やがて細川首相は佐川急便との不透明な献金疑惑が高まり辞任する。続いて小沢一郎は自身が党首に担いでいた羽田孜を首相にし、社会党とさきがけは首相指名選挙で羽田に投票するも、直後社会党は野党に転じ、さきがけも閣外協力に留まった。小沢一郎・斉藤次郎の官僚支配に好き放題されてきたのでこれは当然の結果である。この頃からさきがけの鳩山由紀夫代表幹事や菅直人政調会長は、官僚支配からの脱却を言っていたが、小沢一郎新生党代表幹事はむしろ官僚支配の片棒を担いでいたのである。後にあって小沢が「官僚支配脱却」を掲げるようになったのは私ら世代にとってはお笑いにしか見えない。現在、社民党出身者や労組を大切に扱っているのもこの時の反省なのである。小沢は左派を切り捨てたがゆえに政権を引きずり出されたんで、同じ過ちをやらまいとしているだけで、小沢一郎本人の政治信念はまるで別のところにあるか、もしくは政権獲得自体が彼のイデオロギーなのである。
羽田内閣は、社会党・さきがけが抜けてしまったので少数与党である。したがって政府与党でありながら、野党の賛成がないと法案一つ通らない。予算案についてはその作成から社会党・さきがけが関与していたため、両党は賛成したが、その後の運営についてはまるで見通しが立っていない。
そこで野党・自民党は内閣不信任案を提出しようとした。当初自民党の橋本龍太郎政調会長は「内閣不信任の大義名分がない」としていたが、初めて野党を経験した自民党にとっては今の生活が耐えられなくなり提出の見込みになった。社会党は当然同調するだろうから可決は必至だった。
羽田内閣は不信任案提出に先立ち内閣総辞職を決めた。
さきがけは、次回の首相指名候補には自党の武村正義代表ではなく、これまで反自民・反小沢で共に戦ってきた村山富市社会党委員長を推すことに決定。
自民党は河野洋平総裁を、連立与党は未だ候補者未定であった。しかしこの3グループはそれぞれ、過半数には達していないので、どこか2つが組まなくてはならない。
連立与党と自民党が組めば、いったい何のために自民党政権からの交代だったのかということになる。
連立与党と社会党・さきがけが寄りを戻せば、これまた今までの騒動はいったい何だったのかということになる。
そして掟破りの自社連立が生まれるわけだ。
当初、社会党・さきがけは、両党の政策合意内容について、連立与党側に持っていったところ蹴られた。内容は水俣病の賠償問題解決や行政改革、戦後の総括決議であった。
次に自民党へ持っていったら全て丸呑みすると言われた。余程政権復帰が最重要課題だったことを物語っている。
これにより自社さ連立政権が誕生する。
首相指名選挙にあっては、自民党からも社会党からも反発が相次いだ。さきがけからも離党がでた。何しろ、日本を社会主義にしようという政党の党首を総理大臣にしてしまうのだから55年体制が残存しているこの時期にあってはムチャクチャな話だった。しかも何十年も自民党と社会党は水と油だったわけで、両党とも総選挙では自民党は初めて過半数割れ、社会党は半減するなど、国民に信頼されていない政党同士が政権を作るのであるから反発が予想された。
まず社会党からは、親小沢一郎であった赤松広隆など社会党右派が、左派の村山委員長に投票しないと言い始めた。
次に自民党では中曽根康弘元首相が、社会党委員長になんぞ投票できるか!と怒りの記者会見を開き、連立与党側が立てる海部俊樹に投票すると宣言した。逆にそれを聞いた社会党の右派代議士は村山委員長に反発し海部に投票しようとしていたが、中曽根記者会見を聞いて、中曽根と同じ投票なんかできるか!と怒り、やっぱり村山に投票するなど、とにかく前代未聞の首相指名選挙で、全く票読みが不可能であった。
普通、首相指名選挙というのはやる前から結果がわかるものだが、この時ばかりは全く予測不可能だった。
しかも選挙の直前に小沢一郎は、自民党の海部俊樹元首相を引っこ抜き、連立与党側の首相候補とした。そして自民党内には河野洋平総裁に投票する者もあった。
