おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

細川内閣総辞職から村山内閣誕生まで

2009年12月06日 20時02分25秒 | Weblog
やがて細川首相は佐川急便との不透明な献金疑惑が高まり辞任する。続いて小沢一郎は自身が党首に担いでいた羽田孜を首相にし、社会党とさきがけは首相指名選挙で羽田に投票するも、直後社会党は野党に転じ、さきがけも閣外協力に留まった。小沢一郎・斉藤次郎の官僚支配に好き放題されてきたのでこれは当然の結果である。この頃からさきがけの鳩山由紀夫代表幹事や菅直人政調会長は、官僚支配からの脱却を言っていたが、小沢一郎新生党代表幹事はむしろ官僚支配の片棒を担いでいたのである。後にあって小沢が「官僚支配脱却」を掲げるようになったのは私ら世代にとってはお笑いにしか見えない。現在、社民党出身者や労組を大切に扱っているのもこの時の反省なのである。小沢は左派を切り捨てたがゆえに政権を引きずり出されたんで、同じ過ちをやらまいとしているだけで、小沢一郎本人の政治信念はまるで別のところにあるか、もしくは政権獲得自体が彼のイデオロギーなのである。

羽田内閣は、社会党・さきがけが抜けてしまったので少数与党である。したがって政府与党でありながら、野党の賛成がないと法案一つ通らない。予算案についてはその作成から社会党・さきがけが関与していたため、両党は賛成したが、その後の運営についてはまるで見通しが立っていない。

そこで野党・自民党は内閣不信任案を提出しようとした。当初自民党の橋本龍太郎政調会長は「内閣不信任の大義名分がない」としていたが、初めて野党を経験した自民党にとっては今の生活が耐えられなくなり提出の見込みになった。社会党は当然同調するだろうから可決は必至だった。

羽田内閣は不信任案提出に先立ち内閣総辞職を決めた。

さきがけは、次回の首相指名候補には自党の武村正義代表ではなく、これまで反自民・反小沢で共に戦ってきた村山富市社会党委員長を推すことに決定。

自民党は河野洋平総裁を、連立与党は未だ候補者未定であった。しかしこの3グループはそれぞれ、過半数には達していないので、どこか2つが組まなくてはならない。

連立与党と自民党が組めば、いったい何のために自民党政権からの交代だったのかということになる。

連立与党と社会党・さきがけが寄りを戻せば、これまた今までの騒動はいったい何だったのかということになる。


そして掟破りの自社連立が生まれるわけだ。

当初、社会党・さきがけは、両党の政策合意内容について、連立与党側に持っていったところ蹴られた。内容は水俣病の賠償問題解決や行政改革、戦後の総括決議であった。

次に自民党へ持っていったら全て丸呑みすると言われた。余程政権復帰が最重要課題だったことを物語っている。

これにより自社さ連立政権が誕生する。

首相指名選挙にあっては、自民党からも社会党からも反発が相次いだ。さきがけからも離党がでた。何しろ、日本を社会主義にしようという政党の党首を総理大臣にしてしまうのだから55年体制が残存しているこの時期にあってはムチャクチャな話だった。しかも何十年も自民党と社会党は水と油だったわけで、両党とも総選挙では自民党は初めて過半数割れ、社会党は半減するなど、国民に信頼されていない政党同士が政権を作るのであるから反発が予想された。

まず社会党からは、親小沢一郎であった赤松広隆など社会党右派が、左派の村山委員長に投票しないと言い始めた。

次に自民党では中曽根康弘元首相が、社会党委員長になんぞ投票できるか!と怒りの記者会見を開き、連立与党側が立てる海部俊樹に投票すると宣言した。逆にそれを聞いた社会党の右派代議士は村山委員長に反発し海部に投票しようとしていたが、中曽根記者会見を聞いて、中曽根と同じ投票なんかできるか!と怒り、やっぱり村山に投票するなど、とにかく前代未聞の首相指名選挙で、全く票読みが不可能であった。

普通、首相指名選挙というのはやる前から結果がわかるものだが、この時ばかりは全く予測不可能だった。

しかも選挙の直前に小沢一郎は、自民党の海部俊樹元首相を引っこ抜き、連立与党側の首相候補とした。そして自民党内には河野洋平総裁に投票する者もあった。

投票の結果、海部・村山ともに過半数に達せず、両者による決戦投票に持ち込まれた。一回目の投票で興奮していた人も二回目の決戦投票で諦めがついたのか結局、村山が首相に選ばれた。

それでこの首相指名選挙は深夜にまで及び、私は民社党幹部だった会社社長の事務所でずっと見ていた。

私のこの政治活動の始まりは「自民党総裁でなくても首相になれる時代」の到来であり、乱世における予測能力は重要であると感じた。

日本新党分岐点時代

2009年12月06日 20時02分15秒 | Weblog
先ほどの斉藤次郎元大蔵省事務次官の件で思い出したが、細川政権当時の私は日本新党党員であり、日本新党という政党は当時絶大なる人気を誇りながら岐路に立たされていた。

細川連立政権は、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連の7党と参議院の民改連という1会派より成り立ち、政府と与党の二元化が始まっていた。

各連立与党の党首は、全員入閣しており政府を構成し、院内では各連立与党の幹事長・書記長クラスが「連立与党代表者会議」を構成し、全てはその代表者会議によって決められた。その取り仕切りは主に与党第2党の小沢一郎新生党代表幹事がやっており、副に与党第3党の市川雄一公明党書記長があった。与党第1党の赤松広隆書記長と後任の久保亘書記長、首相(細川護煕)・官房正副長官(武村正義・鳩山由紀夫)を出しているさきがけ日本新党はほとんど無視された。

