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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ボードレール論 小林稔個人詩誌「ヒーメロス」より掲載

2015年12月23日 | ボードレール研究

長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十九)

小林 稔

 

 

 

47 来るべき詩への視座

 

  

ボードレールにおける詩人像(二)

 

 ボードレールの強度

ロマン派の第一世代のジェラール・ド・ネルヴァルからボードレールに引き継がれたもの、そして時を隔て二十世紀初頭にプルーストによって、さらに探求されたものが見えてくるのだが、そのものとは集約していえば、ポエジーの正体(本質)と呼ぶべきものではないかと私は思う。小説と詩の形式の違いを超えて、あるいは異常接近して行われた文学現象であるそれは、ヴァルター・ベンヤミンの批評の根底を形成する「アウラ」の概念と交錯する点であろう。

 

アウラとは一体何か? 空間と時間からなる一つの奇妙な織物である。つまり、どれほど近くにあろうとも、ある遠さの一回的な表れである。安らかな夏の午後、地平に連なる山並みを、あるいは安らかにしている者に影を落としている木枝を、目で追うこと――これが、山々のアウラを、この木枝のアウラを呼吸することである。(ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』一九三六年)

 

ネット批評、道籏泰三『ベンヤミンにおける「アウラ」の展開』(一九九一年京都大学紀要)によると、アウラには否定的なものと肯定的なものがある。前者の近代科学文明によって弱体化した経験(すなわち「アウラ」)は、科学技術の進展による新しい知覚において「悪しきアウラ」を生み出し、ファシズムに与するほどに変貌したが、人間から「アウラ」を締め出すことは不可能である。過去の遺物から何かを経験することはやめて、「アレゴリー」の概念で「アウラ」を「廃墟」に導き、そこから立ち上がる「アウラ」をベンヤミンは求めていったのだという。本来、アウラは芸術のすべてにつきまとう属性のようなものである。否定的な側面を持つアウラは、「集団ないし伝統の圏域にあって何らかの事物、事象が人間を強烈な力でもって集団的に呪縛する場合」に成立するものであり、肯定的な側面を持つアウラは、「個人としての人間が今というこの一瞬の時点において、自らの存在の内側から何らかの事物、事象と強い結びつき持ち始める場合」に成立するものであるという。そしてベンヤミンの志向の根底にあったのは、後者のアウラによって前者の「フェティッシュとしてのアウラ」を紛糾しようとすることであったと道籏氏は分析する。そして後者の「流動するアウラ」で前者の「フェティツシュとしての神話的アウラ」を脱構築するものがベンヤミンにとって、「破壊と創出の同時的生起を生命とするアレゴリーであった」と主張する。アウラとは私にとってポエジーと代置できる概念であり、私の「来るべき詩学」を構成する場合の重要なテーゼとして深く考慮すべきものであるが、それだけで別の論考を必要とするので、取りあえずここではベンヤミンのボードレール論の領域に限定して述べておこう。

 

さて先回に引き続き、ゴーチェとボードレールの差異はどこにあるかを明確にしなければならない。ロマン派の第二世代であるゴーチェの提唱した「芸術のための芸術」にボードレールが共鳴し、『ゴーチェ論』(一八五九年)において、文学の世界に「ディレッタンティシズム」(趣味性)が現れたと主張した事実がある。しかし、もしもボードレールの詩の行為が「ディレッタンティシズム」に終わっていたら、後世に残した遺産はわずかであったであろう。

 書かれたものはエクリチュールとしていかようにも読まれうるものであるが、作者の一義的に意図されたものを考えたとき、文学と主体との関わりはずいぶん違ったものに見えてくる。今問題になる「ディレッタンティシズム」を趣味性の範疇におく限り、『悪の花』はその埒外にあると考えられる。『美』は『真』や『善』と、かつてはプラトンの著作において強く結びつけられた哲学的思考であったが、ロマンティシズムにおいては、内面性の探求は『美』への憧憬のみに牽引されていたのである。プラトン哲学は絶えず政治と隣接していたように、真のロマンティシズムを自称するボードレールの詩学は、「芸術のための芸術」と深く関与しながらも、政治と社会現実から視線をそらさずにいた。「進歩のための芸術」を唱えるユゴーを、ボードレールが『ユゴーの「レ・ミゼラブル」書評』で、ユゴーを隣人愛のモラリストと呼んで遠ざけた。ゴーチェのようにディレッタンティストでもなく、ユゴーのように社会派でもないことを自覚していたボードレールは、詩作が己の生存と深く関わっていた。詩を政治と芸術から切り離し、詩人としての実存的立場から現実に向かって衝撃を与えていったと言えるであろう。

