今日の聖書箇所は、イエスさまの家族がイエス様を訪ねてくる場面です。ここを読みますと、イエス様は、ご自身の家族に対してちょっと冷たいなと感じる方もおられるのではないでしょうか。イエスさまの母と家族が外に立っておられるのです。家族はイエス様と話したいと人づてに頼んでいます。でもその家族のところにイエス様は飛んで行って話をされるわけではありません。
「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」
と取り次ぎを頼まれた人に対してお答えになります。このすげない態度が母マリアや兄弟たちに直接知らされたのかどうかは福音書の記述だけでは分かりません。あるいは母や兄弟にも聞こえるように主イエスはおっしゃったかもしれません。いずれにせよ、自分の腹を痛めた息子にこんなことを言われたら、母としてはたまらないでしょう。家族としてもやり切れない思いがあるでしょう。しかも、おそらく家族は一家の長男であるイエス様のことを心配してやってきたのです。今日の聖書箇所は、ずっとお読みしていますイエス様とファリサイ派との対立の流れの中にあります。悪霊を追い出されたイエス様のことを「悪霊の頭ベルゼブルにたよっている」といって非難している人々へのイエス様の言葉のその締めくくりとしてあります。
同じ場面がマルコによる福音書では少し違った形で記されています。マルコによる福音書の3章21節に身内の人たちがイエスのことを聞いて取り押さえに来たとあります。「あの男は気が変になっている」と言われたからである、と記されています。すぐる週に申し上げましたように、イエス様の周りには、徴税人や娼婦といった、言ってみれば当時の社会の鼻つまみ者が集まっていたのです。単に鼻つまみ者ではなく、当時のユダヤの信仰からしたら、罪人とされていた人々でした。律法に違反した人々です。神から離れたような、神から見放されたような人々の真ん中に主イエスはおられたのです。
それに対して、一般の人々からは、とても信仰深くて、聖書の専門家と思われ、模範とされていたのがファリサイ人や律法学者たちでした。その信仰深い、社会の指導的な立場にある人たちが、主イエスのことをベルゼブルに取りつかれている、気が変になっている、といっているのです。身内や家族が心配しないわけがありません。主イエスがお生まれになった時の話を皆さんはお聞きになったことがあるかと思います。受胎告知において母マリアが神に従順だったこと、また父ヨセフもまじめな神を畏れる人であったことが聖書を読むとわかります。ナザレの田舎の純真素朴な、つつましい、堅実な、神を信じる家族だったのです。そんな家族にしてみれば、信仰深いと思われている律法学者にたてついているような息子のことを、まともな状態とは感じられなかったでしょう。
言ってみれば、一家の長男が、奇妙な新興宗教の教祖になっている、そんな感覚に近いものを身うちの人々が持っていたのではないかと思われます。とにかくイエスはおかしくなっているから、連れて帰らないといけない、一族の恥である、どうにか正気を取り戻させたい、そういう思いで身内の者がやってきて、らちが明かなった、だから、とうとう母や兄弟たちが直接やってきたのでしょう。やってきてみると、たいへんな群衆の中に主イエスはおられました。ごったがえしているのです。家族からすると経験したことのないような異様な雰囲気の中にイエス様がおられ、直接話をすることもできないのです。家族としてはその様子を目の当たりにして、いっそう混乱と不安のなかにあったと思います。
そんな家族や親族に対して本日の聖書箇所の主イエスの態度は思いやりがない、そう感じられるかもしれません。しかし、ここで主イエスが示されているのは、救い主であるイエスさまが到来されたその後にあって何が一番大切なのかということです。イエスに聞き、イエスに従っていくということがなにより大事なのだとおっしゃっているのです。マタイによる福音書10章34節を少し前にお読みしました。ここに「平和ではなく剣を」と題されている箇所です。ここでイエス様がおっしゃっているのは、主イエスを信じる信仰において、そこには一人一人の選択があるのだということです。
主イエスを信じるか信じないか、従うか従わないかという二者択一があるのです。真ん中はないのです。その選択の結果、家族の中に亀裂が入ることもあるのです。それが平和ではなく剣なのです。今日の聖書箇所では、母や兄弟は、外に立っていたとあります。中に入ってきていないのです。つまり家族は主イエスの言葉を聞いてはなかったのです。それに対して、中にいる人々は主イエスの言葉を聞いていたのです。中の人と、外にいた家族には明確な差があるのです。ですからこの場面は、主イエスご自身が、母や兄弟たちに対しても剣を差し出した場面とも言えます。
