日記

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本覚思想・2

2022年03月14日 | 新日記
仏陀の認識論において重要な概念となるのが、「如実知」と「如量知」となります。

「如実知」は、いわゆる無漏の三昧知、等引知であり、これは空性しか認識していない状態で、「虚空の如き空性」と世俗的に表現されます。

この無漏の三昧知・等引知は、煩悩障を断じた聖者以上の段階において可能な認識状態となります。

ただ、仏陀との違いは、三昧・等引から離れる「後得知」においては、「幻の如き空性」と表現されるように、空性であることは十分に了解していても、事物・事象は、まだ実体があるかのように顕れてきてしまっているのであります。

もちろん、実体があるかのように顕れが認識において起こってしまう(真実執着・諦執)ものの、それによりもはや汚れる業は既に無いため、業は清らかさを保ってある状態で、真実執着・諦執の障りとなっている「所知障」の断滅へと向かってゆくことになるのであります。

では、聖者の後得知に対応する世俗の顕れを認識する仏陀の「如量知」とはいかなるものであるのか、ということが次に問われるところとなります。

この仏陀の「如量知」のあり方に対しての錯覚とも言える誤解が「本覚思想」の間違った解釈に繋がってしまっているものであると考えられるのであります。

・・

本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

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