大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

コリントの信徒への手紙Ⅰ 第9章1~18節

2024-01-07 14:13:00 | コリントの信徒への手紙Ⅰ

2024年1月7日 大阪東教会主日礼拝説教「ゆだねられている務め」吉浦玲子

<主イエスを見たではないか>

 パウロという人は一般的には「使徒」と呼ばれます。「使徒」という言葉にはさまざまな定義が考えられますが、おおまかには、初代教会において中心的な働きをした伝道者を指します。一つの定義としては主イエスが十字架におかかりになる前に、直接お選びになったペトロやヤコブやヨハネといった12弟子を指していました。パウロは主イエスが十字架におかかりなる前に主イエスの弟子になったわけではありませんでした。それどころか、主イエスの復活ののち、教会が立ち上がり、教会が伝道をしていく時、むしろパウロはファリサイ派として教会やクリスチャンを迫害しました。そのパウロが劇的な回心をして福音の伝道者となり、また自分自身のことを「使徒」と呼ぶようになりました。実際、パウロの働きはとても大きかったのです。他の使徒と呼ばれる弟子たちよりも、その伝道のスケールの大きさ、神学的な基礎を整理して手紙として残した功績などにおいて、抜きんでたものがありました。それゆえパウロは、主イエスの最初の弟子の中の一人ではありませんでしたが、多くの人が彼が「使徒」と呼び、また自分でも自分のことを「使徒」と呼んだのです。しかし、このことを認めない人々が教会の中にはあったのです。それはやはり、パウロが他の使徒たちと違い十字架におかかりになる前の主イエスから選ばれていないことによります。そしてまたキリスト教の迫害者であったという前歴にもよります。

 パウロを使徒と認めない人々に対してパウロはいら立ちを隠しません。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。」と語っています。「わたしは自由な者ではないか」「使徒ではないか」という言葉は原語では、「わたしは自由ではないというのか」「わたしは使徒でないというのか」という否定形で強く言われています。これは単純にパウロが、自分が使徒であることを否定され侮辱されて怒っているのではないのです。パウロを使徒ではないと言っている人々が、ほかでもない、パウロ自身が開拓し、建てた教会の信徒が言っていることに大きな問題を感じてパウロは言っているのです。「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。」というのはまさに自分自身の伝道の成果として神によって賜った人々に対してパウロは言っているのです。「わたしたちの主イエスを見たではないか」という言葉も切実なものです。

 そもそも伝道者であれ、教会の奉仕のリーダーであれ、なにをもってその役職にふさわしいと判断するのかということを考えてみなければなりません。今日でいうところの牧師や伝道師や長老などに対しても同様です。高名な牧師の一族出身だからとか、留学経験や委員会の役職をしているから素晴らしいのか、長老も社会的地位が高い人だから、あるいは代々長老を輩出している家の人だから立派な長老なのか。もしそのような外的なあるいは付帯的な出自やスキルをもって、教会の役職にふさわしいと考える人が多くいるのであれば、その教会は早晩、衰退し、滅ぶしかありません。実際、長老教会においてもそういう実例は多くあるのです。

 パウロの問いは、あなたは何をもって信仰を得たのか?という問いです。立派な役職についている牧師に勧められたから信仰を持ったのか?社会的地位の高い長老のいうことだから信用して信仰を持ったのか?あなたの信仰が本当の信仰であればそういうことではないでしょう。パウロは「わたしたちの主イエスを見たではないか」と語っています。

 伝道者であれ長老であれ、主イエスへの導きをなし、求道者や信徒が主イエスと出会い、主イエスの言葉を聞くことができるように、教会を整え、奉仕し、務めます。もちろん人々を信仰へと導かれ養われるのは神御自身ですが、その道を整えるのが教会と教会の薬務を担う者の務めです。その務めゆえに、人々はキリストと出会い、信仰を得るのです。それを「主イエスを見た」とパウロは語っています。あなたがたはたしかに使徒である私の働きにより、主イエスを知り、主イエスと出会い、主イエスを見たではないか。あなたが主イエスを見たということ、そのこと自体が私が「使徒」として働きをしたことの証ではないか。それ以上の使徒としての働きがあろうか?そうパウロは語ります。

<伝道者と報酬>

 パウロを使徒ではないという人々は、パウロは使徒だと自称して、教会から金を巻き上げようとしているとすら言っていたようです。パウロはお金が目的なのだというのです。ですから、3節以降には、伝道者と報酬ということについて書かれています。このあたりのことは、教会から報酬を得ている立場としては少々語りにくいところです。今日の聖書箇所を読みますと、基本的にはパウロは伝道者は相応な報酬を得るべきであることを主張しています。パウロは言います。「わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。」と。本来は、伝道者は生活の資を得るための仕事をすることなく伝道牧会に専念するべきではないかとパウロは語っているのです。「そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。」と粘り強く語ります。「脱穀する牛に口籠をはめてはならない」という律法の言葉も用いて語っています。

 こう縷々語りながら、今日の聖書箇所の最後のところでは、パウロは結局のところ、教会から報酬を得ることを放棄しているのです。あれ?結局、パウロは報酬はいらないのかと思ってしまいます。実際、パウロはテント張りの仕事をしていたと言われます。その伝道生活において、伝道に専念している時期もあったようですが、別に働いて自給していることの方が多かったようです。そのパウロの姿勢から、ある教派では、専任の牧師や伝道者を置かず、それぞれ別に働き生計を立てて自給的に伝道していくことが正しいと考えています。それはかなり特殊な教派になりますが、そもそも、日本の伝道が始まった明治の時代から、日本の教会はほとんどのところが小さく貧しかったのです。実際、戦前から戦後、多くの牧師方はほんとうに貧しい中、伝道をされていました。昔、まだ自分が信徒であったとき、ある牧師家庭の晩ごはんに同席させていただいたのですが、牧師夫婦とお子さんの食事はコロッケ一個とみそ汁とお漬物でした。そういうあり方を清貧とし、牧師のあり方の見本とする空気は今もあります。牧師は貧しくあるべきという考えは根強くあります。

<自由と自由の放棄>

 しかしパウロは、伝道者は自活すべきだから、あるいは、清貧であるべき貧しくあるべきだから報酬を受け取っていなかったわけではありません。今日の聖書箇所の前、8章では偶像に備えられた肉の話がありました。偶像に備えられた肉は汚れているから食べたくないという人々が教会にいたのですが、そもそも偶像には何の力もありませんからそこに備えられていた肉が汚されるなんてことはないのです。ですから偶像に備えられた肉を食べても問題はないのです。でもやはり食べたくない、抵抗があるという人々がいたのです。それを神学的な理解の弱い人々だと馬鹿にする人もいたのです。でもパウロは、その食べたくないという人々はたしかに神学的な理解は浅いかもしれないけれど、その人々が肉を食べる食べないという事柄で、結局、信仰生活が辛くなって離れてしまうことになるくらいなら、自分は肉を敢えて食べないと語っていました。