もっとも主イエスの家族がずっと主イエスの言葉を聞かないものであったとは言えないようです。今日の聖書箇所では外に立っていたとありますが、母マリアは主イエスが十字架におかかりになる時にはそばにいたことが聖書に記載されています。主イエスが十字架におかかりになる頃は、母マリアは弟子達と行動を共にしていたようです。またヤコブの手紙という新約聖書の中の書簡がありますが、この著者はひょっとするとイエス様の兄弟のヤコブではないかという説もあります。それは定かではありませんが、少なくとも、く主イエスの家族、身内の中にもやがて主イエスを信じる人が起こされていったようです。けっしてそのような家族、身内に対して、主イエスが一概に冷たかったとは言えないのです。
さて、今日の場面では、家族に対して剣を出した主イエスは、弟子達に向かっては、こうおっしゃいます。「みなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と。ちなみにここで「わたしの母」と主イエスはおっしゃっています。主イエスに従って来た弟子達、その群れの中には女性もたくさんいたようです。さまざまに彼女たちは奉仕をしたのです。その人々に向かって「わたしの母」とおっしゃったのです。聖書の時代は、現代よりもはるかに女性蔑視の時代でした。蔑視という生易しいものではなく、女性は数のうちに入れられない時代でした。その時代に、主イエスの言葉として「わたしの母」、あるいは「姉妹」という言葉があるということは画期的なことです。神の救い、恵みの業は男性だけでなく女性にも向けられている-今考えると当たり前のようですが-2000年前には、考えられない言葉だったのです。
身分の上下、職業、性別に関わらず、天の父の御心を行う人が主イエスの家族である、神の家族である、と主イエスはおっしゃっています。ところで、今日の説教題は「神の家族となるために」ですが、主イエスはすでにご自分に従って来た人々を家族とみなされています。繰り返し申し上げることですが、主イエスに従って来たと言っても、特に選ばれて宣教にいった12人をはじめ、皆、まだ主イエスの救いの御業のことはわかっていなかったのです。しかも、その家族と言われた人々はやがてイエスを裏切り、逃げていくのです。そのような人々に主イエスは母であり、兄弟であるとおっしゃっているのです。ただご自分の側にいる人々に、あなたがたは家族なのだとおっしゃっています。
そして、主イエスが「みなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」とおっしゃっているその言葉は、いまここにいる私たちにも語られています。あなたはわたしの母である、あなたは兄弟である、あなたは姉妹である、と。私たちは弱く、何もできない、なかなか主イエスに忠実にはしたがっていけない、それでも、こうして今、御言葉を聞こうとしている、そんな一人一人に「あなたは母である。あなたは兄である、弟である、姉である、妹である」と主イエスは語っておられます。
天地の造り主であり絶対者である神のものとから来られ、そしてまた神そのものである主イエスが、神に造られた者に過ぎないわたしたち、罪にまみれたひとりひとりを、母であり、兄弟であり、姉妹である、とおっしゃられる。そして交わりをもってくださる、親しくしてくださる、それはそれまでのイスラエルにおいて考えられないことでした。旧約聖書の時代、人々は神の顔を見た者は死ぬと考えていました。それほどに神は絶対者であり、畏れるべき方だったのです。神は汚れなき方ですから、汚れた人間が、本来は、側によることはできません。神を見た者は、打たれて死んでしまう、神は実際、そのようなお方です。
良く旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は優しい愛の神だと考える人がいます。それはもちろん違います。神は旧約の時代も新約の時代もただお一人、同じ神です。でも、そのことを頭では理解していても、なんとなく旧約の神は怖いなあと感じてしまう人もおられるかもしれません。実際、旧約の神は怖いというのは、ある意味において、たしかに間違っていないのです。罪のある人間にとって神は裁かれる方、怒りを発せられる方だからです。いま聖書研究祈祷会で預言書を読んでいますが、神に逆らった人や国への神の裁きは徹底的で恐ろしいものです。