現在の民主党政権が「政府一元化」を言うのはこの時の小沢一郎独裁を反省してのことである。

当初は、「新生・公明」の一・一ライン対「社会・日本新・民社・さきがけ・社民連」だった。

民社は日本新党の友党であったからこちら側だったし、大内啓伍委員長は反小沢であったから良かったが、代表者会議の権限が強くなると米沢隆書記長の発言権が増して、ワン・ワン・ライスと呼ばれ小沢・市川グループに入った。もともと民社は安全保障政策において軍拡思考であったから、小沢のタカ派政策と共鳴した。そこから小沢に付いていったのが当時民社にいた西村慎吾である。

その後、社民連は江田五月代表(科学技術庁長官)と阿部昭吾書記長が日本新党に、菅直人政策審議会長がさきがけに、田英夫顧問が社会党系に別れたが、基本的に「さきがけ日本新党」及び「社会党・護憲市民連合」は連立与党内で、小沢路線に対抗していた。

小沢は極度に社会党と労組を嫌い、次の総選挙を新・新党で戦うにあたっては次々労組系を排除する方針を決めていた。

小沢にとって許される労組とは、小沢路線に従う友愛系の民社党支持労組の団体のみで官公労系を叩き潰す。また、武村のような親中国路線を嫌い、アメリカ式の自由主義路線を基調とした。

このとき、日本新党は股裂き状態にあった。日本新党は総選挙でさきがけと合併することを公約している。しかし政権を取ってみたら、反目していた小沢と細川代表(首相)が近付き、細川日本新党と武村さきがけは別れつつあった。

小沢は、連立与党内に社会党系が多いことを厄介に思っており、なんとかして日本新党を新生・公明側に引き寄せたかった。

小沢路線というのは、人と相談しないで自分だけで決めていくことであり、斉藤次郎事務次官など官僚トップの意見を組む運営であった。これに対して、さきがけ日本新党は議会による民主的運営、官僚支配から市民支配へという考え方であり、小沢の新国家主義に対抗していたのだが、日本新党から続々と小沢に寝返る人間が増えていった。何しろ、日本新党の政治家というのは全員当選回数が一回という初心者ばかりであったから、小沢の懐柔にどんどん飲み込まれた。小池百合子や河村たかしなどはその典型である。中田宏、山田宏などは細川代表が行くからとしぶしぶ付いていった。

一方、小沢のカネ支配に逆らって、日本新党からさきがけに移動したのは、中島章夫、小沢鋭仁、五十嵐ふみひこ、枝野幸男、前原誠司、高見祐一、荒井聡などであり、遅れて自由連合経由の石井紘基であった。

小泉晨一は細川別道で自由連合結成に参加した。

それで、日本新党はバラバラになり、その本体は新進党になるわけだが、私の周りなどは、みなさきがけに入った。そもそもの筋論から考えれば、日本新党はさきがけとの合併が公約であり、小沢一郎のような自民党の最も膿の部分や、宗教団体のトップダウン政党である公明党と合流するのは、国民が期待したことに反するというものである。

地域SNSについて

2009年12月06日 20時02分04秒 | Weblog
地域通貨のやりとりを電子上でやるにあたり、地域版のSNSが必要だと、いつもこうなる。

しかし地域版SNSは何かとうまくいかないとも言われるわけだ。

この理由について私が考えるに、ネットの匿名性というものがなくなってしまうからというのがあるのではないかと思う。地域を限定すると、どこの誰だかがわかってしまいやすい。

しかしこのラインを超えねば地域共同体社会は難しいと思う。

例えば我々は、インターネットが普及する前から政治活動をやっている。そのほとんどは現在あるいは近い将来に向かって立候補を考える者たちであり、またそうでなくても一運動家として発言に責任を持つのが普通だったわけだ。

しかし無責任に匿名で言いたい放題できるようなネット社会になってからは、責任逃れが十分可能であるので、腹も据わってない、昨日今日知った内容をあたかも昔から知ってるかのようにして言い放ち、言い放しで何も行動しない人間が増えたことは、まことに痛い社会現象である。

「ネット政党」などと称して、実際いるのかいないのかわからんような人々により、しかも実名を避け、さらにはどこに住んでいるのかも明らかにしないようなところから無責任な発言がビシバシ出される。

もちろん、これによって大衆が政治に関心を示すようになったことはいいことだ。

しかしながらその政治内容は国政がほとんどである。おそらくネットで政治言論をしている圧倒的多数の人々は、永田町での肉眼の政治を経験していないはずである。しかしながらほとんどの人々は、あたかも見てきたかのように言っている。これも一つの世論の見方として、重要なのであるが、その質があまりに低下していると最近ヒシヒシと感じる。

とりわけ「前原誠司は右で、小沢一郎は左」などという発言が最近多く見られることは私からすると大大素人の極みとしか言いようがない。もちろん素人により選挙が行われるわけであるが、きちんとした指導者を持たないまま、大衆がバラバラに、いい加減なことばかり論じられていることに、この期の行き先に不安を感じる。

したがって、私は、目の前によく見える地方自治というものに対して人々は目を向けるべきだと思うし、それが今後のサバイバル時代を乗り越えていく最重要課題であると考える。

