日記

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如来の慈悲の平等性とは

2024年07月24日 | ブログ
如来の慈悲の平等性とは、衆生、六道、個々人それぞれの輪廻・業のありようと、悟りへ必要な資糧をリアルタイム、進行形で過不足なく把捉なさられることを言うのであります。

如来は、悟りに向けてそれぞれにおいて何が必要かを、差別なく、忖度もなくに見極められるのであり、これが、如来の智慧と慈悲による力なのであります。

間違った例は、悟りへ必要な資糧を与えて下さって、悟りラインに並列に並べて頂けると思うことであります。

浄土門の場合は、往生ラインと置き換えるとよいでしょう。往生への資糧を阿弥陀如来が皆に与えて下さると思ってしまう間違いになります。

もちろん、そんな都合の良い話にはならないのですが、もしそうなら、阿弥陀如来が法蔵菩薩から成仏なさられた際に、衆生は皆、阿弥陀如来の本願により往生ライン、悟りラインに引き上げられて輪廻するものなど微塵もいなくなっているはずなのでもあります。

しかし、現実は全くそうではないわけですから、阿弥陀如来の本願だけで救われることなどはなく、その間違いは歴然と明らかであるのであります。

本願と信心、真実浄土へ向かう資糧を信心一つとして、それが正しい因となるとして説かれたのが、親鸞聖人であるわけです。

また、確かに行は易行として単純明快、簡単至極ではあっても、真実浄土への往生、悟りへ向けた資糧として、信心獲得、信心決定の事態とはそんな生易しいものでもないというのが拙見解となるのであります。


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