goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ボードレール『悪の花』から「祝福」の訳詩・小林稔

2013年04月27日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「祝福」の訳詩・小林稔

 

14 祝福 BÉNÉDICTION

 

至高なる力の命じるところによって

「詩人」がこの陰鬱なる世に現れ出たとき

母親は不安に慄き、呪詛の言葉を胸に留め、

憐れみを与え給う神に向かって、拳を握りしめる。

 

――「ああ! まったく、なぜ私は蝮らの一塊を産み落とさなかったのか、

こんな嘲笑の種を養い育てることになるくらいなら!

夜よ、呪われてあれ! 仮初の快楽に

私の胎内に呼気を宿したあの夜。

 

そなたが、みじめな夫の嫌悪の的になるために私を

すべての女から選ばれたのだから、

このやつれた怪物を、恋文のように炎のなかに投げ棄てる

ことなど、かなわぬことだから。

 

私を苦しめるそなたの憎悪を跳ね返らせよう、

そなたの悪意の呪われた道具のうえに。

そしてこの哀れな樹を思いっきりねじ曲げ

悪臭放つ芽が出るのをやめさせてしまおう!

 

母親はかくて憎悪の泡を飲み込んで

永遠なる神の思し召しをわからぬままに

ゲヘンナの谷底で、自ら準備するのは

母親の罪に割り当てられた火刑台。

 

しかしながら、「天使」の見えぬ監視のもとで

見捨てられた「子供」は太陽に酔い痴れ、

飲むものはすべて永遠の命を授かる神々の食べ物になり

食べるものはすべて不老不死の真っ赤な神酒になる。

 

彼は風と戯れ、雲とおしゃべりをし、

歌いながら、十字架の道にうっとりとする。

そして、巡礼のなかで彼の後を追う「精霊」は

森の一羽の鳥のように陽気な彼を見て、涙を流す。

 

彼が愛することを望むすべての人々は、恐れを抱き彼を見守る。

そうかと思えば、おとなしさにつけあがり、

苦痛の叫びを上げさせようと、

彼らは自ら持つ残忍さを彼に試してみる。

 

彼の口に入れるべきパンと葡萄酒に

彼らは灰を不潔な唾に混ぜ合わせる。

彼の触れた物を彼らは投げ捨てる偽善ぶり、

彼の足跡に足を入れ踏んだと自分を責める。

 

彼の妻は広場から広場を叫びながら歩み、

「私を崇めたいほど美しいと思うなら

私は古代の偶像の務めをはたしましょう、

その像に似せて私を金箔で塗り直させましょう。

 

私は酔いしれよう、香油を、薫香を、没役を、

跪拝を、そして肉と葡萄酒を、

私を讃美する夫の心のなかの、神に捧げるべき賛辞を

笑いつつ奪い取れるかどうかを知るために!

 

こんな不敬虔な悪ふざけに飽きたなら

彼の身体に私の折れそうだが強い手を置きましょう。

鷲女神の爪に似た私の爪を

彼の心臓にまで突き進ませることになるでしょう。

 

震えおののく、まだ幼い小鳥のように

私はこの真っ赤な心臓を彼の胸から引き抜いて

私のお気に入りの獣の食欲を満たすため

侮蔑して投げつけてやりましょう!

 

光り輝く玉座が見える「天」の方へ

「詩人」はこころ穏やかに、敬虔なる両腕を差し伸べると、

明晰な精神から放たれる巨大な閃光で

それぞれの国民の荒れ狂うさまは見えなくなる。

 

「祝福されてあれ、苦しみをお与え給いし私の神よ、

われらの穢れを癒す神聖なる薬のように、

そしてまた強き者たちを神聖なる逸楽に導く

より良き、より純粋なる神髄のように!

 

私は知っております、そなたが「詩人」に、

神聖な「軍団」の幸いなる隊列のなかに

一つの座を取りおきなされ、

座天使、力天使、主天使たちの永遠の祝祭へと招き給うたことを。

 

私は知っております、苦しみこそが高貴さであり

この世も冥界も決してそれに噛みつくことができぬことを、

すべての時代とすべての世界に代価を課せねばならぬことを、

私の神秘の王冠を編むために。

 

しかし、古代パルミラの失われた宝石や、

未知の金属や、海の真珠、それらをそなたの手で

備えられようとも、満ち足りることはないでしょう、

眩いばかりに澄んだ美しい王冠を飾るためには。

 

なぜならば、それは原初の光線の聖なる源から汲まれた、

純粋な光でしか作られないでしょうから、

死すべき人間の眼は、その揺るぎない煌きのなかであろうと

曇らされ、嘆きをやめない鏡でしかないのですから!」

 

 copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。


ボードレールについて(一)

2013年04月25日 | ボードレール研究

ボードレールについて(一)

小林 稔

 