どうしても国政ばかりに目が向くと、観念論ばかりに陥りやすい。しかも匿名で無責任な発言が飛び交うために、ますます衆愚政治が展開される。

だからなんとか地域SNSを通じて、地方自治や流通経済ができないだろうかと最近思案している。

このためには、リアルから始まってネットを使用するということがポイントになろうかと思う。

精神世界への関心

2009年12月06日 20時01分54秒 | Weblog
波動であるとか、気功であるとか、霊言であるとかは、私は小さい頃からよく見聞きし、その効果もよくわかっているが、これらの力にとらわれて、現象世界をおろそかにし、そういう力の世界に没頭しやすい人は、魂を持っていかれやすい。自然の力を己の力と勘違いしやすい。

人間は自分が弱くなったり、中心力を失うと神や霊の力に依存しやすく、易学などに頼り切り、自分をなくす。そういうところに暗い想念の意識が入りこみやすい。

例えば、カウンセラーを志望する人というのは、自らの精神を病んでいる人が多く、自ら自殺願望のある人は、自殺願望ある人からの相談を受けやすい。これは波長が共鳴しているからだろうと思う。

何の鍛錬なしに精神世界に飛び込むことは、現実社会的にも精神的霊的にも好ましくない状況を生み出す。魂が未熟である人こそ、こういうものにハマりやすい。よくよく注意しなければならない。

自然主義経済の実行方策について

2009年12月06日 20時01分43秒 | Weblog
自然主義経済の講演をして支持を得ても、「それは面白い」とか今まで気付かなった点に気づいたという楽しさの発見がある。それはそれで楽しいのだからいいんだが、楽しいというときにはまだ必要性を感じられないわけで、単なる知識人のお遊びで終わる。それは必死さがないということである。だからアイデアもダラダラとしか生まれてこない。

しかし苦しみから生まれ出た自然主義経済の必要性は必死さから生まれる。だから今の段階で、論理的に賛同若しくは反対する者はこれからいくらでも出てくるが、それよりも大事にしたいのは、現時点で自然主義経済を論理的に全く理解できない生活困窮者たちである。

彼らの多くは近代経済学やマルクス経済学をあまり理解していない。そんなものは理解する必要なく生きてきた。これこそが健全なのである。近代経済学等は、人間を無理やり貨幣社会のロボットに組み込むことをしているためいびつであり、全く予想外の被害が出ることが想定されていなかった。これらは全て守銭奴の論理でできており、自然界の実態と全くかけ離れるものだ。

したがってこんなものを学べば学ぶほど亡国への道を進むばかりである。


政治制度についてもしかりで、知っていればいるほど縛られる。だから知っているのに縛られないか、初めっから知らないほうが良い。知っているのに縛られないというのは、それなりの鍛錬とセンスを必要とされるが、初めっから知らない場合はそもそもセンスがあるということにもなろう。

もちろん知らないからといって、必ずセンスがあるというわけじゃない。この辺を勘違いして、政治を知らないことを自慢のように言っている人がムチャクチャな論理を展開し、よそ様に迷惑かけるような人がいたが、その辺の人間性というものの兼ね合いは非常に重要である。


ただ少なくとも言えるのは、今まですでに幾度となく語られてきた政治思想「保守主義」「リベラリズム」「社会民主主義」「共産主義」「愛国主義」「自由主義」等々には答えはないということである。

ではそれは何なのだと知的な人間に答えることはできない。それは貧困や飢餓、戦争や犯罪、病気や自殺願望など、今苦しみを持つ社会的弱者が藁をも掴む思いで編み出したものと、知識人が知的探求のために考えるものとは雲泥の差があるからだ。

松下政経塾のように給料もらいながら政策を学ぶようでは、必死さがないので何も生まれない。

逆にかつての松下村塾が明治維新を生み出したのは、およそ教育機関とは思えない組織で、食うや食わずで塾生が畑から食べ物を持ち寄り、共に分かち合ったからこそできたことである。先生が生徒になったり、生徒が先生になったりできる。カリキュラムもプログラムもないので時間に縛られず創造力を養うことができる。


これは彼らが必死さがあり維新の必要性を深く感じていたからである。その感じ方は、日々の己の身体に痛い程染みている。だからそれは原動力になるが、エアコンの利いた部屋で性能の良いパソコンでウダウダ学問をいじくったところで生まれるものは自己満だけである。


今の貧困は、個人の努力不足によるものだと、団塊世代から団塊ジュニアの上の世代までは考えるかもしれないが、それは彼らが生きた時代とは大きく異なっており実感できないからである。

今の時代は明らかにプラス利子による増殖が、ありもしない借金を作り出し、亡国の一途を辿っている。これに気付かず、かつての社会倫理を持ち出したところで適合するはずもない。経済政策はおろか政治制度まで、昔の常識はもはや通用しなくなったのである。

これらの不満のエネルギーはやがて破壊につながるだろうから、今の民主党政権が誕生しているのであるが、この破壊行為に対してさらなる破壊行為をしたところで何もならない。我が党は創造の道を歩む。不満のエネルギーを発する勢力のうち、創造を生み出すエネルギーに変えてみせる。その実行こそは、土による農の開拓、国産木材・竹材による工業化と森林復活、すでに輸入されつくした金属資源の再生、国産自給自足によるエネルギー、森林回復得られる河川と水の循環利用である。

そしてこれらは、増殖・貯蓄する貨幣制度によって不利な環境に置かれていることから、減価する貨幣を導入する。

このため、中央政府からの支配を逃れ、地方の自治力に立脚する。それは防衛・危機管理を自らの手で行い、貨幣によっての防衛権力委任をやめることを意味する。

戦争の原因は資源の争奪にあり、資源のストックと無法な増殖ルールを無視することにより、世界平和を達成するのであり、憲法がどうしただとか紙切れに書いてあるものを論じているほど愚かな行為はない。そういうものは知識人のお遊びなのであって、目の前の苦しみを除去するにあっては有害でしかない。

