ヒーメロス通信


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砂の襞/小林稔詩集「砂の襞」より

2012年05月11日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

小林稔詩集『砂の襞』思潮社刊2009年より
 詩集の最終章「砂の襞」全編をお届けします。無断転載は禁じます。




 トルコ玉のような眼は、バンデアミールの湖面の青緑色を呼び起こし、
藁の匂いを放つ黄色の肌は土色に灼け、頭上には黒髪が砂ぼこりをかぶ
っている。
 この男、ダルーシア・ナント・カントの出自は、モンゴルの国境に隣
接したロシアの地であるとも、匈奴の末裔ともいわれるが、ほんとうの
ところはわからない。種種の民族の血が流れているのだろう。
 踵にまとわりついている干からびた紐状の蛇が男の過去であり、歩く
たびに砂に線を曳くが、たれひとりそれを見た者はいない。彼が立つ砂
の上で記憶の草が燃えている。

一本の煙草にライターの火を点じて眼差しを空中に泳がせるとき、わ
れわれの網膜に砂がいちめんに付着する。
緑なす樹木の陰で憩い、眠る恋人たちの厚い胸板のポンプの音に命の
神秘を嗅ぎわけ、信号の赤を見つめ青に転じると、細胞分裂のように動
き出す群衆の眼差しの先に、砂漠を行く男が見える。
いつしか、この男の動きに心臓の鼓動が重ねられる。すなわちダルー
シアは、われわれのなかにいる。

われわれの身体はいずれは砂に還っていく。

瞬時にして空から滝が流れ落ちる。乾いた砂地が水を吸い込んだが堪
えきれず、クレーターになだれ、海になり水深を増していく。
思いがけず雨はやんで、青天白日の空はわれわれの頭上にあった。煉
瓦の集落は崩れて瓦礫の山となり、もう一つの集落に向け出立する。凍
てつく夜を天幕のなかで忍んだ。
 
 赤い砂、黄色い砂、黒い砂。岩盤の隆起がつくる大地。沈黙に封印さ
れたわれわれの耳孔。深く抉られた水のない大河。この砂地を果てしな
く歩いていけば海洋に出る。砂に波が寄せて海底に招き入れるだろう。
かつて海であった記憶を保ちながら、帆柱を上げて砂の海を一艘の船
が走っている。

すでに伝説になった砂漠の物語。都市生活者の夜明けの冷気にダルー
シアの気配を感じるとき、顔面は白布に覆われ、いくつもの鉛の夜と砂
の丘を越えて、空の青と砂の黄色の境に蜃気楼のように揺れて建つ寺院
の塔を指差す。辿り着けるのはいつか、息絶えていく者を砂に沈めて。
 
死者と生者を分かつものは、口から肺へ逆流する息、そして血液が駆
り立てる、すなわち夢の粒子とも、修辞ともいわれる言葉のエネルゲイ
アである。
 死者が身体の孔という孔から砂を吸い込んで人柱となり立ち上がる。
われわれの飢餓は死者の乾き。死者はわれわれの肉を喰らい、われわれ
は死者を見棄てる。ここでは永遠という言葉は意味を持ちえない。雨雲
の変動とそれによる空気の循環、夜空を移動する星辰、なによりも東の
果てから仰々しく立ち上がる黄金の円、すなわち神と称される太陽は、
蟻のようなわれわれの卑小さを頭上高く見下ろして、つかの間の命と夢
を焼きつくそうといかめしい輪郭を見せ、西の果てに満願の笑みを浮か
べ墜ちるまでの昼日中、われわれは光を遮る壁の昏い迷路に遁れる。






わたしの躯のくぼみにふくらみをそわせ、わたしの胸に身を投げる君
は冥界の底でわたしから秘儀を受ける。老いは若さへと継がれ、記憶は
反復によって命に与するだろう。
 
われわれの砂の一粒一粒がすなわち言葉である。
 
老いていくわたしの飢えは癒しがたく、君の身体の部処という部処に
わたしの唾液は塗られるだろう。やがては世界を征服する脆弱な腕が、
逞しさを備えるまで。椰子の木の涼をわたしに授ける君の眼差しと、粗
野にして繊細な立ち居が、わたしの視界に優しい音楽を運んで、砂に横
たわるわたしの上を風のように走る君は、わたしの幼い皇帝である。

