おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

ヘンプレストランから東中野・中野坂上

2009年12月06日 20時12分51秒 | Weblog
●11月17日の行動その3

第4回平和党東京ブロック支部定例会は、世田谷区北沢のヘンプレストラン麻で行われた。そもそもは伊藤南関東ブロック支部長がこの場所にしようと提案されたものであったと思うが、それもネットで調べたものと思う。これにより麻関係の開拓につながったのでまさしくネットイン=リアルアウトが達成できた。

出席者は、斯波東京ブロック支部長と彼が連れてきた二名及び有川りえ子元世田谷区議、小村北関東ブロック支部長と大坂家五名による合計9名。

大野北関東ブロック支部長代行も出席予定だったが、同日同夜に別の場所で麻関係の会合あり欠席。

会場にしたレストランでは、多くの麻の料理を食し、麻の実の酒を飲みまくる。

大麻に対しての世間での大きな誤解を解き、大麻が石油に変わるエネルギーとして、衣料として、食材として、環境保全として役に立つことを政治的に前面に押し出していきたい。
麻は自然主義経済実現にとって重要な役割を果たすだろう。

今後の具体的活動については随時報告していきたい。



会終了後、斯波東京ブロック支部長の紹介により五反田のホテルに泊まるのだが、酒を飲んで妻に運転を任せたので環七を間違えて北上してしまい、そのついでに東中野に寄り、丸屋でそばを一杯とさらに地酒を一杯。

次に中野坂上に寄ってさらに呑む。カラオケも歌って五反田へ。

赤坂から下北沢へ

2009年12月06日 20時11分57秒 | Weblog
●11月17日の行動その2

永田町から赤坂を車でグルッと回った。日本新党時代、自民党を下した地として経験し、新党さきがけ時代には毎月さきがけ塾生として全共連ビルに通い、新進党時代は松沢成文やら伊藤達也やらに都議選を妨げられ、民主党時代には自民党旧三木派の長老たちに圧力をかけられ、自由連合時代には言わずもがな苦労を重ねた血の場所である。


そして小泉政権中盤の頃には、給料も貰えなかったために妻と一歳の長女と赤坂のビルで寝泊まりした。そんな戦前からのビルももうなく、もう一つのビルも違うテナントが入っていた。

旧平和党時代に作った非営利法人は未だに存在するようだった。


議員会館通過パスを持ちながら、赤坂に住み、赤坂のコインランドリーで洗濯し、青山の銭湯か事務所の湯沸かしで入浴し、食うや食わずの時代を過ごした。


その後、不動産屋の社長になり、千葉県の奥地に引っ越すなどは毛頭考えもしなかった。

しかしよく見てみると永田町・赤坂は栄枯盛衰極まりない。

以前は永続的に見ていたから気づかなかったが、三年も留守にしてみると、大小関わりなくほとんどの事業は長続きできずに赤坂から撤退している。

ビルもまた栄枯盛衰を極めている。

このような都会で、日々人々は貨幣獲得競争に明け暮れる。私がやったのは主に政治だが、赤坂で動いていれば否応なくガツガツ経済人との接触は年がら年中ある。

人数で言えば、彼らの圧倒的多数は負け組に位置している。勝つのはごく少数、それも元々資本を持つものばかりである。

本当は、政党というのは赤坂か永田町に拠点を設けるのがいいんだろうが、このようなカネカネの土地に本拠を置いていったいいかなる意味があろうというのか。

東京はかつての京都であり、「流通と天皇しかいない」バーチャル権力の場所である。いまこそ「土地と実態自治のある」リアル革命を起こさねばならない。

上からやれば物事が変わるというのは平時のみであり、朝廷がこれをやってきた。しかし有事にあっては上からは機能せず、内から変わる。それが幕府のときであり、土地に根ざした政治が、貨幣依存の経済都市を駆逐していく。この繰り返しが歴史である。これを赤坂を見て強く感じた。

渋谷で斯波東京ブロック支部長を拾い、迷いながらも下北沢に向かい、ヘンプレストランで平和党東京ブロック支部の定例会場へ入った。

永田町・自由連合本部から南青山

2009年12月06日 20時11分20秒 | Weblog
●11月17日の一連の行動 その1

東金を出発し、三軒茶屋と旧目黒区役所近くで叔母の経営する2店のコンビニに行こうと思ったが、首都高が混み合っているので代官で降りた。皇居で天皇陛下に征夷大将軍になれることを祈りつつ、長女に敬礼させた。

