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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第7詩集『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの二編。

2012年03月11日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
小林稔第七詩集『砂の襞』から二編

空 舟
小林 稔



水烟が川のおもてに沸き立ち
白髪のような葦の繁る岸辺に
私のたましいを乗せた一艘の舟が
消え入らんばかりに薄墨を曳き辿りつく
(私のまなざしが後を追いつつ)
いちめんの霧の原野に浮遊する人影がある
一つ越えては振り向き その先を一つ
(大病をした母の首には蛇のうろこのような斑模様があったはず)
探しあぐねて さらに一つ越え
振り返った私のまなざしは
しろそこひの目をした母の顔をとらえる

あなたの許しを請うためにきたのです
という私の呼びかけに一言も返さず
まなざしを宙にすえ ひたひたと霧の中に遠ざかっていく
これは夢なのだ と思った瞬時 夢からも見棄てられ
闇の床で身を起こし 母の喪失に打ち震える

  あのころ、私は遠くを見ていた
  世界は生まれたばかりの喜びに充ち
  あなたから剥がれることで空が近づいた
  死の匂いにからんだ血筋を見つけ
  他者との媾合に肉を震わせた
  ほんとうに突然 私の指が
  存在の表皮を引っぱりあげた

(善と悪、隷属と自由、貧困と豊饒、存在と非在)  
生きるものの死滅と
生まれくるものの必然をたずねさすらう
祈る人を見て祈らず
初めてにして最後の挨拶をする
他者になり果てた息子の不在を堪えたあなたの
哀しみを知ることなく

鳥たちが羽ばたいているのではない
枝葉を突き抜けてきた風が 紙片をひるがえしているのだ
(死者たちの言葉を記述すること)
夜ごと夢に現われるあなたの眼に
私はうつらない
私はどこに還る 私の肉の滅びるとき
(私とはなにものでもなく)
経験は私に所有されない
季節のめぐりに遁れいく場所の記憶がある
泥水に踵をさらし洗っている私がいる



さすらひという名の父
小林稔



リヤカーを引く手がゆるんで 父は坂をすべり落ちていった
これは 母が私に語った言葉だ
商いをしていると 
おもしろいようにお札が入ってくるときがある
これは 父が私に語った言葉だ

家族をもち仕事をし 家を建てた父は
躯の自由がきかなくなって 窓から空ばかりを見ていた
父の歩いてきた道に 大鴉の群れがあらがった
一握りの貨幣に鬻いだ一生は
たとえそれが莫大なものであったにせよ
死滅をまえにして泡のようにはじけた
男に起因した子供というものほど不確かなものはなく
躯の痛みをともなわないゆえに
心の痛みは癒されることがない

父という鏡のまえに立つ
腐蝕した肉体 神経の森に
道が血管のように這い廻る
夕暮れのきんいろの燭光に焙り出で 旅する私がいる
父とならなかった私の 流浪する世界の果て
ここに父のたましいはなく
ぼろぼろになった肉の破片が 砂粒になる
歩いて闇に足をすくわれ
木々は輪郭を夜にとられ
闇に瞳孔をひらき 私はひとり地をさまよう

死のきわに父は別れを告げず
その重い仮面をひらりと脱いで
たちまち透明になって消えた
(死とは生ける者の観念に過ぎぬ)
たましいはたましいの領土に還るというのか
なんという奥行きのない紙のような中空にうごめく
形象とも文字ともつかぬ きんいろの微細な線のゆらぎ

私の躯を廻る父の血
その私の血を 私の息子に授けなかった
生殖を怠り 世界を父と命名した
私の罪ははかりがたく
ゆえに 言葉という杖を携える私の
父という名のさすらひは終わらない