 絵の具を塗りたくった蒼空に飛行機雲が直線を曳いていく。

 愛とは、さまよえるわれわれの魂の休息の墓地である。






Ⅲ 

(扉を開く。物語が始まる、あるいは始まらない予感で紙片を繰る。わ
れわれの他者は扉の向こう側にいる。)
 ダルーシアが城門の鉄の扉を押したとき、ざわめきが暗闇のなかに聞
こえた。しばらく佇んでいると、闇をつくった壁の輪郭が見え、微光が
左手から射しているのが知れて、浮遊する魚のように進む。
 光の強度と比例して闇がいよいよ濃度を増していく。ついに眼もあて
られぬ眩い光線の束が、ダルーシアを包む白布を突き抜けて彼の身体を
影のように浮かび上がらせた。硝酸の匂いが立つ白い視界に、燃えさし
の輪郭をセピアの陰影が辿り始めると、眼前に人の形が迫るが、その左
半身は消えている。その空白から荷を肩に載せて歩く男が現われる。そ
の男の足取りを縫って子どもたちの群れがあとを追っていく。
 右から左へ、左から右へ行き交う人々。石を敷いた広場の雑踏の坩堝
に溺れたダルーシアの身体は包囲され、突きあたりの、金銀の容器を吊
るしている店の横の路地に逃げ込んだ。
 群集の人いきれ、衣服の泥に塗られた、われらがナント・カントが蜘
蛛の糸状に伸びた道を歩き、岐路に立てば一つの道の選択に迫られる。
建物の高い壁の狭間に道は川のようにつづく。壁一つ隔て、老人が陽光
を背に受け書物の活字に視線を遊ばせている。閉ざされた扉の向こうで
は、静かな生を営むいくつもの時間が流れているだろう。しばらく歩い
て四つ辻に来たとき、光が射す前方、さらに細い道があった。

 われわれは言葉の橋を渡る、見棄てた道の、生の夢を病んで。





 虚空を見つめる老人たち。青の深みにとめどなく吸われそうになるが、
かれらの脳裏には、一枚の平板な布が存在しているにすぎない。地上で
の終焉ののち、魂は空に駆け上がり青い粒子になると信じている。
 砂塵とも白髪とも見定めがたい頭髪。風雨に耐えた油紙のような顔面
の皮膚。手の甲の稲妻が放射したような皺だらけの乾いた皮膚。
 いくつもの襞に折り畳まれた木綿の布が、老人たちに貼りつき、骨の
輪郭を浮き彫りにする。これら老人たちの身体と服装は、物質性におい
て砂と契約を取り決めているのだろうか。
 ダルーシアが一つの集落を囲む城壁に足を踏み入れたとき、一人の老
人が息絶えた。すでに物質になった死体は人々によって集落から離れた
砂地に棄てられた。太陽と砂に水分を奪われた紙切れのように壊れ、砂
粒になるだろう。砂が風に立ち、ダルーシアの耳孔に流れ入り、判読不
明な言葉を発信するので発狂しそうになる。
 砂の壁に躯を崩した女の股間から一つの命が引きずり出された。新た
なダルーシアの誕生である。砂漠はいくたびも甦生し、一つの文明が終
わるときに砂は騒がしくなり、星の光が砂丘に届くときに砂は閃光で金
色になった天空を仰いで寡黙になる。
 駱駝に跨るダルーシアをたれか見つけたら、それは石の建物の狭間に
カーブする石畳の道を、月明かりで進む旅人の孤立した存在の影、寝台
へと肉体を置き去りにしたわれわれの影である。