長女は「天皇陛下!」の意味を知らずにやっており「天皇陛下」の意味は「もっとしっかりしろ」という頑張れみたいな意味だと思ってるらしい。

国会を通ったので、自由連合本部のある塩崎ビルに寄ったらすでになく、ホテル横の自治会館駐車場もなぜかビルを建設していてなくなっていた。

国会の議員会館へ行って誰かに会おうとも思ったが、暗くなって次の予定があるので下北沢へ向かった。

途中、悪の中枢地である南青山に寄り、コンビニで軽食をとる。

富が善で、貧が悪という教え

2009年12月06日 20時09分34秒 | Weblog
金を得ることは正義であり、貧乏であることはまるで犯罪か病気かのような世の中の風潮がある。

これは一つの時代の末期に必ず現れる現象である。

そして、富が善で貧が悪という思想を植え付ける人々は、多くのもっともらしさを語るが、結局のところ、貧しくてこれから金を儲けたいと思っている人々を自らに寄せ付け、己では全く実践できていないような教えを説き、金を貧乏人から集め、私腹を肥やす。貧しき愚かなる人々はその教議に騙され、己のわずかな財産をさらにすり減らし、彼の教えに没頭するのである。

この教えを広める人々の特徴は、「富は善、貧を悪」とし「心も大事だがお金も大事であり、心の現れがお金だ」と説く。これは古今東西、不変なのだが、いつの時代でも必ず騙される人々が出てくる。騙された人々は騙されたとは思っていない。彼らは彼らで、それで幸せなのだからいいんじゃないかとも思うが、このような人々によって、地域の連帯は失われ拝金主義を蔓延させ、犯罪社会を作り、人々を疑心暗鬼に駆り立てることに一躍買っているわけだ。

どうしても現代では、お金というものが必要であるし、お金に拘束された社会になっている。

しかしこれを一つ一つ解きほぐしていかねば、人類に永続の道はないのだ。

いまだ見たことのない自然主義経済を実現するには時間を要するかもしれないが、どこの誰もが言わなければ、このまま既存のイデオロギー論争しかできない為政者のみによって滅び行くばかりである。

社民党、自由連合、みどりの会議、日本新党、小泉自民党に見るリーダーシップとボトムアップ

2009年12月06日 20時07分51秒 | Weblog
3~4年ほど前の話なのだけれども、東北の某中核市の市長選挙に出馬予定の男性が、私どもグループ(当時平和党でない)を頼ってきた。


しかしその組織では、いろいろと関係があって、なかなか相手にしたくない様子で、私になすりつけられた。


まずこの立候補予定者は、全くセンスがないといっていい。政策もありきたりだし、現職に代わってこの人が市長をやる必要性もないのだ。もちろん現職は現職で問題があるのだが、それを放置したとしても、薬にもならないような人に市長をやらすのはいかがなものか。


この人はもう少し修行しなおしたほうがいいのだが、先にいったグループで、「俺にまかしとけ」みたいな威勢のいいこといって、私の元によこしてきたのである。


私のほうとしても、どのようにしてお茶を濁すかいろいろと考えた。まず、その日の翌週に何の会合だったか忘れたが、福島瑞穂社民党党首と会うので、その人に「社民党の推薦依頼とかしてみますか」と聞いたら、喜んでいた。私なら社民党単独推薦などはお断りだが、彼にとっては藁をもつかむ思いだったに違いない。

それで福島さんに、「こういう人がいるのだけれども、この市長選挙ってどうなってますか」と聞いたらば、「私が党首でも、社民党は地元が決めるので全く割って入ることはできない」と言われた。

だいたい予想通りだったけれども、この党は小規模になってからはますますボトムアップ方式が強くなったと感じた。
そもそも労組関係がみな民主党に行く中、数少ない社民党になったのならば、その組織の小ささを生かしてこそであるが、やはり彼らは「民主主義こそ素晴らしい」と思っているのである。