このように実態に即した行動こそが、今後のなすべきことであって、それには常に貧困とそれを生み出しているルールとその教条主義者に向かって、勾玉を行うことである。

東京大学

2009年12月06日 20時01分30秒 | Weblog
自民党総裁になった谷垣禎一氏は東大卒。自民党総裁の東大卒は宮沢喜一元首相以来。また、鳩山由紀夫首相も東大卒でやはり宮沢内閣以来16年ぶり。

以前は東大卒が当たり前だったのにどちらも16年ぶり。

他の政党も見渡せば、山口那津男公明党代表、志位和夫共産党委員長、福島瑞穂社民党党首、亀井静香国民新党代表はいずれも東大卒。

与党とも野党とも言えない状態の小勢力である渡辺喜美みんなの党代表、田中康夫新党日本代表が早稲田と一ツ橋と、かろうじて私大出があり。

主要政党の党首が全員東大卒だというときに限って、官僚主導の政治をやめるという因縁。

しかし、早稲田慶応を出ているからといって、官僚主導にメスがきりこめたかというとそうでもない。最近では早稲田を出ながら国家公務員に就職する始末で、早稲田慶応は本来、議会人を生み出す理念を持っていたかと思うが、そうでもなくなってきた。

成熟社会になってくると、学問が定式化され、創造力の欠如を生むので結局のところ、大卒では東大が最高というところに行き着くのである。

学問・教養の世界はどうしても、既存の学問から習うために新しいものを作りださない。作りだしたとしても、それは前例を模範にしたものをいかに改造したかというだけであって、今までの常識をぶち破るには、既存の知識が極めて邪魔になるものだ。

というわけで乱世の時期に大事にされたる学歴はやはり中卒ということになろうか。

今の世の中、大卒を見つけるよりは中卒を見つけるほうが難しいんじゃなかろうか。ここにいるけど。

自然主義経済とプラウト

2009年12月06日 20時01分18秒 | Weblog
Googleで『自然主義経済』を検索すると『他のキーワード』の欄に『プラウト主義経済』というのも出てくる。

しかし『プラウト主義経済』を検索しても、平和党に関するものは上位には出てこないようだ。

プラウトとはサーカー氏の提案したもので、資本主義と共産主義を乗り越えたものとして説明されているが、これは単なる社会民主主義か修正資本主義であって、何も新しいものではない。すでに日本経済ではやってきたことであり、これに教育と医療の無償化を足したものである。

プラウトなる制度は、貨幣の本質には何ら切り込んでおらず、単なる資本主義の一形態であるから、貨幣は減価せず、利子がないにしても、貨幣価値は保存されるのでやはり資本主義としての借金地獄を生み出すものである。


我々はマイナス通貨を導入する出始めとして、ゼロ利子の貯蓄、あるいは減価しないただの地域通貨からやろうとなりがちだが、ゼロ利子はプラス利子と同じである。イスラムは同胞から金利をとってはいけないとされておりゼロ利子は実行されているが、経済社会に何か貢献しているかというとそうでもない。むしろプラス利子に駆逐されてしまう。

これはゼロ利子が、実質的にプラス利子と同じだからである。自然界の万物は減耗するのに、通貨だけはその価値が維持され、プラス利子の常識では増殖するという不自然なことをしているため、資源の争奪戦を生み出し、貧富の格差を生み出す。全ての政策の根源はここにあるのだが、全ての既成政党・ミニ政党らはこれを見逃している。

貨幣がなぜ存在するかについて人々は考えなくなった。考えたとしても、貨幣がまずありきの頭でスタートしてしまうので議論にならない。

やはりこれからは、土地と生産ありきで実行していくしかないのだろうなと考えるようにますますなった。


何しろ、プラウト理論のように、先に理論ありきで、人々の幸せを作れるわけはないと思う。

今後展開される政治勢力の推移

2009年12月06日 20時01分06秒 | Weblog
1武人
2知識人
3経済人
4労働者

をさらに分割する。

1-1独立型武人
1-2守銭奴従属型武人

2-1武従型知識人
2-2独立型知識人
2-3守銭奴従属型知識人

3-1自由主義型経済人
3-2政府調整型経済人
3-3離脱型経済人


4-1武人進歩型労働者
4-2知識人進歩型労働者
4-3経済人進歩型労働者
4-4停滞型労働者


平和党は1-1を基調としている。政策機能よりも各支部の自主的な自治を重視し、生産消費の自己完結と自主的な安全保障体制を確立する行動派と言える。現行の武官制度はカネという権力の支配下にあるため、これらが労働者勢力により破壊された後、武民による新しい制度と開拓を行う。


民主党や自民党のタカ派、平沼グループ、維新政党・新風などは1-2に属し、軍事力を守銭奴の方針に従って海外に向けることをよしとする。国際社会の論理に巻き込まれており、近代西洋の国家観や近代経済学の土俵で愛国を唱えるものたちである。現行の武官行政の継続を考える。


