おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

資本主義の終わりはもうすでに言われている

2005年08月22日 12時56分55秒 | Weblog
平和党http://www.heiwatou.jp

別にわが党が「資本主義の限界」を発見したわけではない。前々から言われていることである。
資本主義経済はやがて限界をきたすということは、ケインズ、マルクス、シュンペーターといった名著を残した経済学者がいずれも予見をしていた。

マルクスは資本主義の高度化につれて、利潤率が低下し、資本蓄積が鈍化し、生産性の低下をもたらすと考えた。日本経済は今まさにそうなっている。

シュンペーターは、資本主義の原動力である企業が、新技術により市場を拡大していくと、企業は大組織となり拡大意欲を失い、経済停滞を生み、技術革新がなくなり、大企業化が官僚化していくと考えた。これもまた、日本経済はあてはまる。携帯電話の普及やハイビジョン放送テレビなどの新技術もあるが、どうなるかわからない。これらはいずれも、今までの技術に改良を加えたものであり、未開拓な産業ではない。

ケインズは、資本主義で豊かになると、消費が停滞することで、貯蓄に滞留し、企業の投資活動も冷えるため、政府の景気刺激策が必要だと説いたが、現代日本経済では、政府の景気刺激策すら効果がなくなった。

資本主義経済が立ち行かなくなることは、日本国内でも随所に現れてきている。価格破壊によるデフレ経済もその一つだ。これは経済循環上の不況ではなく、慢性的不況となるであろう。

さらに現代経済が構造を変えてきているのは、人類が科学技術を急速に発展させ、資本主義社会はコンピュータを発明したことによる。IT革命を進めれば、メーカーから直接、消費者が商品を買えるようになるダイレクトマーケティングが発達すれば、いっそうモノの値段は安くなる。新ビジネスの到来といわれるが、実際そうなってみると仲介手数料や流通経路の途中でマージンをとる形式の産業は食えなくなるだろう。

自然を征服したと勘違いした人類は、自然資源に価値をもたない。人間の労働力や資本を貨幣化して、それを価値としてしまったため、資源から商品にいたるまでの加工処理過程で、価格に上乗せするのがこれまでの資本主義経済の基本であった。これが、インターネット流通などによって、上乗せ利潤は消滅、若しくは少なくなるということは、すなわち中間業者や仲介業者というものがなくなるのである。これは資本主義の崩壊の前兆であるとともに、大量の失業者を産む。

さらに、工業製品は海外で生産することによって安価にあがる。発展途上国以外にも旧共産主義諸国が、労働市場を担いはじめるようになってからは、なおのことである。ヨーロッパの場合でも、イタリアやスペインが担っていた安い労働力が、旧共産圏諸国に奪われ、不況に追い込まれている。旧共産圏の自由化と旧植民地国の先進国化が、世界同時デフレの要因の一つであろう。

日本の大手製造業は、東南アジア、中国、インドなどに低賃金労働を委ねている。これが、日本経済の空洞化となっている。

わが国は、資源がないといわれているため、勤勉な国内労働力を基礎として、外国から輸入した資源をもとに製造業を中心に円を強くしてきた。職人技術、匠の技術というものも、日本は優れていたことも起因している。日本は製造業立国であったが、いまや製造業は他のアジア各国に奪われるであろう。そうなれば金融立国を目指すしかないが、日本にその能力はないだろうし、製造業が衰えれば円は弱くなり、円に価値がなくなってしまった場合はいったいどうなってしまうのだろう。

通貨に価値がなくなってしまった場合、食糧とエネルギーという、人間にとって最も基本的に、必要なものを作り出す産業を興していかなくてはならない。

しかし、現在途上国の国々は、資本主義経済に追いつこうとしているので、経済的に非効率な食糧生産をしようとはしなくなるであろう。やがては、第二次産業・第三次産業を中心とした経済立国に移行し、外貨を稼いで、食料は輸入するという方策をとろうとする。生物に不可欠な「水」という資源が豊かなアジア諸国は、当然ながら食料資源が豊富である。

その利点を生かすことなく、アジア諸国が、農業を捨てて貨幣経済中心主義へと傾いていき、食糧生産量が減少し、皆がお金を追い求める世の中になったら、これは日本にも波及し、餓死するだけである。ましてや、日本は食糧生産の条件である水や土が整っていながら、食糧生産には不適であると、勝手に思われてきていたので、工業国化をすすめ、経済優先主義を続けてきたがゆえに、食糧自給率は低下した。

食糧生産をやめることは、農林水産業の問題だけでなく、自然環境問題も引き起こす。生命の尊さという道徳も失われる。

高度に発達した文明で生きていると考えている我々、すなわち自称先進国の人々は、生活するためにお金を稼いでいるという盲信宗教にとりつかれている。「衣食住がないと生きていけない」のが本当であるのに、「お金がないと生きていけない」と勘違いしている現代文明である。水道の蛇口をひねれば、水は出る。水はコンビニでも売っている。空気すらデパートで売っている。カブトムシが死んだら電池を入れれば、生き返ると信じ込んでいる子どももいるらしい。魂を救うはずの宗教団体ですら、お金をお供えすれば救済されると説いている。一政府の印刷した貨幣を神に献上するなど狂気の沙汰である。神が金を要求しているのではなく宗教家が要求しているのに他ならない。神という名目のもとに自己利益を得るのは神に対する恥ずべき冒涜である。

人間は貨幣を発明・利用していたはずが、金融や資本主義システムによって、文化や教育や科学技術、宗教や軍事すら経済の奴隷となっているのである。

紙でできたお金を、命の源のように錯覚するようになってきたのである。「世の中金だ」と言い切ってしまう人まで現れた。この紙幣が紙くずになるということは、日本人には容易に想像がつかないであろう。そんなことはありうるはずがないと思い込んでいる。諸外国では、先進国であっても、貨幣のデフォールト(債務不履行)は幾度となく経験されてきているが、日本人にとってその意識は希薄だ。

今ここに金が何億円と積まれていても、空気がなければ五分もしないうちに、その人は死ぬであろう。酔っ払った勢いで一万円札と千円札を食べた友人がいたが、両方とも同じくらいまずいらしい(聞かなくてもわかるが)。人間は金によって生かされているのではない。太陽や水や空気や土によって生かされているのである。

人間にとって必要な物質資源の最たるものは、食料とエネルギー、さらには医療システムであり、貨幣はその手段に過ぎない。このようなごく簡単なことを人間は忘れ去っているのである。

近未来に必要な、人類の指標は、「自然に生かされる人間」「お互いの生命を大切にする」という共生の思想である。そのためには、近代西洋の生み出した、現代の経済至上主義、拝金主義、物質文明万能という価値観を脇に置き、どうしても必要なものは継続し、新たなる価値観に転換しなければならない。また、転換しなければ、ありとあらゆるネガティブな社会現象によって行き詰るであろう。この根本的価値観を転換しないから、経済以外の問題でも一つ一つの政策的課題がモグラ叩きのように噴出してくるのである。




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