小林稔第七詩集『砂の襞』2008年 思潮社刊より
蛇と貨幣
小林稔
闇から浮上する他者のまなざしは
解析され 微分されようと触手を展げる
死者と生者がなだれこむロータリー
砂粒のように渦巻き やがて一直線に川辺に急ぐ
その川の泥水でなら覚醒するだろうと信じている彼ら
昨日 老人が一頭の牛を操り 荷車を曳き
今日 牛の曳く荷車が老人の死体を運んでいく
円環する「時」に八百万の神々を統べる太陽神
自らの尾を呑みこむ蛇 われらの命の再生がある
万年雪の岩盤から溶解する それぞれの一滴が整合し
傾斜を落ち 湾に辿り出て海洋に注ぐだろう
貧者は神々にとり巻かれ 片足を引きずり
血の色をした花びらの舞う四つ辻を通る
スコールのやんだ舗道
焼けついた土の肌で
富者に 貨幣の循環を授かるべく
鋼鉄のような腕を差し出す
手のひらの金貨を眉間につける
貧者のまなざしは 天の
青い紙のような空に向けられた
草木も育たぬ対岸の地
行き場をなくした霊たちが浮遊している
朝霧に隠された地平と 空の境から太陽が昇りつめる
群集が泥水に鼻までつかり 礼拝する此岸
焔に包まれた遺体の薪からはみ出した足が 引きつった
親族の嗚咽が煙とともに舞いあがり
川のおもてを滑っていく死者の霊がある
そびえる石の寺院の壁に にじみ出る読経
僧侶の声の数珠が 輪廻から弾かれることを願う
骨は水底に掃き出され 魚たちは灰を食む
(あの石段に棄てられた男の子の
なくなった両手両足を なんとかしてくれないか
切断されるまえの指を返してくれないか)
窓のない部屋の 両開きの扉を開けると
猿が屋根伝いに跳びこんで侵入し 屑篭を狙う
昨夜から大麻の幻覚に
意識の臨界を見えなくした友は
自己をそがれたような痛みに耐え
私を見ては目じりに涙を溜める
どこに還るというのか 旅の道で
抜け穴の見つからぬ悪夢に酔いしれるだけだ
天井の羽目板に吸いついた大ヤモリが
新来者の友と私を威嚇する
耳朶で海鳴りのように繰り返す読経
死体はこの街で焼かれ 川を下り神々に抱かれるという
ならば 生者こそが悲惨なる存在
まなざしの他者が住まう魂の住処であろうか
友と私は暗闇を歩いて渡し場に着いた
舟には人だかりがあり
艪の灯火で 眼球が舟底に散りばめられた
水をゆっくり分けて対岸へ向かった
永遠と夏
小林 稔
かつてテラと呼ばれたこの島
古代の遺跡から掘り出された壁画の
赤土のような皮膚をした彼らの裸体
首筋を剃り 巻き毛を垂らして腰を突き出す
ボクシングをする二人の少年のように
どうしたことか 君とぼくはサントリーニ島にいて
照りつける夏の陽射しに 全身を焼かれている
海を少し隔てひっそりと浮かぶ小島
海底に沈んだという 伝説のアトランティスの火山から
灰がこちらに吹き寄せられた断崖に
レストランやカフェのある
外壁に視界をさえぎられた坂道を
ぼくたちは歩いていた
七つの島を廻るぼくたちの脳裏に絶えずあった
アテネで見た巨大なブロンズのゼウス像
世界を統治する力と調和に全身をゆすられ
兄弟であろうとさまよい出たぼくたちに
一撃を喰らわせる父なる存在
君を倒そうともくろんだことはなかったが
家の庇が影を落とすように ぼくの存在によって
君は傷口をひろげ 化膿している
(すべてを失いつつある兄であるぼく)
知と財産を共有できないのは当然だ
生きるとは不可逆性であるから
(二つの道はどんどん離れてゆく)
富の不均衡と嫉妬は消滅しない
ミューズに導かれたぼくは
いっそう不可解になる迷路で
運命にあそばれる狂人のように
他者になる夢を棄てられない
北極の氷塊に立っているような断崖で
海と空の青に溶け合った
青春の残された日々が染められる
この白い建物とゆがんだ道を
裸で歩き回ったぼくたちの
