大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書7章1〜9節

2018-09-02 15:21:27 | ヨハネによる福音書

2018年8月26日大阪東教会主日礼拝説教 「主イエスの時」吉浦玲子

<主イエスの時間軸>

 昔読んだSFのショートショートに周りの人と異なった時間軸、といいますか、異なった時間の速度で生きる男の話がありました。どういう理由でかは忘れたのですが、同じ世界に住みながら、ある時から主人公の男には時間がとてつもなくゆっくりと進むようになりました。周囲の世界の様子は、男にとっては静止しているように見えます。一方、周囲の人から見たら、男の動きはとてつもなく早くて、その存在を確認することができないのです。男がだれかにぶつかってゆっくりと歩き去ったとしても、ぶつかられた相手からは、男が近寄ってきて去っていくまでが瞬間的なことなので、男の姿を認識できません。まるで透明人間にぶつかられたように感じるのです。その男は最終的には悲劇的な最期を迎えます。

 主イエスは、ヨハネによる福音書における最初の奇跡の物語のカナの婚礼の場面でも母マリアに「わたしの時はまだきていません」とお話になっていました。今日の聖書個所でもそうです。自分を諭しに来た兄弟たちに「わたしの時はまだきていません」とお答えになっています。

 その言葉を聞いた母マリアも兄弟たちも主イエスのおっしゃる「わたしの時」ということが何なのか理解できなかったことでしょう。さきほどお話ししたSFに出てくる男のように、主イエスはなにか普通の人々とは異なる時間の中に生きておられたようにも感じられます。

 さて、1節を読みますと、ユダヤ人がご自分を殺そうと狙っていたので、ユダヤを避けて、ガリラヤを巡っておられたことがわかります。これは主イエスが殺されることを恐れて怯えてお逃げになっていたということではなく、やはりまだ「自分の時」が来ていないから、いまはまだユダヤに行かないということなのです。ご自分の時と、主イエスがおっしゃられる「時」というのは父なる神が決定的にこの地上に働きかけられる「時」のことです。端的に言って、それは十字架の時です。ヨハネによる福音書においては、それは栄光の時です。メシア、救い主としてのご自身をいよいよはっきりと顕される時です。しかしまだ、その時ではない、今つかまっても、十字架ではなく、別のやり方で殺される可能性もある、しかし、人間の救いは、ただ十字架の死によってのみ成就されると主イエスは知っておられたのです。そしてなにより、まだ十字架の時は来ていない、父なる神が定められたその時は来ていない、全人類の救いの業の為される時は来ていない、ですから主イエスはユダヤを避けて、ガリラヤを巡っておられました。

 つまりご自分の故郷の地域を巡っておられたのですから、主イエスのなさっていることは、故郷の家族にも伝わっていたでしょう。いろいろな評判、うわさがいやでも家族には伝えられたと考えられます。おそらく主イエスの家族や親族は、貧しくもつましいガリラヤ地方の一般的な庶民として生活していたことでしょう。その家庭の長男たる主イエスが、突然、不思議な業を次々となし、人々の前でとんでもない説教をしている、家族にとっては驚くべきことだったでしょう。

 そのような兄弟たちが、主イエスに向かって、「仮庵祭でユダヤに行ってあなたの力を見せてやりなさい」と語っています。ここで「兄弟たち」という言葉は、学者によっては、純粋に同じ親から生まれた兄弟というより範囲が広く、いとこくらいまで含むのではないかとも考えられています。つまり、比較的年の近い親族たちが、「あなたの力を見せてやりなさい」と言っているということです。ここで、兄弟たちは、主イエスの業に素直に驚き、すごいものだと感心しているようです。一族からすごい者が出てきたと思っているようです。ですから、それをもっと大々的に皆に見せてやったらどうかというのです。

 兄弟たちには、伝統的な、そして世俗的なイスラエルにおけるメシアの概念があったのかもしれません。メシアは、都エルサレムで公然とその奇跡の業を示して、来るべき救い主として宣言して、その地位に即位するものだと考えていたのでしょう。