逆に自由連合ならば、徳田虎雄代表がいいといえばOKだ。しかし、代表がいいと言っても、地元の徳洲会病院の人たちはいやいやながら「選挙をやらされる」ので力にならないこともしばしばだ。


すでに消滅したが、みどりの会議の中村敦夫代表の場合は、当初は敦夫さんのリーダーシップ型であったが、次々に市民運動崩れや、新社会党みたい人たちがたくさん入ってきてからは、ボトムアップが重視され、何でも協議にかけられるようになる。あいつは嫌だとか、こいつは嫌だとか、もはや政策以前の問題が多く出てくる。理性的でなく、実に女々しい嫉妬根性などで戦いがなされるのである。

実はリーダーシップ型ほど民主主義が機能するものはない。そしてボトムアップ方式は、会議が増えるばかりで結局何ももたらさない。誰も満足しないシステムである。

リーダーシップ型で進めると、そのリーダーはつねに民意を意識し、民意につねに問いかけるよう心がける。

たとえば小泉純一郎元首相を見るといい。彼は当初リーダーシップ型でなんでも決めてきた。しかし途中、青木幹雄氏などの言い分を聞くようになった。この時点で支持率がいったん下がるが、そのまましばらく潜水活動をはじめて、抵抗勢力を手中に収めた。
ボトムアップ方式にみせかけたが、やがて一挙に郵政解散を行って、自分ひとりの基準つまり郵政を民営化するか否かという選挙に持ち込んだ。

逆にボトムアップでやっていたもの。たとえば日本新党なんてのは、いちいち協議に諮っていた。しかし、それは政治家の自己満足にすぎず、結局支配していたのは日本新党の職員であり、つまりは官僚支配だった。民主的にやるというのはあくまでも自己満足にしかならず、何が決定されても、事務的なことを実際になす人々によっていろいろいと様変わりするのである。


リーダーシップ型であると、責任の所在は明確にリーダーにあるため、リーダーはなるべく幹部や庶民の意見を大切にする。ボトムアップ型であると責任の所在が明確でないため、ボトムアップ型をやっていること自体に満足し、政策実現についてはなおざりになるのだ。

大麻取締法廃止法案及び平和党国会対策委員会の設置について

2009年12月06日 20時05分17秒 | Weblog
平和党の幹事長以下三役の下に、自治対策委員長というポストを設けたが、あまり意味がないことに気づいた。

そもそも、国会対策委員長に対抗して自治対策委員長を設けたが、この理由は中央よりも地方を重視するからである。

さらに、一般の政党の政策責任者=政調会長はシャドーキャビネットの官房長官を務めるのが慣わしだが、実際のところ民主党は政権をとっても直嶋正行政調会長は官房長官にはならず、平野博文役員室長が官房長官に就任している。直嶋氏は国務相になっている。

また、自民党政権時代でも、政調会長が次期官房長官になる例がない。自民党の場合、三役を派閥均衡にするが、官房長官については、自派閥の信頼のおける人物に割り当てるために、政調会長が官房長官になることはない。政調会長は政策討論において参戦するが、官房長官は国会対策的な役割を持っているために、国会対策委員長を次期官房長官にするのが妥当である。

したがって、平和党では、あさっての内閣官房長官を平和党国会対策委員長にしようとしたが、冒頭の理由により我が党は国会よりも地方自治重視の観点から自治対策委員長とした。


しかしながらここにきて、国政についての必要性が出てきた。それは大麻取締法についてである。


ほとんど多くの国民は「大麻は有害なもの」と洗脳されている。「大麻は覚せい剤と同じように人を狂わせ、病気にさせ、狂気的な行動により犯罪に走らせる」と、信じさせられている。これが何の根拠もなく流布されていることに多くの人々が疑問の余地もなく、ただただ理由なく「大麻は悪い」とされている。

この大麻は、地球を救い、人類の資源エネルギー、環境、そして経済システムに変革をもたらす。

我が党の自然主義経済を実現するにあたり、食料とエネルギーの完全自給は欠かせないものとなっており、そのためには石油依存からの脱却が急務である。しかしながら、石油に代わるものとして提案されているほとんどのものは、石油を利用しなければできないものばかりであるという矛盾を抱えている。