宿命のボクシングは 終わりそうにない
小林稔第七詩集『砂の襞』2008年 思潮社刊より
蛇と貨幣
小林稔
闇から浮上する他者のまなざしは
解析され 微分されようと触手を展げる
死者と生者がなだれこむロータリー
砂粒のように渦巻き やがて一直線に川辺に急ぐ
その川の泥水でなら覚醒するだろうと信じている彼ら
昨日 老人が一頭の牛を操り 荷車を曳き
今日 牛の曳く荷車が老人の死体を運んでいく
円環する「時」に八百万の神々を統べる太陽神
自らの尾を呑みこむ蛇 われらの命の再生がある
万年雪の岩盤から溶解する それぞれの一滴が整合し
傾斜を落ち 湾に辿り出て海洋に注ぐだろう
貧者は神々にとり巻かれ 片足を引きずり
血の色をした花びらの舞う四つ辻を通る
スコールのやんだ舗道
焼けついた土の肌で
富者に 貨幣の循環を授かるべく
鋼鉄のような腕を差し出す
手のひらの金貨を眉間につける
貧者のまなざしは 天の
青い紙のような空に向けられた
草木も育たぬ対岸の地
行き場をなくした霊たちが浮遊している
朝霧に隠された地平と 空の境から太陽が昇りつめる
群集が泥水に鼻までつかり 礼拝する此岸
焔に包まれた遺体の薪からはみ出した足が 引きつった
親族の嗚咽が煙とともに舞いあがり
川のおもてを滑っていく死者の霊がある
そびえる石の寺院の壁に にじみ出る読経
僧侶の声の数珠が 輪廻から弾かれることを願う
骨は水底に掃き出され 魚たちは灰を食む
(あの石段に棄てられた男の子の
なくなった両手両足を なんとかしてくれないか
切断されるまえの指を返してくれないか)
窓のない部屋の 両開きの扉を開けると
猿が屋根伝いに跳びこんで侵入し 屑篭を狙う
昨夜から大麻の幻覚に
意識の臨界を見えなくした友は
自己をそがれたような痛みに耐え
私を見ては目じりに涙を溜める
どこに還るというのか 旅の道で
抜け穴の見つからぬ悪夢に酔いしれるだけだ
天井の羽目板に吸いついた大ヤモリが
新来者の友と私を威嚇する
耳朶で海鳴りのように繰り返す読経
死体はこの街で焼かれ 川を下り神々に抱かれるという
ならば 生者こそが悲惨なる存在
まなざしの他者が住まう魂の住処であろうか
友と私は暗闇を歩いて渡し場に着いた
舟には人だかりがあり
艪の灯火で 眼球が舟底に散りばめられた
水をゆっくり分けて対岸へ向かった
小林稔詩集『砂の襞』思潮社刊2009年より
詩集の最終章「砂の襞」全編をお届けします。無断転載は禁じます。
Ⅰ
トルコ玉のような眼は、バンデアミールの湖面の青緑色を呼び起こし、
藁の匂いを放つ黄色の肌は土色に灼け、頭上には黒髪が砂ぼこりをかぶ
っている。
この男、ダルーシア・ナント・カントの出自は、モンゴルの国境に隣
接したロシアの地であるとも、匈奴の末裔ともいわれるが、ほんとうの
ところはわからない。種種の民族の血が流れているのだろう。
踵にまとわりついている干からびた紐状の蛇が男の過去であり、歩く
たびに砂に線を曳くが、たれひとりそれを見た者はいない。彼が立つ砂
の上で記憶の草が燃えている。
一本の煙草にライターの火を点じて眼差しを空中に泳がせるとき、わ
れわれの網膜に砂がいちめんに付着する。
緑なす樹木の陰で憩い、眠る恋人たちの厚い胸板のポンプの音に命の
神秘を嗅ぎわけ、信号の赤を見つめ青に転じると、細胞分裂のように動
き出す群衆の眼差しの先に、砂漠を行く男が見える。
いつしか、この男の動きに心臓の鼓動が重ねられる。すなわちダルー
シアは、われわれのなかにいる。
われわれの身体はいずれは砂に還っていく。
瞬時にして空から滝が流れ落ちる。乾いた砂地が水を吸い込んだが堪
えきれず、クレーターになだれ、海になり水深を増していく。
思いがけず雨はやんで、青天白日の空はわれわれの頭上にあった。煉