 ボードレールの『悪の花』十三篇を自ら訳し終えて感得するのは、強烈な詩性である。このような詩が生み出されるには、書く主体の、つまりは生身の人間に躍動する永遠不同なる「詩人像」が内在しなければならないのだろう。ミシェル・フーコーが晩年に辿り着いた「生存の技法」、すなわちボードレールのダンディズムが要請されたことだ。言語の密度で迫力を見せつけたり、虚構を口実に小手先のレトリックで書く現代詩人の衰退した詩とはなんという相異であろうか。詩の前で詩人は消え去るべきだという、ご都合主義には騙されまい。詩は詩人より優位に置かれるべきことは当然のことであるが、ボードレールの詩のどの作品一つをとっても、詩人の存在を感じさせない詩はないと言える。それではボードレールは詩から垣間見られる生活をそのまま生きたのかと訊ねられれば、否である。生身のボードレールと詩人ボードレールとは差異があるということだ。つまりボードレールには、信念としての確固たる詩人像があり、それに近づけようとすべての私生活を代価に生きたということに他ならない。詩を追い求めて彼自身が牽引されているのだ。しかるに彼の詩の栄光のうしろに詩人の存在を感じさせることになる。このことは、彼の美術評論「生活する画家」の「現代性」の主張と関係づけることができる。詳しくは私の評論『自己への配慮と詩人像』の後半部で探求することになる。ここでは気ままな感想を述べるにとどめておこう。

「照応」と「高翔」では詩法の一端を告知し、「敵」と「不運」では詩人の生きた過程における困難さを垣間見せる。「Ma jeunesse ne fut qu´un ténébreux orage」というロマン主義的表現で読み手を引き込むが、ボードレールはそこを超え、夢の世界に安住しない。「O douleur!  ô douleur! Le Temps mange la vie」(おお、苦痛よ! おお、苦痛よ! 「時」が命を喰らうのだ)と詩人の苦悩の叫びをあげる。永遠をこの世に開示させようとする悲痛な叫びである。「L´Art est long et le Temps est court」(「芸術」は長く、「時」は短い)という詩句は実感をもって迫ってくる。「人間と海」では、海と双生児である人間の心の深淵に荒れ狂う海のイマージュが、そこに巣食う獰猛な、殺戮や自らの死も辞さない獣性を鏡のように映し出す。私にはゴヤの「巨人」が憶い起こされる。「読者へ」は『悪の花』の冒頭に置かれた詩である。ほんとうは詩集をすべて読んだ後で読まれるべきものであろう。初めて読んだ弱年には理解できなかった。しかし、ボードレールの『悪の花』の構成は完璧である。人は「あほうどり」や「通りすがりの女」といった分かりやすい詩から足を踏み入れることもあるだろう。重厚な密度の高い言葉で叩き込む詩の後にそれらは置かれている。しかしそれらの詩は質において劣るという意味ではなく、愛すべき詩という意味で親しみやすいのである。「読者へ」では、人間の「愚かさ、過誤、罪、吝嗇」が、この世の「悪」へと導いていくという。私たちは、悔恨と悔悛を繰り返しながら地獄への階段を一段一段降りていくというのだ。しかし、ボードレールの真の偉大さは、生を営む私たちの内部に宿る悪=欺瞞を暴き出し、「私の同類よ! 私の兄弟よ! と言い放つところにある。つまり、形而上学にとどまらず、至高なる精神と俗なる現実、「不易と流行」の一致をこの地上に花ひらかせようとするところにある。

「灯台」では、ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ゴヤ、ドラクロアといった画家の描き出す世界においても同様に、ボードレールは人間の悪の主題をを読んでいる。「これらの讃歌は、千の迷宮を潜りぬけて繰り返される、同じ一つの木霊に過ぎない。これぞ死すべき人間のための、神から贈られた阿片」とまで言い放つ。人間の悪から発する叫びは「千の拡声器で送られる指令」「深い森で道に迷う猟師の叫び声だ」という。そうした、数々の芸術家が暴露するその眼差しは悪を照らし出す灯台の光なのだ。最終連においても、ボードレールの同類意識は退席しない。彼は神にささやく。芸術家が描き出す人間の悪は「われらが自らの尊厳を自らに与えるという証」であり、「そなたの永遠の岸辺」で死すべきもの=人間の証なのだと結んでいる。

「夕暮れの諧調」では音楽と詩の形式の合体が試みられ、言葉の響きが繰り返される波のように流れてゆく。「秋の歌」では、「もうすぐ冷たい暗闇へ、私たちは身を投げ沈むだろう」という衝撃的な一行から始まる。plongerという語が印象的だ。「不運」の一行、「時が命を喰らうのだ」が根底に響きわたっている。燃える薪の崩れる音に「棺に釘を打つ音」を重ねて聴き、過ぎ去る時の儚さに感じ入るが、一方では「出発を告げるように鳴り響く」という。過ぎ去る時への郷愁と未知なる時への旅立ちがボードレールには共存している。その引き合う力は互いに増大していく。この詩では過去への想いに強く引かれ、「晩秋の、黄色く心地よい陽射し」を浴びて愛するひとに慰められたいという願望にとどまる。その「たゆたう」心に音楽が彼に与える気だるい逸楽を身に受けようとする。