 今日の聖書箇所の冒頭で「わたしは自由な者ではないか」とパウロは語っています。それはパウロだけでなくキリスト者には自由があるということです。イエス・キリストの十字架と復活によって、罪赦され、解放されたのがキリスト者です。古い律法から解放され、罪の奴隷から解放され、自由にされているのです。肉を食べる自由があるし、伝道をしてその報酬を得る自由、権利があるのです。その自由や権利は尊重されるべきものです。他の誰かから奪われてはならないものです。しかし一方で、キリスト者がその愛ゆえに、その自由を放棄する自由もあるのです。パウロは肉を食べて良かったし、報酬を得て良かったのです。それはパウロの自由であり権利でした。しかし、パウロはパウロの愛ゆえに、さらにいえば、伝道や牧会のためにその自由や当然の権利を放棄したのです。しかしそれはパウロ自身が抱えていた伝道上の課題や、教会の特性からの決断でした。コリントの教会には、パウロを批判する人々がいる、パウロは金をもうけようとして福音を語っているのだという人々がいる、そのコリントの教会の中には、まだしっかり信仰の確立していない人々がいて、そういう批判を聞いて、心揺れる人々もいたでしょう。ほんとうにあのパウロという人のいうことを信じてもいいのかと迷いだす人もいるでしょう。その結果、教会や信仰から離れていく人々がいるくらいなら、自分は報酬を得るという当然の自由と権利を放棄するとパウロは語っているのです。コリントの教会のなかで自分の報酬のことによって信仰につまずく人が出ないように、という愛の配慮だったのです。パウロが伝道をしていく中での、特別な背景による、パウロの愛の決断だったのです。

<ゆだねられている務め>

 一方、伝道者が報酬を得るのは当然のことではあるけれど、そもそも伝道や教会の働きの本質は何かということをパウロは語ります。17節に「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。」とあります。専任の伝道者に限らず、教会の働きはすべて「自分からそうしている」わけではないのだとパウロは語ります。「強いられてする」ことなのだと言うのです。強いられる、というのは神に強いられているということです。

 昨年の夏、神学生が実習に来られました。あの神学生さんは、自分から牧師になろう、神学生になろうと決めて、そうされたわけではありませんでした。職業選択として牧師を選択され、そのためのスキル習得のために神学校に入り、インターンシップとして大阪東教会に来られたわけではありませんでした。神に強いられたから牧師になることを志ざされたのです。そのためのプロセスとして実習に来られたのでした。神に強いられたということは神に召されたといえることです。神に召されたということは、就職をするとか、結婚をするとか、出産をするとか、スキルアップのために資格を取るといったこととはまったく違う次元のことなのです。パウロは「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう」と語っています。自分が選び、自分がやっていることであれば、当然、そのスキルなり、実績への対価を得ます。しかし、神に強いられ、神に召されたことはまったく違うことなのだとパウロは言います。ですから、伝道者の報酬というのは、報酬とはいっても、一般的な給料や手当、謝礼とは、まったく性質の異なるものなのです。伝道への対価とか、福音を語るスキルへ対しての報酬ではなく、あくまでも、伝道の働きへの感謝とその働きを健やかに十全に行うための生活基盤を支えるものなのです。

そもそも、神に強いられたこと、神に召されたことは、神にゆだねられている務めなのです。神にゆだねられた務めは専任の伝道者に限りません。長老や執事といった務めも本人が望んですることではありません。選挙で選ばれる以前に、神に召されたからその務めをなすのです。たいへんな職務を強いられているといえます。長老だけでなく奏楽や教会学校教師といった奉仕者もそうです。さらに教会の働きは皆、神に強いられ、神に召されて務めるものです。昨年末、皆で会堂の清掃をしましたが、あのような奉仕もまた神にゆだねられているのです。

 クリスチャンでない人から見たら、神にゆだねられた務めというのは理解できないでしょう。時間や労力を使って、経済的には割に合わない働きをしているようにしか見えないでしょう。実際のところ、神にゆだねられた務めはけっして楽なものではありません。しかしパウロは「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」と冒頭で語っていました。私たちにも成果が与えられるのです。新しい信仰者と、教会全体の信仰の成長という成果が与えられます。それは教会の規模拡大や組織の強化ということではありません。信仰者、つまり救われた者が起こる時、天には大きな喜びがあります。天が揺り動かされるほどの喜びがあります。その喜びに私たちはあずかります。それが私たちの成果です。そしてまた私たち一人一人がキリストを深く知り、その恵みを知る時、そこにも大きな感謝と喜びがあります。そのためにゆだねられた者は教会を整えていきます。そして神に強いられるゆだねられる務めは大きな喜びという成果を与えられるのです。この世の喜び、楽しみを越えた、大きな喜びです。自己実現や承認欲求が満たされる喜びではありません。神がくださるまことの喜びです。その喜びに向かって、今年も私たちはそれぞれに神にゆだねられた務めをなしてきます。


ヨハネによる福音書 3章1~21節

2023-12-24 13:40:03 | ヨハネによる福音書

2023年12月24日大阪東教会主日礼拝説教「神は愛」吉浦玲子

<世を愛された>

 「神は、その独り子をおあたえになったほどに、世を愛された」

 このヨハネによる福音書の3章16節は福音書中の福音書と言われる箇所です。イエス・キリストがどなたによってこの世に遣わされ、イエス・キリストがなぜこの世にこられたのか、そのことがこの1節に凝縮されているので、福音書中の福音書と呼ばれるのです。

神は世を愛された、とこの言葉は語ります。ここで語られています「世」とはギリシャ語のコスモスのことです。宇宙を現わす英語のコスモスの語源となった言葉です。福音書で語られています「世」とは宇宙も含みますが、もっと直接的には神がお造りになった世界全体と言えます。

神は聖書の中の最初の書物である創世記に記されていますように、この世界を良いものとしてお造りになりました。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。神がお造りになった世界は極めて良かったのです。