瓦の集落は崩れて瓦礫の山となり、もう一つの集落に向け出立する。凍
てつく夜を天幕のなかで忍んだ。
赤い砂、黄色い砂、黒い砂。岩盤の隆起がつくる大地。沈黙に封印さ
れたわれわれの耳孔。深く抉られた水のない大河。この砂地を果てしな
く歩いていけば海洋に出る。砂に波が寄せて海底に招き入れるだろう。
かつて海であった記憶を保ちながら、帆柱を上げて砂の海を一艘の船
が走っている。
すでに伝説になった砂漠の物語。都市生活者の夜明けの冷気にダルー
シアの気配を感じるとき、顔面は白布に覆われ、いくつもの鉛の夜と砂
の丘を越えて、空の青と砂の黄色の境に蜃気楼のように揺れて建つ寺院
の塔を指差す。辿り着けるのはいつか、息絶えていく者を砂に沈めて。
死者と生者を分かつものは、口から肺へ逆流する息、そして血液が駆
り立てる、すなわち夢の粒子とも、修辞ともいわれる言葉のエネルゲイ
アである。
死者が身体の孔という孔から砂を吸い込んで人柱となり立ち上がる。
われわれの飢餓は死者の乾き。死者はわれわれの肉を喰らい、われわれ
は死者を見棄てる。ここでは永遠という言葉は意味を持ちえない。雨雲
の変動とそれによる空気の循環、夜空を移動する星辰、なによりも東の
果てから仰々しく立ち上がる黄金の円、すなわち神と称される太陽は、
蟻のようなわれわれの卑小さを頭上高く見下ろして、つかの間の命と夢
を焼きつくそうといかめしい輪郭を見せ、西の果てに満願の笑みを浮か
べ墜ちるまでの昼日中、われわれは光を遮る壁の昏い迷路に遁れる。
Ⅱ
わたしの躯のくぼみにふくらみをそわせ、わたしの胸に身を投げる君
は冥界の底でわたしから秘儀を受ける。老いは若さへと継がれ、記憶は
反復によって命に与するだろう。
われわれの砂の一粒一粒がすなわち言葉である。
老いていくわたしの飢えは癒しがたく、君の身体の部処という部処に
わたしの唾液は塗られるだろう。やがては世界を征服する脆弱な腕が、
逞しさを備えるまで。椰子の木の涼をわたしに授ける君の眼差しと、粗
野にして繊細な立ち居が、わたしの視界に優しい音楽を運んで、砂に横
たわるわたしの上を風のように走る君は、わたしの幼い皇帝である。
絵の具を塗りたくった蒼空に飛行機雲が直線を曳いていく。
愛とは、さまよえるわれわれの魂の休息の墓地である。
Ⅲ
(扉を開く。物語が始まる、あるいは始まらない予感で紙片を繰る。わ
れわれの他者は扉の向こう側にいる。)
ダルーシアが城門の鉄の扉を押したとき、ざわめきが暗闇のなかに聞
こえた。しばらく佇んでいると、闇をつくった壁の輪郭が見え、微光が
左手から射しているのが知れて、浮遊する魚のように進む。
光の強度と比例して闇がいよいよ濃度を増していく。ついに眼もあて
られぬ眩い光線の束が、ダルーシアを包む白布を突き抜けて彼の身体を
影のように浮かび上がらせた。硝酸の匂いが立つ白い視界に、燃えさし
の輪郭をセピアの陰影が辿り始めると、眼前に人の形が迫るが、その左
半身は消えている。その空白から荷を肩に載せて歩く男が現われる。そ
の男の足取りを縫って子どもたちの群れがあとを追っていく。
右から左へ、左から右へ行き交う人々。石を敷いた広場の雑踏の坩堝
に溺れたダルーシアの身体は包囲され、突きあたりの、金銀の容器を吊
るしている店の横の路地に逃げ込んだ。
群集の人いきれ、衣服の泥に塗られた、われらがナント・カントが蜘
蛛の糸状に伸びた道を歩き、岐路に立てば一つの道の選択に迫られる。
建物の高い壁の狭間に道は川のようにつづく。壁一つ隔て、老人が陽光
を背に受け書物の活字に視線を遊ばせている。閉ざされた扉の向こうで
は、静かな生を営むいくつもの時間が流れているだろう。しばらく歩い
て四つ辻に来たとき、光が射す前方、さらに細い道があった。