 あらゆるエクリチュールは、自分の、あるいは他者の生存に影響を及ぼす可能性はある。しかし強度において、ネルヴァル、ボードレール、プルーストには、同時代のほかの作家と比べて、文学と人生の時間との、のっぴきならない挌闘が歴然としている。ポエジーを獲得するためにあらゆる代価を厭わない激しさがある。言い換えるなら、彼らにとって元来、文学が自己変革のためにあるのだと思わせるものがあるということだ。ランボーには「私とは他者である」と言い切れるまでに徹底的に追求した「生の変革」というべき「見者の詩法」があった。読み物に堕した文学、「商品」として扱われる文学を否定したものであったとさえ思われる。そうした行為を貫徹させたものとは、ポエジーへの全幅の信頼にあったのではないだろうか。

 

 扇動者の形而上学

 ベンヤミンは、マルクスの『新ライン新聞政治経済評論』(一八五〇年)に記された陰謀家たちの相貌に、ボードレールのそれとの類似性を見るという。マルクスによれば、プロレタリア秘密組織の形成にともない、ふだんの仕事の片手間に陰謀にかかわる臨時の陰謀家とプロフェッショナルな陰謀家に分類されているが、不安定な生活を送り不規則で、安酒場が陰謀家たちの密会の場所になっていて、いろいろないかがわしい人たち(マルクスがいう「フランス人がラ・ボエームと呼んでいる曖昧な、ばらばらな、浮き草のような大衆ばかり」)ボヘミアンたちとの交流を持たざるを得ない生活環境に組み込まれていったという。ナポレオン自身がそのような環境から成り上がった人で、秘密主義、突然の攻撃などが第二帝政の国是をなしていたとベンヤミンは、『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』で述べている。「一八四六年のサロン」という美術批評を「ブルジョワに捧げる」と記したかと思えば、後にはボヘミアンの口調で罵倒する。また芸術の有効性を述べた数年後には、純粋芸術(芸術のための芸術)を主張したりしたと指摘する。

「ぼくが革命ばんざい!というのは、破壊ばんざい! 懲罰ばんざい! 死ばんざい!と仮にいうのと、同じことなのだ。---(中略)---ぼくたちはみな、骨のなかに梅毒菌をもつように、血のなかに共和精神をもっている。ぼくたちはデモクラシーと梅毒に感染しているのだ。」(ベルギーについての草稿メモ)ベンヤミンはこのような考えを、扇動家の形而上学と呼べるかも知れず、「ボードレールのなかには、マルクスが陰謀家たちに見いだしているテロリスト的な願望夢にさえ、対応するものがある。」と述べている。また、「以前に幾度かもったことのある緊張感とエネルギーを、再発見することがあるとしたら、恐怖をひきおこす書物を書いて、ぼくの怒りを発散させることでしょう。ぼくは人類の全体を敵にまわしたい。それはぼくには、いっさいを埋め合わせてくれるほどの快楽となるでしょう。」と書かれた、一八六互年一二月二三日の母宛の手紙をベンヤミンは引用し、『悪の花』の最後におかれるはずだった断片、「砦にまで高くそびえたつ魔術的な舗石」から「陰謀家運動の原点であるバリケード」を思い起こし、この「魔術的」なパトスは、ブランキシズムに負うものかもしれないと述べている。マルクスが、「革命的共産主義者」と称揚したルイ・オーギュスト・ブランキは武装した秘密結社「季節協会」を結成。一八四八年に二月革命に参加して国会に乱入し逮捕された。「レーニン以前には、誰も、プロレタリアートのなかに、ブランキ以上に明確な相貌を残したひとはいない」とベンヤミンはいう。

 ボードレールは、しかしながらたんなる革命家ではなくテロリストでもなく、精神の革命家というべき詩人なのである。政治を変え世界を変えるには、先ず自分を変革しなければならない。

 

 至高なる力の命じるところによって

 「詩人」がこの陰鬱なる世に現れたとき

 母親は不安に慄き、呪詛の言葉を胸に留め、

 憐れみを与えたまう神に向かって、拳を握りしめる。

 

 ――「ああ! まったく、なぜ私は蝮らの一塊を産み落とさなかったのか、

 こんな嘲笑の種を養い育てることになるくらいなら!