 道は頭上から陽光が照りつける広大な空間にダルーシアを導く。声が
矩形の庭を囲んだ花々の幾何学模様のタイル地の壁に反響し、旋回して
舞い上がる。声は円天井の下にひれ伏す男たちから立ち上がった。
 壁に描かれた黄色と青の細かい花々が、太陽の光線の移動で次々に咲
き誇っていくと、ダルーシアの胸の空洞が広がっていく。庭の中央の泉
から湧き起こった水が廻廊の掘割に注ぎ込んだ。花びらが雪のように舞
い、ダルーシアは直立したまま天空の汀に漂っているようであった。
 泉に眼差しを注いで、ゆっくりと歩き、立ち止まる。歩き立ち止まる
自分を、歩き立ち止まる。水の運動を脳裏の襞に畳み入んでいくにつれ
て胸の空洞がさらに広がりを増して、胡桃に幽閉された夢の記憶が解か
れ、ダルーシアの眼差しの光線が一つの幼い貌に射した。
 しゃがんだ幼子はダルーシアを見つめている。光の亀裂が眼差しを走
る。後方で大鳥の鈍い叫び声を聞いた。巨大な白い岩石が少年の額に落
下した、と思ったが幻影であった。老いたミケランジェロの、愛する者
を喪った嘆きが、ダルーシアの脳裏の闇からいくたびも立ち上がった。
 しばらくして、幼子は誕生を待っている彼の子孫であると了解した。
いく億の精子たちが滅んだ夜の孤独は、ダルーシアを待ち構えていたが、
脳細胞がそれに抗い、全力で彼の舌を育んでいた。地上に別れを告げる
とき、彼の足許に降りた言葉が、他者から生まれ来るものの想念に孕ま
れるだろうと彼は信じた。

われわれは家族の絆が断たれていることをやがて知るだろう。細胞の
増殖が他者を生み出したが、魂は不意に他の在処から滑り込むのであっ
た。

魂の群集にわれわれは励まされ、滋養を摂取する。

 砂漠に湧いた水の流れが低地へ蛇行して泥の川をつくる。ダルーシア
は足を浸した。風が不意に彼の白布の織糸の隙間を抜けて胴のくぼみに
届いた。砂漠から砂漠へ、街から街へ、終わらない旅に身をやつす疲労
は、湧き起こる命の躍動に癒され、彼には心地よく感じられた。

旅の途上で遭った少年たちの眼球は何を捉えたのであろうか。偶然に
も視線を交わして去るダルーシアの脳裏に少年の影像を携えることがあ
った。それらは蓄えられ、踵の泥を落としているときに、記憶の底から
水面に浮かび上がった。
少年の眼差しの先には真っ青な空に飛ぶ一羽の白い鳥があり、通り過
ぎた道、おそらく再び見ることのない、崩れた壁の民家が張り出した道
の、ゆがんだ地面があった。





 忍耐。夢を棄て希望の萌芽を根こそぎ切断してしまうこと。夕陽で金
色に輝く砂の一粒一粒に無常の声を聴き、われわれを生かす呼吸のみの
日々を経てつかみとられるもの。焼けた砂を馬の革靴が踏みしだき、天
幕を去るわれらがダルーシアは広大無辺の大地にひとり立ち、記憶から
も見棄てられ、街々の喧騒は昨日の夢のように思われてくる。
 三日三晩、歩きつづけたことが一年のことのように感じられた。夜空
を埋めつくす金色の星。癒しがたい病に襲われ、いくばくとない命に白
紙が脳裏をよぎるとき、己の存在が消滅したのちの世界の存続に打ち震
えるわれわれの脆弱な魂は、やがてダルーシアの孤独を知るであろう。






 裂けた柘榴。赤子の頭ほどの大きさの西瓜、メロンの類。香辛料の橙、
紫の円錐状の山。銅でできた鶴の首の水差し。大きさの違う板金の皿、
器の類。絨緞。羊の首。襟の折り返しをめくり、重ね並べた背広の内側
の日本人の苗字を示す漢字の縦列。眼鏡。蛇腹の剥げ落ちた写真機。入
れ歯。縁飾りのついた短剣。錆びた銃。万年筆。ページのめくれ立つ書
物。帽子。罅の走る鏡。ジェラバを積んだ壁の五色の縞模様。錠前。キ
セル。手足の折れた仏像。衣服の類が次々とダルーシアの眼差しに捉え
られる。
 駱駝と馬で駆けつける男たちを舞い上がる砂塵が包み込む。砂の砦を
背に縦横に走る道は、商人と旅人たちで入り乱れる。
 われわれが旅で見るものは、往来する人々の百態の人生である。時間