われわれは言葉の橋を渡る、見棄てた道の、生の夢を病んで。
Ⅳ
虚空を見つめる老人たち。青の深みにとめどなく吸われそうになるが、
かれらの脳裏には、一枚の平板な布が存在しているにすぎない。地上で
の終焉ののち、魂は空に駆け上がり青い粒子になると信じている。
砂塵とも白髪とも見定めがたい頭髪。風雨に耐えた油紙のような顔面
の皮膚。手の甲の稲妻が放射したような皺だらけの乾いた皮膚。
いくつもの襞に折り畳まれた木綿の布が、老人たちに貼りつき、骨の
輪郭を浮き彫りにする。これら老人たちの身体と服装は、物質性におい
て砂と契約を取り決めているのだろうか。
ダルーシアが一つの集落を囲む城壁に足を踏み入れたとき、一人の老
人が息絶えた。すでに物質になった死体は人々によって集落から離れた
砂地に棄てられた。太陽と砂に水分を奪われた紙切れのように壊れ、砂
粒になるだろう。砂が風に立ち、ダルーシアの耳孔に流れ入り、判読不
明な言葉を発信するので発狂しそうになる。
砂の壁に躯を崩した女の股間から一つの命が引きずり出された。新た
なダルーシアの誕生である。砂漠はいくたびも甦生し、一つの文明が終
わるときに砂は騒がしくなり、星の光が砂丘に届くときに砂は閃光で金
色になった天空を仰いで寡黙になる。
駱駝に跨るダルーシアをたれか見つけたら、それは石の建物の狭間に
カーブする石畳の道を、月明かりで進む旅人の孤立した存在の影、寝台
へと肉体を置き去りにしたわれわれの影である。
Ⅴ
道は頭上から陽光が照りつける広大な空間にダルーシアを導く。声が
矩形の庭を囲んだ花々の幾何学模様のタイル地の壁に反響し、旋回して
舞い上がる。声は円天井の下にひれ伏す男たちから立ち上がった。
壁に描かれた黄色と青の細かい花々が、太陽の光線の移動で次々に咲
き誇っていくと、ダルーシアの胸の空洞が広がっていく。庭の中央の泉
から湧き起こった水が廻廊の掘割に注ぎ込んだ。花びらが雪のように舞
い、ダルーシアは直立したまま天空の汀に漂っているようであった。
泉に眼差しを注いで、ゆっくりと歩き、立ち止まる。歩き立ち止まる
自分を、歩き立ち止まる。水の運動を脳裏の襞に畳み入んでいくにつれ
て胸の空洞がさらに広がりを増して、胡桃に幽閉された夢の記憶が解か
れ、ダルーシアの眼差しの光線が一つの幼い貌に射した。
しゃがんだ幼子はダルーシアを見つめている。光の亀裂が眼差しを走
る。後方で大鳥の鈍い叫び声を聞いた。巨大な白い岩石が少年の額に落
下した、と思ったが幻影であった。老いたミケランジェロの、愛する者
を喪った嘆きが、ダルーシアの脳裏の闇からいくたびも立ち上がった。
しばらくして、幼子は誕生を待っている彼の子孫であると了解した。
いく億の精子たちが滅んだ夜の孤独は、ダルーシアを待ち構えていたが、
脳細胞がそれに抗い、全力で彼の舌を育んでいた。地上に別れを告げる
とき、彼の足許に降りた言葉が、他者から生まれ来るものの想念に孕ま
れるだろうと彼は信じた。
われわれは家族の絆が断たれていることをやがて知るだろう。細胞の
増殖が他者を生み出したが、魂は不意に他の在処から滑り込むのであっ
た。
魂の群集にわれわれは励まされ、滋養を摂取する。
砂漠に湧いた水の流れが低地へ蛇行して泥の川をつくる。ダルーシア
は足を浸した。風が不意に彼の白布の織糸の隙間を抜けて胴のくぼみに
届いた。砂漠から砂漠へ、街から街へ、終わらない旅に身をやつす疲労
は、湧き起こる命の躍動に癒され、彼には心地よく感じられた。
旅の途上で遭った少年たちの眼球は何を捉えたのであろうか。偶然に
も視線を交わして去るダルーシアの脳裏に少年の影像を携えることがあ
った。それらは蓄えられ、踵の泥を落としているときに、記憶の底から