 夜よ、呪われてあれ! 仮初の快楽に

 私の胎内に呼気を宿したあの夜。

(『悪の花』の「憂鬱と理想」の冒頭の詩「祝福」の、最初の一、二連の筆者の拙訳。)

 

詩人が疎まれるのはいつの世も同じである。第二連以降、「詩人」を宿して、「陰鬱なる」この世に生を誕生させた母親の嘆きがつづく。ボードレールの詩人像が色濃く反映した詩と言えよう。

プラトンの対話篇『パイドロス』に描かれたように、人間はかつて神々の住む天上界にいて、神々の行進に従っていたが、「欲望」の馬と「理性」の馬の二頭立ての馬車の操縦を誤り、地上に落ちたとされるダイモーンの種族であり、この地上にて「美」を目の当たりにするとき、「エロース」の情動に捥がれた羽根の付け根である肩甲骨が疼くのを感じ望郷の念に駆られるゆえ、「詩人」とはそれを強く意識し、その末裔であるという思いをメタファーに持つ人間ではないだろうか。

 ポエジーは、限りなく遠い彼方から、「私」のいる日常世界に、恩寵のように足許に降りてくる。この世に亀裂を与えるものとして到来するのは、一種のインスピレーションとして言葉を

獲得することから始まり、日常言語の分節を引き離して深層言語を見出さんためである。このように、詩はプラトンの描いて見せたイデア世界と深くつながれている。『悪の花』の最初の詩篇群にボードレールが「憂鬱とイデー(理想)」と命名したのは示唆的である。ボードレールは、後に彼の詩からインスパイアされ、純粋言語の世界に執着し現実世界に事物の本質を見なかったマラルメとは違い、この世の神性を奪われた事象にどっぷりと浸かり悪を振りかざしていくのだ。

 

 なぜなら、主よ、それは真により良き証ゆえに、

 われわれが自らの尊厳を自らに与えるという証。

 時代は次々にめくり、われわれの熱烈なむせび泣きは

 やがて死に絶えることになるという証、そなたの岸辺で!

                   (『悪の花』「灯台」最終連の拙訳)

 

 ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ゴヤ、ドラクロアといった画家たちの描き出したのは人間の悪なのだ。「これらの讃歌(呪い、冒瀆、嘆き、法悦、叫び、涙)は千の迷宮を潜り抜けて繰り返される、同じ一つの木霊に過ぎない。これぞ死すべき人間のための、神から贈られた阿片」と言い、人間の悪から発する叫びは「千の拡声器で送られる指令」、「深い森で道に迷う猟師の叫び声だ」という。芸術家が描き出す人間の悪は「われわれが自らの尊厳を自らに与えるという証」であり、「そなたの永遠の岸辺で」死すべき人間の証だと神にささやくのである。ここにはもう「エロース」の羽ばたきはなく、プラトン哲学を咀嚼したキリスト教の神学が、ダイモーンを祖とする「堕天使」の叫びが反響しているとみてよい。だが、ボードレールにはランボーのような、人間を救い出そうとするプロメテウス的使命はないだろう。

 

 「祝福されてあれ、苦しみをお与え給いし私の神よ、

 われらの穢れを癒す神聖なる薬のように、

 そしてまた強き者たちを神聖なる逸楽に導く

 より良き、より純粋なる神髄のように!

 

 私は知っております、苦しみこそが高貴さであり

 この世も冥界も決してそれに噛みつくことができぬことを、

 すべての時代とすべての世界に代価を果たさねばならぬことを、

 私の神秘の王冠を編むために。

                         (『悪の花』「祝福」第十五連、十七連の拙訳)

 

 かくしてボードレールは、詩人としての使命を、passion(受難)の上におき、人類の悪を引き受けて十字架に磔になったキリストに自らをなぞらえるが、身の潔白を明かす者としてではなく、悪を具現することにより、自ら悪そのものになることによって浄化していこうとするかのように! ボードレールの悪に向かう激しさは、「照応」や他の詩篇、この「祝福」で時折見せる太古の無垢な精神の「健康」に一方で支えられているように思えてくる。また、この詩の「詩人」そのものが、ジャン・ジュネの存在を予告するものとも思える。「創造者は、彼の創造したものたちが冒す危険をとことんまで自分自身に引き受けるという恐ろしい冒険に身を投げ入れたのだ。(中略)創造者は彼の人物たちの罪の重さを自ら背負うだろう。イエスは人間となった。彼は贖罪する。神と同じく、彼は人間たちを創った後、彼らをその罪から解放するのである。―-―彼は鞭打たれ、顔に唾され、嘲弄され、釘づけにされる。」(ジャン・ジュネ『泥棒日記』)

