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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「静かな部屋」 小林稔詩集『砂の襞』2008年思潮社刊より

2016年02月06日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

静かな部屋

小林稔

 

 

 

樹木の枝が 空に根のように伸びて

仰ぐ私の眼孔がとらえる 風に身を震わせる葉群の

一枚ごとに光が注がれ いま鳥のように羽ばたき始める

北に面した窓に 大きな机が置かれてあった

その部屋にいたる階段は 絶えず軋む音を立てた

カーテンはとり除かれた 南向きの窓から陽が射している

十二年を居場所にした男 かつて連れ出された野にふたたび立ち

 

どこかにこころを休める場所はないか

――おまえの居場所は さすらう時間にしかあるまい

 

どこかに静かに向かい合える友はいないか

――おまえが両腕に抱く友とは 宇宙飛行士の眼孔がとらえるグローブで 

自壊に耐えうる自己なのではないか

 

生い茂る葉を光が浮き上がらせて

一瞬の命をそよがせている風に 私はこころを震わせる

西向きに窓のある部屋の壁に 等身大の鏡がほこりを被り立っている

かつて持ち主である私が対座した 鍵盤から弾かれた音が

いまは 沈黙で家の容積を充たしている

 

東向きの扉は 不在の旅人を迎え入れようと放たれ

光の綾なす翳のゆらぎで 白い壁の傷を補修している

喪ったものはなく 悔いをもたらすものはなく

老いを迎え入れる私の記憶の部屋は 風が吹きぬけて

想起の喜びにあふれている

この世の滅びに己の滅びを願った若年の日と決別し

グランドゼロから旅立った私の帰還すべき部屋

言葉の浮遊する明るい部屋のいたるところに 私は足跡をつけていく

 


「明るい鏡」 小林稔詩集『砂の襞』2008年(思潮社刊より

2016年02月05日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

明るい鏡

小林稔 

 

鏡に写る素肌の男の鳩尾に ゆっくりとナイフを落としていく

刃を男の胸にとどかせるためには

その腕を 手前に引かなければならぬ

突き刺している男の左手は 私の右手と示しあわせ

血が切っ先のあとを追って にじみ出る

痛みが脳髄を走りぬけたが

この男の眼球に写る私 とはだれであろうか

 

五十年以上もの時間を奪いあった私が

この男であると信じてよいか

痛みを分かちもったといえるか

否、私を見つめているのは永遠の他者

男の痛みを知ることができなかったゆえ

愛という名で触れた身体は ほんとうはこの他者

鏡の男が私を欲望しつづけたとき私は増殖し

神の似像として欲情したのは必然であった

私を生かしめてきたものはすべて追憶

たとえば 自己に呼び止められ当惑する少年の面差し

たとえば 老人の前世を見つめる眼差しであった

 

悦ばしい老いを迎え入れるため

隷属から解き放たれなければならぬ

時間を微分すれば 一瞬のうちに永遠を垣間見るだろう

澄んだ鏡面の淵を雲が流れていく

(流れゆくものは流れゆくままにせよ)

そして それら一つ一つに名を与えなければならぬ

(法の支配の外延で世界の構造を探索せよ)

私ひとりを乗せた舟は 雷鳴と烈風に勝ちながらえ

故郷の港に停泊しては ふたたび海水を切り裂いていく

 

航路の果てに見えてくる岸辺

死を迎え入れ消滅のときがくるまで

私は鏡に写った男の傷の痛みを耐えなければならぬ

遠い岬に ともに向かう唯一の友であるがゆえに

 

 

 

 

 

 

 

 


「パトモス島の旋律」 小林稔詩集『砂の襞』2008年(思潮社)刊より

2016年02月01日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

パトモス島の旋律      

 

             口にはつき出たもろ刃の剣 真鍮のように輝く脚で立ち

             太陽のように燃えた顔の雪のように白い神の子がいた

             天空には七つの封印をした巻物を携えた神がいて

             目で満ちた六つの翼の四つの生きものと金の冠をかぶった

             二十四人の長老たちがいる その間には

             七つの角と七つの目の子羊がいて 七つの封印をつぎつぎに解く

                                                      「ヨハネの黙示録」

 

  一

ピレウス港から一日費やして船は

ようやく闇のパトモス島に辿りついた

ぼくたちは砂浜に身を横たえ 夜明けを待つ

山の稜線が空に見え始めると

船着場の裏手から島を貫く一本の道があった

蜥蜴は岩石にしがみつき口をあけて陽を食み

猫は尾をふるわせ石垣に触れながら足を運ぶ

ヨハネが黙示録を書いたという教会にぼくたちはいる 

この世の終末は 愚鈍なわれわれの遺伝子に刷り込まれ

時は廻り廻って いくたびと甦る機運を窺っている

 