しかし今、この世界を見て、「極めて良い」ということを思う人はおられないのではないかと思います。ガザ地区でもウクライナでも、人々が血を流し、命を落としています。戦争や紛争だけではありません。この地球上には満足に食事をとることの出来ない、飢餓状態の人が8億人以上いると言われます。学校に行けない子供たちが二億人以上いるとも言われます。そういう悲惨はどこか遠い国の、私たちとは関係のない世界の話でしょうか。そのような悲惨は抜本的な世界の不公平、富の分配の格差によって生じています。私たちも無関係ではありません。そもそも、私たちの身近なこの大阪でも貧困に苦しむ人は多くあります。教会にもときおり食べ物を求めて来られる方がいます。そのような平和や衣食住に関わることだけではありません。日々の生活にはとりあえず何不自由ないように見えても、それぞれに人々は重荷や不安を抱えて生きている世界です。

神が「極めてよく」造られたはずの世界が、なぜ、このように悲惨に満ちているのでしょうか。それはひとえに人間が神から離れてしまったからです。神とは関係なく、人間が自分の正義、自分自身の知恵や考えによって生きて来たからです。そこから争いが起こり、不公平が起こり、虐げられる人が起こりました。一方で権力や大きな富を持ちながら喜びはなく孤独と不安の中にある人もあります。そのような悲惨が人間の歴史を貫いてきました。

神が極めて良く造られた世界が人間の悪と傲慢のために壊されてきました。その壊れた「世」にあって、人間自身も苦しみ傷んできました。しかし、その壊れた「世」を神は愛されました。創造の時の、極めて良かった「世」とは異なる、争いと流血と憎しみにまみれ、人々の絶望で満ちた、そしてまた欲望に満ちた「世」を神は愛されました。

神が愛されるのは、愛する対象が極めて良いからではありません。神は愛なるお方だからです。神は愛なるお方なので、この「世」が極めて良くても、極めて悪くても、愛されるのです。愛するにふさわしいから愛されるのではありません。

<神から離れていること>

そして、今現在のこの「世」に生きる私たち一人一人をも神は愛されています。私たちが愛されるにふさわしいからではありません。私たちはこの壊れた世界にあって、私たち自身も罪にまみれて生きています。神に造られた者でありながら神から離れ、自分が神であるかのように生きています。でも、多くの人々は、自分が神であるかのように生きているつもりはないと思います。実際、精一杯善良に歩んでおられるでしょう。周りの人に気づかい、困った人にはできる限り手を差し伸べ、なにより、日々、仕事でも家のことでも、一生懸命やって生きておられるでしょう。しかし、そうであっても、神を顧みない者は、罪人なのです。精一杯大人として自分の責任で頑張って生きている、でもそこに神の導きを求めることがなければ、それは自己中心的な生き方なのです。神ではなく自分が中心の生き方になります。それが自分を神とした生き方です。それはやはり罪なのです。

私も教会に来るまではそのように生きてきました。それなりにまじめに働き、子供を育て、精一杯生活をしてきました。先日、昔の職場の人たちと会う機会がありました。10人ほどのメンバーで、中には、退職以来お会いしていなかった人も半分くらいおられました。メンバーにクリスチャンはおられませんでした。でも皆さん、和やかに良い感じでおられました。そんなかつての同僚や、教会に来る前の自分に対して、「あなたたちは罪人ですよ」なんてことを言っても、なかなか理解できないと思います。一生懸命生きてる者たちになんてことを言うんだと思われると思います。でも、神を知らないということ、神から離れているということ、それは罪なのです。その罪によって、私たちの日々も、この「世」も壊れていくのです。たとえば、私たちが善意で良かれと思ってやったことが、人を傷つけたり、関係を壊すこともあります。精一杯の善意だと思っていても、そこに自己中心の罪があるからです。そうやって小さなひびが生活に入っていきます。その小さなひびが、世界中にあり、やがて大きなひび割れ、断絶、争いを産んでいくのです。

<ふたたび良い「世」へ>

 このクリスマス礼拝で、なんで、そんな暗い話をするのかと思われる方もおられるかもしれません。でもその話をしなければ、なぜキリストが来られたのかが分からないからです。牧歌的にベツレヘムの空に星が輝き天使が歌い、神の御子がお越しになったというのはクリスマスの表面的なことに過ぎません。

 2000年前、イエス・キリストがお生まれになったベツレヘムも暗かったのです。差別があり、重労働があり、権力者は腐敗していました。貧しい者はあえぐような生活をしていました。そこにイエス・キリストは来られました。それが最初のクリスマスでした。

 2000年前のベツレヘムも暗かったのです。壊れていたのです。しかし、神はそんな「世」を愛されご自身の御子を遣わされました。「世」が暗く、壊れていたからです。この世界の闇と壊れ、醜さと苦しみをすべて担うために御子は来られました。その「世」をふたたび光で満たし、平和にし、愛にあふれた、「極めて良い世」にするためでした。

 この「世」をふたたび「極めて良く」するために御子は来られ、闇と壊れ、醜さと苦しみを十字架において担ってくださいました。クリスマスで来られたキリストは、その約30年後、十字架で死なれます。そして肉体をもって復活をなさいました。そのことによってこの世は救われました。神は、御子の命を差し出すほどに「世」を愛され、実際、御子の命と引き換えに「世」は救われました。

 「世」に生きるわたしたちもそうでした。御子の命と引き換えにせねば救われない罪の重荷を抱えていたのです。その重荷は人生のすべての苦しみの根源でした。その私たち一人一人の重荷を取り去ってくださるために、独り子である御子はこの「世」に来られました。悪の「世」に来られました。ご自身がすべての人間の罪を担われるためでした。

<いつも明るい「世」へ>

 キリストを信じる者は、すでに救われています。キリストの十字架と復活を信じる者はすでに罪の重荷から放たれています。依然として、この「世」は暗いかもしれません。でも今、私たちはキリストの十字架と復活を信じる者とされ、それぞれに光の子とされています。私たちは依然として、罪を犯し、過ちを犯し、人を傷つけ、自分も傷つく者です。でも、私たちはキリストの十字架と復活のゆえに、悔い改めることができます。新しく生き直すことができます。何度でも、新しく生きることができるのです。若くても年を取っていても。

 今、教会では夜、電飾が設置されています。近隣の方から毎年楽しみにしていますとお声をかけられるようにきれいです。もちろん、都会の街のイルミネーションのように華やかではありませんが、近隣の人、通りかかる人に喜んでいただいています。その電飾は、タイマー式になっていて、一定時間を経過すると自動的に消えます。先日、どうしても取りに行かないといけない者があって、夜11時を回ってから、牧師館から別館に向かったことがあります。すると電飾が消えていました。もう消灯の時間を過ぎていたからです。そこにあったのは、いつもの夜の暗い庭でした。アドベント以降、教会の庭はいつもキラキラしているという意識があったので、きらきら輝く光がない庭に一瞬驚きました。