2-1は、知識人のうち、武人勢力に与する人々で、1-1に従う勢力と1-2に従う勢力があり、数としては1-2に従う勢力のほうが多い。彼らは、55年体制以来続いている左右政治思想のうちの右側の信者である。しかし改革を成し遂げるのは常に1-1に従った知識人であることは歴史に証明されている。しかしながら知識人が武人なくして独立してことを起こすと、必ず抑圧、弾劾され、消滅していっている。これが2-2独立型知識人による歴史のサガとなっている。後白河法皇、後鳥羽上皇、吉田松陰、美濃部達吉など。現代で言うと、行動なしの議論好き学者やブロガー、あるいは地球市民など武力や経済力に依存しないで突っ張っている知識人勢力が該当する。理想は高いが行動力が及ばない。いざやろうとすると戦闘経験値があくまでも机上レベルばかりなので加藤紘一や谷垣禎一のようなことになる。民主党や自民党のハト派勢力はこれにあたる。


2-3は守銭奴従属型知識人で、構造改革の有意義性を説く竹中平蔵や、その反対に利権維持のために動くケイジアン、社会民主主義、マルクス主義などの学者である。


3-1は、新自由主義の金融・流通・競争社会によって莫大な利益を得る財界人であり、民主・自民の経済右派が該当する。3-2はその反動で、官僚統制経済によって利益を得る財界人である。民主・自民の経済左派や国民新が該当する。

3-3は、現在財産を持つ経済人ではあるが、すでに次の時代を見越して、その財産を1-1に投げ出してしまい、自ら労働者となることを思い切れる人で経済人の地位を捨てる勇気を持った人である。起業家・財産家として優れた先見性を持つゆえ、それら財産が重荷になることをキャッチできる人で、離脱型経済人と言える。離脱後は、政権中枢の武人か知識人に変貌する。しかしこういう人間は稀であり、私の知る限りでは1人しかいない。

労働者のうち、4-1は労働者から武人に、4-2は労働者から知識人になる人であり、彼らは有望である。しかしながら改革の過程で必ず裏切り者が出てくるのが、歴史でも物語でも現実でも常にあり、裏切り者は守銭奴に内通し、新政権の転覆を図る。いまだお金の力に魅了されてしまい、この裏切り者は必ず引っ掻き回すだろう。しかしドラマも現実も、このような裏切り行為は必ず淘汰される。なぜならばエネルギーに乏しいからだ。彼らはたいがい3-3経済人依存型労働者である。

最後の4-4は停滞型労働者であるが、彼らは成り行き任せであり、あてにはできないが、かといって責めたりしてはいけない。ほとんどの人々はこれに該当するため、こうした民を守るのが政治本来の役割であるからだ。


以上のように、1-1が主体となって2-1と3-3がこれを支え、4-1や4-2から新しい人材を生み出し、4-4は1-1に貢献することが求められていくだろう。

IT時代の政治活動について

2009年12月06日 20時00分46秒 | Weblog
昨今、誰もがブログ等で政治言論をできるようになったので、あまりにも独りよがりな性質の言論が目立つようになった。極右や極左のような言論が道の真ん中を堂々と歩いているのが昨今のインターネット政治言論の世界であり、以前であれば、議員に立つ者などが、数々の集会などでリアルに膝詰めで話をし、人間関係の結果生まれ出た方向性というやり方がどんどん少なくなってきている。

リアルから生まれた平和党からすると、初めからネット政党としての意識を持ってやっているようなところは、現実的人間関係を無視し、机上だけの理論優先・政策優先・観念優先みたいなところを感じる。彼らインターネットオンリーの政治言論者は、人集めするにしても、機能的・機械的・論理的集結であるため、地域性は無視されてるし、政策の違いを乗り越える付き合いもできないロボット人間が多い。

そもそも現実的政治言論というのは、ビラを配り、個別訪問をして嫌われ、街頭演説をして怒鳴られ、理念政策の違うものとも融合し、あるときは分離し、同じ趣味の者・同郷・同期だからと言って、些細な違いは目的達成のためには見過ごし、酒を酌み交わし、祭りを共にやり、得られたものが政治達成であったのだが、今ではどこぞの学者の言ってることをパクリ、さも自分の意見であるかのように語る。そこには知性と理性しかなく、偏った人間を多く輩出している。

もちろん昔から頭でっかちはいたが、それは学界や官界の話であって、政界では選挙という、住民活動という、政策論理だけではどうにもいかない人間臭い部分をクリアせねばならず、そのために保守派は寛容であり、左派ですら今のネット右翼よりは寛容であった。

つまり、あまりに、インターネットでの政治言論は、ひきこもり社会の作り出した、「現実乖離思想」ばかりが横行している。

ブログのコメント欄において交流はなされているものの、それはその政治意見に賛成するか反対するかでしかなく、心情的人間関係は一切除外されようとする。

己の理念政策を実現するには、単にその意見を日本全体・世界全体に公表するのは最も効率の悪いことであり、リアル社会のすぐ目の前にある事象・人物に対して働きかけ、現実乖離しない活動が重要なのではなかろうか。

インターネットにより世界全体とつながったからこそ逆に、リアル社会ではローカルを強くすることにより、その情報を世界全体に発して初めて意味を持つ。

単に誰でもが言うようなことをあえて書く必要性は極めて薄い。全てリアルから生まれるものをネットに結ぶべきであり、ネットから得たものを料理してネットに輩出することを続けていけば、ますますガチガチの偏狭な政治思想が蔓延し、人々は狂い、日本の永続は難しいだろう。

大地に足をつけないと、己が実行もできていないのに、ただそれを勧める人ばかりになってしまう。そういう人間は、実際のリアルな政治活動においては目に見えてわかるのだが、ネットでの政治言論者においてはなかなか見えないのである。単に腹も据わってないような人間が安易に賛同してくるからである。じゃあいざその人間が何ができるのかと言ったら、いざとなったら尻込みして何もしないのである。