水面に浮かび上がった。
少年の眼差しの先には真っ青な空に飛ぶ一羽の白い鳥があり、通り過
ぎた道、おそらく再び見ることのない、崩れた壁の民家が張り出した道
の、ゆがんだ地面があった。
Ⅵ
忍耐。夢を棄て希望の萌芽を根こそぎ切断してしまうこと。夕陽で金
色に輝く砂の一粒一粒に無常の声を聴き、われわれを生かす呼吸のみの
日々を経てつかみとられるもの。焼けた砂を馬の革靴が踏みしだき、天
幕を去るわれらがダルーシアは広大無辺の大地にひとり立ち、記憶から
も見棄てられ、街々の喧騒は昨日の夢のように思われてくる。
三日三晩、歩きつづけたことが一年のことのように感じられた。夜空
を埋めつくす金色の星。癒しがたい病に襲われ、いくばくとない命に白
紙が脳裏をよぎるとき、己の存在が消滅したのちの世界の存続に打ち震
えるわれわれの脆弱な魂は、やがてダルーシアの孤独を知るであろう。
Ⅶ
裂けた柘榴。赤子の頭ほどの大きさの西瓜、メロンの類。香辛料の橙、
紫の円錐状の山。銅でできた鶴の首の水差し。大きさの違う板金の皿、
器の類。絨緞。羊の首。襟の折り返しをめくり、重ね並べた背広の内側
の日本人の苗字を示す漢字の縦列。眼鏡。蛇腹の剥げ落ちた写真機。入
れ歯。縁飾りのついた短剣。錆びた銃。万年筆。ページのめくれ立つ書
物。帽子。罅の走る鏡。ジェラバを積んだ壁の五色の縞模様。錠前。キ
セル。手足の折れた仏像。衣服の類が次々とダルーシアの眼差しに捉え
られる。
駱駝と馬で駆けつける男たちを舞い上がる砂塵が包み込む。砂の砦を
背に縦横に走る道は、商人と旅人たちで入り乱れる。
われわれが旅で見るものは、往来する人々の百態の人生である。時間
の荒縄を裁つ旅人は、土地土地で生活する自分を演じてみるだろう、い
くつもの人生が可能なのだと。
道端で遭遇した土地の青年たちになることを仰望し、眼差しを所有し
て土地の言葉を話すが、一つの境涯を選び取ることは自由を奪われるこ
とに等しい。ならばむしろ旅人の運命を享受するだろう。
やがて歳月がすぎて祖国の土を踏む旅人は、かつて通りすがりに見た
夥しい数の土地の人々の人生を記憶に留め、病に苦しむ人、老いて死ん
だ人、若くして命を絶った人、生まれたばかりの人、これから生まれて
くる人たちを想い、定住を敢えて受け入れるのだ。
再び身体を荒縄で縛り、空のように澄んだ想いで砂の言葉を記し始め
ようとするだろう。
Ⅷ
砂粒が風に転がされ、かすかに聞き取れる小さな音を放っている。ダ
ルーシアの身体が重力をなくしたように軽くなり、やがて音が音階を奏
で始めて、彼の骨の深部からピアノ線が放つ旋律が静かに立ち上がった。
なつかしくも優しい旋律にダルーシアの眼差しから笑みがこぼれ、選
び取った若さの無知そのものである旋律の一音一音を身体の動きに感受
させ、砂上を廻った。主旋律がいくつもの変奏を迎えたとき、腕は何も
のかに引き寄せられ、誕生の喜びを讃える幼年の王国に引きずり出され
た。
この瞬間の穏やかな陶酔こそ神神の領域のものであろう。鍵盤を叩く
高音の最弱音が、抑えていた感情の扉を開いたが、ゆえ知らぬ悲しみの
涙が瞼に引き止められ、静かな喜びにたゆたう音の歩みと足の運びが重
なり合い、砂に彼の足跡が刻まれていった。
ダルーシアの頭上、緩やかに曲線を描くドームがそびえている。今は
拒んでいるような城壁に守られた市街。異邦人を迎えたかつての道は、
閂をかけられ、踝を返せば砂の道が足許から広がっている。眼前に立ち
はだかる漆黒の闇。この闇は記憶に値しよう。
忘却とは思い起こすことである。夜の訪れなくして眼差しが捉えた影
像は記憶の襞に刻み込まれることはないだろう。
物語の扉はついに開かれることはなかった。旅の記憶と同じように、
