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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「親指」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月10日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より


親指
小林稔



「おれの家に遊びにこいよ」

 ぼくはその言葉に、脅迫に近いものを感じたので、いやと

は言えず うなずいた。以前、母に連れられて 診察室のド

アを押したことがある。そこは高宏の家だった。父親は ず

いぶん前になくなっていて、母親が医者をしていた。

 隆宏と遊んだことは ほとんどなかった。性格がまるっき

り反対で、隆宏は 川向こうの学校の番長と喧嘩しに行くガ

キ大将であった。

「ごめんください」

 消毒液の臭いがした。隆宏の母親が白衣で姿を見せた。ぼ

くのすました顔を見るなり、吹き出しそうになった。彼女の

あとについて 奥の部屋に行くと、畳の部屋の真ん中の掘り

炬燵に座っている隆宏がいた。学校で見る彼とは ずいぶん

様子が違って ほっとした。隆宏は炬燵から抜け出し、かく

れんぼしようと言った。ぼくが鬼になり 柱に額をつけ目を

つむった。一、二、三。ぼくは数え始めた。隆宏の声がしな

くなった。振り向いて、廊下に出た。廊下は長く続いていて

静まり返っていた。

 呼んだが返事がない。ドアの把手(とって)が左と右に並

んでいる。ガタン、という音がした。三つ目の把手をそっと

握ったとき内側から勢いよく 体ごと引っ張られた。真っ暗

だった。ドアが閉まった。だれかがいる。闇に手を差し伸べ

た。

「タカヒロくん、開けて!」

 笑い声が聞こえた。隆宏の笑い声だ。ぼくは安堵を覚えて、

泣き出しそうになった。

 炬燵のあった部屋に戻ると、隆宏は押し入れから布団を引

き出し、体を巻きつけながら倒れた。

「もう、死んじゃったよ」と隆宏は言った。

 ぼくが力一杯、布団を持ち上げると ちぢんだ隆宏が 畳

に転がった。ぼくは四つんばいになって跳びのった。隆宏の

シャツを胸元までめくったとき、おなかが膨らんだ。唇をつ

けるとおはじきのような おへそが持ち上がって、ぼくの舌

に絡まった。右足の親指を噛んだら、隆宏の眉がゆがんだ。



「夏を惜しむ」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月09日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行

夏を惜しむ
小林稔

    かんかん照りの道を 学校から帰ると、一つの死が 私を

待ち構えていた。
    
十二歳の私は 悲しみを覚えることなく、一年数ヶ月の生

   命の結末に 口ごもる家族と離れ、ひんやりとした廊下で 

   仰向けに寝転んで、流れる雲の行方を 追っていた。
 
    別れるときの死顔が 作りもののように思えた。商店の裏

   道を抜けて 伯父と小さな棺を担いで お寺まで急いだ。
   
    えんえんと続くお経を縫うように、鈍い木魚の音が 規則

   的に響いていた。うだるような暑さの中で私は気を遠くして

   いた。

 
    突然に 一本の電話が鳴る。姉の二番目の男の子の死を知

   らされた。あれから十五年目の夏、弟のもとに去った 十八

   歳の死を想った。立つことかなわず、言葉一つ発せずに終わ

   った未熟児。うなり声は家中とどろき、睡眠を奪ったが、死

   の前日は さらに激しかった。朝起き 体に触れると動かな

   かった、と聞く。
    
    東京にいた私は 父のもとに帰った。姉と義兄が 私を待

   ち受けていた。

   
    棺の蓋を取りのぞくと 蒼白の顔面があった。目はきつく

   閉ざされ 引きつっていた。唇の割れ目から前歯が 覗いて

   いた。そこから朱が一筋、顎の辺りまで引かれ 干からびて

   いた。花びらを亡骸(なきがら)に散らせ 釘を刺した。
 
    コンクリート壁の部屋で 猫背の男が炉の鉄の扉を開け、

   骨を 無造作に取り出した。
 
    火葬された骨は 舞うようであったが、差し出す箸(はし)

   にすがったのは 軽さのためか。
 
    私は骨壷を 肩からかけた白い布にくるみ、炎天下の道を

   のろのろとお寺へと歩いていった。

 
    毎年、夏になると どこからか笛と太鼓の音が聞こえてく

   る。祭りの前日には 朝早く御神体を抱えた男たちが かけ

   声とともに 走り回る。
 
    今年もその日が来た。人がどっとおし寄せ、男たちは酔っ

   たように 神輿(みこし)を担いでいた。

  

                 copyright1998 Ishinnsha


「行水」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月09日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊行より

