小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行より
行水
小林稔
夏の樹々の葉叢(はむら)のすきまから、きらきらと き
んいろの光が戯れている。
アキオはランニングシャツを脱いだ。それから 半ズボン
を腰から落としたとき、太腿から踵へ、ひんやりとした直線
状の感覚が走ったように思った。
庭に、母がしつらえた盥(たらい)が置かれてある。
アキオは真裸になることを ためらった。が、やがて、十
三年の時の流れが 背中から消えていくように、アキオには
思われた。
日の光が 瞳を貫き、視界を黒く塗りつぶしていく。
アキオは一切を脱ぎ捨てると、庭に出た。盥の浅い水に腰
を沈めて、両手で水をむすんだ。蝉の鳴き声にも耳をくれず、
水に反射する光を見ていた。両足を盥の縁にかけ、肩を水に
浸す。アキオは 気恥ずかしさに顔を赤らめた。
あのブロック塀に、誰かの眼差しを感じても、アキオは自
分の眼差しを 自分の身にひそめてしまうに違いない。
アキオは姿勢を直すと、首筋に生温かい微風が通り過ぎる
のを知って、半身をくねらせるのだった。
背後に物音がする。突然、我に返った十三歳のアキオは振
り返る。父が立っていた。眼前には萎(な)えた父の陰茎が
あった。
一瞬のことではあったが、見知らぬ男がいることに 畏怖
の念を禁じることができなかった。真裸の父を見たのは こ
れが初めてで 最後であった。
十八歳の誕生日を迎えた穐男(アキオ)は、縁側に腰を降ろ
して、あのときと同じ庭を見つめる。擦れ違いざまに見ただ
けの父の肉体から、離反し、背いてきた。自分と父を断ち切
らせたものは何だったのだろう、と穐男は しきりに考えた。
昼下がりの庭を、宵闇が足音を忍ばせ 迫ってきて 縁側
の石に足裏を落とし 物想いにふける穐男を すっぽりと包
み込んだ。
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