「白鳥」は長さもさることながら大作であり、彼の主張する「現代性」(モデルニテ)が、「通りすがりの女へ」とともに明確に示された詩である。詳細は「詩人像」で追究することにするが、神話上の人物の身の上と、現実のパリの路上に登場する白鳥のイマージュの二重性によって、オスマン計画によって急速に変わりゆくパリを想い、憂愁の思いに浸る詩人がいる。しかしそれで終わらないのがボードレールの凄さである。パリで見かけたアフリカ女を登場させて自然と都市を対比させ、「花々のように萎れてゆく痩せた孤児たち」maigre orphelins séchant comme des fleursに詩人は想いを馳せる。「ふたたび見出されないものをすでに失ったすべての人たち」A quiconque a perudu ce qui ne se retrouve /Jamai.jamai! á ceux qui sabreuvent de pleur ……とつづく。最終連では、「島に忘れられた水夫たちを、囚人たちを、敗者たちを! さらに他の多くの者たちを!」にまで思いをめぐらすのだ。私はほとんど言葉を失いそうになる。ボードレールには詩人がなすべきこと、比喩的にいえば、神から与えられた「使命」と呼んでもいい詩人像がある。「通りすがりの女へ」は「あほうどり」と同じく、小品だが愛すべき詩だ。「白鳥」の詩にある、Dont le regard m´a fait soudainement renaîtreというフレーズを「彼女の眼差しで、私はとつぜん真実、われに目覚めた」と訳したのだが、適切な表現であったか心もとない。そうした理由には、状況はまったく異なるが、かつて私はグラナダのアルハンブラ宮殿の「裁きの庭」を訪れたとき、一種の感動といえようが、ほんとうのわれに目覚めた、私の深部に内在する「ほんとうの我=他者」に出逢えたという実感をもったという体験があったからである。(私の第五詩集『砂漠のカナリア』所収)。

 思いつくままに、『悪の花』第二版の順序によらずに試みた翻訳であったが、振り返れば私なりの理由があったことがわかる。ここではそれは言わないでおこう。次の詩群は、ボードレールの詩人像が強く浮彫りにされるいくつかの詩、まずは「祝福」から取り上げてみよう。

 

copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。


ボードレール『悪の花』から「通りすがりの女に」訳詩・小林稔

2013年04月09日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「通りすがりの女へ」訳詩・小林稔

 

 

13 通りすがりの女へ A UNE PASSANTE

 

 街路は私の周囲で耳を聾せんばかり吠えていた

背が高く、ほっそりとした、正装の喪服に厳かな苦悩を抱え、

ひとりの女が通りすぎた、右手を気高く持ち上げ

裾の花綱飾りと花柄をつまみ揺すりながら。

 

軽やかで気品ある、彫刻の脚をした彼女、

私は度を超した男のように、身を引きつらせ

彼女の眼のなかの、嵐の兆しである鉛色の空

私は飲んだ、幻惑する優しさと、命を奪い取る快楽を。

 

閃光・・・・・・そして夜! ――逃げ去る美、

彼女の眼差しで、私はとつぜん真実、われに目覚めた、

もう永遠のなかだけでしか、私はきみに逢えないのだろうか?

 

他の場所で、ここからずっと遠く! 遅すぎた! 絶対に、おそらく! 

きみが逃れいくところを私は知らない、私が行くところをきみは知らない、

おお 私が愛したであろうきみ! おお そのことを知っていたきみよ!

 

copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。


ボードレール『悪の花』から「白鳥」訳詩・小林稔

2013年03月30日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「白鳥」訳詩・小林稔

 

12 白鳥 Le CYGNE

 

アンドロマケー、私はあなたを想う! この小さな河、

それは哀れにも悲しい鏡、かつて、寡婦であるあなたの、

あなたの数々の苦悩に対して大いなる尊厳を映した鏡、

あなたの涙で嵩を増した、それは偽りのシモイス河。

 

突然、豊かな記憶が実を結んだのは

私が新しいカルーセル広場を横切っていたときだ。

古いパリはもう、ない。(都市の形態は

すばやく変わる、ああ、人のこころよりも!)

