小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
演奏会
小林稔
会場は静まり返った。ときおり 咳をする声があちらこち
らで響いた。彼は鍵盤に落とした視線を上げ 背筋を伸ばし
た。真っ暗闇の中で、観客は息を呑んだ。
左手の五指が 小指から鍵盤の上を這っていく。六連符が
波のように 満ちては曳いていった。ショパンのノクターン
害七番嬰ハ短調、作品二十七の一。左手の序奏が少しずつ波
のように高まり、波に浮上して 右手の人差し指、中指が
もの憂い旋律を打ち始めた。
主題が見え隠れするが、泡のように低音部の闇の中に消え
ていく。左手が低い三連符の音を 小さく刻み 繰り返す。
同時に 右手の重音が ゆっくりと大きな波と共に 悲壮な
高まりを見せて 激しさを増していく。
右手の波のリズムが 変化をもたらしながらも、孤独な想
いを抱えこんで 嵐のように荒れ狂った。
空が引き裂かれる。暗雲が裁ち切られ 青空が覗く、次の
劇的展開を予測していたとき、鍵盤を走り回る十指が あま
りにも突然停止した。
沈黙の瞬間が訪れた。永遠にも似た一瞬であった。すぐに
弾き出せばいいのだ。かなしいかな 彼の腕から力が消えて
いた。許されるなら 鍵盤の上に 半身をうなだれてしまい
たかった。彼の体重で ハンマーで叩いたような不協和音を
会場いっぱいに響かせただろう。
楽譜は頭上から消え失せ、指は彼に従うかのように 配列
を忘れていた。
彼は このまま何時間でも、ピアノの前に座っていたかっ
た。だが、彼を裏切った指は 鍵盤を左から右へと走り抜け
た。青空が絶望の淵に かいま見えた。待望の勝利の歌が鳴
り響いたと想うつかの間、半音階の階段を 左手が最強音で
転げ落ちていく。再び 夜の静かな波が 鏡に映されたよう
に、寄せては曳いていく。三度の和音が 失意を優しく包み
込んで、終盤に水を注いでいった。
演奏会は終わった。会場は深い闇の中で息をつめた。彼の
踵を波が寄せ来るようであった。
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小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
射的場
小林稔
アキオの歩いていく方向に逆らって 中学生の一団が通り
過ぎた。そのとき、横を歩いていた友達がいないことに気が
ついた。遠くまで視線をやったが、見つからない。ジェット
コースターから喚声が上った。
遊園地に来たのは初めてだった。いくつもの顔から 友達
の顔を探そうと 背伸びして見回した。人の流れが壁のよう
に立ちはだかり、何重にもアキオを取り巻いているように思
えてくる。瞳が潤んできた。こんなところで友達の名前を呼
ぶわけにはいかないだろう。
人の流れが切れると すきまができる。アキオはそこに身
を置き、何度か繰り返しているうちに もといた場所からは
ずいぶん離れてしまっていた。入口さえ辿れない、と思うと
不安が増してきて 次第に伏し目がちになっていた。
そのとき、人に流れの切れ目に 異様なものの気配を嗅(か)
いだ。まさか、と思って今度は瞳を瞠(みひら)いたが、もう
疑いはなかった。それはアキオの動きを追う銃口であった。
眼球を抜かれたような銃口が 執拗にアキオを捕らえて離さ
ない。全身が凍てついたように感じた。通行人の背中に隠れ、
またすぐに現われ、銃口がアキオに向けられていた。
アキオのうしろでコルクを抜き取ったような音がして跳び
上った。そのあと続けて二回鳴った。
銃口は狙いを逸らした。中学生が銃を肩から降ろして 背
中を見せ 群衆の背中に消された。アキオは群衆の壁に分け
入った。射的場だったのだ。棚に景品が並んでいた。さっき
の中学生が ゲームウオッチを倒すと、見ている子供たちか
ら驚きの声が湧き上がった。アキオは恐怖から放たれ、脱力
感を感じて立ちつくしたまま、コルク玉の行方を眼で追って
いた。
息が止まるような恐ろしさを 身を持ってしたアキオは、
もう以前の自分に戻れない、と思った。
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小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
遊戯
小林稔
「きたねんだよ」
少年の怒声(どせい)が飛んで、寝室の壁に 亮一はブチあ
たった。天井の照明が揺れている。
亮一は 少年にされるがままだった。抵抗はなかった。
「このやろう」と叫んで、少年は亮一の首につかみかかった。
至近距離で 少年の瞳を凝視した。少年の手が緩んだら少年は
の唇が 亮一のそれに、かすかに触れた。あわてて壁に張り付
いた亮一の体から視線を逸らし リビングに駆け込んだ。
少年の笑い声がする。テレビの音量が増す。亮一は脱ぎ捨て
てあったズボンとシャツを拾い、ゆっくりと身にまとった。自
分の首に指先を触れてみた。熱かった。知らずに少年の息づか
いを 真似ていた。涙が線を引いて足の指に 落ちた。
亮一がリビングに現れると、カーテンを降ろした暗闇の中で
ソファーから身をのり出して テレビに釘付けになっていたい
る少年がいた。画面から溢れる光が、少年の目鼻立ちを稲妻を