このため、大麻の合法化が必要であり、「大麻取締法の全部を廃止する法律案」の提出及び可決を必要とする。

このため、平和党に国会対策委員会を置くことにした。委員長を斯波官房長官とし、副委員長を瓜条官房副長官としたい。

狙われたか狙われなかったかの違い

2009年12月06日 20時03分56秒 | Weblog
民主党 小林千代美議員の元選対幹部が小林議員の連座制を視野に公職選挙法違反の罪で起訴されたことを受けて 小林議員が6日 札幌市で記者会見を行った
6日に起訴されたのは 小林議員の元選対幹部 山本広和被告(60) 検察によると 山本被告は今年8月の衆議院議員選挙に際し 運動員に報酬を渡す約束をして 投票を呼びかける電話をさせたとされている 山本被告に禁固以上の刑が確定し 裁判所が連座制を認めた場合 小林議員の当選が無効となるが 会見で小林議員側は 山本被告は中心的な役割を果たしてはいなかった と述べた
(日テレNEWS24)



これに便乗して、何も知らない能書きだけの自民党支持者は喜び書き立てるだろうが、この手法は民主党どころか自民党他政党に至るまでほとんどがやっている。
選挙をやったことのある人ならわかるだろうが、選挙運動は全てボランティアでやれというのが今の法律であり、単純労務なら報酬を支払っても構わないが、電話作戦やポスター貼りなどは単純労務とは言えず、政治的な選挙運動にあたるため報酬を払ってはならないこととされている。単に検察に狙われたか狙われなかったかの違いだけだ。
この起訴された内容については、時給700~900円との約束になっているが、人件費を払わずにできる陣営はいったいいくつあるんだろうか?


この手法で捕まる政治家はいつもそうだが、弱小な位置についている新人などである。

この新人らが何らかの逆鱗に触れた場合、すぐに動くようだが、民主党政権になってもこのようなことが起きるのは何を意味するか。

毒に食いつかず専門分野に走れ

2009年12月06日 20時03分46秒 | Weblog
人には向き不向きがあるので、無理に不向きなことをやるととてつもないセンスなしの形態となり、見る人が見れば吹き出してしまうぐらいのことは最近よくある。

人それぞれが向く分野というのは、だいたい7パターンにより分類されるかと思う。


1、宗教・思想・哲学など全体を総括するのに向く者
2、全体を総括する者と各分野に精通する者たちとの連絡に向く者
3、政治・経済・自治に精通する者
4、医療・健康・薬事など人体に関することに精通する者
5、律法・道徳・規律などに精通する者
6、科学技術や工業・職人芸に精通する者
7、文学・芸術・歴史などに精通する者


4~7の中のどれかに向いているのに1~3になりたいために無理するとわけわからん滑稽な主張が目立つ。

7つの中で幾つかに跨る人も多いが、1つに精通することが全体を容易に把握することにつながる。専門分野をある程度高い次元にいないと他分野での場で恥をかく。恥をかくというのは、知らなくて恥をかくというよりは人間的に問題がある場合が多い。


別に政治をやる人間が偉いわけじゃないのだが、表面上の統治機構としては確かにそのようなことになっているだけで、魂的には統治者のほうが偉くない場合のほうが多いのである。


なのに無理をして、政治について、どこかその辺の著名人あたりの主張をパクリ横流しの知識垂れ流しを読むと実にお笑いに相当する。

いつも言うことだが、どうしてネット上には、お決まりの右翼思想しか考えられない人が多いんだろうか。リアルにおける政治活動において、私はそのような右翼思想というのはめったにお目にかからない。無論、右翼団体や保守系団体とかにはたくさんいるが、あれほど下劣ではないし、感情的でもない。

きちんとした社会生活を送っており、礼儀正しいし、間違ったことがあれば素直に認める人も多い。これは彼らに日常生活があり、政策論云々よりも以前に、人間関係というものがあるからだ。しかしネット上の人々には人間関係がないために理詰めの政策論のみに終始する。それゆえ政策論を優先して人間関係を断ち切ることもするわけだ。

このネット上での政策論優先の世の中が、社会をバラバラにし、崩壊を招く過程に入っているのだと思う。無理をして政治を語らずに己の専門分野に魂を傾けることが、結局は政治ひいては社会全体に貢献することだと思うのだが、なまじネット上に多くの情報が流されるのでどうしても洗脳されやすい人々がいるということなのだろう。

大麻中毒の犯罪者や病人はどこにいる?