 私はその教会の庭を見ながら、なんとなくはっとしました。クリスマスというと私たちはなにかキラキラした美しいことを思います。もちろん、クリスマスは美しいことです。神が人間への愛を示してくださった素晴らしい出来事です。でもそれは一過性のものではないということです。時間が来たら消える電飾のようなひとときの輝きではないということです。

 きらきらしていないいつもの夜の暗い庭にもキリストはおられるのです。クリスマスツリーもケーキもチキンもない、いつもの、私たちの日々にキリストはおられるのです。先日、「クリスマス」という言葉の語源を聞かれました。実は、私は恥ずかしながら即答できませんでした。それは「クリス」がキリストで、「マス」はミサです。つまりクリスマスは「キリストのミサ」です。つまりクリスマスはキリストの礼拝なのです。私たちが礼拝をしている限り、それはいつもクリスマスであるといえます。

 神が「世」を愛されるのもクリスマスの時だけではありません。私たちを愛されるのもクリスマスの時だけではありません。神の愛は、夜も昼も、永遠に照り輝いています。私たちの目には、暗い、なーんだというような生活の中に、すでに神の愛は届いています。そこにキリストがおられます。今、私たちはクリスマスの喜びに満ちています。その喜びは、キリストを礼拝する者に永遠に続きます。その輝きは私たちの内からけっして取り去られることはありません。


ヨハネによる福音書第5章31~40節

2023-12-12 16:19:16 | ヨハネによる福音書

2023年12月10日 大阪東教会主日礼拝説教「ここに命がある」吉浦玲子

<イエスについての証し>

 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」こうイエス様は語られます。イエス様はカナにおける婚礼の場で水をぶどう酒に変えられ、直接会うことなく役人の息子を癒され、ベトザダの池で38年間病であった人を癒されました。38年間病であった人を癒されたのが律法で働くことを禁じられている安息日であったこと、そして主イエスが神のことを「わたしの父」と呼ばれたことから、ユダヤの権力者たちは主イエスを殺そうと考えました。安息日の問題は簡単には言えませんが、安息日に病を癒すことを批判することは権力者たちの内に愛がないことを示します。しかしまた一方、神を「わたしの父」などと呼ぶことは神への冒涜と考えて主イエスを憎むということは、理解できないことではありません。

 現代でも自分は再臨のキリストだとか、自分は全能の神だとか自称する人はおかしな人だと思われます。まして主イエスの時代、聖書の神を大事にしてきたユダヤ人にとって、神を「わたしの父」などと呼び、自分の神の子であるなどと自称することは許されざることです。

 そのような流れの中で今日の聖書箇所になります。「自分は何者か」ということを主イエスが語られているのが今日の箇所です。主イエスは、自分で自分を証しをしてもそれは真実ではないとおっしゃいます。たしかにそうでしょう。「私は立派な人間です」と自分で言って、相手が信用するわけがありません。でもいろいろな人が「あの人は素晴らしい」と評価しているならば、ああそうかもしれないと信用するでしょう。そもそも当時、律法においても、二人以上の証言がなければ、裁判でも証拠として採用されませんでした。主イエスはそのことも踏まえておっしゃっているのです。

 ここで主イエスを証言する証言者としてまず洗礼者ヨハネが挙げられています。主イエスに先立ち、救い主が来られることを証ししたヨハネについて、主イエスご自身も自分を証しする者として語っておられます。「ヨハネは燃えて輝くともし火であった」と語られます。ヨハネはたしかに輝いたのです。しかし、人間ですから永遠に輝き続けることはできません。ヨハネは殺されてしまいます。「あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」と主イエスはおっしゃいます。しかし、その光は「しらばくの間」しか輝かなかったのです。そして、主イエスは「わたしは、人間による証しは受けない」とおっしゃっています。これはヨハネに対して少し厳しい言葉ではないか感じられるかもしれません。ヨハネは神に選ばれ、たしかに主イエスの道を整えるという大きな役割を果たしたのです。しかし、ここで主イエスがおっしゃるのは、厳然とした人間の限界です。たしかにヨハネは偉大な人物でした。しかしどれほど偉大な人間であっても、人間は人間から永遠に良きものを得ることはできないのです。人間も輝くことがありますがそれは「しばらくの間」です。そんな人間により頼もうとすることがあやまっているのです。主イエスはけっして洗礼者ヨハネを貶めておられるのではなく、むしろ洗礼者ヨハネをしっかり人々が理解できていないことを残念に思っておられるのです。

<主イエスの業による証し>

そもそも人間は人間の理性を超えた出来事や存在を証明することはできません。そして人間の理性で証明できるような範疇でしか神が存在しないのならそれは神ではありません。ですから主イエスは、人間を超えた証しを語られます。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」これは、冒頭に申し上げました婚礼の席でのことや病の癒しの業のことです。こういった奇跡によって主イエスが父なる神のもとから遣わされていることが分かるとおっしゃっています。

 でも、私たちはこれらの奇跡を現実に目の前で見ているわけではありません。信仰のない人や、残念ながら教会にも時々いる自称クリスチャンは聖書に書かれている奇跡を「作り話」「捏造」ととらえています。そしてそれらの奇跡を非科学的と言います。聖書に記されている奇跡を非科学的という人たちは実際目の前で奇跡を見てもトリックだと思うでしょう。

 しかし、私たちはこれらの奇跡を神の業として信じています。それは一つには聖霊の働きのゆえです。聖霊によって主イエスの働きを理解させていただけるからです。同時に、実際、私たちはわたしたちの身の上に神の奇跡を体験しているから聖書に書かれている奇跡も理解することができます。私たちは水がぶどう酒になるような奇跡は体験していないかもしれません。また、自分や家族の病気が奇跡的に癒される経験を必ずしもしていないかもしれません。しかしやはり、私たちは「ああ神に助けていただいた」「神に恵みを受けた」ということをおりおりに体験します。驚くような体験をします。最初は偶然だった、単にラッキーだったと思っていても少しずつ、神の恵みであったこと、神の助けであったことが分かってきます。でも、ひょっとしたら皆さんの中に自分は神の奇跡を経験していないと思っておられる方もおられるかもしれません。でも、そのことをなにかひけめに感じたり、自分の信仰は駄目なのではないかと考えられる必要はまったくありません。それは実際に起こっている奇跡に気づいていないだけですし、私たちが分かっていようが分かっていまいが、神は私たちに恵みを与え、助けてくださるからです。そして本当に必要な時は神御自身がご自分の業であることを示してくださるからです。そして実際のところ、あああれは奇跡だったと私たちが分かっていたとしても、それは、私たちに与えられるおびただしい神の業の一部にすぎないのです。御国に行ったとき、私たちは改めて知らされるのです。あああのことも神の業だったのか、あのときも神が助けてくださっていたのかと