投票の結果、海部・村山ともに過半数に達せず、両者による決戦投票に持ち込まれた。一回目の投票で興奮していた人も二回目の決戦投票で諦めがついたのか結局、村山が首相に選ばれた。
それでこの首相指名選挙は深夜にまで及び、私は民社党幹部だった会社社長の事務所でずっと見ていた。
私のこの政治活動の始まりは「自民党総裁でなくても首相になれる時代」の到来であり、乱世における予測能力は重要であると感じた。
羽田内閣は、社会党・さきがけが抜けてしまったので少数与党である。したがって政府与党でありながら、野党の賛成がないと法案一つ通らない。予算案についてはその作成から社会党・さきがけが関与していたため、両党は賛成したが、その後の運営についてはまるで見通しが立っていない。
そこで野党・自民党は内閣不信任案を提出しようとした。当初自民党の橋本龍太郎政調会長は「内閣不信任の大義名分がない」としていたが、初めて野党を経験した自民党にとっては今の生活が耐えられなくなり提出の見込みになった。社会党は当然同調するだろうから可決は必至だった。
羽田内閣は不信任案提出に先立ち内閣総辞職を決めた。
さきがけは、次回の首相指名候補には自党の武村正義代表ではなく、これまで反自民・反小沢で共に戦ってきた村山富市社会党委員長を推すことに決定。
自民党は河野洋平総裁を、連立与党は未だ候補者未定であった。しかしこの3グループはそれぞれ、過半数には達していないので、どこか2つが組まなくてはならない。
連立与党と自民党が組めば、いったい何のために自民党政権からの交代だったのかということになる。
連立与党と社会党・さきがけが寄りを戻せば、これまた今までの騒動はいったい何だったのかということになる。
そして掟破りの自社連立が生まれるわけだ。
当初、社会党・さきがけは、両党の政策合意内容について、連立与党側に持っていったところ蹴られた。内容は水俣病の賠償問題解決や行政改革、戦後の総括決議であった。
次に自民党へ持っていったら全て丸呑みすると言われた。余程政権復帰が最重要課題だったことを物語っている。
これにより自社さ連立政権が誕生する。
首相指名選挙にあっては、自民党からも社会党からも反発が相次いだ。さきがけからも離党がでた。何しろ、日本を社会主義にしようという政党の党首を総理大臣にしてしまうのだから55年体制が残存しているこの時期にあってはムチャクチャな話だった。しかも何十年も自民党と社会党は水と油だったわけで、両党とも総選挙では自民党は初めて過半数割れ、社会党は半減するなど、国民に信頼されていない政党同士が政権を作るのであるから反発が予想された。
まず社会党からは、親小沢一郎であった赤松広隆など社会党右派が、左派の村山委員長に投票しないと言い始めた。
次に自民党では中曽根康弘元首相が、社会党委員長になんぞ投票できるか!と怒りの記者会見を開き、連立与党側が立てる海部俊樹に投票すると宣言した。逆にそれを聞いた社会党の右派代議士は村山委員長に反発し海部に投票しようとしていたが、中曽根記者会見を聞いて、中曽根と同じ投票なんかできるか!と怒り、やっぱり村山に投票するなど、とにかく前代未聞の首相指名選挙で、全く票読みが不可能であった。
普通、首相指名選挙というのはやる前から結果がわかるものだが、この時ばかりは全く予測不可能だった。
しかも選挙の直前に小沢一郎は、自民党の海部俊樹元首相を引っこ抜き、連立与党側の首相候補とした。そして自民党内には河野洋平総裁に投票する者もあった。
投票の結果、海部・村山ともに過半数に達せず、両者による決戦投票に持ち込まれた。一回目の投票で興奮していた人も二回目の決戦投票で諦めがついたのか結局、村山が首相に選ばれた。
それでこの首相指名選挙は深夜にまで及び、私は民社党幹部だった会社社長の事務所でずっと見ていた。
私のこの政治活動の始まりは「自民党総裁でなくても首相になれる時代」の到来であり、乱世における予測能力は重要であると感じた。