ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第7詩集『砂の襞』思潮社2008年9月25日刊からの一編。

2012年04月01日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』
小林稔第七詩集『砂の襞』(思潮社刊)2008年から


オルフェウス日録



   一 詩人と竪琴

夕暮れは世界の終わりである
靴音を響かせるアルハンブラの水音
黎明は新たな苦悩の始まりであるか
イスファハン 見えない神の気配に触れる王のモスク
細胞のように増殖しひろがる雑踏 カルカッタの夜よ
旅から知りえたものは ただ事象のむなしさである
地獄を歩く自己を見出しつづけなければ
私はたちまち解体するであろう
今日も竪琴を黒い棺に横たえ 象牙の鍵盤を叩く
舞いあがる音で室内を満たすポロネーズ律動
ひとり作曲家が夢想し 足もとに織りなした
いく千もの泥の靴に踏みにじられ 浮き出る
花びらの舞い散る絨緞に 足裏を据えて
彼が命を代価につかんだ世界への共有である
音符の森に眼差しを疾走させる私は
死者を呼び寄せるひとりのオルフェウス
空の青から光の矢が心臓を刺し留める
雪崩れながら音の階梯を 乱反射する右指の打鍵
地上の廃墟に 片腕を亡くした神神の列が風を仰ぎ進む
非在への陶酔に抗いがたく私の手はとつぜん動きを止める
室内の余白を消えゆく音の沈黙で満たし始めると
不運に見舞われた私に 逆境に立ちはだかる私に
ポエジーとロゴスの結びの糸が舞い降りるのだ



   二 譚 

かつて降りしきる雨を いくすじもの線で描いた絵師がいた
かつて世界を 一冊の書物に書き著そうとした詩人がいた
ふと眼にした一葉のアフリカの邑の写真
土の家が並んで建ち 背後には 
植民地時代に造られた西洋風の建物
腰布を巻いた男たちが屯してこちらを見つめている
旅人のほんとうに見た邑は
かつて見た写真の記憶に場所を空けられるであろう
旅には帰還があり 人生には終着駅がある
喜望峰という名を呼べば胸騒ぎがして
えもいわれぬ感動を抑えられず
北に象牙海岸を辿れば
燃える赤道の帯は陸揚げを待つ奴隷船に焼印を押す
東にシナイ半島の無人地帯
さらにアラビア半島を辿れば
うしろ髪曳かれる地獄に
いくたびも甦る己を見出すだろう
書物からの追憶であれ 足裏の記憶であれ
片雲の流れのままに
旅のさすらひをさすらわせる
旅とは過ぎ去った時空への追悼である
忘却の辺境よりさまよい出た記憶は
亡くした青春と引き換えに
言葉の相のもと 永遠の生をきらめかせる
われら創造に与する者に老いは喜ばしく
虚無に身を投げ打つことも辞さないだろう
世界の形象と引き換えに


  
  三 伽藍

朝霧が山を降りて
家家の軒下を走り
阿弥陀の道という道
行商を迎える街道に流れこんだ
そびえ建つ 塔また塔と
翼のような三層の屋根瓦を這い上がる
数百の窓のある王宮 その内部は夜をはらんで
数百の歳月をひたすら老いつづけた
ある者は塩を担いで北から来た
ある者は絹を売りに西に向かった
ある者は胡椒を求めて南を訪ねていった
ある者は経典を抱えて東へ旅立った

道の終わりにして始まりである
王宮広場の透視図法 あるいは伽藍配置
陽光が水汲み場の石段に影を曳いて
僧院の白壁はいっそう清廉をきわめる 
いまひとり異邦の旅人が道の終わりに立ち
矩形の中庭に眼差しを遊ばせると
語られなかった言葉がいっせいにひしめく
たわんだ帆布が宙に舞い上がり
記憶の余白に
彼方の港市から潮が流れこむだろう
われら空より誕まれ 空をさすらひ 
空へ逝く者の 無為なる時の永からんことを

 
  
  四 汝自身を知れ

アポロンの神託から遁れようと
コリントスの父母から去る三叉の辻で
四人の護衛と仔馬の引く車に乗る 老いた男に逢った
両者道を譲らず 殴り合い殺したその男が父親であると
あなたには どうして知りえたであろう
テーバイの王となるべきオイディプスよ
父を殺し母と交える という忌まわしい神託に
遠ざかることで近づきつつあった あなたの若い裸の背に
ぴたり運命の女神モイラが貼りついていたことを
あなたの視線は 真昼の光線で気づくことはなかった
(絡んだ糸がほぐれ 記憶に影が陥れられていく)
デルポイの神殿の石に刻む「汝自身を知れ」とは
明かされずにいたあなたの出生のこと
予言を避けるために あなたが別れを告げたのは
ほんとうは血を分けた者たちではなかった
みずから呼んだ闇の視界にさえぎるのはキタイロンの山
無垢な笑みを浮かべる幼子のあなたが棄てられた古里のこと
不運から一歩も譲らずに神神と闘ったゆえに
王となったあなたの 人としての尊厳は貫かれた
裁く者にしてみずからが裁かれる者
くるぶしが抜かれたオイディプスよ
今日 あなたの嘆きはすべての人の嘆きである
デルポイに咲く野の花におおわれた丘の傾斜
神殿の廃墟から 神神は星辰に還りついたが
運命の女神モイラは 生き延びた地上で
さまよえる旅人であるわれらの背に
忍び寄ろうと待ち構えている



   五 旅の詩法

岩陰から躍り出た男と私は
向かい合わせに川を越えた
男が跡を残した道を私が辿り
私が残した道を男は引き継ぐのだ
――文明の匂いがしてきた と西に向かう男はいう
水のない川から十数メートル上方の
岩壁のたなごころで 少年が釣り糸を垂れている

私の向かった東では
国境を越えてきたバスの車窓に 少年たちが群がって
なりわいのため両替せよと 札束を叩きつけた
太鼓と弦の打ち鳴らす音が 砂地を這う蛇のような
声の旋律とからんで 旅を憂える青年の私がいた
地の霊に牽引された群集は 路地から路地を駆けめぐり
死を静かに迎える老人を取り囲んで 姻族たちは
中空に視線をさまよわせ 嘆いては胸をかきむしる
真鍮を叩く音が規則的に空に響く大通り
灼熱で足裏を焼かれた惰眠の群衆を覚醒させ
きんいろの光の針を乱反射させ 水辺に魂たちは憩う
焔に包まれた死体が噴煙を上げるパトナの岸辺から
川を渡り夜行列車に揺られつづけて未明 
湿地帯から神神の住まう山岳への勾配を
私とリクシャの男は昇りつめた

私の若年を襲った心の飢えに癒しは訪れることなく
(人生こそが旅であると諭される なんという苦い認識だ)
時の流れが水かさを増して 私は手足をもぎ取られる
事物は砂粒のようにざわめき 私に書記になれという
旅の道の輪郭に虚構の線を入れよ 新しい旅の門出に
鉛の夜に沈んだ記憶の淵から 根のように枝分かれした道
机上の水晶球に写して 白昼私は眺めている
定住は人間を堕落させると かつての私は考えたが
たれひとりさすらひを遁れた者はいない
神と祀られた王の骨は盗賊に運ばれ
永遠の命は行方不明



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