<父による証し>

 「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。」 主イエスはご自身の業によって自分が父なる神のもとから遣わされた者であることが証しされると語られると同時に、父ご自身がご自分が父から遣わされた者であることを証ししてくださるともお語りになっています。父なる神が主イエスが神の御子であることを証ししてくださる、それは十字架と復活においてです。父なる神が主イエスを十字架につけられ、そしてまた復活をさせてくださいました。それが主イエスが父なる神のもとから遣わされたことの証だと主イエスはおっしゃるのです。

「あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである」

この箇所は、主イエスを理解せず、敵対する当時のユダヤ人に語られたことであると同時に、ヨハネによる福音書が編集された時代、迫害に揺れる教会に向けて語られていることでもあります。そしてまた、折々に信仰が揺れ動く私たちにも向けられています。

ここでは少し話が入れ子になっていると言いますか、どちらか先が分からないことになります。主イエスの証をしてくださるのが父なる神であるとおっしゃりながら、あなたたちが父なる神の言葉をとどめていないのは、「父がお遣わしになった者を、信じないから」と語られます。主イエスを証しなさるのが父なる神ですが、その父なる神の言葉がきけていないのは、「遣わされた者」つまり主イエスを信じないからだとおっしゃるのです。主イエスを信じるのが先か、父なる神の証を聞くのが先かよく分からないのです。主イエスを信じるには主イエスがどなたか証しされていなければならず、そのために父なる神の言葉を聞きたいと思っても主イエスを信じていなければ、父なる神の言葉をとどめることができないと読めてしまいます

実際のところ、どちらが先ということはないのです。順序だてて父なる神の言葉をとどめたから主イエスを知ったということではなく、三位一体の神は、父、子、聖霊がそれぞれに私たちに働いてくださり、ある時、聖霊によって、主イエスを信じる者とされ、同時に、父なる神の言葉を心にとどめる者とされるのです。

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 昨日は、教会のガレージで北浜の飲食店さんや雑貨屋さん、古本屋さんなどが小さなマーケットをなさいました。小さなマーケットといっても、出展された10店舗が、それぞれが集客力のある有名店であったこともあり、一番混んでいた時間帯は、朝の地下鉄並みの混雑でした。実は私自身は、十年間、この教会で伝道牧会をしてきていくつかの取り組みもしてきて、イベント的な取り組みについては厳密な考えを持っています。イベントをやって、教会の敷居を低くして皆が教会に入りやすくしたら伝道になるとは思っていません。といいますのは教会は、キリストと出会う場所だからです。キリストと出会う第一は礼拝だからです。礼拝でみ言葉を聞いてキリストと出会うのです。キリストと出会うことなく教会に来ても、救いが得られるわけではないからです。

昨日のイベントは、そういう意味では、直接的なキリスト教の伝道をするイベントではありませんでした。ではなぜそんなイベントをしたのかというと、教会が地域に開かれていることをアピールするためです。教会は礼拝を第一とする共同体であると当時に、この世にあります。この世にありながら、教会はこの世から取り分けられている聖別されている存在です。聖別されているのは第一に神を礼拝する共同体としてです。礼拝以外のところに伝道の本質はありません。しかしまた教会はこの世から切り離された存在ではありません。ですから地域にあって、この世に対して扉を開くのです。

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

 主イエスはおっしゃいます。聖書をただ頭の学問として研究をしても、そこに命はないのだと。もちろん聖書の教理の基礎を学ぶこと、神学研究はとても大事なことです。しかし、生けるキリストと出会わなければ、命を得ることはできない、そう主イエスは語っておられます。主イエスに敵対している律法学者たちが救われることがないように、キリストと出会わなければ滅びるのです。

 今、ここにおられる皆さんは、イエス・キリストのもとに来られた方たちです。キリストのもとに来るということは、ためになる話を聞くということではなく、生きる命を得るということです。礼拝に来ることはけっして楽なことではありません。せっかくの日曜日に時間をやりくりしないといけません。足腰に不自由があったり目が見えにくい耳が聞こえにくい、そのようなことと戦いつつ来ることにもなります。

 しかしなお、礼拝に来る者を主イエスはとらえてくださいます。その豊かな命の中に入れてくださいます。週日のさまざまな事柄、思い、試練、そのすべてを受け止めてくださり、一時的な気分転換や癒しではなく、新しく生きる力を与えてくださいます。世俗的なお楽しみとは異なる主にある交わりを与えてくださいます。

 ところで、私自身が、初めて教会に行ったとき、イエス・キリストのもとに行くという意識はありませんでした。教会というキリスト教の集まりの場所に行くと思っていました。何かのセミナーや講演に行くように、キリスト教の話を聞いたり、行事に参加するような意識でした。しかし、最初はそうであったとしても、私も皆さんもキリストに招かれたのです。誰かに連れられて教会に来たという人も、私のように何となく興味本位で教会に行ってみたという者も、最初からキリストが招いてくださっていたのです。最初はなんだかよくわからなくても、私たちはキリストに招かれて礼拝に来て、生けるキリストと出会い、命をいただいています。最初はなんだかよく分からない、そういう人が入って来ることのできるための扉を教会はこの世に対して開けておかねばなりません。それは直接的な伝道や敷居を低くするということとは違います。教会において、まことに礼拝が捧げられ、祈りが捧げられ、御言葉を求める人々が集う時、教会から光が放たれるのです。小さく開かれた扉から、たしかにキリストご自身の光がこぼれていくのです。私たちもかつてその光に導かれたように、キリストの光が放たれます。アドベント、私たちはキリストのもとに来ます。そして御言葉を求め、命をいただきます。そのとき、キリストの光がこの世へとあふれます。その光に触れた人々が礼拝をする者に変えられていきます。私たちがいまキリストの命のもとで礼拝をお捧げしているように。このアドベント、キリストにあって共に喜ぶ者が増し加えられますように。