 そこには悪意はなかったかもしれません。自分たちの一族からメシアが出る、それは大きな喜びであり、名誉です。それなのに、イエスは、辺鄙なガリラヤ地方にとどまっているのはどうしたわけなのか理解に苦しんでいるのです。さらにいえば、「わたしは天から降ってきたパン」などと言って、それまでいた多くの弟子たちが去ってしまったとも聞いていて、兄弟たちからしたら歯がゆく感じられていたのかもしれません。「あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい」という言葉の「弟子」のなかには、去っていった弟子たちも含んでいるかもしれません。「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。」兄弟たちにしてみたら、せっかく数々の奇跡を起こしながら、さっさとしかるべき地位に就こうとしない、得られるはずの名誉や力を手に入れようとしないイエスのあり方にじりじりしていたのでしょう。

 ちょうど、仮庵祭が近づいていたと聖書にはあります。仮庵祭とは、ユダヤの三大祭りの一つです。新約聖書においてなじみが深いのは、主イエスが十字架におかかりになった過越祭だと感じる方も多いかもしれません。その過越祭が春の祭りであるのに対して、仮庵祭は秋の収穫の頃の祭りでした。収穫祭を兼ねていると言っていいでしょう。この仮庵祭では、出エジプトの出来事を覚えて、出エジプトの民が40年の旅の間、天幕と呼ばれるテント暮らしであったことを記念します。小さな小屋を作って7日間そこで生活をするというものです。仮庵祭はスコトといいますが、スコトとは小屋のことです。家の屋上や中庭や玄関前などに人々は小屋を作ったようです。この小屋は植物の枝や葉で作られたようで、材木などは使わなかったようです。出エジプトの民は、材木を使った建物は作らなかったであろうということによるものです。その小屋で生活する7日ののち、盛大なフィナーレである祭りがあります。祭りの規模としては、むしろ、仮庵祭は過越祭よりも大きなものだったともいいます。その一年で最大の祭りは、兄である主イエスにとって最大のアピールの場ではないかと考えられたのです。兄弟たちにとって、主イエスの素晴らしい業は権力や地位を得るにふさわしいものに思えました。こんなガリラヤでうろうろしていないで、その祭りで一大プレゼンテーションを行って、自分の力を皆に認めてもらえ、そう兄弟たちは勧めているのです。さきほども言いましたように、そこには悪意はなく、むしろ、人間として、また家族の情としては、無理からぬことだったかもしれません。

 しかし、5節には厳しい言葉が書かれています。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」むしろ、兄弟たちは、無邪気に主イエスの力に感嘆していたのです。これはすごいと思っていたのです。ある意味、主イエスを信じていたとすら言えるでしょう。しかし、なお、福音書の著者は、「イエスを信じていなかった」と記しています。ここで、わたしたちは、「信じる」、ことに「主イエスを信じる」ということはどういうことかということに突き当たります。

<神の時を信じる信仰>

 主イエスはおっしゃいます。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」すべてを支配される父なる神の御子であれば、むしろ、時間をも支配されるのではないかと普通には感じます。しかし、主イエスは「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃるのです。それに対して、「あなたがたの時はいつも備えられている」と主イエスはおっしゃいます。これは不思議なことです。私たちの人生は、自分の思い通りにはいかないことの連続です。あの時、あのことに気が付いていればよかった、そうしたらそれから後の人生は変わっていただろう、ほんのちょっとしたタイミングのずれでチャンスを失ってしまった、そういうことが多々あります。そしてなにより、私たちにとって時間は不可逆のものです。やり直すこともできません。もちろん、今がつらいから早送りしてほしいと思ってもできません。時間ほど、自分でコントロールできないものはないともいえます。コントロールできないからこそ、私たちは躍起になるのです。いまこそチャンスだ、あとがない、と感じて事を起こすことがあります。あるいは逆に今は雌伏して時を待とうと思ったりします。本当はコントロールできない時間をどうにか自分の手で捕まえようとするのです。主イエスの兄弟たちも言うのです。さあ祭りだ、いまこそユダヤに行き、あなたの力を示すのだ。チャンスをつかむのだ。