2009年12月06日 20時03分33秒 | Weblog
あるブログより引用

(引用)
長男が言います。
大麻は薬物には入らないって!
ショックいつの間にかそんな考え方になったのかな???
大麻はマリファナ~~~薬物なんだよ!
捕まって逮捕されてるじゃないの!
(引用終わり)




捕まるから犯罪なのか。



それにしても、Yahoo!ブログで大麻の正当性をかいたりすると削除の対象になるらしい。


大麻の中毒者がいるのなら連れてきなさい。大麻中毒で犯罪を犯した人間がいるなら名前を挙げてみろ。大麻中毒で喉を痛めたあるいはガンになった病人がいるなら連れてきなさい。どれだけデータがあるのか、厚生労働省はただ「大麻は悪い」としか言わないのである。


まず大麻中毒者というのは存在しないだろう。依存性がないこと。次に大麻中毒で連続殺人などした犯人は皆無。大麻により喉を痛めた病人もデータなし。


唯一、大麻で犯罪になったケースというのは「大麻を所持していた」とか「大麻を栽培していた」という罪状なわけだ。つまり法律に違反したからというわけだが、なぜそのような法律にしてあるかの本来的意味について圧倒的多数の国民は無知にされるように教育されてきている。

どれだけ多くの人間を騙せば気がすむのか。

大麻は、石油に代替できるという、この事実が、全てを隠し通さなければいけない理由になっている。

何になったか、よりも何をしたかが重要

2009年12月06日 20時03分21秒 | Weblog
現代に置き換えれば、形式主義者=公家側というのは、憲法をどうしろだの、教育基本法をどうしろだのという教条主義者である。教条主義者は常に善悪中毒とワンセットにあり、低レベルな波長同士が共鳴しあうので、いつもネガティブ志向にある。目くそ、鼻くそを笑うと言うように彼らは自分の真逆の思想を無視できず常に気になってしょうがない。真逆思想の悪口をグダグダ並べることによって彼らは満足する。


ブラックジャーナリストや、政府の不正を見つけて喜ぶ者たちで、彼らは他人の欠点をよく見ていて、己の欠点には気づいていない。他人の欠点を指摘している内容が、全くそのままその主張者本人にバッチリ当てはまるのだが、本人には全く自覚がない。そしてこういう人は脳内にストレスを貯めるので病気になりやすい。己は社会のためにやっているつもりだろうが、人を呪わば穴2つの原理が否応なく彼らに押し寄せる。私はこういうブラックジャーナリストや市民運動家の末路をよくみてきたが、それは実に哀れなものである。ほとんどの人間は死ぬまで自分の間違いに気付かない。


彼らは常に形式主義にあり、法律を変えさえすればそれが改革になると信じているのである。すなわち形式を先行させることによって、実態は実現されるだろうという考えを持つ。上からの改革をなせば、下まで行き届くと考えている。これがお公家さん発想である。


民主党は野党時代に、自分たちに政権が回ってこないので政策の実現が不可能であるからと言って逃げてきた。しかし今や与党となった。つまり上からの、形式からの政権獲得をなしたので、これからは実態がついてくると信じているだろう。だから民主党も公家発想である。

自民党もまた公家発想で、上からの改革をやるが、常に下まで行き渡らない。下に行く途中にいくつもの抵抗にあう。

政治をどう変えようとも、行政がついてこない。行政がついてきても国民がついてこないということが起きる。

これが乱世にしばしば起きる。

この状態が長く続き、これまで長らく続いてきた制度が一挙に崩壊し、新たな時代を迎えるのである。

崩壊側の最大の特徴としては、伝統を重んじるというところにある。「今までこうだったんだから今後もこれを残していかなければならない」というところにこだわる。しかし、民にとってはその伝統こそが生活の足かせになっており、その形式的空虚な伝統を破壊することが新しい時代のリーダーたちに求められることである。

