先週の金曜日、その前3日間のことについてまとめて書いたが、その中で火曜日にあったショックな報告、訃報について………
※ ※ ※ ※
その店に初めて足を踏み入れたのはもう25年ほど前になるのだろうか。
カウンターが7席くらいに、テーブル席が4席くらいだったろうか。すでにその店舗はもうない。
飲み屋さんだが、渇き物だけで、料理が出るわけではない。カラオケがあったから、カラオケスナック? まぁ、そんな感じの店だ。料金は一律3,000円(だったと思う)。
最初に連れていってもらったのは、仕事の先輩。
以来、会社のすぐ近くということもあり、ちょくちょくお世話になっていた。
とても不思議な空間で、その店に集まるのはおじさんばかり。しかも、皆ひとりでやってくる。当時、20代だった自分はまるっきり小僧扱い。それが結構楽しかったりもした。
大手企業の部長さんもいれば社長さんもいる、自営の社長さんもいれば、普通のサラリーマンもいる。
そんな人たちがひとりでやってきてはママ(ママと言ったってけして若くない)とおしゃべり、あるいはひとしきり歌って帰って行く。
そんな雰囲気の店なので、客同士がすぐに仲良くなったりする。
そうした仲間が集まり、休みの日に屋形船に乗ったり、ボーリング大会、ゴルフ大会、温泉旅行など、よく出掛けた。中でも、ゴルフコンペは恒例となっていた。
そうしたイベントの会長さんを務めていたのがアオちゃんこと、青木さん。
火曜日に聞いた訃報は青木さん。
当時の店舗はすでにないが、ママはいまでも近くで焼酎をメインに出す居酒屋を続けており、当時のメンバーもいまだに顔をだしている。
もちろん、いまの店のお馴染みさんもたくさんいるがが、不思議なことにやはり一人でやってくるおじさんが多い。
火曜日、カウンターでママから訃報を知らされた時には、涙が出た。訃報に接し涙を流したのは初めてかもしれない。酔っていたのか、涙腺が緩くなったのか…。
今、顔を思い出しても笑顔しか思い出せない。いっつも笑っている人だった。日焼けなのか、酒焼けなのか、真っ赤な顔はいつもゆがんでいた。個性の強い人たちが集まる会だったし、青木さんと同世代が多かった会だが、青木さんだから会長というまとめ役が務まったのかもしれない。
すでに高齢なので、最近は一線を退き、ボランティアで子供たちにゴルフを教えていたらしい。
教えると言っても、ゴルフを指導する腕前でもなく、主に指導するのはルールやマナーだったという。らしい、ボランティアだ。そうしたことから何かを子供たちに伝えたかったのだと思う。
実は今年、ママを介して自分にそれを手伝ってほしいと言われていた。
現在、故障中なのでプレーはできないが、ルールやマナーの指導ならと、日程が合えば喜んで協力すると言っていた。3月頃の話だ。
詳細は分からないが、青木さんが他界したのは3月だとのこと。ママが知ったのもつい最近のことらしい。
その会では若手の自分。自分の上は一回り違う。したがって、よく冗談で「最後までみんなの骨を拾うのは自分なんだから、もっと大事に扱わなきゃだめよ」と言っていたが、その日がもう訪れ、最初が青木さんとは……。80歳を越したのかなぁ。
自分の結婚式。会のみんなから寄せ書きをもらった。司会者がそれを読みあげてよいものか迷ったらしく、自分に耳打ちをしてきた。
まぁ、ユーモアたっぷりの寄せ書きで、確かにきわどいコメントも多々あった。どうせ、おちゃめな青木さんがリーダーシップをとったに違いない。
「大きな声で読んでいただいて結構」と即答した覚えがある。
ゴルフで、自分と大差ないスコアで回った時には、「あなたと変わりないスコアなんて信じられない。俺もまだまだ行けそうだな」と、いつもの笑顔をもっと崩して自分に肩組みしてくることが何度あったろうか。
店のママは数年間宮崎に転居し半ば隠居生活を送っていた。田舎暮らしに飽きて舞い戻ってきたのが3年くらい前だろうか。
青木さんとは、ママが宮崎にいる間は会っていないし、舞い戻ってからも顔を合わせる回数は以前に比べぐっと減っていた。
もしかしたら最後に会ったのは1年以上前なのかもしれない。
しかし、夕べも一緒に飲んだように感じることができるし、笑顔もすぐに思い出せることができる。
青木さん、楽しい会に出会えて、そして青木さんに会えて、嬉しく思います。ありがとうございました。
その機会は減りましたが、会の交流はまだまだ続くと思います。名誉会長として会を見守ってあげてください。
そのうち、またぞろ仲間に会えます。
最後にひとつ。他人とは絶対に寝室を一緒にしてはいけない、そう法律で取り締まってほしいような青木さんのイビキ。皆がそちらに行くまでに治しておいてください。
※ ※ ※ ※
会を代表して自分が線香をあげにいくことに志願した。先様の都合がよければこの週末にでもお邪魔したいと考えている。