ゼウスもキリストもいなくなった二十世紀の終わり近くで

裸体を晒したぼくたちは 魚のように泳ぎ呼吸する

全身を焼く太陽にひざまづき 海の青に染められる

海岸通りを一つ入った裏の道でムサカを喰らい

ワインで浮かれた島の人たちの手拍子で踊る

宿舎への暮れかけた道をゆっくり辿ると

三叉に別れる道の角 カフェの中庭から

老人たちの奏でるリュートと太鼓の調べが流れた

アラビア風の響きに心がかきたてられる  

かつて島が辿った文明の揺籃に想いを廻らしながら歩く

人家の途絶えた道を照らす月と空を金色で塗りつぶした無数の星

一日の終わりを こんなにも安らかに迎えて眠りにつけるとは

別れが音もなく滑り込んできていることを知らずに

 

 

   二

二十七年後の晦日 負債を抱えたぼくは君の家に急ぐ

雑草の原にそびえる十三階建ての四角いそれぞれの窓に

老後のための貯蓄に備えた つつましい生活と従順な人生がある

かつて差し出された救いの綱を ぼくはしかと握りしめたが

今は正義を盾に君はてのひらを返して ぼくを懸崖から落とそうと

己の善意を否定する 君もまた例外ではなかった

 

青春の放蕩にくさびが打たれた日

善意が悪意に一瞬にしてすれ違うのを見ただけのこと

それでも悠然と構えたぼくを 君は腹立たしく見ているのか

遠い昔に起こったことごとの跡を

ふたたび辿ることを強いられた新世紀の始まり

ぼくの残された時をもてあそぶ権利はだれにもない

――ひとりさまよう老境のぼくが透けて見えるか


「坑道」 小林稔詩集『砂の襞』2008年(思潮社)より

2016年01月31日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

坑 道

 

軋むような音が 夜半の静寂に罅を入れている

連日つづいた雨で 切り忘れた竹がいつのまにか

屋根を被うほどに伸びて 昼間の庭に光が射さなくなった

季節遅れの暴風が竹を打ち 瓦を一枚吹き飛ばして地面に叩きつけた

 

ある日 私の飼う室内犬が激しく吼えた

近所の猫が庭に侵入すると吼えることがたびたびあったが

いつもとは違うねじ伏せるような声の異変に気がついた

竹薮の陰がはみ出して 振り落とされた枝葉の散らばる

高さ一メートルほどの石垣に身をおく生き物の姿があった

灰にけぶったような黒毛に包まれ 夕暮れの空気に

消え入るように ひっそりと前足をそろえている

突き出した口に 犬のかたちがかろうじて見分けられた

かつて夢に現われた犬が闇の淵を跨ぎ

いくつもの闇の坑道をとぼとぼ歩いて 

ようやくこの庭に辿り着いたのかも知れぬ

ふくよかであったらしい毛の残部が 胸と尾の辺りに見える

眼差しは定めがたく 世捨て人の凄みさえも伝えて哀れにも気味が悪い

声を立てぬ自らの影に向かって 私の犬が吼えている

私は吼えはしないが 自らの存在 にんげんという孤独な生き物を 

予感し脅えたのではなかったか

 

ある朝 ブルドーザーが根こそぎ竹を掘り起こし運んだ

――明るい光が部屋に注ぎ込んでいる


[イラクリオンークノッソスの廃墟で」 小林稔詩集『砂の襞』より

2016年01月18日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

イラクリオン
     クノッソスの廃墟で
小林 稔            


海と空にひたすら心を泳がせるなら
五千年の時を耐えた野の傾斜に
まどろむ石に過ぎない旅人のぼくたち
神話の王と伝説の勇者の後先を問うことなく
ふたたび還りつけない時を辿るように
王の間から王妃の間へと
見えない扉に素足をしのばせる
くずれおちた天井からぼくたちの皮膚を照らす
円盤のような太陽の光線
背に刺すような痛みが走る
身体を捩れば 暴れる牛の影が足元に倒れた

旅に終わりはあるのか
スフィンクスの謎はさらに謎を生む
知るとは 無知を白昼の広場に投げ出すことだから
包帯で目蓋をぐるぐるに巻かれ
一人旅の記憶に引き戻される
――ロゴスよ われにこの世に生きる意味を与えたまえ
そのとき少し遅れて 君はもう一つの暗い道を歩いていた
放射状に伸びた道が集まる闘技場で 
ぼくたちは視線を交える
互いの背負う荷が軽く思えて
荷を換えて背負ったがいっそう重い
これから始まるぼくたちの旅が 
もうひとつの誕生の受難であるならば
いつか同じ身体に命を授かることがあるのだろうか

不器用に敷きつめられたモザイクの床に 
流れる黒い血
この世界という迷宮のどこか
ぼくたちを追ってくるのはミノタウロスの影だ
玉座でふんぞりかえったぼくの
突き出した顎をへし折ろうと
牛の頭をすっぽり被ったひとが 
ぼくのまえに立ちはだかった
奪われた両の手首を払いのけ
ぼくはふたつの角をつかんで むしり投げた
なつかしいが見覚えのない 水に映る青空のような 
顔をむき出した青年への殺意は瞬時に萎えた
ぼくの視界からすばやく消えると
反転する鏡の扉から姿を見せた君は
驚いたぼくを窺って横腹抱え笑った