 

右に引用した「祝福」第十七連とそれにつづく第十八連に出てくる「王冠」とは何の象徴なのであろうか。「私の神秘の王冠」、「眩いばかりに澄んだ美しい王冠」と形容されている。「すべての時代とすべての世界に代価(代償)を課せねばならぬこと」を「詩人」である私が知っているという「編まれる」べき「王冠」とは、「永遠なるもの」の徴(すなわちイデア界に到達しようとする仰望の形象化ではないだろうか。最終十九連では、「王冠」は「原初の光線の聖なる源から汲まれた、純粋な光でしか作られない」という。それは『悪の花』の詩篇「照応」で表された「象徴の森」に建つ、「香りと色と響き」が「応え合う」「神殿」と称える「自然」と、イデア界への憧憬から、ポエジーが舞い降りてきた根源へ遡行しようとする、ミューズの神々に吹き込まれた「詩人」の精神の羽ばたきが織りなす「詩の勝利」の謂いであろう。

 

 その想いは、雲雀のように、朝、天空に向かって

 自由な飛翔をとげる者たちに幸いあれ、

――人生の上を飛び、苦もなく解き明かす者たち

花々と黙り込んだ物たちの言葉を!

               (『悪の花』「高翔」の最終連の拙訳)

 

 だが、彼は天上の花々と対照をなすこの世(冥府)のそれらに身を引き裂かれ、トポス(場所)としての縦軸とクロノス(時間)としての横軸の交差する地点に居座り、「おおよ! 時は来た! 錨を挙げよう!」(『悪の花』「旅」)と叫びつづけている。

 

 copyright2014以心社

無断転載禁じます。


ボードレール「われとわが身を罰する者」(『悪の花』より)小林稔訳詩

2015年12月22日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「われとわが身を罰する者」の訳詩・小林稔

15 われとわが身を罰する者 L´HÉAUTONTIMOROUMÉNOS

 

 私は君を打つだろう、怒りもなく

憎悪もなく、者のように、

岩を打つモーゼのように!

君の目蓋から

 

苦しみの水が湧き出でるだろう、

私のサハラ砂漠を水びたしにするために。

期待に膨らんだ私の欲望は

君の塩辛い涙のうえを泳ぐだろう、

 

沖に舵を取る船のように。

君のいとしい嗚咽は、

その響きに酔う私の心に

突撃を打ち破る太鼓のように鳴り渡るだろう!

 

神に捧げる交響楽のなかの、

私を震わせ、私に噛みつく

貪欲な「皮肉」の恩恵で

私は調子はずれの和音ではないのだろうか?

 

そいつは私の声のなかにいる、耳障りなやつ!

私のすべての血、それはこの黒い毒物!

憎しみと羨望の女神メガイラが自らをそこに映す

私は不吉な鏡なのだ。

 

私は傷口にして刃物!

私は平手打ちにして頬!

私は四肢にして、処刑の車輪である

生け贄にして執行人!

 

私は私の心臓の吸血鬼、

――笑いの永遠の刑に処せられた

これら偉大なる見捨てられびとたちの、私は

もはや微笑することができぬ者たちの一人なのだ!

 

 

 copyright 以心社 2013

無断転載禁じます。


ボードレールについて(一)小林稔 詩誌「ヒーメロス」より掲載

2015年12月18日 | ボードレール研究

ボードレールについて(一)

小林 稔

 

 ボードレールの『悪の花』十三篇を自ら訳し終えて感得するのは、強烈な詩性である。このような詩が生み出されるには、書く主体の、つまりは生身の人間に躍動する永遠不同なる「詩人像」が内在しなければならないのだろう。ミシェル・フーコーが晩年に辿り着いた「生存の技法」、すなわちボードレールのダンディズムが要請されたことだ。言語の密度で迫力を見せつけたり、虚構を口実に小手先のレトリックで書く現代詩人の衰退した詩とはなんという相異であろうか。詩の前で詩人は消え去るべきだという、ご都合主義には騙されまい。詩は詩人より優位に置かれるべきことは当然のことであるが、ボードレールの詩のどの作品一つをとっても、詩人の存在を感じさせない詩はないと言える。それではボードレールは詩から垣間見られる生活をそのまま生きたのかと訊ねられれば、否である。生身のボードレールと詩人ボードレールとは差異があるということだ。つまりボードレールには、信念としての確固たる詩人像があり、それに近づけようとすべての私生活を代価に生きたということに他ならない。詩を追い求めて彼自身が牽引されているのだ。しかるに彼の詩の栄光のうしろに詩人の存在を感じさせることになる。このことは、彼の美術評論「生活する画家」の「現代性」の主張と関係づけることができる。詳しくは私の評論『自己への配慮と詩人像』の後半部で探求することになる。ここでは気ままな感想を述べるにとどめておこう。