その破壊とは、実態によってなされる。先に示したように、伝統でこの土地は誰々が支配していますとなっているのだが、武人たちによってその形式は無視され実態によって変革がなされる。実態が先行し、法的根拠を後から作り出す。実態がまずあり、形式は追認であるのだ。


時代の切り替わりのときに常に生じているのは「政権を取ったから変革がなされた」のではなく「変革がなされたから政権を取った」という実態先行にある。

つまり、平和党政権になったから自然主義経済が実現されるのではなく、自然主義経済が実現されたから平和党政権になったということになろう。

人は何の地位になったかということよりも、何を実際にやったかということが重要であるのだが、治世においてはこうはならず、乱世においてはなされる。

紙切れ貨幣と実りある土地とのサイクル関係

2009年12月06日 20時03分08秒 | Weblog
私が電子マネーというものに懐疑的に思うのは電子マネーもまた架空の富だからである。自然主義経済は実態の富を先行させるために、貨幣に減価機能を付けるのである。しかしその減価システムが煩わしいので電子システムが必要になる。しかしここで電子システムに頼ると、その主たる目的が失われはしないか。


乱世と治世の違いというのは、現状が先行しているか、形式が先行しているかの違いでもある。

治世では、形式によって決定されたことが実態に反映される。しかし乱世では、やったもん勝ちで、実態が先行し、形式は追認の形をとる。

また鎌倉幕府の話になるが、源氏政権は朝廷が許可したから実態として生まれたものだろうか。武人政権が樹立された状態というのは、悉く実態が先行し、形式権力=朝廷は追認にすぎない。

武家勢力というのは、律令という旧来の権力に常に邪魔されてきた。これは土地権利の由来や伝統に固執する朝廷政治との対立である。しかし朝廷は、地方の国司としての現地に入らず、実際には地方の武士たちにより統治がなされたがゆえに、実態は武士にあり、形式は公家にあった。このような現状を優先させる政治支配をしたのが源頼朝である。実態を重視するという源頼朝の考えに武士は参集したのだ。

支配しているという現実があって、支配の根拠をなすのがこの時代の特徴であるが、公家側は支配権力を奪われまいと形式を重視する。しかしながら必ず実態が勝利するのが乱世である。

これが治世の場合、国内に混乱はないので朝廷の形式通りに武士は従わざるを得ない。朝廷が主で、武士は従になる。

しかし現代では刻一刻と乱世ピークを迎えつつあり、実態重視の体制に変わりつつある。

実態の政治とは、実力や治安を持って支配することを言う。形式の政治とは法律や税金で支配することである。

実態の経済とは農林水産業を言う。形式の経済とは商業や金融を言う。

したがって鎌倉幕府の場合、関東に本拠地を置いた。江戸幕府が関東に置いたのも理由がある。

古代以来、九州から京都にかけてが日本の本拠地だった。これは外国からの貿易がしやすいことがあり、貨幣・流通の発展は古代末期は京都がその頂点だった。

貨幣や金銀財宝は架空の富、形式の富である。人とモノが行き交う盛んな地域である。

比べて関東は、農地ばかりの田舎であるが生産力のあるところである。これは実態の富だ。したがって、源氏も徳川氏も関東に本拠地を置くことによって、流通力に対抗したと考えられる。江戸幕府の場合は太平洋ベルト地帯の行き止まりであるから、鎖国するには良い環境にあった。

室町幕府が武家実態支配が短く、後半は戦国時代に突入してしまうのは、流通の中心である京都に構えたためであり、また京都に構えながらも鎌倉府を置いて関東を重視したのは武家の特性である。しかし生産も流通も双方抑えようとすると、新興の武士勢力が生産を基盤として成長してくるために滅ぼされる。

また、武家による生産支配は永遠には続かない。治安が安定してくるとまたもや生産価値時代は終わり、流通に重きをおいた政治体制になるがゆえ鎌倉時代末期は京都に武家は学ぶようになり、江戸時代末期には資本主義が栄え、京都の朝廷を中心力に据えようとしてくる。

つまり勃興期には実力と実態が、衰退期には形式と貨幣が飛び交う。こうしたサイクルを繰り返している。

したがって自然主義経済というのは、あくまでも実態を先行させるものであって、減価システム貨幣というのはその道具であるにしかすぎない。……という形式が必要なのである。貨幣はどこまで行っても形式である。だから実態ある土地こそ先行せねばならぬのだ。