ヨハネによる福音書第7章25~31節

2023-12-05 14:36:39 | ヨハネによる福音書

2023年12月3日 大阪東教会主日礼拝説教「救い主は誰」吉浦玲子
<メシアを待つ>
 待降節、アドベントが始まりました。このアドベントに私たちは待ち望みます。キリストの到来を待ち望みます。キリストは2000年前に一度、この世界に来られました。それがクリスマスの出来事でした。そのときから世界が変わりました。罪の闇に覆われていた世界が変わったのです。光が地上にやってきたのです。その光は私たち一人一人の心にも注がれました。心だけではありません。現実の日々の生活にも光は射し込んできたのです。
 しかしまだ完全な光ではありません。この世界には戦争があり、罪の闇が満ちています。私たちの日々にも暗澹とした苦難があります。しかしそのまだ残っている闇を打ち払うためにキリストはふたたび来られます。そのキリストの到来を私たちは今、待っています。
 キリストはヘブライ語でいいますと、メシアです。油注がれたものです。旧約聖書の時代、祭司や王や預言者といった特別に神に選ばれた人々に、実際、その頭に油を注ぐ儀式をしたのです。神から特別に選ばれた者が、油注がれた者、メシアでした。やがてそのメシアという言葉は救い主として、人々が待ち望む存在となりました。イスラエルを救い、民を救う救い主、そのようなメシアを人々は待っていたのです。十年、二十年ではありません。何百年も待っていたのです。それほどにイスラエルの人々は虐げられ、苦難にあえいでいたのです。
 旧約聖書の時代から待望されていたメシアは、その数百年ののちの新約聖書の時代にも待たれていました。イエス様がお越しになったのは、そんな世界でした。イスラエルはローマ帝国の植民地となっており、民族の尊厳は奪われていました。貧しい庶民の一人一人までもがローマへの税を払わねばなりませんでした。戦争こそはないもののローマ帝国の圧倒的な力によって制圧されている不公平で不条理な世界でした。それはパックスロマーナ、つまり「ローマによる平和」と言われる平和があった時代でした。しかし、そこには人々が安らげる本当の平和はありませんでした。
 2000年前、地上に来られた主イエスを見た、当時のイスラエルの人々はその力ある言葉に驚き、奇跡の業に驚きました。しかし、その主イエスが一体何者なのか、それははっきりとは分からなかったのです。その主イエスと一番近くにいた弟子たちすら分かっていませんでした。
<主イエスを殺そうとしていた人々>
 主イエスはたしかに力強い言葉を語り、素晴らしい業をなされました。そんな主イエスを人々はもてはやしました。しかし一方で、そんな主イエスを疎ましく思う人々もいました。その主イエスを疎ましく思う人々には、不思議なことに、宗教家と言われる人々も含んでいました。神に仕える祭司や、聖書を教える律法学者たちが主イエスを疎ましく思っていました。疎ましく思っているだけではなく、殺そうとすら考えていたのです。実際、今日の聖書箇所にこのような言葉があります。「さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。」」この時、主イエスは秋の祭りである仮庵祭期間中のエルサレムに来られていました。祭司や律法学者といった権力者たちはその祭りのさなか、主イエスをとらえて殺そうと狙っていました。そのことを人々も知っていたのです。しかし、主イエスは権力者から隠れるのではなく、エルサレムの人々の前で語られました。なので、人々は驚いたのです。命を狙われている主イエスが公然と話していたからです。「あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」主イエスが公然と話をされているので、人々は実はすでに議員、つまりエルサレムの議会は主イエスをメシアと認定したのではないかとも考えたのです。
<主イエスの出自>
 しかしまた、このようにも人々は言うのです。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
 神に選ばれた救い主メシアは、まさに天から来られたような神秘的な方であるはずだと人々は考えていたのです。しかし実際のところは、旧約聖書には救い主はベツレヘムでお生まれになると預言されて書かれているのですが、人々の気持ちとしてはどこか特定の地域の出身ではなく、謎めいた出自のメシアであってほしいのです。しかも主イエスのご出身は、ガリラヤのナザレという僻地でした。そんなど田舎の、いかにも冴えないところの出身の人間がメシアだなどとは信じたくないのです。さらにいえば、主イエスはヨセフという大工の息子でもありました。立派な学者について学問をなさったのでもありません。今日の聖書箇所の前のところで「この人は学問をしたわけでもないのに」という人々の言葉があります。当時、聖書は立派な学者について学ぶものでした。でも主イエスはそうではありあませんでした。現代で言うところの難関有名大学を出たエリートでもなかった。人々はそういう経歴にも不満があったと考えらます。
 それに対して主イエスご自身が答えられます。それも大声でお答えになります。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」
 主イエスは自分をお遣わしになった方、つまり父なる神によって、遣わされたのであって、自分勝手に来たのではないとおっしゃっています。つまり神によって派遣されたのだとおっしゃっているのです。
<神であり人間である主イエス>
 現代の私たちは、主イエスが神のもとから来られた方であることは知っています。さらにいえば、クリスチャンでない人々もなんとなく、主イエスは神の子と思っておられるかもしれません。「神の御子は今宵しも、ベツレヘムにうまれたもう」という讃美歌の111番は、クリスマスの時期、世の中でもよく流れる曲です。私もクリスチャンになる前から知っていました。クリスチャンでない頃、神とか神の御子という言葉をあまり深く考えずに歌っていたと思います。そしてなんとなく、主イエスは神の御子、なんとなくありがたいお方で、母マリアに抱かれているイメージを受け取っていたと思います。
 でもクリスチャンである私たちも時に、なんとなくきれいなありがたいイメージで主イエスをとらえてしまうところがあるかもしれません。普段は罪だとか、十字架だと言っていても、このアドベントからクリスマスの時期は、なんとなくロマンチックなページェントのイメージで、ともすれば主イエスをとらえてしまうかもしれません。
 でも実際のところ、主イエスがナザレの田舎の出身でありながら、神の御子であるということはとても大きなことを示しています。私たちはそのことを忘れてはならないのです。ひとつは主イエスは紛れもなく人間としてこの世に来られたということです。あるとき不意に神秘的に現れられたのではなく、田舎の大工として働き生活をしてこられたお方だということです。そして同時に主イエスは神に遣わされたお方でした。たとえば牧師も神に遣わされた者ですが、当然、主イエスとはまったく異なります。主イエスは、「その方のもとから来た者であり」とおっしゃっています。つまりもともと神のもとにおられ、そこから来られたのです。神のもとにおられた神の御子であるということです。そして神の御子であるということは三位一体の子なる神であるということです。つまり神ということです。主イエスは人間であり、また、神であったということです。これは神が50%、人間50%ということではなく、神100%人間100%であるということです。私は理学部の出身ですが、算数のレベルで100+100が200にならないという理屈に合わないことを今、申し上げています。しかし、主イエスという存在は、神100%人間100%のお方なのです。主イエスは、神であるから私たちをお救いになることができるのです。そしてまた人間であるから十字架におかかりになって私たちの身代わりになって罪の罰をお受けになられるのです。
<愛なる方>
それにしても、主イエスを殺そうと思っていた人々は、なぜ主イエスへそのような思いを抱いたのでしょうか?そこにはいくつかの理由が考えられます。脚光を浴びている主イエスへの嫉妬もあったでしょう。それ以上に考えられますことは、そもそも、彼らは神に仕える者であったり、聖書を教える人々でありましたが、実際のところ、神を知らなかったのです。宗教的であるということと、神を知っていることは違うのです。神を知らない者は、形式的には祭司として神に仕えているようでも、学者として聖書を教えているようでも、実際のところは、神を憎むのです。
 これは不思議なことかもしれません。曲がりなりにも神に仕えている人々、聖書に精通している人々、それらの人が、いざ生ける神の子である主イエスにあったとき、神の子であり、子なる神である主イエスを憎んだのです。それは「神は愛なる方」だからです。神は人間を愛し、愛を行う方だからです。愛なる神に出会っても、愛のない者は神が分からないのです。愛を求めていない者には神は分からないです。立派に礼拝を捧げること、聖書をしっかり理解していること、たしかにそのこと自体は悪いことではありません。しかしそこに神を求める気持ちは主イエスを憎む者にはなかったのです。愛を知ろうとする気持ちがなかったのです。愛を行う気持ちもなかったのです。だから神が分からないのです。神を知らないということと、愛を知らないということは相互的な関係にあります。神を知ろうとすれば愛を知ります。愛を知ろうとしなければ神を知ることもできません。そもそも神を求めないのです。
 神を求める者は愛を知ります。そしてその愛は、救い主であるキリストによって私たちに知らされます。十字架におかかりになるキリスト、メシア、救い主によって知らされます。逆に言いますとキリスト抜きの愛はありません。十字架抜きの愛はありません。キリストと結びつかないところに愛はありません。愛は十字架の痛みと結びつきます。痛みのない愛はありません。愛をなにか感情的に喜ばしいこと、仲良しなことだと考えているところに本当の愛はありません。痛みつつ、他者のために仕えることが愛です。メシアであるキリスト、主イエスは私たちに仕えてくださいました。いま、私たちはその生けるキリストと共に礼拝をお捧げしています。礼拝においてキリストを知ります。礼拝においてキリストと繰り返し出会うのです。礼拝は義務だから出席するのではありません。救いの条件ですらありません。愛のなかった私たちがキリストと出会うために、出会い続けるために礼拝を捧げます。そしてまことの愛を知らされています。神を知らされるのです。
そして今日は、これから聖餐にあずかります。聖餐において十字架におかかりになった救い主を知ります。救い主の裂かれた肉と流された血潮を知ります。命を捧げてくださった救い主の愛を知ります。その愛によって私たちもまた本当の愛に生きる者とされます。愛に生きたいと願う私たちに、なお神はその真実のお姿を私たちにお見せくださいます。