<チーズはどこへ消えた>

 昔、会社で「チーズはどこへ消えた」という本を読まされた記憶があります。社員教育のための課題図書みたいに決まっていたわけではなかったのですが、なんとなく読まないといけないような雰囲気があって読みました。当時、ベストセラーになった本でご存知の方もおられるかもしれません。多くの企業で推奨されたビジネス本です。ビジネス本ですが、論文調の内容ではなく、二匹のネズミや二人の小人が登場して寓話的なストーリー仕立てになっていました。その二匹のねずみと二匹の小人はおいしいチーズを発見したのですが、ある日突然チーズがなくなってしまいます。ねずみたちはすぐに新しいチーズを探しに飛び出していくのですが、ねずみより賢い小人たちは、チーズがなくなった原因を分析したり、またチーズが戻ってくるかもしれないと考えたりして、なかなか行動を起こそうとしません。でもようやく、一人の小人が新しいチーズを探しに旅立つ決心をします、そんなストーリーでした。チーズは、財産とか生きがいとか仕事といった価値あるものの象徴でした。しかし、チーズはいつも同じところに同じようにあるのではない、新しいチーズを常に探しに行く、それが新しい生き方だということなのです。要は状況の変化に対応することが大切だという内容だったと記憶しています。古いことに固執せず新しいことに挑戦せよというようなことだったと思います。言わんとすることは理解はできましたし、ビジネスにおいてもっともだなと感じるところもありました。でも私自身は、どちらかというと反感をもった記憶があります。古くても良いものは良いではないか、とも感じたのです。それに新しいチーズを探す旅人になろう、勇気をもって新しい生き方に旅立とうというとなんだか格好良さそうだけど、結局、ただただ、状況に右往左往していくあり方ではないかとも感じたのです。

 ただビジネスの世界でなくても、私たちは、現代において、どこか新しいチーズを探そうとしていく者かもしれません。くるくると変化していく状況の中で、もっと良いチーズ、もっとおいしいチーズを探そうとしているのではないでしょうか。時代に取り残され、新しいチーズをもう手に入れられないことを恥じたりします。でも私たちは心の底で、いつもいつも新しいチーズを探して旅立つことはできないことも知っています。そしてまた今手にしているチーズがなくなってしまうかもしれないという不安も感じつつ生きているようです。状況に対応すると言いながら、本当は私たちは状況を、そして<私たちの時>をコントロールすることはできないのです。でも、私たちは、主イエスの兄弟たちが「さあ祭りだ、今こそユダヤに行くのだ」と言ったように、状況や時をコントロールすることができると感じてしまう、そのような人間のあり方に対して、「あなたがたの時はいつも備えられている」と主イエスはおっしゃいました。いつでも自分で自由に決定できる時を私たちは持っていると主イエスはおっしゃるのです。しかし、主イエスは、父なる神の時に従うのだとおっしゃっています。

<神の時を信じて歩む>

 「あなたがたの時はいつも備えられている」という言葉にはもう一つの厳しい意味があります。「世はあなた方を憎むことができないが、わたしを憎んでいる。」という言葉があります。憎むという言葉もまた厳しい言葉です。「わたしが、世の行っている業は悪いと証しているからだ」と続きます。主イエスは、この世の罪を罪ととして証されるお方です。たとえば、主イエスは、ヨハネによる福音書2章において、神殿から商人を追い出されました。主イエスは、罪を、そして罪からおこる悪は悪であると証される方なのです。罪の中にあるこの世からしたら、罪を指摘する者は憎まれるのです。その憎しみの先にあるのは殺意です。こいつさえいなくなったらいいという思いです。実際、この世は、主イエスを憎んで、十字架につけて殺しました。つまり、私たちが殺したのです。

 しかしまた、主イエスは、単に悲劇の最期をとげる正義のヒーローであるだけはありませんでした。罪の世から憎まれ殺されながら、復活をなさいました。父なる神が、御子である主イエスを憎んだ世を愛されたからです。世を愛された神が、神の御子を憎んだ世が、主イエスの時を知るようになるために十字架の時を備えられました。私たちが神の時を知るようになるためです。状況に右往左往して、しかしなお、自分で時をつかもうとしてあくせくする私たちが、神ご自身の時を知るようになるためです。神の時を知るとき、私たちは自分の本当の姿を知ります。罪の姿を知ります。そのとき、新しく信仰が始まります。「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」とありましたが、この時点で、兄弟たちは神の時を知らなかったのです。神の時を知る、それが神を信じるということです。自分の時を手放すということです。主イエスの時、それはまず第一に十字架の時であると申し上げました。十字架は世に憎まれ殺された敗北の象徴ではありません。キリストを憎んだ世を罪から救う栄光の業でした。そこから新しい世界が始まりした。私たちが自分で時をはかって旅立つのではありません。神が神の時において成し遂げてくださいました。私たちはその神の時を信じて歩んでいきます。いま私たちに働きかけられる神の時を信じて歩むとき、私たちはまことに平安に喜びにあふれて生きて行くのです。