民主主義に代わるもの

2009年12月06日 20時02分57秒 | Weblog
日本新党結成から旧民主党結成までの自分の活動史を書いた。このまま、平和党結成まで書こうかと思ったが、ここで足を止めて気付いたことがあり。

当時と違って、民主主義の考えとはかなり変節があるなと感じた。

小沢支配の頃はいかにして、民主的な政治をやるべきかについてひた走っていた。さらにこの96年の第一回小選挙区比例代表並立制の総選挙のあと、住民投票運動を私はやっていくのだが、これらも全て、お任せ官僚政治から議会中心・国民中心の路線を走っていた。

だが官僚政治にしても議会中心にしても、知識人政治である。特に政治を主張するブログなどを見て昨今感じるようになったのは、あまりにも幼稚な言論が多すぎる。

つまり昔は、素人に政治を取り戻そうと考えていたが、近年の総選挙での投票行動、そしてあまりにも短絡的かつ旧来政治の使い回し的な主張がネットなどにあまりにも多いため、政治はプロの手に委ねられないといけないと感じるようになった。

しかしプロと言っても、私が戦ってきた小沢一郎の如きプロ政治を目指すのではない。

彼らのプロぶりは、旧来のプロである。新しいプロとは、政策に寄らない戦略の政治であり、政策勝負であっても、やはり旧来によらない未知の政策論である。

小沢一郎の政治手腕を高く評価している人はかなり多いが、彼の勝敗数を考えたら負けのほうが圧倒的に多い。勝っているときにはめちゃくちゃ権力を振るうが、時間的にも密度的にも、ほとんど彼の思い通りになっていないことが多いことにお気づきだろうか。

単に長く表にいるだけであって、政府権力の中枢にいた期間は、自民党竹下派会長代行時代の約二年、新生党代表幹事時代の一年、自民党との連立時代の自由党党首の一年で合計四年くらいしかない。

しかも、小沢提唱の親米外交や新自由主義経済は、彼の敵対する小泉自民党に全て実現されてしまった。だから仕方なくその逆路線であるニューディール型を言うようになった。

だから彼はプロとしては失格である。狡賢い政治戦略があるかのように見えるが、そのほぼ全て失敗している。

小沢政治というのは勾玉も鏡も知らない手法であるが、見かけだけ強そうに見えるので人は恐れたり、支持したりするのである。

プロ政治というのは、政策通という人間を動かすことである。「政治とは政策だ」と信じこんでいる政治家を動かす力が求められる。それを戦略・気合い・見えない圧力で動かすのが武人政治であり、カネの力で動かすのが守銭奴政治である。知識人政治というのは政策論にハマってしまい抜け出せなくなり、空論競争で終わる。この知識人政治をうまくコントロールしてきたのが守銭奴政治である。

今の政治ブロガーなどを見ているとほとんどの人が守銭奴政治の枠内で踊らされている。左右に分けられ、護憲改憲に分けさせられ、見事に守銭奴政治の土俵に乗って遊ばれている。


守銭奴政治は大衆をうまくコントロールする。これは民主主義と呼ばれているものに騙されている。民主主義は極めて高度な政治文化であるように見えるが、民主主義ほど資本主義がコントロールしやすいシステムはない。大衆は毎度毎度この民主主義を自分たちに与えられた絶大な権限であると錯覚しながら、守銭奴の意のままの方向に進む。政治は政策だと高らかに言う人間が出れば出るほど、ますます守銭奴は喜ぶ。


自民党を応援する者と民主党を応援する者とに別れ、お互いを罵倒すればするほど、守銭奴は潤う。資本主義・社会主義というルール、お決まりの右翼思想及び左翼思想に何らの疑問も持たずに、今ある土俵の中でしか考えられない環境設定がなされることにより、人々の注意を逸らすことができるからだ。


