小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行より
夕暮れの坂道
小林稔
夕暮れの坂道を歩いていた。呼び止められたように思い
振り返ると、白い発光体が 私のこめかみを掠めていくとこ
ろだった。
私は危ういところで とっさによけた。それは一直線に、
光の跡を残しながら 地面に吸い込まれるように 消えてい
った。
記憶を奪い去られたように感じて、知らずに後退りをして
いた。ゆるやかな坂道なのに 眼前のくぼんだ地面を 恐怖
で見つめていた。磁力線に背中が引っ張られるように 私の
脚の動きが速くなり、宙に舞い上がっているのか うしろに
走っているのか 解らなくなった。
しばらくして足の裏に重力を感じた。私は確かに立ってい
た。視線を周囲に投げると、二階建ての家々が、道の両側に
並んでいるのが見える。見覚えのある景色だ。あの家と家の
間の 雑草の生えている路地は かつて通ったことがある道
だ。突き当たりに どんと立っている木造の建物は町役場だ
ろうか。そこを左に曲がると、確か 天ぷらを売る店、その
店の角を入って 細い道を行けば 垣根越しに 盲のおじい
さんとあばあさんがいるのが見えるだろう。あんまを商売に
しているんだ。
氷が水に溶けるように 記憶の糸をたぐり寄せながら歩い
た。大通りにでた。通りの向こうに一軒の駄菓子屋があった。
店の奥で 時折、人影がよぎった。明るく照らされた店先で、
男の子が、ビニールの西瓜の形をした 大きなボールを抱え
ていた。
私は通りを横切って 男の子の前に立った。男の子が私に
気づき、何げなく視線を私の方に向け、私と視線を交わした。
私は驚きで 心臓の鼓動が止まってしまうかに思われた。
懐かしさが喉元まで込み上げてきて 男の子の名を呼んだ。
なんということだ。男の子は逃げ腰になったが 身動き出
来ず、引きつった顔のまま 泣き出さんばかりであった。私
は至極がっかりして うろたえたが、男の子が あまりにも
気の毒でならず、急いで離れようと 通りを横切った。
小林稔第三詩集『白蛇』1998年十一月刊(旧天使舎)以心社
昼下がり
小林稔
アスファルトの通りを 太陽の光が焼きつけていた。コー
ルタールがふき出して、くぼみに無数のひびが走り、タイヤ
のあとが そこだけ刻み込まれていた。
人の行き来が ばったりとだえている。人は午睡をむさぼ
っているに違いない。
私は縁側で遊んでいた。一升びんに、絵の具を水で溶かし
て入れた。ビニールの管を差し込んで ブロック塀にのせ、
吸い込んで すぐに口を離す。すると 下に置いたバケツの
中に赤い水が落ちてくるのだった。
木戸のすきまから通りを見ていた。向かいの家の庇(ひさ
し)が通りを縁どりして、影の電信柱が横倒れになっている。
じっと見ていると 眠くなった。からから。からから。遠く
から聞き慣れない音がする。暑気のせいかもしれない。私は
夢うつつで聞いていた。少しずつ近づいてくる。
きりきりと 木の軋(きし)む音も聞こえる。がらんがら
ん、という大きな音がして、かすんだ視界に 二本の黒い角
が現われた。それから平たい大きな牛の横づらがすきまから
覗いた。
戸を開けた。牛は干し草を高く積んだ荷車を引いていた。
牛を操る 日に灼(や)けた男の横顔が見えた。村からの一
本道とはいえ、町なかで見るのは 初めてのことだ。木の車
輪がせわしなく回りながら、目の前を ゆっくりと通りすぎ
た。
干し草のてっぺんには 白い布地の帽子を被った子供がい
て 揺れていた。私と同じ年恰好の男の子だ。太陽の方へ顔
を突き出し 私に一瞥(いちべつ)を投げた。
あっ、ころ、ころ、ころん。
男の子は 地面に頭から転げ落ちた。私はとっさに 顔を
おおった。何が起こっているのだろう。
子供の泣き叫ぶ声も 父の駆けつける足音も聞こえない。
両方の手のひらが 私の顔を押さえつけて 離さない。
しばらくして見ると、だれもいない通りの真ん中で、干し
草が 太陽の光に輝いていた。
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小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行より
行水
小林稔
夏の樹々の葉叢(はむら)のすきまから、きらきらと き
んいろの光が戯れている。
アキオはランニングシャツを脱いだ。それから 半ズボン
を腰から落としたとき、太腿から踵へ、ひんやりとした直線
状の感覚が走ったように思った。
庭に、母がしつらえた盥(たらい)が置かれてある。
アキオは真裸になることを ためらった。が、やがて、十
三年の時の流れが 背中から消えていくように、アキオには
思われた。
日の光が 瞳を貫き、視界を黒く塗りつぶしていく。
アキオは一切を脱ぎ捨てると、庭に出た。盥の浅い水に腰
を沈めて、両手で水をむすんだ。蝉の鳴き声にも耳をくれず、
水に反射する光を見ていた。両足を盥の縁にかけ、肩を水に
浸す。アキオは 気恥ずかしさに顔を赤らめた。