マルコによる福音書第8章34~38節

2022-07-31 08:38:17 | マルコによる福音書

2022年7月31日大阪東教会主日礼拝説教「自分の十字架を背負え」吉浦玲子

 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃいました。自分の十字架を背負って、というところは、一般的にも使われることがあります。本来の聖書の意味から離れて、運命や宿命、あるいはつぐないというようなものを背負っていくという意味で「自分の十字架として背負っていく」と語られることがよくあります。なにかたいへんな重荷を覚悟を決めて背負っていくというイメージがあります。たしかに十字架は重荷です。しかし、それは、本来の聖書においては、ままならぬ運命とか、責任を取るというような意味で背負うものではありません。

 カトリックの教会や修道院に行くと、「十字架の道行き」という札が立っているところがあります。あるいは絵画で「十字架の道行き」が描かれていることもあります。主イエスの死刑宣告から十字架刑、墓に葬られるまでの14の場面、そして場合によっては15番目として復活の場面までが「十字架の道行き」には描かれています。主イエスは実際、エルサレムから死刑場であるされこうべの丘、ゴルゴタの丘までの二キロほどの道のりを十字架を背負って歩まれました。十字架の物理的重さは諸説あり40キロから百キロ近かったとも言われます。これを背負って二キロの道のりを歩むというのは健康な人間でもたいへんなことです。ましてや主イエスは、その前に、ローマ式の肉に食い込む鉄球がついた残酷な鞭で打たれてもおられます。「十字架の道行き」では主イエスが道で倒れられた場面が三回描かれています。主イエスが三回お倒れになったということは聖書には記されていませんが、実際、その足取りは痛々しくよろめきながらであったことでしょう。

 物理的にもたいへんな十字架を主イエスは担われました。しかし、その重さは、単なる物理的な重さ、肉体的な苦痛を与える重さのみではなく、私たちの罪の重さでありました。主イエスは人間の罪の重さを十字架において担われました。それを知らない、ローマ兵や見物人の群衆は主イエスを罵ります。本来の意味で、十字架を担うということは、誰かの罪を担うことであり、しかもそれは人から褒められることでもなければ、格好の良いことでもありません。皆から罵られ、道をよろめきながら、みじめな姿で歩むことです。それは実際のところ、神であられるキリスト、救い主である主イエスでなければけっしてできないものでした。そしてその十字架による死は宗教的な意味での殉教ですらありませんでした。当時、むしろ主イエスは神から見捨てられたみじめな狂信者として死んだと人々は思いました。「そうれ見ろ、預言者だ、メシアだと言いながら、全く無力で無様に死んだではないか」と。

 しかし、主イエスはおっしゃるのです。あなたたちも「わたしに従いなさい」と。キリストを信じるということはキリストに従うということです。頭で信じているけれど、日々の生活は自分の思うとおりにするのではれば、それは信じていることではありません。日曜日にうやうやしく礼拝を捧げるけれども、月曜から土曜までは神様のことは考えもしない生活を送るのではありません。聖書において信じるということは、行為によってあらわされることです。もちろん行為によって私たちは救いを得たわけではありません。しかし、救われた私たちは、救われた者にふさわしい生き方をします。救われたことへの感謝があれば、完全ではないにしろ、感謝ゆえに救われた者にふさわしい生き方になっていきます。少なくともそういう生き方を目指そうと願います。そう願って生きる生き方が主イエスに従う生き方です。