これを打破するのは、人の屁理屈など聞かぬことである。何の屁理屈を言おうが、カネをいくら積んでこようが足で蹴る。一言でいえばこれだ。

95参院選から96総選挙まで

2009年12月06日 20時02分47秒 | Weblog
そこでわかったことは、新党さきがけというのは、そもそもは自民党一回から二回生によって結成されたが、その後は私などのような日本新党、それから社会党を出てきた堂本暁子参議院議員など、いたが、さきがけの東京支部たる「さきがけ東京」は、菅直人政調会長が代表を務めていたので、多摩地域を中心とした社民連出身者が多くあり、保守政党というよりは市民派政党になっていた。

保守政党たる新党さきがけは綱領のいの一番に「皇室尊重」を掲げており、これについて気に食わないと言う人は多摩地域を中心に結構いて、我々の住む区部では皇居所在地ということもあって抵抗する人はあまりいなかった。

当時、東京から選出されていた代議士は菅直人、宇佐美登の二名。都議はいずれも社会党と会派を組んでいた三名で片山哲(北多摩3区=調布・狛江)、小林正則(小平市)、山本譲司(立川市)と、いずれもあっち側だった。他に区議や市議が二十数名くらいいたが、どの議会でも1議席で、江戸川に2人いたぐらいでまさにミニ政党だった。

そこで私はいろいろな選挙運動をやり、いろいろな人と知り合った。

参議院議員選挙で敦夫さんは落選してしまうが、その後我々で敦夫さんの応援団というものを作り、やがて政治メッセージのための劇団を作ることになる。

そして東京9区から衆議院に立候補予定だった小川敏夫という弁護士の事務局長をやっている人に誘われ、小川事務所に入った。


練馬で政治活動の仕事をしながら、劇団を結成し、各地で議員がプロデューサーになって公演をして回った。

そしてこの頃、菅直人厚生大臣時代で、私ら一派も厚生省前で薬害エイズについての座り込み運動などをした。座り込みの3日後に菅大臣が謝罪するというシナリオになっていることを事前から聞いていたので心おきなくやった。

さらにこの頃、自民党と新進党による総選挙での一騎打ちが予想されており、さきがけもそうだが社会党→社民党も事情は同じで埋没が予期されていた。そこで東京では、リベラル東京会議というのが開催され、敦夫さんも年がら年中これに出てきていた。

だからこの頃は、さきがけ、劇団、東京会議と、週に何度も菅直人、鳩山由紀夫、中村敦夫、海江田万里とか同じような顔ばかり会っていた。

4月ぐらいになって、私は小川敏夫弁護士には見切りをつけたので、埼玉県志木市で政治活動をやっている同年代の若者たちを知りそのグループに入る。

夏が終わり、友人の花輪ともふみ世田谷区議(現・都議)の紹介で私の地元である中野・渋谷の選挙区から立候補する三木立氏を知る。

村山内閣から参議院選挙まで

2009年12月06日 20時02分36秒 | Weblog
村山内閣が誕生すると日本新党はガタガタになっていた。かつては野党自民党に次ぐ支持率を誇っていた院内第5党だったが、支持率は共産党以下に、議席数は先のさきがけ移籍、自由連合移籍、海江田万里らの離脱によって激減した。

細川一派は小沢一郎に飼い慣らされ、その年末には新進党を立ち上げるに至った。新進党の構成は、新生党、公明党、日本新党、民社党のほかに、柿沢弘治率いる自由党、鹿野道彦率いる新党みらい、海部俊樹率いる自由改革連合などで、初代党首に海部俊樹、幹事長に小沢一郎と決まった。党首よりも先に幹事長が決まっているというヘンテコな政党であった。この頃からすでに、小沢は首相や党首を目指さず、実質的コントロールのポジションに味をしめていた。自民党海部総裁・小沢幹事長体制のときから全く同じである。

私のところにも日本新党からハガキが届き、日本新党は解党して新進党に移行するので入党手続きをとの通知があったが、先述したように、小沢及び公明党の新進党ではどうにもならないとして、当時日本新党からさきがけに入った議員の誘導によりさきがけ党員となった。目黒区に住んでいたので目黒区支部長であったと思う。

そして代表代行・田中秀征が塾長を務めるさきがけ塾に入った。


翌年夏、参議院選挙の準備が始まり、我が東京選挙区は、俳優の中村敦夫氏を公認することが決まり、私は新宿駅南口にある事務所で初めて選挙運動をやった。