 

私は、こころのなかだけに見ているに過ぎない、

あの仮小屋の野営地、積み上げた粗仕上げの柱頭と円柱、

雑草、水溜りの水で緑色に染めた大きな石塊、

ガラス窓に光っている、乱雑に置いた、古道具類を。

 

そこに、かつて動物の見世物小屋が掛かっていた。

そこに、私は見た、ある朝、寒く明るい空のした、

「労働」が目を覚まし、道路清掃車が

静かな空気のなかに、暗い激風を押しやる時刻に。

 

檻から逃げた一羽の白鳥が

水かきのついた足で渇いた敷石を引っ掻きながら、

でこぼこの地面のうえ、水のない排水溝の側で

鳥が嘴を開け、白い羽を曳き摺っている。

 

いらだたしげに、翼に埃を被って、故郷の美しい湖で

こころを満たし、言っていた、「水よ、いったいおまえは

いつ雨を降らすのか? 雷よ、おまえはいつとどろき渡るのか?」と。

私は見る、奇妙で宿命的な神話である、この不運な者が、

 

時折空の方へ、オウディウスが歌った男のように

皮肉な、残酷なまでに青い空に向けて、

まるで神に、数々の非難を浴びせかけるように、

飢えた頭を、痙攣した首のうえで伸ばす姿を。

 

パリは変わる! だが、私の憂愁のなかでは、まったく何も

動かなった! 新しい宮殿、建設工事の足場、石材、

近郊の古い街々、すべて私には寓意になり、

私の忘れがたい思い出は岩よりも重いのだ。

 

それゆえこのルーヴルのまえで、あるイマージュが

私の胸を締めつける。――私は想うのだ、私の偉大な白鳥を。

愚かな身振りで、流謫の人たちのように、滑稽でしかも気高く、

間断なく願望に悩まされる姿を! それからあなたを!

 

アンドロマケー、偉大な夫の腕から、

卑しい家畜のように、尊大なピュロスの手に落ち、

空の墓の近くで、恍惚に身をたわめる、

ヘクトールの寡婦、ああ、ヘレノスの妻よ!

 

私は想う、痩せた結核を病んだ黒人女を、

泥濘に足踏みし、血走った眼で

至上のアフリカの、ここにはない椰子の木々を探す姿を、

靄の立ち込める巨大な城壁のうしろで。

 

私は想う、誰であれ、決して二度と

ふたたび見出されえないものをすでに失ったすべての人たちを、

涙に濡れ、喉を潤そうと、優しい雌狼の乳を飲むように

「苦痛」を飲む人たちを! 花々のように萎れてゆく痩せた孤児たちを!

 

このように、私の精神が遁れゆく森のなか

息を大きく吸い込んで、年老いた「追憶」が角笛を吹き鳴らす!

私は想う、島に忘れられた水夫たちを、囚人たちを、敗者たちを! 

……さらに他の多くの者たちを!

 

copyright 2013 以心社

無断転載禁止します。


ボードレール『悪の花』から「秋の歌」訳詩・小林稔

2013年03月26日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「秋の歌」訳詩・小林稔

 

 

11 秋の歌 CHANT D´AUTOMNE

 

  一

もうすぐ冷たい暗闇へ、私たちは身を投げ沈むだろう、

さらば、私たちの短過ぎる夏の鮮烈な光よ!

私にはすでに聞こえている、中庭の敷石の上

たきぎの束が倒れ、不吉な爆発音を響かせているのを。

 

まったき冬が私の身に戻ってこようとする。怒り、

憎しみ、戦き、恐れ、強いられるつらい仕事、

そして、地獄の極に落ちた太陽のように

私のこころは、赤く凍った塊りにすぎなくなるだろう。

 

身震いしながら私は聴く、薪の一つ一つが倒れる音を。

断頭台を築く音は、もう密かな響きを立てない、

私のこころは、疲れを知らない重厚な金槌に打たれ、

押しつぶされ、崩れ落ちる塔と同じだ。

 

この単調な身を揺する爆音は、どこかで

ぞんざいに、棺に釘を打つ音のようだ。

誰を埋葬するための?――昨日は夏、そして、今日は秋を!

この不可思議な物音は、出発を告げるように鳴り響く。

 

  二

私は愛する、あなたの切れ長な眼の、緑がかった光を。

優しくて美しい人よ、だが今日は、私にはすべて苦く

何ものもない、あなたの愛も、閨房も、暖炉も

海のうえに注ぐ太陽ほど価値を見出せないのだ。

 

それでも、私を愛せよ、優しい人! 母親になりたまえ、

恩知らずな者のため、それとも邪悪者のために。

恋人であるにせよ妹であるにせよ、輝かしい秋の、

さもなくば沈みゆく太陽の、しばらくは穏やかなる者になりたまえ。

 

何という短い務めよ! 墓は待つ、貪欲なる墓よ!

ああ! 許したまえ、あなたの膝のうえに私の額をのせ

灼熱の真白い夏を惜しみつつ、

晩秋の、黄色く心地よい陽射しを味わうことを!

 

copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。