つまりこのような根性なしの口だけの政治言論者を作り出しているのが現状のインターネット社会なのだ。

言うのは勉強すればどうにでもなる。というかインターネット社会では、どこぞのものをコピーしてくればそれで足りる。だから言論よりも実行が重視されるのであって、言論のみ啓蒙のみに依存する輩はたいがい言行不一致であることが多い。そういう人は自分が見えないので己の言行不一致すら読めない。安易な賛同に甘んじられるのは行動が置き去りの結果であるからだ。

何らかの理由があってできないとか、そういうできない理由などというのはいくらでも並べられる。できない理由を見つける前に、できる理由を見つけることが可能か否かということが極めて重要である。

経済の自治力

2009年12月06日 20時00分24秒 | Weblog
自治は、防犯・防災ばかりでなく、経済にも向けられる。

現代は資本主義経済崩壊への道を着々と進んでいる。働いても働いても食えない経済社会。この要因は貨幣依存社会にある。

人間は田を掘り起こし、畑を耕し、魚貝や山菜を得、衣服も天然から取り出し、建物もにあっては、国内に金属がない以上、木材を持って建てるべきで、しかもその木材も、途上国との貨幣の価値の格差を利用して輸入材に頼っている社会では、海外の資源を枯渇させ、国内の失業を高め、地球環境レベルの危機を自ずと作っている。

これを脱却するための自然主義経済なのであり、地域限定、帰農社会、土地重視社会を作らねばならないのに、民主党も自民党もその他の政党も、てんでデタラメな近代経済を信奉するばかりである。

武による自治は、必ず勧農を促進させているのが歴史の事実であり、今度の時代も必ず農に帰る。これを進めていくには、現代の増殖する貨幣制度ではままならない。貯蓄と増殖が可能な貨幣は、農作物よりも金融商品を有利にさせるからだ。しかしこのような金融商品有利な体制というのは、自治ならぬ他治の論理が働いている。資本主義が膨張していけば、必ずこの他治論理は崩れていく。そのために我が党は、その日のために自治力をみんなで協力して養成していかなければならない。それは政権をとろうがとるまいが、貧困にさらされた人々を今すぐに救う手立てであるからだ。

警察消防という自治の原点

2009年12月06日 20時00分13秒 | Weblog
ブログなどで、他の地域の消防団の火災出動状況を見ると、年に一回ぐらいか、あるいは何年も火災出動してないとか、他には、隣町の大網白里町消防団でも去年一年出てないとか、そういう話が多い。

しかし私のところでは月に3~4回出動している。今年は、自分の地区ばかりに火災が発生し、しかも三軒も全焼している。

春には連続放火事件があり、犯人は全く無関係なところに二名いて両方とも逮捕された。

東金市の火災発生状況を見ると10日に一回起きている。これは他からすると多いんじゃなかろうかと思う。

それで出動にあっては、班長の出勤時間が深夜2時で正午ぐらいには帰宅する人なので、私は深夜零時から朝8時までがだいたいの勤務時間であるから、たいがい2人で出て行く。我々2人がいない時間帯は、他の団員が勤務時間ではない深夜であるため、平日の早朝から正午を除き、ほとんどの時間帯をカバーしている。したがって我が班は出動率が極めて高く、火災現場到着も常にベスト3には入り、半分の確率でポールポジションをとる。

今年度の火災出動率は私と班長で九割強を占めており、炎上している場合は、水の中継よりも最前線の放水が多い。

だから年がら年中ホース洗いをしているような感じで、平和なときのほうが少ない。

これが消防団として普通だと思っていたが、どうも違うようだ。

東京の消防団なんかは成り手がいなくて七十才のおじいちゃんがたがやっているらしく、団員不足に歯止めがかからないという。

なぜ消防団が必要なのかと言うと、常備の消防署だけでは人員と水が足りないからである。それを住民がカバーするというのが近代消防の体制であるが、近代以前に立ち返れば、消防は行政機関の業務ではなく、住民自治でなしたわけで、これは警察機能についても言えるが、江戸時代の十手持ちはヤクザ出身などの民間人である。

これらを近代に入ってからは税により成り立たせ、自衛から他衛が始まった。自治から他治へ、お金さえ払うからあとはやってくれという発想にある。

確かに現代では、特殊な化学車両や高層ビルへのハシゴ車など必要で、専門的技術者としての消防官も必要であるのだが、それによって、他治というリスクを負う。


今朝、私がやったシャブ中野郎の捕物も、民間人の協力なくしてはうまくいかぬことであるのだが、警察官はなるべく民間人には協力させまいとする。これは彼らの意地であるのだろうが、そんなことをしているから地域の密着性を離れてしまい、情報の不足が起きる。


かつて地方自治を管轄する自治大臣は消防行政を管理する傍ら、国家公安委員長の兼務も慣例化されていた。

このように自治の原則は治安の維持であり、国の政治のいの一番は武の政治なんであって、それがあってこそ、教育・文化・法律という机上のものと経済・産業・財政が成り立つ。

しかし現代の発想はいつも財政が先立ち、あるいは法律がどうであるとか、教育をいかにしなければならないと論じられる。

今の政治は、自治という原点に立ち返るべきであろうと思う。

なるほど頭いいわ幸福の科学

2009年12月06日 19時59分58秒 | Weblog
私はこれまでに幸福の科学及び大川隆法に関して、次のことを指摘してきた。

●1995年~核戦争・第三次世界大戦が起きると予言しながら実際は知っての通り。しかも当時予言した書籍は全て絶版し、さらに古本屋にも並ばないよう努力しているようである。