異教の血 小林稔『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの一編。

2012年01月12日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
異教の血

   小林 稔



一つの種がもう一つの種とかけ合わせ
新しい花を現出させるように
古くから継がれた文化が、他の地域の文化と混じりあい
喜ばしい収穫を迎えることがある。
仏陀の教えが、タクラマカン砂漠を越え
中国の神仙と合体して、敦煌の壁画に遺された。
だが、文化の次元を異にして悲劇を生み出すこともある。

カブールからまだ明けやらぬ早朝
バーミヤンに向かうバスに乗り込んだ。
着いたのは日が暮れてからであった。
電灯のないこの村では石油ランプが点っていた。
さっそく宿を確保して食事をした。
まもなく宿の主人からもてなしを受ける。
主人が太鼓を叩き歌うと、それにあわせ
二人の男の子が客の周りを跳びはね踊った。
夜も更け、絨緞敷きの床で一枚の毛布に包まり寝た。

朝早く目を覚まし宿の裏手に回ると
二体の石仏が山の背丈いっぱいに立ち、私たちを待ち受けていた。
顔面は無残にもイスラーム教徒によって破壊され
頭上に翼のある馬が一部分残されていた。
車で一、二時間行ったところに
雲一つない空を映したバンデアミールと呼ばれる美しい湖があるという。
トラックの荷台に乗り、砂ぼこりの立つ道を揺られ
たちまちにして白髪になって、まつげにも砂がつもる。
湖に着くと、少年が私を出迎え、彼の引き連れた白馬に跨る。
少年は走り出し、馬は土の盛り上がった湖の縁をぎりぎりに駆けめぐる。
彼はしきりにチップをせがんだので、恐ろしさのあまり小銭を渡すと
こぶしの利いた民謡を歌い出した。

翌日、カイバル峠を越えてアフガニスタンを抜けると
バスは小さな村に立ち寄った。
一人の日本人旅行者から思わぬ事件を聞いた。
エメラルドの青をたたえた湖に、銃口が狙いを定めていた。
やがて全裸で泳いでいたフランス人女性の血が、湖面を赤く染めたと。








ガラタ橋 (『砂の襞』)から

2012年01月11日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
ガラタ橋
       小林 稔



金角湾の対岸に架かる浮橋、ガラタ橋を渡れば
次第にアヤソフィア寺院、スルタンアーメットモスク
シュレイマニエ寺院が視界に迫る。
大きなドームの端から鉛筆のように垂直にそそり立つ塔が
打ち寄せる波の上に揺れ始め
手摺には釣り人が糸を垂れている。
チャイハネでは水パイプをくゆらす男たちの群れ。
ボスポラス海峡を行き来する船の向こうに
アジア大陸が横たわる。
どれほどの種族や文明が交叉したことだろう。
陽は落ち始め、立ち並ぶ塔の狭間に捕らえられていた。
この古びた橋を渡り終えると
入り組んだ急カーブの坂道を昇りつめ
旧市街にあるホテル・グンゴーにやっとのことで帰ってきた。
別名ブルーモスクの壮絶なドームをホテルの窓に見て
名も知らぬ年のころ十四、五歳
少しばかりの心残りと、悔恨の念に駆られるとは。

右に折れ、左に折れ、壊れそうな石の建物の
細い路地をくぐり抜けると、バザールの喧騒が絶たれた。
すると、私の前に幼い男の子が立ちはだかった。
訝しげな眼で見つめていたが
やがて歩き出す、私の手を引いて。
真っ黒な鉄の扉を開ければ、薄汚れた部屋に寝台が一つ
その横に色黒の少年がいて私を見つめ、招き入れた。

いくつもの塔が紺青の空に翳をつけた。
これから辿るであろうアジアへの遠い道の始まり。
私が歩いてきたヨーロッパからの道と分岐する
古くはビザンティウム、そして新しいローマ。
今見るオスマン・トルコのイスラム教寺院と
このイスタンブールの街を、やがて去らなければならぬ。