これらの断片は物語を構成しない。われわれは日々、何ものかの断片を
演じ、わたしとはたれかと鏡に問い、生きている。
われらがダルーシアは歩き始めた、一つの土地を背に砂漠の夜を。彼
のうしろで、かつて歩いた寺院と城壁もろとも崩れ落ち、砂になった。
Ⅸ
うつろな視線を遠くへ馳せ、都市生活者は秘境の旅に出る。神秘とい
う観光はさかんだ。地球のいたるところにかれらは敷衍した文明を読む
が、だからといって悲しむにあたらない。
砂漠はすでにわれわれの足許に寄せている。デジタル画面いっぱいに
砂粒が埋めつくしている。つまりは砂漠という観念、言葉に付着した遺
伝子たちの記憶の砂が、胸腔に雪のように堆積している。
ついに砂漠はわれわれのものになった。もうずいぶん前から、一人ひ
とりの無為の営みにおいて、想いを空しく漂泊させ、愛と裏切りと策略
に、砂漠の夜と真昼時の絶対の孤独を知り始めていた。
砂を噛みしめるように言葉を噛みしめる。頭上にはいつも青い空が広
がっている。見つめるほどに哀しみの色、はかなさの砂の色を呼び起こ
す水の色だ。血の朱色を洗い流して死を迎えるとき、われわれは砂漠に
立つ一本の木を思い起こすだろう。
砂の襞 小林稔詩集 Kobayashi Minoru
オルフェウス日録
一 詩人と竪琴
夕暮れは世界の終わりである
靴音を響かせるアルハンブラの水音
黎明は新たな苦悩の始まりであるか
イスファハン 見えない神の気配に触れる王のモスク
細胞のように増殖しひろがる雑踏 カルカッタの夜よ
旅から知りえたものは ただ事象のむなしさである
地獄を歩く自己を見出しつづけなければ
私はたちまち解体するであろう
今日も竪琴を黒い棺に横たえ 象牙の鍵盤を叩く
舞いあがる音で室内を満たすポロネーズ律動
ひとり作曲家が夢想し 足もとに織りなした
いく千もの泥の靴に踏みにじられ 浮き出る
花びらの舞い散る絨緞に 足裏を据えて
彼が命を代価につかんだ世界への共有である
音符の森に眼差しを疾走させる私は
死者を呼び寄せるひとりのオルフェウス
空の青から光の矢が心臓を刺し留める
雪崩れながら音の階梯を 乱反射する右指の打鍵
地上の廃墟に 片腕を亡くした神神の列が風を仰ぎ進む
非在への陶酔に抗いがたく私の手はとつぜん動きを止める
室内の余白を消えゆく音の沈黙で満たし始めると
不運に見舞われた私に 逆境に立ちはだかる私に
ポエジーとロゴスの結びの糸が舞い降りるのだ
二 譚
かつて降りしきる雨を いくすじもの線で描いた絵師がいた
かつて世界を 一冊の書物に書き著そうとした詩人がいた
ふと眼にした一葉のアフリカの邑の写真
土の家が並んで建ち 背後には
植民地時代に造られた西洋風の建物
腰布を巻いた男たちが屯してこちらを見つめている
旅人のほんとうに見た邑は
かつて見た写真の記憶に場所を空けられるであろう
旅には帰還があり 人生には終着駅がある
喜望峰という名を呼べば胸騒ぎがして
えもいわれぬ感動を抑えられず
北に象牙海岸を辿れば
燃える赤道の帯は陸揚げを待つ奴隷船に焼印を押す
東にシナイ半島の無人地帯
さらにアラビア半島を辿れば
うしろ髪曳かれる地獄に
いくたびも甦る己を見出すだろう
書物からの追憶であれ 足裏の記憶であれ
片雲の流れのままに
旅のさすらひをさすらわせる
旅とは過ぎ去った時空への追悼である
忘却の辺境よりさまよい出た記憶は
亡くした青春と引き換えに
言葉の相のもと 永遠の生をきらめかせる
われら創造に与する者に老いは喜ばしく
虚無に身を投げ打つことも辞さないだろう
世界の形象と引き換えに
三 伽藍
朝霧が山を降りて
家家の軒下を走り
阿弥陀の道という道
行商を迎える街道に流れこんだ
そびえ建つ 塔また塔と
翼のような三層の屋根瓦を這い上がる