「照応」と「高翔」では詩法の一端を告知し、「敵」と「不運」では詩人の生きた過程における困難さを垣間見せる。「Ma jeunesse ne fut qu´un ténébreux orage」というロマン主義的表現で読み手を引き込むが、ボードレールはそこを超え、夢の世界に安住しない。「O douleur!  ô douleur! Le Temps mange la vie」(おお、苦痛よ! おお、苦痛よ! 「時」が命を喰らうのだ)と詩人の苦悩の叫びをあげる。永遠をこの世に開示させようとする悲痛な叫びである。「L´Art est long et le Temps est court」(「芸術」は長く、「時」は短い)という詩句は実感をもって迫ってくる。「人間と海」では、海と双生児である人間の心の深淵に荒れ狂う海のイマージュが、そこに巣食う獰猛な、殺戮や自らの死も辞さない獣性を鏡のように映し出す。私にはゴヤの「巨人」が憶い起こされる。「読者へ」は『悪の花』の冒頭に置かれた詩である。ほんとうは詩集をすべて読んだ後で読まれるべきものであろう。初めて読んだ弱年には理解できなかった。しかし、ボードレールの『悪の花』の構成は完璧である。人は「あほうどり」や「通りすがりの女」といった分かりやすい詩から足を踏み入れることもあるだろう。重厚な密度の高い言葉で叩き込む詩の後にそれらは置かれている。しかしそれらの詩は質において劣るという意味ではなく、愛すべき詩という意味で親しみやすいのである。「読者へ」では、人間の「愚かさ、過誤、罪、吝嗇」が、この世の「悪」へと導いていくという。私たちは、悔恨と悔悛を繰り返しながら地獄への階段を一段一段降りていくというのだ。しかし、ボードレールの真の偉大さは、生を営む私たちの内部に宿る悪=欺瞞を暴き出し、「私の同類よ! 私の兄弟よ! と言い放つところにある。つまり、形而上学にとどまらず、至高なる精神と俗なる現実、「不易と流行」の一致をこの地上に花ひらかせようとするところにある。

「灯台」では、ルーベンス、ダ・ヴィンチ、レンブラント、ミケランジェロ、ゴヤ、ドラクロアといった画家の描き出す世界においても同様に、ボードレールは人間の悪の主題をを読んでいる。「これらの讃歌は、千の迷宮を潜りぬけて繰り返される、同じ一つの木霊に過ぎない。これぞ死すべき人間のための、神から贈られた阿片」とまで言い放つ。人間の悪から発する叫びは「千の拡声器で送られる指令」「深い森で道に迷う猟師の叫び声だ」という。そうした、数々の芸術家が暴露するその眼差しは悪を照らし出す灯台の光なのだ。最終連においても、ボードレールの同類意識は退席しない。彼は神にささやく。芸術家が描き出す人間の悪は「われらが自らの尊厳を自らに与えるという証」であり、「そなたの永遠の岸辺」で死すべきもの=人間の証なのだと結んでいる。

「夕暮れの諧調」では音楽と詩の形式の合体が試みられ、言葉の響きが繰り返される波のように流れてゆく。「秋の歌」では、「もうすぐ冷たい暗闇へ、私たちは身を投げ沈むだろう」という衝撃的な一行から始まる。plongerという語が印象的だ。「不運」の一行、「時が命を喰らうのだ」が根底に響きわたっている。燃える薪の崩れる音に「棺に釘を打つ音」を重ねて聴き、過ぎ去る時の儚さに感じ入るが、一方では「出発を告げるように鳴り響く」という。過ぎ去る時への郷愁と未知なる時への旅立ちがボードレールには共存している。その引き合う力は互いに増大していく。この詩では過去への想いに強く引かれ、「晩秋の、黄色く心地よい陽射し」を浴びて愛するひとに慰められたいという願望にとどまる。その「たゆたう」心に音楽が彼に与える気だるい逸楽を身に受けようとする。

