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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

大納言塚 ~豊臣秀長墓~

2013-11-04 18:58:37 | 史跡を歩く
 読書日記で「利休にたずねよ」を取り上げた。せっかくなので、この時代に関係するところというわけで、奈良の大和郡山にある豊臣秀長の墓所を取り上げてみたい。豊臣秀長墓は、郡山城のはずれにある。郡山城から墓所に行く途中には、郡山高校があり、ちょうど練習試合を行っていた。甲子園に何回も出場している名門校になるとやっぱりファンもいるのだろうか、観客の姿がちらほらと見えた。
 豊臣秀長の墓は、その官職にちなんで大納言塚と呼ばれている。もともとは豊臣氏の菩提寺であった大光院というお寺が管理していたのですが、豊臣氏の滅亡後、京都に移転し、そのあとを春岳院というお寺が管理し、江戸時代の安永年間に改めて五輪塔を建てた菩提を弔ったとのこと。それが現在にまで続いているようだ。現在は、大和郡山市の指定文化財になっている。

 

 豊臣秀長という人物、豊臣政権内において、各大名の調整役として近年非常に評価が高くなっているような気がする。少なくとも、秀長の死去が、豊臣政権を短命に終わらせた一つの要因であったというされる事が多い。
 ちなみに、豊臣秀長は、天文9年(1540年)、豊臣秀吉の異父弟(同父弟という説もある。)に出生。幼名は、小一郎と呼ばれた。亡くなったのは、天正19年(1591年)2月。同じ年の6月に千利休が切腹にてその生涯を終えている。もしかしたら、秀長が生きていれば、利休も別の生涯の終え方もあったのかもしれない。
 同じ年、豊臣秀吉は関白を甥の豊臣秀次に譲り、太閤と呼ばれるようになった。そういえば、この年は、その豊臣秀吉の子、鶴松も短い生涯を終えている。
 そう考えると、この年は豊臣家にとって、これまでの栄華が瓦解する始まりの年だったような気もしないでもない。

 豊臣秀長自身は、豊臣氏の栄光の真っただ中で生涯を終えることができた。豊臣という氏を名乗った成人男子では、稀有のことだったと思う。

 墓所の前に「お願い砂」という借りて帰って願いが叶えば返しに来るという砂が置かれていた。
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