本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・
また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。
では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。
以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。
また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。
では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。
以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。