日記

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「見仏と仏性論」・4

2022年03月10日 | 新日記
前回に見たように、日本の仏教は、「見仏論」に重点が置かれてあり、「修道論」が疎かになってしまったゆえに、戒・定・慧の実践、布施や持戒などの六波羅蜜の実践も軽視されてしまっている感が強くあります。

しかし、それでは通仏教的な因果律、特に七仏通誡偈の大原則が守られず、ただ、見仏へと向けた(実際にそれで可能であるのかどうかは別問題として)実践のみに偏ってしまっていることの弊害も見受けられるのであります。

もちろん、「見仏論」へと依らざるを得なかった事情はあるとしても、何よりその見仏のためには、当然に修道も欠かせないものであります。

特に、見仏へと向けては、その基本として、声聞や独覚の阿羅漢、または、第八地以上の菩薩とならなくては難しいものであります。(煩悩障の断滅・業の浄化・輪廻からの解脱)

もちろん、如来在世の浄土における化身化土への往生ということであれば、さほどの境地に至らなくても可能ではありますが、それさえも、多少は、修道による智慧と福徳の資糧は当然に必要となります。

やはり、釈尊在世時に、釈尊の応身より直接にご指導を頂けた者たちの多くも、それ相応に過去世における福智二資糧があったからでもあります。

何も因縁のないところに結果は生じません。見仏へと向けた結果のためにも、それなりの因縁は必要となるのであります。 

今一度、日本の仏教は、修道論をその基本から見直すべきであると改めて思う次第であります。その点で、ツォンカパ大師の菩提道次第論を学ぶ意義は計り知れなく大きいのであります。

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日蓮聖人の仏性論は、天台本覚思想的仏種論となりますが、道元禅師、親鸞聖人と同じように整理すれば、(法華経受持の)「題目」=「仏性・仏種」=「見仏」というものとなります。

曹洞宗「坐禅」=「仏性」=「見仏」
臨済宗「見性」=「仏性」=「見仏」
日蓮宗「題目」=「仏種」=「見仏」
浄土真宗「念仏」=「仏性」=「見仏」

ここで拙生が以前から着目しているポイントは、確かに各宗祖方は、それぞれ仏性論についても深く検討はしているものの、それが成道論、つまり、修道論につながっていくものではなく、主には見仏論へと向けたものとして教義的論点の相違になっているということであります。

それが故に、福智二資糧の集積へと向けた根拠や実践といったものではなく、「見仏」を優先させるものとして調えられていると考えることができるということであります。

つまり、実際の修道、成道へと向けては、「見仏」後の取り組みに委ねようという考え方であります。

では、なぜ修道論、成道論に重きを置こうとしなかったのか。

これはいわゆる当時の日本における時代背景である「末法思想」の影響であると考えています。

現世ではもう修行しても無理、無駄だという、ある意味での諦観であります。

このように考えますと、「見仏論」へと依らざるを得なかったのだとある程度納得ができるのであります。

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先の「見仏と仏性論」で、道元禅師が、「坐禅」=「仏性」=「見仏」、親鸞聖人が、「念仏」=「仏性」=「見仏」と理解できるとしたわけですが、更に「空性」=「仏性」ではないにしても、それぞれ何が問題になるのか、ということであります。

それは、道元禅師と親鸞聖人、また、「空性」=「仏性」論者ともに、「仏性」におけるはたらきとしての「利他」の面、つまり、仏陀の「色身」の成就へと向けた説明が不足してあるという問題点であります。

要は、ではいかに「色身」を成就して、また、何がその根拠になるのかということであります。

それは、例えば、坐禅だけで、念仏だけで、空性だけで成就できうるのかどうか、また、成就しうるにしてもその根拠となるものは何かということで、智慧と福徳の二資糧が、それぞれ仏陀の法身と色身の根拠であるという通仏教的な原則が、両者ともに曖昧で説明がつかないという点にあります。