その神がイエス・キリストを遣わされ、ほんらい裁かれるべきわたしたち人間の代わりに主イエスを裁かれました。そのイエス・キリストのゆえに、罪あるわたしたちは罪赦され、神と交わることができるようになりました。そのことのゆえに主イエスはおっしゃるのです。「ここにわたしの母、私の兄弟がいる」と。あなたたちは神の家族であると。
わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、母である、と主イエスはおしゃいます。天の父の御心とは、愛の業を行 うということです。そして天の父のことを伝えるということです。伝道の業をなすということです。
これは今日においては教会のことです。教会は信仰共同体として天の父の御言葉を聞き、御旨に従い愛の業を行います。伝道を行います。その教会につながっている一人一人が主イエスの母であり、兄弟であり、姉妹です。たがいに奉仕しあい、また世界に向かって奉仕をします。地の塩、世の光となります。この地上の教会にはいろいろな伝統があり、教会ごとのカラーがあります。和気あいあいとしていてアットホームな感じの教会もあれば、格式があってかっちりした感じの教会もあります、さまざまです。しかし、雰囲気はさまざまであっても、教会は神の家です。神の家族とされた者が集うところです。
ここで、「家族とされている」というのが大事なところです。人間の肉親の場合でもそうですが、私たちは家族を選べません。両親を選べませんし、また子供も選べません。神の家族もそうです。実際の血縁以上に、自分たちで選んだのではないのです。ある人は肉親に連れられ教会に来られたかもしれません、ある人は友人の紹介で来られたかもしれません。わたしはインターネットで検索して教会に来ました。しかしどのような場合でも、特に神に召されて、家族とされているのです。さまざまな事情で教会を変わるということもあります。しかし、その場合でも、やはり神の召し、神の招きによって教会につながるのです。
神の家族といっても、教会の中でも、この人とは気が合うけれど、この人は苦手というのは、それぞれに人間である以上、人間の集まりである以上、必ず、あります。しかし、自分にとって、親しく思える人もそうでない人も、場合によって苦手な人も、神によって集められている、家族とされていることを、私たちは考えないといけません。同じ共同体の中で、神によって、神のご意志によって集わせていただいているということです。
そして人間の肉親の家族と神の家族が違うのは、神の家族は目的があるということです。そして中心があるということです。目的は神の御心をなすことですし、中心には神のみことば、つまり礼拝があります。神の家族は信仰によって結びついているのです。アットホームな感じの教会であれ、ちょっと冷たいなという感じの教会であれ、そこに神の御心に従う心がある時、人間的な思いを越えて、まことの交わりがあります。どんなにわきあいあいとしていても、人間的な思いだけでつながっているとき、あっというまに分裂が生じます。場合によっては大変不幸なことに、教会にあって、この世の様々なつながりより、もっとひどい対立が生じてしまう場合すらあります。
昔読んだ本で、祈りについて書かれたある牧師の文章に、教会の中の仲の悪い家族の話がありました。その家族は、家庭内に深刻なトラブルがあって、それでも、それぞれに教会に来られるそうです。別々に来て、別々に帰っていくそうです。教会の中で口もきかない、もちろん家に帰っても、会話はないのです。でもその牧師は書いておられました。あの家族の問題はすぐには解決しない、根は深い、すぐに和解ができるものではない、でも、一緒に礼拝をささげている、祈っている、それでいいのだ、と。そこに救いがあるし、かならず神が働いてくださる、と。
その家族は人間的な意味での家族関係は壊れているかもしれない、でも、共に礼拝をささげ祈っている、だから神の家族ではあるのです。これはとても皮肉なことでもあります。実際の血縁としての家族関係が壊れていても、なお神の家族であるというのです。でも神の家族であるゆえに神の光が注がれているのです。そこにこそ、神の光があります。
神が結び付けてくださる、そこには必ず恵みがあるのです。その恵みを信じて集うのが教会です。神の家族は、私たちを母と呼び兄弟と呼び姉妹と呼んでくださる主イエスの愛によって結びついているのです。教会は、主イエスの犠牲の血と肉によって、家族とされています。神の家族は、主イエスを遣わされた神の愛と憐れみの中にあります。
人間の目や心にはどのように映ろうとも、教会は神の愛と憐れみのまなざしのなかにある家族です。
今ここに集う私たちの上にもその神の愛と憐れみのまなざしが注がれています。わたしたちもまたその愛のまなざしをもって、神の家族を見つめ、たがいに祈っていきます。