数百の窓のある王宮 その内部は夜をはらんで
数百の歳月をひたすら老いつづけた
ある者は塩を担いで北から来た
ある者は絹を売りに西に向かった
ある者は胡椒を求めて南を訪ねていった
ある者は経典を抱えて東へ旅立った
道の終わりにして始まりである
王宮広場の透視図法 あるいは伽藍配置
陽光が水汲み場の石段に影を曳いて
僧院の白壁はいっそう清廉をきわめる
いまひとり異邦の旅人が道の終わりに立ち
矩形の中庭に眼差しを遊ばせると
語られなかった言葉がいっせいにひしめく
たわんだ帆布が宙に舞い上がり
記憶の余白に
彼方の港市から潮が流れこむだろう
われら空より誕まれ 空をさすらひ
空へ逝く者の 無為なる時の永からんことを
四 汝自身を知れ
アポロンの神託から遁れようと
コリントスの父母から去る三叉の辻で
四人の護衛と仔馬の引く車に乗る 老いた男に逢った
両者道を譲らず 殴り合い殺したその男が父親であると
あなたには どうして知りえたであろう
テーバイの王となるべきオイディプスよ
父を殺し母と交える という忌まわしい神託に
遠ざかることで近づきつつあった あなたの若い裸の背に
ぴたり運命の女神モイラが貼りついていたことを
あなたの視線は 真昼の光線で気づくことはなかった
(絡んだ糸がほぐれ 記憶に影が陥れられていく)
デルポイの神殿の石に刻む「汝自身を知れ」とは
明かされずにいたあなたの出生のこと
予言を避けるために あなたが別れを告げたのは
ほんとうは血を分けた者たちではなかった
みずから呼んだ闇の視界にさえぎるのはキタイロンの山
無垢な笑みを浮かべる幼子のあなたが棄てられた古里のこと
不運から一歩も譲らずに神神と闘ったゆえに
王となったあなたの 人としての尊厳は貫かれた
裁く者にしてみずからが裁かれる者
くるぶしが抜かれたオイディプスよ
今日 あなたの嘆きはすべての人の嘆きである
デルポイに咲く野の花におおわれた丘の傾斜
神殿の廃墟から 神神は星辰に還りついたが
運命の女神モイラは 生き延びた地上で
さまよえる旅人であるわれらの背に
忍び寄ろうと待ち構えている
五 旅の詩法
岩陰から躍り出た男と私は
向かい合わせに川を越えた
男が跡を残した道を私が辿り
私が残した道を男は引き継ぐのだ
――文明の匂いがしてきた と西に向かう男はいう
水のない川から十数メートル上方の
岩壁のたなごころで 少年が釣り糸を垂れている
私の向かった東では
国境を越えてきたバスの車窓に 少年たちが群がって
なりわいのため両替せよと 札束を叩きつけた
太鼓と弦の打ち鳴らす音が 砂地を這う蛇のような
声の旋律とからんで 旅を憂える青年の私がいた
地の霊に牽引された群集は 路地から路地を駆けめぐり
死を静かに迎える老人を取り囲んで 姻族たちは
中空に視線をさまよわせ 嘆いては胸をかきむしる
真鍮を叩く音が規則的に空に響く大通り
灼熱で足裏を焼かれた惰眠の群衆を覚醒させ
きんいろの光の針を乱反射させ 水辺に魂たちは憩う
焔に包まれた死体が噴煙を上げるパトナの岸辺から
川を渡り夜行列車に揺られつづけて未明
湿地帯から神神の住まう山岳への勾配を
私とリクシャの男は昇りつめた
私の若年を襲った心の飢えに癒しは訪れることなく
(人生こそが旅であると諭される なんという苦い認識だ)
時の流れが水かさを増して 私は手足をもぎ取られる
事物は砂粒のようにざわめき 私に書記になれという
旅の道の輪郭に虚構の線を入れよ 新しい旅の門出に
鉛の夜に沈んだ記憶の淵から 根のように枝分かれした道
机上の水晶球に写して 白昼私は眺めている
定住は人間を堕落させると かつての私は考えたが
たれひとりさすらひを遁れた者はいない
神と祀られた王の骨は盗賊に運ばれ
永遠の命は行方不明