●当初はGLA創設者の高橋信次の教義をパクり、大川の父・善川三朗が仕立てたが、大川は自分が有名になって教団も大きくなると、高橋が大川よりも同じレベルか高いレベルであると不都合であるので、高橋は実は仙人で天狗と同じような次元でしかないと言い出し、切り捨てるようになった。



他にもいろいろデタラメはあるが、とりあえずこの2つに関して、新理論が出来上がったようである。


それは
●高橋と大川は実は同一人物であった。

●95年に核戦争が行われ人類は滅んだ。高橋はこの時まで生きていたが戦争で死んだ。そして地球人類は全滅した。

●地球滅亡後の西暦4000年、宇宙人組織が地球にやってきて地球人類の救済を企てる。

●宇宙人組織はタイムマシンで過去にさかのぼって、高橋に預言を書かせるように指示した。しかし誰も信じなかったので核戦争でやっぱり滅んだ。(第一計画の失敗)


●さらにもう一度やり直し(第二計画)、高橋はタイムマシンで紀元前のインドにて釈迦として生まれる。そこでは、将来日本にエルカンターレが再び生まれるのだと預言させる。

●エルカンターレ=高橋は、釈迦として生まれた後、次に昭和に大川として日本に生まれる。そして核戦争を食い止めた。これゆえ、高橋と大川がこの世に重なって存在する時期が生じた。




……という理屈である。


それじゃ高橋仙人説はどうなったんだと言いたいが、タイムマシン持ち出してくるんだからどうにでも言えるだろう。

知的理解というものがいかに無駄なものかがわかるだろう。

理屈を作り出して、自分がいかに正しいかについて延々と述べる人がいるが、それらは、単なる知的な遊びであるから、人々の魂に響かない。まずは実行してみせていないから、グズグズ理屈を並べたてるわけだ。

知的理解がいかに無駄かがよくわかる事例である。

既存ルールの打破方法

2009年12月06日 19時59分44秒 | Weblog
紀元前にゴルディウスという王がいた。
王は複雑な結び目をしたヒモをどのようにしてほどくかという難題を作った。アレキサンダーはそれを剣で斬ってしまい、「ほどいた」ようだ。

アレキサンダーは武に優れた覇者であることは世に知られている。



時代と場所は変わって、鎌倉幕府二代将軍・源頼家もまた武に優れた人であった。

ある時、支配する土地の境界をめぐり二人の守護大名が将軍に裁定を請うた。

頼家は、一切の資料を目にせず「えいやっ」と地図に境界線をひいた。「もしもこれに文句があるなら幕府の軍事力がお相手しましょう」ということが潜在されているためスンナリ決まる。それまでの権利関係の経過は一切関係ない。


飛んで江戸時代、徳川家光は品川御殿で剣術試合を開催した。

諏訪部文九郎は、馬上の試合で最強であり、誰も勝つ者はいなかった。

そこで家光に同行していた柳生但馬守に出場を命じた。

但馬守は自らの馬を止めるなり文九郎の馬の面を打ち、馬は驚き背いたところ文九郎を打ちつけた。


これら3つの事例に共通することは、土台に乗らないということである。

知識ある人はなまじルールを知っているためにそのルールに縛られてしまう。

現代政治の無能ぶりを見よ。自らルールを作って自縛しているのである。

民主党は官僚政治を打破すると言っているが、官僚体制の土台に乗って戦っているため、いずれ限界がくるだろう。

みな今までの官僚体制ルールを知りすぎているからである。
一気に斬ってしまえばどうということはない。

既存の枠組みとは全く違う場所から土台を作ることは、時代の変わり目に必ず起きている。民主党政権は、単なる自民党政権の延長から微調整しているだけであって、根本から腐りきった現行の政府はもはや末期ガンである。したがって、新たなルールと新たな土台を作らねばならない。


新たなルールは開拓者、挑戦者によって作られる。ニワカ竜馬を自称する永田町には、こうしたことはできない。彼らの対策案はつねに既存ルールの中だ。

歴史というものはその転換期に、今までのルールをブッチ切るときがある。今はその時なのだが、いまだにコンガラがった結び目をなんとかほどけるんじゃないかと試行錯誤している。

成田市の前市長について

2009年12月06日 19時59分26秒 | Weblog
先程、「汚職の成田市長」と書いてしまったが「前市長」の間違いです。訂正できないのでここにお詫びするとともに、小林攻前市長の弁護もしたい。

小林前市長は今おそらく刑務所にいるだろうと思うが、彼のしたことは法的に咎められることだろうが、みなそのおかげで潤ったというのは事実として存在する。

私は千葉市でのパーティーで一回、千葉市でのホテルの喫茶店で一回、成田市役所の市長室で一回、合計三回ほど小林氏にお会いしたが、真面目な人であり、成田市のことを真剣に考えている政治家だと思った。

しかし、現実に成田市を成り立たせるためには、貨幣を回していかなくてはならない。農村を重視することなどはどうしても片手間になってしまう。お金があってこそ農家を助けられるし、農家以外の貧しい人たちも助けられる。市内に公共事業を回すのだって、政府や大企業といかにつながって、いかに金を流れやすくさせるかにつきる。

したがって現行の資本主義経済を続けていく以上、利権政治家は当然うまれるし、その利権政治が税金の無駄遣いだとして騒ぐ市民運動もうまれるし、民間重視・競争重視に切り替えようという発想にもなる。