翌朝、石畳の道を転びそうになりながら
ガラタ橋の袂にきて、足を止めた。
向こう岸はさらに遠ざかり、橋はどこまでもつづいていた。








小林稔第7詩集『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの一編。(3)

2012年01月01日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
イラクリオン
     クノッソスの廃墟で
小林 稔            


海と空にひたすら心を泳がせるなら
五千年の時を耐えた野の傾斜に
まどろむ石に過ぎない旅人のぼくたち
神話の王と伝説の勇者の後先を問うことなく
ふたたび還りつけない時を辿るように
王の間から王妃の間へと
見えない扉に素足をしのばせる
くずれおちた天井からぼくたちの皮膚を照らす
円盤のような太陽の光線
背に刺すような痛みが走る
身体を捩れば 暴れる牛の影が足元に倒れた

旅に終わりはあるのか
スフィンクスの謎はさらに謎を生む
知るとは 無知を白昼の広場に投げ出すことだから
包帯で目蓋をぐるぐるに巻かれ
一人旅の記憶に引き戻される
――ロゴスよ われにこの世に生きる意味を与えたまえ
そのとき少し遅れて 君はもう一つの暗い道を歩いていた
放射状に伸びた道が集まる闘技場で 
ぼくたちは視線を交える
互いの背負う荷が軽く思えて
荷を換えて背負ったがいっそう重い
これから始まるぼくたちの旅が 
もうひとつの誕生の受難であるならば
いつか同じ身体に命を授かることがあるのだろうか

不器用に敷きつめられたモザイクの床に 
流れる黒い血
この世界という迷宮のどこか
ぼくたちを追ってくるのはミノタウロスの影だ
玉座でふんぞりかえったぼくの
突き出した顎をへし折ろうと
牛の頭をすっぽり被ったひとが 
ぼくのまえに立ちはだかった
奪われた両の手首を払いのけ
ぼくはふたつの角をつかんで むしり投げた
なつかしいが見覚えのない 水に映る青空のような 
顔をむき出した青年への殺意は瞬時に萎えた
ぼくの視界からすばやく消えると
反転する鏡の扉から姿を見せた君は
驚いたぼくを窺って横腹抱え笑った  






小林稔第7詩集『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの一編。(2)

2012年01月01日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
シンバル

     小林 稔




廻廊の闇に両腕を泳がせて歩く
そしてぼくたちの額を割るように
あまりにも唐突に 扉が倒れ
深海に光が射しこんだかと 見誤る青
東の門に立つ ふくよかな円蓋と 
そそり立つミナレットが四方を囲んでいる
この寺院を建設した王の
隠れたる神と この世を見やる眼差しに捉えられ
ひとりの少年が微笑みながら立ち現われる
父から母から 兄弟からも離れ
世界という迷宮に踏み込んだぼくたち
かつて揺籃にころがっていた二つの頭
共有する記憶をたずさえ老いていく 
ぼくたちを祝福するために 
出発を告げるシンバルが高らかに鳴った

寺院からひろがる砂に 海水がたちまち満ち
一隻の船が もうひとつの島へ
ぼくたちを運び去った
発掘された石像の神神に 片脚は捥がれてなく
記憶が忘却の白い岸辺で 息絶えている
互いの身体に棲む獣性に刃向かい 
ねじふせ もとめ合った
二つの黒い裸体が 海水に染められた
岬から岬へ 経廻るぼくたちのうしろで
あふれる光に目つぶしされた虚無が
大きく口をあけていたことも知らずに

世界の比喩だと知ったぼくたちの
終止符を打てない旅の途上で
夢がうつつの淵で透明になるように
ぼくたちを結んでいる 青い紐がほぐれ 見えない
言葉を解体する唖者のぼくの企てに君は遠く
流れる風景に足をさらわれ 溺死しそうになる

時を止めた永遠の夏は日々の泡に洗われ
いくつもの夜を越えて辿った土地の名が
いま 経文のようにつらなり響き始める