合掌。
※ ※ ※ ※
その店に初めて足を踏み入れたのはもう25年ほど前になるのだろうか。
カウンターが7席くらいに、テーブル席が4席くらいだったろうか。すでにその店舗はもうない。
飲み屋さんだが、渇き物だけで、料理が出るわけではない。カラオケがあったから、カラオケスナック? まぁ、そんな感じの店だ。料金は一律3,000円(だったと思う)。
最初に連れていってもらったのは、仕事の先輩。
以来、会社のすぐ近くということもあり、ちょくちょくお世話になっていた。
とても不思議な空間で、その店に集まるのはおじさんばかり。しかも、皆ひとりでやってくる。当時、20代だった自分はまるっきり小僧扱い。それが結構楽しかったりもした。
大手企業の部長さんもいれば社長さんもいる、自営の社長さんもいれば、普通のサラリーマンもいる。
そんな人たちがひとりでやってきてはママ(ママと言ったってけして若くない)とおしゃべり、あるいはひとしきり歌って帰って行く。
そんな雰囲気の店なので、客同士がすぐに仲良くなったりする。
そうした仲間が集まり、休みの日に屋形船に乗ったり、ボーリング大会、ゴルフ大会、温泉旅行など、よく出掛けた。中でも、ゴルフコンペは恒例となっていた。
そうしたイベントの会長さんを務めていたのがアオちゃんこと、青木さん。
火曜日に聞いた訃報は青木さん。
当時の店舗はすでにないが、ママはいまでも近くで焼酎をメインに出す居酒屋を続けており、当時のメンバーもいまだに顔をだしている。
もちろん、いまの店のお馴染みさんもたくさんいるがが、不思議なことにやはり一人でやってくるおじさんが多い。
火曜日、カウンターでママから訃報を知らされた時には、涙が出た。訃報に接し涙を流したのは初めてかもしれない。酔っていたのか、涙腺が緩くなったのか…。
今、顔を思い出しても笑顔しか思い出せない。いっつも笑っている人だった。日焼けなのか、酒焼けなのか、真っ赤な顔はいつもゆがんでいた。個性の強い人たちが集まる会だったし、青木さんと同世代が多かった会だが、青木さんだから会長というまとめ役が務まったのかもしれない。
すでに高齢なので、最近は一線を退き、ボランティアで子供たちにゴルフを教えていたらしい。
教えると言っても、ゴルフを指導する腕前でもなく、主に指導するのはルールやマナーだったという。らしい、ボランティアだ。そうしたことから何かを子供たちに伝えたかったのだと思う。
実は今年、ママを介して自分にそれを手伝ってほしいと言われていた。
現在、故障中なのでプレーはできないが、ルールやマナーの指導ならと、日程が合えば喜んで協力すると言っていた。3月頃の話だ。
詳細は分からないが、青木さんが他界したのは3月だとのこと。ママが知ったのもつい最近のことらしい。
その会では若手の自分。自分の上は一回り違う。したがって、よく冗談で「最後までみんなの骨を拾うのは自分なんだから、もっと大事に扱わなきゃだめよ」と言っていたが、その日がもう訪れ、最初が青木さんとは……。80歳を越したのかなぁ。
自分の結婚式。会のみんなから寄せ書きをもらった。司会者がそれを読みあげてよいものか迷ったらしく、自分に耳打ちをしてきた。
まぁ、ユーモアたっぷりの寄せ書きで、確かにきわどいコメントも多々あった。どうせ、おちゃめな青木さんがリーダーシップをとったに違いない。
「大きな声で読んでいただいて結構」と即答した覚えがある。
ゴルフで、自分と大差ないスコアで回った時には、「あなたと変わりないスコアなんて信じられない。俺もまだまだ行けそうだな」と、いつもの笑顔をもっと崩して自分に肩組みしてくることが何度あったろうか。
店のママは数年間宮崎に転居し半ば隠居生活を送っていた。田舎暮らしに飽きて舞い戻ってきたのが3年くらい前だろうか。
青木さんとは、ママが宮崎にいる間は会っていないし、舞い戻ってからも顔を合わせる回数は以前に比べぐっと減っていた。
もしかしたら最後に会ったのは1年以上前なのかもしれない。
しかし、夕べも一緒に飲んだように感じることができるし、笑顔もすぐに思い出せることができる。
青木さん、楽しい会に出会えて、そして青木さんに会えて、嬉しく思います。ありがとうございました。
その機会は減りましたが、会の交流はまだまだ続くと思います。名誉会長として会を見守ってあげてください。
そのうち、またぞろ仲間に会えます。
最後にひとつ。他人とは絶対に寝室を一緒にしてはいけない、そう法律で取り締まってほしいような青木さんのイビキ。皆がそちらに行くまでに治しておいてください。
※ ※ ※ ※
会を代表して自分が線香をあげにいくことに志願した。先様の都合がよければこの週末にでもお邪魔したいと考えている。
合掌。