の荒縄を裁つ旅人は、土地土地で生活する自分を演じてみるだろう、い
くつもの人生が可能なのだと。
 道端で遭遇した土地の青年たちになることを仰望し、眼差しを所有し
て土地の言葉を話すが、一つの境涯を選び取ることは自由を奪われるこ
とに等しい。ならばむしろ旅人の運命を享受するだろう。
やがて歳月がすぎて祖国の土を踏む旅人は、かつて通りすがりに見た
夥しい数の土地の人々の人生を記憶に留め、病に苦しむ人、老いて死ん
だ人、若くして命を絶った人、生まれたばかりの人、これから生まれて
くる人たちを想い、定住を敢えて受け入れるのだ。 
 再び身体を荒縄で縛り、空のように澄んだ想いで砂の言葉を記し始め
ようとするだろう。





 砂粒が風に転がされ、かすかに聞き取れる小さな音を放っている。ダ
ルーシアの身体が重力をなくしたように軽くなり、やがて音が音階を奏
で始めて、彼の骨の深部からピアノ線が放つ旋律が静かに立ち上がった。
 なつかしくも優しい旋律にダルーシアの眼差しから笑みがこぼれ、選
び取った若さの無知そのものである旋律の一音一音を身体の動きに感受
させ、砂上を廻った。主旋律がいくつもの変奏を迎えたとき、腕は何も
のかに引き寄せられ、誕生の喜びを讃える幼年の王国に引きずり出され
た。
 この瞬間の穏やかな陶酔こそ神神の領域のものであろう。鍵盤を叩く
高音の最弱音が、抑えていた感情の扉を開いたが、ゆえ知らぬ悲しみの
涙が瞼に引き止められ、静かな喜びにたゆたう音の歩みと足の運びが重
なり合い、砂に彼の足跡が刻まれていった。
 ダルーシアの頭上、緩やかに曲線を描くドームがそびえている。今は
拒んでいるような城壁に守られた市街。異邦人を迎えたかつての道は、
閂をかけられ、踝を返せば砂の道が足許から広がっている。眼前に立ち
はだかる漆黒の闇。この闇は記憶に値しよう。
 忘却とは思い起こすことである。夜の訪れなくして眼差しが捉えた影
像は記憶の襞に刻み込まれることはないだろう。

 物語の扉はついに開かれることはなかった。旅の記憶と同じように、
これらの断片は物語を構成しない。われわれは日々、何ものかの断片を
演じ、わたしとはたれかと鏡に問い、生きている。
 われらがダルーシアは歩き始めた、一つの土地を背に砂漠の夜を。彼
のうしろで、かつて歩いた寺院と城壁もろとも崩れ落ち、砂になった。





 うつろな視線を遠くへ馳せ、都市生活者は秘境の旅に出る。神秘とい
う観光はさかんだ。地球のいたるところにかれらは敷衍した文明を読む
が、だからといって悲しむにあたらない。
砂漠はすでにわれわれの足許に寄せている。デジタル画面いっぱいに
砂粒が埋めつくしている。つまりは砂漠という観念、言葉に付着した遺
伝子たちの記憶の砂が、胸腔に雪のように堆積している。
 ついに砂漠はわれわれのものになった。もうずいぶん前から、一人ひ
とりの無為の営みにおいて、想いを空しく漂泊させ、愛と裏切りと策略
に、砂漠の夜と真昼時の絶対の孤独を知り始めていた。
 砂を噛みしめるように言葉を噛みしめる。頭上にはいつも青い空が広
がっている。見つめるほどに哀しみの色、はかなさの砂の色を呼び起こ
す水の色だ。血の朱色を洗い流して死を迎えるとき、われわれは砂漠に
立つ一本の木を思い起こすだろう。




砂の襞 小林稔詩集 Kobayashi Minoru

                   




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