「白鳥」は長さもさることながら大作であり、彼の主張する「現代性」(モデルニテ)が、「通りすがりの女へ」とともに明確に示された詩である。詳細は「詩人像」で追究することにするが、神話上の人物の身の上と、現実のパリの路上に登場する白鳥のイマージュの二重性によって、オスマン計画によって急速に変わりゆくパリを想い、憂愁の思いに浸る詩人がいる。しかしそれで終わらないのがボードレールの凄さである。パリで見かけたアフリカ女を登場させて自然と都市を対比させ、「花々のように萎れてゆく痩せた孤児たち」maigre orphelins séchant comme des fleursに詩人は想いを馳せる。「ふたたび見出されないものをすでに失ったすべての人たち」A quiconque a perudu ce qui ne se retrouve /Jamai.jamai! á ceux qui sabreuvent de pleur ……とつづく。最終連では、「島に忘れられた水夫たちを、囚人たちを、敗者たちを! さらに他の多くの者たちを!」にまで思いをめぐらすのだ。私はほとんど言葉を失いそうになる。ボードレールには詩人がなすべきこと、比喩的にいえば、神から与えられた「使命」と呼んでもいい詩人像がある。「通りすがりの女へ」は「あほうどり」と同じく、小品だが愛すべき詩だ。「白鳥」の詩にある、Dont le regard m´a fait soudainement renaîtreというフレーズを「彼女の眼差しで、私はとつぜん真実、われに目覚めた」と訳したのだが、適切な表現であったか心もとない。そうした理由には、状況はまったく異なるが、かつて私はグラナダのアルハンブラ宮殿の「裁きの庭」を訪れたとき、一種の感動といえようが、ほんとうのわれに目覚めた、私の深部に内在する「ほんとうの我=他者」に出逢えたという実感をもったという体験があったからである。(私の第五詩集『砂漠のカナリア』所収)。

 思いつくままに、『悪の花』第二版の順序によらずに試みた翻訳であったが、振り返れば私なりの理由があったことがわかる。ここではそれは言わないでおこう。次の詩群は、ボードレールの詩人像が強く浮彫りにされるいくつかの詩、まずは「祝福」から取り上げてみよう。

 

copyright 2013 以心社

無断転載禁じます。


ボードレール「旅」 小林稔訳 『悪の花』より

2015年12月18日 | ボードレール研究

20 旅

        ボードレール「悪の花」より

   小林稔 訳

 

      マクシム・デュ・カンへ

  

    一

 

地図と版画の大好きな少年にとって、

宇宙は旺盛な食欲に等しいものだ。

ああ! ランプの光の下では、世界のなんと大きいのだ!

追憶の視線の下では、世界のなんて小さいのだ!

 

ある朝、おれたちは船出しよう、脳髄を焔でいっぱいにして、

心は恨みと苦い欲望で膨らませ、おれたちは行こう、

波の律動に随いながら、有限な海の上に

おれたちの無限を揺すりながら。

 

ある者たちは、卑劣な祖国を喜び勇んで逃亡し、

他の者たちは、揺籃の土地を怖れから、そしてある者たち、

女性の眼の中に溺れた占星術師たちは、

危ない芳香を放ち、抗しがたいキルセから逃げ去る。

 

獣に換えられないように、彼らは

空間や光や真っ赤に染められた空に陶酔する。

彼らに噛みつく氷、赤胴色に灼く日光が

キスの痕跡をゆっくり消していく。

 

しかしほんとうの旅人とは、ただ旅立つために旅立つ人

心は気球のように軽く

己の宿命からは絶対に離れられないのに

なぜかも知らずいつでもいう、「行こうぜ!」

 

欲望が雲の形を持つその彼ら

新兵が大砲の夢を見るように

気まぐれで未知の、人間の精神が決してその名を知らなかった

とりとめのない逸楽を夢みている!

    二

 

おれたちは恐ろしいことに模倣する! 

ワルツに踊る独楽と跳躍する毬。睡眠の只中でさえ

好奇心がおれたちを拷問にかけ、おれたちを転がす、

太陽の光をたたきつける天使のように。

 

奇妙な運命よ、目標は移動し、どこにもないから

どこでも構わないのだろう!

決して倦むことのない希望を持ちつづける人間が

休息を見つけるために、狂人のように絶えず駆け回る運命よ!