走らせたように映し出した。亮一は肩を並べた。
許してくれ。亮一は心の中で叫んだ。裸の膝小僧を握ってい
る少年の手の指が 小刻みに震えている。
亮一が少年を見つめて笑ったのは不覚であった。少年は視線
を乱した。消し忘れた浴室の明かりが廊下を照らしていた。
少年は歩いていって蛇口をひねり、指を水に浸して、唇を何
度もぬぐった。
「もう、おれ帰るから」
少年は昨日と同じ言葉を棒読みする。
亮一は寝室のワードローブから学生服を引き抜いて、少年に
着せ替える。ズボンに少年の脚を通すため曲げると、ギーとい
う音がする。腕を袖に差し込む度に、少年の前髪が亮一の顔に
触れた。ベルトを締めつけると 少年の上体が浮いて亮一の胸
にバタンと倒れた。
少年はゲームを終えたように体を起こし、うつむいたまま笑
みを浮かべて すたすたと帰っていった。扉の閉まる音が部屋
中に響いた。
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小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
ガラスの道
小林稔
粉粉に打ち砕かれ 散乱したガラスの舗道を、素足で歩い
ている。うつむく額に 朝の光が射して、利之は人ひとりい
ないビルディングの谷間をひたすら歩いた。
羽撃(はばた)きの音が足元で発ち上がった。鳩が飛び立
ったのか、と顔を起こして見たが 思い違いで、記憶を何か
がよぎっていったのだ。踏みしめるガラスの音と 血の破線
だけが、彼の証であるかのようだ。とりわけ悲惨を育ててい
るわけではない。汚れていない画布を水で洗うように、群れ
から離れたこの子羊は、歩いていると 頭の中が透けてくる
ような気がするのだ。
「今日は、ぼくは十四歳になったんだ。希望なんていったっ
てさ、ぼくには力がないから」
そんな思いに気を取られていたら、左足の踵に挟まったガ
ラスの板が 舗道を滑って、利之は転んだ。ガラスの割れる
音が周囲に響くと、利之の耳元にも共鳴した。
だから、やなんだ。もう考えるのはよそう」
膝小僧を抱えていたが、力が抜けて、静かに両腕を伸ばし
指は耳元で広げられた。利之の体の輪郭が、朝の光で消えて
いきそうな気配。
「時間だ。時間が来たんだ。時間がぼくを追いかけている」
靴音がいくつもやって来て、舗道に光るガラスの破片を震
わせている。よろけるようにして立つと、ガラスが背中から
胸に突き刺さっていた。傷みは微塵もない。肩をすぼめては
足跡の真ん中に 滴り落ちる血の破線を引きながら歩いた。
ガラスのかけらが 風に揺すられ 触れて鳴っている。
なんという静けさだろう。どうしたことか、舗道に姿を見
せていた人と自動車が、石膏の模型になっていた。
どこまでも続くガラスの散らばった道の向こうから、フラ
ッシュの洪水が迫った。
やさしいソプラノのアリアが降ってくる超高層四十七階の
窓窓。四つ角のポリバケツから溢れた残飯。廃品回収の罎。
公衆トイレの便器。風俗営業の看板。踏まれ 舗道にこびり
ついた新聞紙。物たちの眼差しが、静かな動きを止めた彼に
狙(ねら)いを定めていた。
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小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より
鏡
小林稔
肩から提げていた黒の縁取りの 白い布製のカバンを座敷
に放り投げたが、祐一はカバンを見つめて 少しとまどいを
感じた。
母は台所にいる。俎(まないた)を打つ包丁の音がしてい
たが、急にとだえた。
「ゆうちゃん、帰ったの?」
祐一は その言葉に引きずられ、半開きの扉の向こうで背
中を見せている母親を 盗み見した。友達と会う約束を破ろ
うとしている自分に苦笑しながら 階段を音立てて上がって
いった。
(ぼくはいつも一人で部屋にいるんだ。勉強なんかするわけ
でもないのに)
唇を真一文字に結んでみたが すぐに眉がゆるんでしまう。
机の引き出しから鏡を取り出し、手のひらにのせた。顔を斜
めに構え、そっと鏡を覗いた。うしろめたい気持ちがした。
伸びすぎた坊主頭のてっぺんは 寝癖がついて毛が立って
いる。そこを指で押した。鏡の視線と合わないようにして、
鏡を裏返そうとしたとき、鏡の眼が祐一を捕らえてしまった。
少年を見逃すまいと、大きく瞠(みひら)いた眼は手のひ
らの中で ジリジリと迫る。
(これはぼくの眼だ。だってそうじゃないか。おかしいじゃ
ないか)
何度も自分に言い聞かせた。鏡の中の大人びた眼は 彼の
言葉を翻(ひるがえ)した。鏡を持つ手は硬直し、心臓はわ
なわなと震えた。もう見続けることはできない。魔法にかか
ったように、祐一は視線を逸(そ)らすこともできなかった。
(がんばるんだ。もう少しだ)
そういう声が 頭の奥から聞こえた。知らないうちに 祐
一はその声に自分の声を重ねていた。声は次第に高まり い
く人もの合唱になった。そして突然 やんだ。
(もう少しだ。もう少しで、ぼくは君になるんだ)
祐一は思わず 大声で叫んだ。それは自信に満ちた声だっ
た。頬を涙が伝って、すぐに祐一の顔に微笑みが帰ってきた。
鏡の中にも同じ微笑みがあった。