。こんなとき 味方の男たちが 馬を

     走らせて やって来るんだ。きっと 夜明けの樹々が男たち

     のうしろに 次々と倒れ、灰色の雲が 煙のように流れてい

     くのだろう。蹄(ひづめ)の音が男の子の耳元に響くのだが、

     男たちは姿を見せない。息が絶えそうになり、男の子は 身

     を小刻みにふるわせ、瞳を閉じた。
 
      一瞬、息を取り戻したとき、男の子は味方の男の胸に し

     っかりと抱えられていた。手足と首を ぐったりと垂らし、男

     の子は しばらく そのままにしていた。

      男の子は 他にだれもいるはずのない八畳間の真ん中から、

     すうっと立ち上がって 障子を開けた。
 
      日は暮れかけていた。男の子はいなくなった。部屋いちめ

     んが 闇に包まれた。


「鏡の中の海」小林稔詩集『白蛇』より掲載

2015年12月17日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

鏡の中の海
小林稔


 砂にタイヤを取られ 傾いた自転車を降り、倒れかかる自

転車を 両手でハンドルに力を込めて起こした。

 海辺には 赤や黄色の人の群れが犇(ひしめ)いている。

私は素足になり歩いて行った。

 遠くには 島と見間違えるほど大きな旅客船が 浮かんで

いる。沖に視線を向けていた私の踝(くるぶし)に 冷たい

感触があった。ボールが私の足元から飛んで行き、私の肩を

掠めて海に飛び込んでいく少年がいた。どこからボールは来

たのだろうと振り返ると、もう一人の少年がいた。

 私は はっとして眼を疑った。海に向かった少年と、私の

うしろに立っている少年は、同じ顔、姿かたちをしているで

はないか。短く刈られた頭髪が 海水に濡れ光っている。日

焼けした顔に 羞(はじ)らいの表情を浮かべ、肩甲骨をく

っきりと現わし、背中を見せて 波打ち際を二人は走った。

 おそらく双生児であろう、一人が ボールを海に目がけて

蹴ると、もう一人の少年が」泳いで跳びつき 投げ返した。

 二人は砂浜に上がって向かい合った。鏡に映し出された二

つの像のように思われた。照りつける太陽の下、少年の背中

で、真っ青な海が波しぶきを浴びている。私は羨望(ぜんぼ

う)と嫉妬(しっと)の念に駆られ、胸が張り裂けそうに感

じていた。私の視線が二人の少年の肌を刺したのか、はたま

た偶然にか、少年は視線を投げ返したのである。私は怖れに

も似た不思議な想いで受け留めたが、どこにも返しようがな

かった。私は潮風にあおられ、少年たちから遠ざかった。あ

の少年の 振り向いて投げられた眼差しは、脳裏に 幾度と

なく反芻(はんすう)された。かつて見たと想われた、記憶

の中の眼差しに相違なかった。

 砕け散る波しぶきで白く霞んだ海岸線を、私はどこまでも

歩いた。胸に宿った空虚の念は埋めようがなく、さらに広が

っていった。




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「生き神」小林稔詩集『白蛇』に掲載より

2015年12月14日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

生き神

        小林 稔


 ダカンは、チベットとネパールの国境に二分される、アン
ナプルナが夕日に 美しく生える村である。
 ヒマラヤの雪解け水が まだ手に冷たい浅い春、僧侶がダ
カンの家々を廻り歩き、若毛が 唇の上に影をつけ始めたば
かりの男の子を探し出す。毎年 行なわれる、この生き神の
習いは、カトマンズの少女神と対をなすものであるという。
 仲間との遊びに疲れ、泥まみれのまま独り、川辺に立ちす
くむ男の子が僧侶の目に止まった。連れて帰ると 水を浴び
せ、それからお経を唱える。地鳴りのような声の中で 少年
は、日一日と神性を帯びていく。
 詳細なアジア地図のどこにも記されていない、このダカン
を知ったのは、パキスタンを訪れたときのことである。
『断食するブッダ』を見て帰ろうとしたとき、光が差し込む
窓際のショーケースに置かれた細密画に 目を奪われた。遠
近法を無視した図面のように区分された部屋で、いましも動
き出しそうな二人の老人が 敷物に座して、何やら語り合っ
ている図だ。凝視すると 私自身が絵の中に捕らえられてし
まいそうだ。
 肩に何者かの気配を感じ、振り返った。するとそこに一人
の男がいた。奥の部屋に導かれ 見ると、暗闇に火が走り 
お堂の真ん中に 年の端いかぬ男の子がいて、それを囲んで
何百人とも思われる僧侶が 赤い僧衣を身に纏い合掌してい
る。透き通るような皮膚、生まれたままの立ち姿、桃のよう
な尻も露に 僧侶にかしずかれ身を清めている。神としか讃
えようのない美しさが 軀からみなぎっていた。
 お堂を後にし 山門を過ぎたところで、男がいない。はて、
と いま来た道を引き返すと 寺は跡形もなく消え、礎石だ
けが残されていた。
 渺渺(びょうびょう)として見晴るかすヒマラヤ山系の後
方、傾きかけた夕日は 索漠としたダカンの地を照らしてい
た。