 そしてそう願って生きていくとき、おのずとそれは十字架を担う歩みになっていきます。 勘違いをしてはいけないのですが、十字架を担う生き方というのは、世のため人のためになることをするということではありません。その良いことのために人知れず忍耐をするということでもありません。もちろん、キリスト教の考えにもとづいて福祉施設を立ち上げる、あるいは学校を作る、困った人を助けるためのボランティアをする、こういうことは良いことです。それが御心であると神から示されるのであればやったらいいのです。しかしそのことと、主イエスの十字架を背負うということは、イコールではありません。

十字架を担う生き方というのは、主イエスがそうであったように称賛を受けるような行為ではないということです。むしろ、さまざまなバッシングや妨害にあうかもしれません。もちろん敢えて自虐的な行為をすることではありません。ただそれは普通に考えて報われない行為なのです。人から見たらばかばかしく見える行為なのです。さきほど十字架は神であられる主イエスにしか担えないものだと申し上げました。実際、本来は人間には担えないものです。しかし、主イエスを信じ、主イエスの後を追う者は、主イエスとまったく同じ重さではないけれども、それぞれに十字架を担うことになるのだと主イエスはおっしゃっているのです。主イエスの後に従う、ということは、当たり前のことですが主イエスの前にはいないのです。主イエスのお姿を前に見ながら歩むとき、それはおのずと十字架を担う歩みになるのです。

十字架を担う歩みは人から見たらばかばかしく見える行為だ、報われない行為だと申しました。しかしまた逆に考えましたら、私たちの人生で、人からばかばかしく見えること、報われないことは、けっこうあるのではないでしょうか。仕事においても、家庭生活においても、報われないことは多くあります。どれほど労苦しても感謝されない、感謝されないどころかむしろ悪く言われてしまう、そういうことはままあります。しかし、主イエスの後に従いながら報われない行為、愛の行いをしていくとき、おのずとそれは十字架を担っていることになるのです。報われないことを、なんでもかんでもやればよいということではもちろんありません。正当な評価や感謝を求めてよいのです。しかし、仮に報われなくても、主イエスの後ろを歩みながら、愛の行いをしていくとき、それは十字架を担う歩みとされるのです。私たちが意識的に十字架を担いましょうと担うのではなく、私たちの報われない愛の行いを神が十字架を担っていると考えてくださるのです。この地上では報われないかもしれないけれど、終わりの日に神が報いてくださるのです。といっても、神の報いを求めて担うというのではありません。こうしたら神様に褒められる、天に富を積むことになると考えて行うことは、十字架を担うことではありません。ただただ主イエスの後ろで従いながら歩む、そこに十字架があるのです。

さて、さらに主イエスはおっしゃいます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」自分の命を救いたい者は命を失い、命を失う者は命を救うというのは、なぞかけのような言葉です。この言葉を自己を犠牲をしたらよいとか、なにか滅私奉公的なことをしたらよいという風にとってはいけないのです。ここで言われている「命」とはなんでしょうか?これはプシュケーというギリシャ語で、魂とか息という意味のある言葉です。人間の存在そのものといってよい言葉です。人間はただ生物学的に生きている存在ではなく、さまざまに考え、思いをもって生きていきます。願わくば、生きがいや喜びをもって生きたいと願っています。やりがいのある仕事をして、プライベートでもいろんな趣味をもって生き生きと生活をしていく、それは理想的なことのように思えます。

実際、私自身、そういうことを目指して生きていたように思います。忙しく、でもそこそこ生きがいをもって生きていたつもりでした。しかしある時、というか、長い間と言っていいかもしれません、意識していなかったむなしさというか、何か根本がかけているという気持ちになりました。だからというわけではないのですが、たまたま教会に行くこととなり、やがて洗礼を受けました。そしてそのあと気づいたのです。ああ、自分はほんとうの意味で生きていなかったと。死んでいたと。一生懸命働き、趣味もあって、生き生きと生きているつもりだった、でも死んでいた、と。

先日、ある教会の牧師就任式に伺いました。その就任式の礼拝の中で、司式をされた牧師の説教で、牧師の働きは、「生きよ」ということを人々に伝えることだと語られました。死んではいけない、生きよと伝えるのが牧師の役目だと。「生きよ」と伝えることはもちろん牧師の役目であり、それはとりもなおさず教会の役目でもあります。その牧師は、さらにおっしゃったのは、この春に、実はその先生の牧会されている教会の青年が自殺したということを語られました。それは牧師にとっても、教会にとってもたいへんな悲しみ嘆きであったと思います。実はその話は、牧師のメーリングリストで私自身、青年が失踪したところからお聞きしていました。皆で青年の無事のために祈りを合わせていた事件でもありました。しかし青年は命を自ら断ってしましました。

「生きよ」という言葉は、まずもちろん、肉体の命において「生きよ」というのです。死んではいけない、苦しみ多いこの地上にあって、なお生きよと伝えるのです。しかしまた、肉体の命は、肉体だけで支えることはできないのです。さきほどいいましたプシュケー、精神、魂において支えられるのです。さらにまた、その人間の精神、魂というものも、人間の力だけで支えられるものではないのです。キリストに従って歩んでいくとき、私たちは、それまで自分が大事だと思っていたさまざまなことを捨てるのです。自分を捨てて、とはそういうことです。自分がいきがいだと思っていたこと、大事だと思っていたこと、自分の命より大事だと思っていたこと、それらをいったん捨てるのです。そのとき、私たちは本当の命を知らされるのです。キリストの十字架と復活によって与えられるまことの命を知らされるのです。霊的な命を知らされるのです。その新しい命に生きるためには、古い自分が死ななければなりません。自分の思いや考えをいったんリセットしなければなりません。自分が大事だと思っていた命に死ななければなりません。洗礼において私たちはいったん死にます。命を失ったのです。そして新しく生かされました。霊的な命をいただきました。

そのとき、私たちは、新しい精神、魂に生き始めます。本当にやるべきことが見えてきます。むなしいと思っていた日々に光が注がれます。そのとき、肉体の命も、精神も、そして霊的な命も本当の意味で行かされるのです。洗礼を受けたのちも、私たちはキリストの後ろを歩んでいくとき、日々、ある意味、死んでいくのです。自分の命を捨てていくのです。しかし、だからこそ生かされる。死んではいけない、生きよというキリストの声を聞くのです。そしてこれまでとは違った世界が見えてくる、そして人間の評価や報いを超えたものを担えるようになってくる、自分の十字架を担えるようになってくる、それは滅私奉公のような苦しいお勤めではありません。いやもちろん苦しみはあります。しかし、本当の命に生きることです。愛に生きることです。この一週間も私たちは、生きます。まことの命に生きます。自分を捨てて、愛に生きていきます。