   行水
   小林稔



       夏の樹々の葉叢(はむら)のすきまから、きらきらと き

      んいろの光が戯れている。
 
       アキオはランニングシャツを脱いだ。それから 半ズボン

      を腰から落としたとき、太腿から踵へ、ひんやりとした直線

      状の感覚が走ったように思った。

       庭に、母がしつらえた盥(たらい)が置かれてある。

       アキオは真裸になることを ためらった。が、やがて、十

      三年の時の流れが 背中から消えていくように、アキオには

      思われた。

       日の光が 瞳を貫き、視界を黒く塗りつぶしていく。

       アキオは一切を脱ぎ捨てると、庭に出た。盥の浅い水に腰

      を沈めて、両手で水をむすんだ。蝉の鳴き声にも耳をくれず、

      水に反射する光を見ていた。両足を盥の縁にかけ、肩を水に

      浸す。アキオは 気恥ずかしさに顔を赤らめた。

       あのブロック塀に、誰かの眼差しを感じても、アキオは自

      分の眼差しを 自分の身にひそめてしまうに違いない。

       アキオは姿勢を直すと、首筋に生温かい微風が通り過ぎる

      のを知って、半身をくねらせるのだった。

       背後に物音がする。突然、我に返った十三歳のアキオは振

      り返る。父が立っていた。眼前には萎(な)えた父の陰茎が

      あった。

       一瞬のことではあったが、見知らぬ男がいることに 畏怖

      の念を禁じることができなかった。真裸の父を見たのは こ

      れが初めてで 最後であった。


       十八歳の誕生日を迎えた穐男(アキオ)は、縁側に腰を降ろ

      して、あのときと同じ庭を見つめる。擦れ違いざまに見ただ

      けの父の肉体から、離反し、背いてきた。自分と父を断ち切

      らせたものは何だったのだろう、と穐男は しきりに考えた。


       昼下がりの庭を、宵闇が足音を忍ばせ 迫ってきて 縁側

      の石に足裏を落とし 物想いにふける穐男を すっぽりと包

      み込んだ。


「飴玉」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月09日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月発行より


飴玉
小林稔

        ふぞろいに並んだ 丈の低いガラスのケースのすきまから、

       くねくねと 細い坂道が空に昇りつめている。店の奥の椅子

       に腰を降ろした姉は、向かい合わせに座った 男の子の背中

       を支えるが、両足を姉の胴にからめ、上半身を そり返らせ

       るので、男の子の髪が地面に触れる。すると、そこに嵐のよ

       うな風が巻き起こるのだった。

        店先の方へ視線を投げると、見慣れているはずの町並みが

       一転して別の世界になる。そして 腹部に力を込めて起き上

       がろうとしたとき、口の中で転がしていた大きな飴玉が、男

       の子の咽喉(のど)に ぴたりと止まった。

        あわてふためいたのは 姉であった。男の子は頭部と手足

       を だらりと垂らした。苦しさに瞳を開けたまま、もがいて

       みたが 力がなかった。
 
        電信柱の陰で さっきから覗いていた男がいたが気づかな

       かった。真向かいの肉屋に吊るしてある 皮を剥いだ何頭か
       
       
       の豚と、その隣りの雛人形店に飾られていた 大きな羽子板

       が、輪郭を失い色の流れになって 渦を巻いていた。男の子

       の視界に虹の滝が逆流している。姉は青ざめている弟を抱き

       背中をしきりに たたいた。

        すんでのことに死神が、ひとりの少年を小脇に抱え 隠し

       去ろうとした。そのとき、咽喉(のど)にはまった飴玉が、

       おそらくは 熱で溶け出したのだろう、すぽんと落下し、飲

       み込んだ。男の子は あわてて息を吸った。たちまち生気が

        よみがえった。母と姉の顔が はっきり見えた。

       男の子は手の指を動かした。とても不思議なことに思うの
       
       だ。もう一度、ゆっくりと息をする。関節につながれた肢体
       
       が別々の生き物のようだ。
        
        動け、右足。次は左足だ。魂を吹きかけられた セルロイ
        
       ドの人形にするように 自分の体に命令するのだった。
       
        飴玉のように夕日に染まった小砂利の坂道を、男の子は踵
       
       を宙にさまよわせ 踏み出した。


「繭の糸」 小林稔詩集『白蛇』より

2016年01月08日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月発刊より

    繭の糸
    小林稔


        高島田が うしろ向きに廊下に置かれてあった。それを見
       
       た男の子は、ぎくっとした。わめき、泣いたが、家の人はど
       
       こかに消えていた。
       
        男の子は八畳間に 逃れた。障子に頭をぶつけ、唐紙に全
       
       身があたった。唇がひきつり、ゆがみ、歯をくいしばる。涙
       
       とよだれが混じって、顎(あご)のくぼみをしめした。
       
        姉が駆けつけた。男の子を見て驚いたが、日差しの射した
       
       廊下に視線をやると、微笑んだ。部屋の奥で しりもちをつ
       
       いている男の子に近づき、両腕の中に男の子の顔をうずめた。    
        
        顔を上げ姉を見た。白粉(おしろい)が塗られた姉の顔が
       
       あった。いつもとは違っていたが、瞳の奥から浮かんでくる
       
       花びらのような優しさに安堵(あんど)を覚えるのだった。
       
        廊下に目を向けると、首筋に丸みをもたせた高島田が、ま
       
       だあった。もう一度、頬を姉の胸に凭(もた)せかけた。
       
        姉は 男の子の位置を確かめるように、彼女の裾(すそ)
       
       を引いて 抱いては離し、また抱きかかえてみた。
       
        もう、怖れることはないのだ。男の子は笑顔を浮かべる。
       
       すると姉の白い指が 男の子の鼻すじを伝い、そこに一本の
       
       白粉(おしろい)が走った。
       
        母親ほど齢の離れた姉に抱かれて、男の子の指から 力が
       
       抜けていった。
       
        いままでもそうだったし、いまも こうして姉に身をあず
       
       けていられる。揺りかごに揺すぶられるようにして、やがて
       
       男の子は眠りについた。
       
        石のように重くなった男の子は、姉の両腕から離され、布
       
       団の上に置かれ、幌蚊帳(ほろがや)を被せられた。
       
        まどろんでいる男の子の脳裏に 足音が現われて、また消
       
       えていった。そして、もう現われなくなった。
       
        午睡から醒めて、蚊帳の外に出た。部屋から部屋を廻り歩
       
       いて、襖(ふすま)を開けて覗いてみたが、姉の姿は なか
       
       った。