したがって、制度を憎んで人を憎まずという精神は重要であると思う。

全ての人々が資本主義と社会主義の被害者なのであって、自然主義経済を知らない人が多い今は、やるべきことをやるしかない。それが土地作りなのである。

成田市のこれからの在り方

2009年12月06日 19時59分14秒 | Weblog
したがって、羽田空港の国際化はもはや時間の問題だけである。

都心直結の国際空港ができれば、千葉県民は外国人移民が少なくなるからむしろ歓迎したほうがよい。今日の貧困の問題は、貧富の格差拡大は輸出入が増えたこと、日本からビジネスを求めて外国に行きやすくなったこと、外国から労働力を求めて日本に来やすくなったこと。これにより貨幣と流通が国内に濃密に動かなくなり、分散化が進んだところに日本の崩壊過程の理由がある。


グローバリズムによる開国派勢力の拡大は、日本をアメリカに同化させる手法である。これにより日本は戦後の復興を成し遂げたが、これ以上の国際化は資源の浪費、日本の外国支配を強めるものである。


ところで、森田知事を支持する人たちには、民主党を支持しないが前原誠司国土交通大臣を支持する人が多い。

おそらく森田・前原両氏ともに保守派と見ているからだろうが、とんでもない大間違いである。

最近は、インターネットの切り張りスクラップだけで物事を判断している人が多いのでそのようになっているんだろうが、鳩山内閣では「千葉景子×」の人はたいがい「前原誠司◎」で、「前原誠司×」の人はたいがい「千葉景子◎」という、既存政治思想のワンセットに乗るという発想の貧困さがある。

生の前原氏を知らず、いつの間にか勝手に右派は「前原は民主党だけど素晴らしい」とか、左派は「前原は民主党だけど支持しない」とか、そういう単純バカが増えてきた。

以前、小泉元首相を支持している右派は大間抜けだと言ったが、前原氏についてもこれがあてはまる。

先に言っておくと、前原氏は夫婦別姓には賛成しており、靖国神社も参拝しない人である。私は彼のさきがけ時代を知っているが、そもそもリベラルに属しており、右派諸氏が支持しているのは前原氏の主張である「集団的自衛権を認めよ」というところであろうが、ここからスタートしていろいろ勝手に既存のワンセットを構築妄想してしまうのだろう。

しかしその既存政治思想に前原氏がハマるのは、グローバル経済推進であるということだ。


前原氏は松下政経塾出身であり、京都という、古来から中国大陸や朝鮮半島との貿易により栄えた都市であるから、現代で言えば東京都都心部を中心に国際市場にガンガン参入していくということにもなろう。


政策の一致・不一致にこだわる純粋な政策バカが多いが、その政策バカをコントロールするのが戦略であり、政治家である。

この戦略を見事に動かしたのが小泉首相であり、そして今後前原氏になる可能性がある。

よく保守派は「前原氏は自民党に入ればいいのに」と言うが、彼は民主党だからこそ生き、そして保守派も市民派も騙しきることができるのである。


さきがけ時代から前原氏は外交を専門分野としたが、集団的自衛権云々の話を出したのは、彼が民主党内の目立つポジションを得てそのようなスタンスに切り替えているだけであって、心底そう思っているわけではない。これと同じことを民主党時代の鳩山邦夫氏が試みたが失敗し、自民党に復党したまでだ。


森田知事も同じで、彼の基本スタンスは四年前から石原人気頼みで知事になることである。だから成田空港がどうなろうがどうでもいいと思っている。四年後も知事であり続けるための芝居に付き合わされているだけだ。

このような政治のエグさを知らずして、政策ばかりを語るのは素人のやることだ。素人の言い分は黙って聞き流せば良い。

以上までは政務の問題であって、国民には直接関係ないことを申し述べた。


しかし重要なのは国民生活であって、前原氏が菓子パン2個も食えるかとか怒り狂いゴミ箱に捨てたとか、森田氏は政策立案能力がなく、他人のマニフェストをパクるのが得意だとかは、彼らの人間性を知るには重要であっても、広く民に向かって何を呼びかけるのかということは、よりいっそう重要な問題である。

この成田空港と羽田空港の問題では、東京都大田区に貨幣が回りやすくなり、千葉県成田市には回りにくい状況であるので、東京や川崎に有利で、成田近辺の田舎地帯には不利な環境が生まれよう。


しかしそれは一時的な問題で、先々考えたら国際空港は手放したほうが有利で、国際空港を抱えたほうは大損害を生むだろう。

「貨幣、国際化、都市、企業社会」の現代は「土地、内需化、農村、地域・家族社会」に取って変わられる。成田市というのは偉大なる農村であるが、空港ができたがゆえち、成田闘争を展開する革マル派から地元の商店街、地域住民や先祖代々の農家から大企業、汚職の成田市長から空港利権で潤った市議に至るまで、みな貨幣に踊らされていたのである。成田近辺だけ賃金が東京都並みなのは空港のおかげである。しかしそれゆえに地域と家族社会を崩壊させたのだ。

空港建設前には成田の土壌にはたくさんのミミズがいた。そのミミズは肥沃な大地を作ってきたが、膨大な面積のコンクリートに覆われ消えてしまった。代わって入ってきたのは外国産物と不法労働外国人。これにより、経済はガタガタになり、みなが金を稼ぐだけのロボットになり果てた。

このことを踏まえ、先々の成田市をどう復興させるか。もはや考える時期に来ている。いつまでもダダをこねて粘るよりは、さっさと羽田空港に渡したほうが良い。そのうちババだったことに気付くだろう。