仏性論を語るのであれば、法身と色身の根拠も示すのが成道論として、かなり大切なことになります。

そうなると、両教義ともにやはりバランスを欠いてしまっているのではないだろうかというのが拙見解でもあります。

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「見仏と仏性論」は非常に難しい論点であります。

しかし、「見仏と空性論」は、そう難しくはありません。

要は煩悩障を断滅した聖者以上における空性理解の境地が、見仏できるかどうかのその分岐点となり、はっきりとしているからであります。

であれば、「仏性」=「空性」とすると、「見仏と仏性論」も同様にわかりやすいものとなるのでありますが、そうは問屋が卸さないところに難しさが控えているのであります。

もし、「仏性」=「空性」であれば、道元禅師の仏性論の説明も「空」論で簡単に説明がつくものとなります。

また、逆に、「仏性」=「空性」であれば、親鸞聖人の仏性論、真実報土に往生しての見仏論は、完全に破綻してしまうことになります。(化身化土への往生論であれば破綻はしないのではありますが、それは別稿にて)

親鸞聖人の仏性論の場合は、「仏性」=「空性」ではもちろんなく、「信心」=「仏性」的な面が強く、その「信心」次第で、「見仏」の可否も問われる独特なものであります。

道元禅師が、(自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる)「坐禅」=「仏性」とするならば、親鸞聖人の場合は、(他力の信心决定の)「念仏」=「仏性」と言えるのであります。

両宗共に、「仏性」の問題は、実のところ両教義の根本中枢に控えてあるのであります。

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元々、通禅的な「見性」について道元禅師は批判的な立場であり、天台本覚思想的な立場も批判的であります。

道元禅師の仏性論は、最終的には、「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(現成公案)の意とするところとなります。

一見、己事究明と見せかけて、箇事究明と称されることもあるように、全てにおける仏性のありようをいかにして悟るべきであるかというために、坐禅により「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむることによって最終的に仏性を顕らかにすべきであると結論づけていると、拙生は解しているところでありますが、本義的には、「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむる「坐禅」そのものが「仏性」であるともなるのでしょう。

それなら「坐禅=見仏」として、それが本来は正しいということになります。

曹洞宗の葬儀の儀軌も、宗祖の原点に立ち返るとなれば、「坐禅=見仏」を前面に押し出してくるべきであるのでしょうが、そこまではやはり現実的に難しいし、通仏教的に無理があるということでしょう。

在家の方であり、道元禅師の思想についてもそこまで深く知らない方でありますから仕方もないのでもあります。

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曹洞宗の引導先は、立宗の早い段階から、元々は極楽浄土にあったことは瑩山清規からも明らかなことながら、道元禅師が浄土教に対して一貫して批判的な立場であったがゆえに、ある時期から祖師の教義原点に立ち返って、極楽往生、極楽引導的な立場は、やがて否定されるに至ったと、かなり前の検討と共に、極楽浄土ではないとして、ではどこへの引導となるのかを、一切如来からの灌頂を受けることのできる天部と、一応は拙生なりに結論付けたわけですが、そうではなく、内なる心の仏との見仏、いわゆる「見性」が引導先(というかその確認念押し)という主張の方との意見交換が、結構長くまだ続いています。

「見性」は、臨済宗で最も重要な教義的立場となります。

ですから、臨済宗の葬儀において、在家は極楽浄土が引導先だが、出家は「見性」と考える方は、かなり立場的に多くあるのも当然のことであります。

内なる心の仏との見仏とは、要は「本覚思想」にも繋がるところであります。

もちろん、拙生の見性についての考えは、内なる空性を見るということであり、それは明らかに仏ではないという立場であります。

空性=仏と考えたら見仏になるのでは、と強く主張されるのだが、空性=仏ではなく、空性≒仏であり、その微妙な差異の理解差が埋まらないところであります。

空性=法身とは言えても、イコール仏ではないのであります。

このあたりは、無上瑜伽タントラを学ぶとよく分かってくる部分になりますが、なかなか難しいところでもあります。

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