 

おれたちの魂は、理想世界を探している三本帆柱

ある声が甲板の上に鳴り響く、『眼を開け!』

檣楼の上の、熱烈な、狂気の声が叫ぶ、

『愛よ……、栄光よ……、幸福よ……』地獄だ、暗礁だ。

 

見張りの男が知らせる、それぞれの島は

運命の女神によって約束された黄金郷エルドラドだ。

宴会を仕掛ける想像が見出すのは

朝の光の下の暗礁ばかりだ。

 

おお 幻想の国々に恋い焦がれる哀れな男よ!

蜃気楼が渦流の潮をより苦くする

この酔いどれの水夫、アメリカの発見者を

鉄の鎖で縛り、海に投げ入れるべきではないのか?

 

おなじように、泥に足を取られた老いぼれた流浪者が

空を仰ぎ、輝く天国を夢みている。

魔法をかけられた眼は逸楽の都カプアを見つけ出す、

蝋燭があばら屋に蝋燭が灯ってさえいればどこにでも。

 

 

    三

 

驚くべき旅人よ! なんと気高き物語を

海のように深いあなたの眼の中におれたちは読み解くのか!

あなたの豊かな記憶の小箱をおれたちに見せておくれ、

星と精気でつくられたその素晴らしい宝石を。

 

おれたちは蒸気も帆もなく旅に出たいのだ!

牢獄の倦怠を晴らすために

画布のように張られた、おれたちの心の上に

水平線を額縁として、あなたの想い出を通過させよう。

 

話しておくれ、あなたは何を見たのか?

 

 

    四

 

               『おれたちは星を見た。

波を見た。おれたちは砂も見た。

多くの衝突と思いがけぬ災厄にもかかわらず

おれたちは今と同じ絶えず倦怠に襲われた。

 

紫色の海の上に姿を見せる太陽の栄光は、

沈みゆく太陽の中の都市の栄光は、

おれたちの心の中の、魅惑的に反射する天空に

身を投じたいという不穏な熱情に火をつけた。

 

この豊かさこの上ない都市も、この壮大なる風景も

偶然が雲を用いて作る、神秘的な魅力を

決して持ったことはなく、それゆえに

いつも欲望がおれたちを不安にした。

 

――享楽が欲望に力を与えている。

欲望よ、快楽を栄養にする老いた樹よ、

樹皮が厚くなり、固くなる間に

おまえの枝は、もっと近くに太陽を見ようと切望する!

 

おまえは絶えず成長するのか? 糸杉より根強い大樹よ。

――だが、おれたちは入念に、貪欲なあなたたちのアルバムのために

いくらかの素描をむしり取って来たのだ。

遠くから来るものはすべて美しいと思っている兄弟たちよ!

 

おれたちは象の鼻をした偶像に敬礼した。

喜ばしい光を星のように散りばめた玉座も見た。

おまえたちの銀行家には破産の夢であろうそれ

精巧の限りをつくした宮殿を見たのだ。

 

眼を陶酔させる衣裳の

歯と爪が染められた女性たちと

蛇が絡みつく、絶妙な曲芸師をおれたちは見たのだ。』

 

 

    五

 

それから、それからさらに何を見た?

 

 

    六

 

     『おお、子供みたいな頭脳を持つ人々よ!

 

一番大切なことを忘れぬため、

おれたちは見たのだ、好んでそうした訳ではないが

あらゆるところ、宿命の梯子の上から下まで、

不滅の罪の退屈きわまりない光景を。

 

女よ、いやしくも傲慢な、愚かなる奴隷。

冗談でなく自己崇拝し、嫌悪もせずに自己を愛する。

男よ、貪欲で好色、頑固で貪欲な暴君。

奴隷に仕える奴隷、排水溝に流れこむ溝。

 

快楽を享受する死刑執行人、泣きじゃくる殉教者、

流血が味をつけ香りをつける饗宴、

専制君主の神経を苛立たせる権力の毒物。

痴呆にさせる鞭を熱愛する民衆。

 

おれたちのそれによく似た数々の宗教は

皆、天国によじ登る、聖性の徳というものは、

気難しい男が、まるで羽根の寝台にでも寝転ぶように

悦楽を求めて針や釘の寝床にうずくまるようなものだ。

 

おしゃべりな人類は、自らの才能に酔い痴れ、

昔そうあったように今も愚鈍で、

怒り狂った断末魔、神に叫んでいる。

「おお わが同胞よ、おお わが主よ、おれはおまえを呪う!」

 

それほど愚鈍でない奴ら、狂気を愛好する大胆な奴ら、

運命に封じ込まれた大群衆から身を引き、

広大な阿片の夢の中に逃げ込んで!