あのブロック塀に、誰かの眼差しを感じても、アキオは自
分の眼差しを 自分の身にひそめてしまうに違いない。
アキオは姿勢を直すと、首筋に生温かい微風が通り過ぎる
のを知って、半身をくねらせるのだった。
背後に物音がする。突然、我に返った十三歳のアキオは振
り返る。父が立っていた。眼前には萎(な)えた父の陰茎が
あった。
一瞬のことではあったが、見知らぬ男がいることに 畏怖
の念を禁じることができなかった。真裸の父を見たのは こ
れが初めてで 最後であった。
十八歳の誕生日を迎えた穐男(アキオ)は、縁側に腰を降ろ
して、あのときと同じ庭を見つめる。擦れ違いざまに見ただ
けの父の肉体から、離反し、背いてきた。自分と父を断ち切
らせたものは何だったのだろう、と穐男は しきりに考えた。
昼下がりの庭を、宵闇が足音を忍ばせ 迫ってきて 縁側
の石に足裏を落とし 物想いにふける穐男を すっぽりと包
み込んだ。
演奏会
小林稔
会場は静まり返った。ときおり 咳をする声があちらこち
らで響いた。彼は鍵盤に落とした視線を上げ 背筋を伸ばし
た。真っ暗闇の中で、観客は息を呑んだ。
左手の五指が 小指から鍵盤の上を這っていく。六連符が
波のように 満ちては曳いていった。ショパンのノクターン
害七番嬰ハ短調、作品二十七の一。左手の序奏が少しずつ波
のように高まり、波に浮上して 右手の人差し指、中指が
もの憂い旋律を打ち始めた。
主題が見え隠れするが、泡のように低音部の闇の中に消え
ていく。左手が低い三連符の音を 小さく刻み 繰り返す。
同時に 右手の重音が ゆっくりと大きな波と共に 悲壮な
高まりを見せて 激しさを増していく。
右手の波のリズムが 変化をもたらしながらも、孤独な想
いを抱えこんで 嵐のように荒れ狂った。
空が引き裂かれる。暗雲が裁ち切られ 青空が覗く、次の
劇的展開を予測していたとき、鍵盤を走り回る十指が あま
りにも突然停止した。
沈黙の瞬間が訪れた。永遠にも似た一瞬であった。すぐに
弾き出せばいいのだ。かなしいかな 彼の腕から力が消えて
いた。許されるなら 鍵盤の上に 半身をうなだれてしまい
たかった。彼の体重で ハンマーで叩いたような不協和音を
会場いっぱいに響かせただろう。
楽譜は頭上から消え失せ、指は彼に従うかのように 配列
を忘れていた。
彼は このまま何時間でも、ピアノの前に座っていたかっ
た。だが、彼を裏切った指は 鍵盤を左から右へと走り抜け
た。青空が絶望の淵に かいま見えた。待望の勝利の歌が鳴
り響いたと想うつかの間、半音階の階段を 左手が最強音で
転げ落ちていく。再び 夜の静かな波が 鏡に映されたよう
に、寄せては曳いていく。三度の和音が 失意を優しく包み
込んで、終盤に水を注いでいった。
演奏会は終わった。会場は深い闇の中で息をつめた。彼の
踵を波が寄せ来るようであった。
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小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
鏡の中の海
小林稔
砂にタイヤを取られ 傾いた自転車を降り、倒れかかる自
転車を 両手でハンドルに力を込めて起こした。
海辺には 赤や黄色の人の群れが犇(ひしめ)いている。
私は素足になり歩いて行った。
遠くには 島と見間違えるほど大きな旅客船が 浮かんで
いる。沖に視線を向けていた私の踝(くるぶし)に 冷たい
感触があった。ボールが私の足元から飛んで行き、私の肩を
掠めて海に飛び込んでいく少年がいた。どこからボールは来
たのだろうと振り返ると、もう一人の少年がいた。
私は はっとして眼を疑った。海に向かった少年と、私の
うしろに立っている少年は、同じ顔、姿かたちをしているで
はないか。短く刈られた頭髪が 海水に濡れ光っている。日
焼けした顔に 羞(はじ)らいの表情を浮かべ、肩甲骨をく
っきりと現わし、背中を見せて 波打ち際を二人は走った。
おそらく双生児であろう、一人が ボールを海に目がけて
蹴ると、もう一人の少年が」泳いで跳びつき 投げ返した。
二人は砂浜に上がって向かい合った。鏡に映し出された二
つの像のように思われた。照りつける太陽の下、少年の背中
で、真っ青な海が波しぶきを浴びている。私は羨望(ぜんぼ
う)と嫉妬(しっと)の念に駆られ、胸が張り裂けそうに感
じていた。私の視線が二人の少年の肌を刺したのか、はたま
た偶然にか、少年は視線を投げ返したのである。私は怖れに
も似た不思議な想いで受け留めたが、どこにも返しようがな
かった。私は潮風にあおられ、少年たちから遠ざかった。あ
の少年の 振り向いて投げられた眼差しは、脳裏に 幾度と
なく反芻(はんすう)された。かつて見たと想われた、記憶
の中の眼差しに相違なかった。
砕け散る波しぶきで白く霞んだ海岸線を、私はどこまでも
歩いた。胸に宿った空虚の念は埋めようがなく、さらに広が
っていった。
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