塩塚古墳から北へ行くと、雑木林と言うか、畑地の中にポツンと笹などに覆われて、藪になっている場所がある。
これがオセ山古墳で、マラ塚古墳、ゲンオ塚古墳とも呼ばれることもある。一見、円墳のように見えるが、測量調査、前方部が削平されているとのことで、帆立貝型古墳ではないかと言われている。(奈良県の遺跡地図では、前方後円墳となっている。)航空写真を見ると、古墳の西側に前方部がありそうではある。
墳頂は65m。墳丘に近寄ってみると一部周濠らしきものも残っている。古墳の周りを廻ってみるも、北側や東側に民家がある。
オセ山古墳については、発掘調査等なされていないため、詳細は分かっていない。佐紀盾列古墳群の中では、塩塚古墳と同時期の古墳時代中期に築造されたようだ。
近くには歌姫赤井谷横穴と呼ばれる古墳時代後期の横穴墓が残っているそうだ。
古墳のある場所は、私有地のようなので、ほどほどにして、歌姫神社とも言われる添御縣坐神社へ向かう。
この神社の横を横切る道は歌姫越えと言われ、奈良と山城を結ぶ古代の道である。古代の官道である下つ道の延長線上にあるらしい。
境内は、なかなか広い。祭神は、速須佐之男命と奇稲田姫、武乳速命とのこと。街道の往来を行く人々の安全を祈った神社なのであろう。訪れる人もあまりいないようで境内は深閑としている。いかにも古社という様相で、いい感じである。
境内には、万葉集に収められた長屋王の歌碑と百人一首にも選ばれている菅原道真の歌碑が置かれている。かなり摩滅していて読みにくいが、長屋王の方は、「佐保過ぎて奈良の手向に置く幣は 妹を目離れず相見しめとそ」とあり、菅原道真の方は、改めて書く必要もないほどに有名な一首、「佐保過ぎて奈良の手向に置く幣は 妹を目離れず相見しめとそ」と刻まれている。
長屋王の歌は、旅の安全を祈った歌で、どちらの歌も幣を手向けて神様に安全をお願いする行為を詠った点が共通する。
添御縣坐神社の周辺は、昭和の香りが色濃く残っており、平成、令和の時代となってもまだまだこういうノスタルジックな雰囲気が残る場所があるのだなあと感慨深い。
昭和の時代にタイムスリップしたような気分を味わいつつ、古代のため池とも言われるハジカミ池を横に見ながら、西大寺駅へと戻ることにした。
ハジカミ池ではあれっという光景を目にするのだが、これは次回ということで。
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