―地球全体の永遠の報告書とはこのようなものだ。」

 

    七

 

苦々しい知識よ、旅から引き出すそれは!

世界は単調で小さい、今日も

昨日も、明日も、いつも、おれたちにおれたちの姿を見せる。

倦怠の砂漠の中にある、恐怖のオアシスだ!

 

出発すべきか? 留まるべきか? 留まれるなら、留まれ。

必要なら出発するがよい。ある者は走り、ある者は蹲るが、

注意深く不吉な敵、「時」を欺くため!

なんと、休みなく奔りまわっている人たちがいる、

 

さまよえるユダヤ人のように、使徒のように

彼らには、この恥ずべき闘士から逃げるためには

車も船も十分ではない。他の者たちの中には、

揺籃の土地を去ることなく、「時」を殺すのを知る者もいる。

 

ついに「時」がおれたちの背骨を足で踏みつけるときに

希望を持ち、「前進!」と叫ぶことができるだろう。

シナを目指して昔、おれたちが出発したときと同様に

沖に眼を釘づけ、髪を風に靡かせ、

 

おれたちは乗り出そう、冥府の海に

若い乗客のようにこころ弾ませて。

聞こえるだろうか、可愛いらしく、陰気なこの声が。

「こっちへおいで、食べたいと思うあなたたちよ、

 

香り高いロータスを。あなたたちのこころが欲している

奇跡の果実を摘み取るのはここだよ。

永遠に終わることのないこの午後の

不思議な甘さに酔い痴れてみないか?」

 

なれなれしい口調で、おれたちは幽霊を見抜くことができる。

あそこにいる、おれたちのピラドたちは、おれたちに腕を差し出す。

「あなたのこころを爽やかにするため、あなたのエレクトラの方へ漕いで行け。」

昔、おれたちが膝に口づけした女が言う。

 

    八

 

おお 死よ、老いた船長よ、錨を揚げる時が来た!

おれたちはこの国に飽き飽きしているのだ、おお 死よ! 出航だ。

空と海が墨汁のように黒いとしても

おれたちのこころはおまえも知るように光明に満ち溢れている!

 

おまえの毒をおれたちに注いでくれ、おれたちに力を取り戻させるために。

その火焔におれたちは脳髄を烈しく焼かれ、おれたちは望んでいる

深淵の底に身を投げることを、地獄であろうと天国であろうと、どこでもよい。

未知なるものの奥底に、新しさを見出すために!

 


ボードレール「時計」 小林稔訳詩『悪の花』より

2015年12月15日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「時計」の訳詩・小林稔

 

17 時計 L´HORLOGE

 

時計! 不吉な神、ぞっとさせ、何ものにも動じない、

その指でわれらを脅し、われらに言う、「思い出せ!」

ふるえる「苦痛」たちは、恐怖に満ちた、おまえの心臓に

突き刺さるだろう、まもなく、標的を狙うように

 

靄のかかった「快楽」は逃げるだろう、地平線の方へ、

舞台の奈落に消え失せる、空気の小妖精のように

一刻ごとに、おまえから、一塊を食いつくす、

今を盛りの人間たちに割り振りされた歓喜を。

 

一時間に三千六百回ずつ、「秒」が

ひそひそ囁く、「思い出せ!」――昆虫の声ですばやく

「今」が言う、私は「昔」だ、

下劣な吻管で、おまえの命を吸い上げたぞ、と。

 

Remember! 思い出せ! 浪費家よ! Esto memor!

(金属の私の咽喉は、あらゆる言葉を話すのだ。)

ふざけた死すべき人間よ、一分一分は鉱石、

金を取り出すことなく手放してはならない!

 

思い出せ、時は貪欲な賭博者、

いかさませずにかっさらう、それが定め。

日は短くなり、夜は長くなる、思い出せ!

深淵は絶えず渇望する、水時計は空になる。

 

やがて時が音を鳴らすだろう、神聖なる「偶然」、

高貴な「美徳」、いまだ処女なる、おまえの妻、

「後悔」さえも(ああ! それが最後の旅籠屋だった!)

皆がおまえに言うだろう、死ね、間抜けな老人よ! もう遅すぎた!

 

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