goo blog サービス終了のお知らせ 

前略、ハイドン先生

没後200年を迎えたハイドン先生にお便りしています。
皆様からのお便り、コメントもお待ちしています。
(一服ざる)

穂村弘 『短歌ください』 (メディアファクトリー)

2011-05-02 00:08:21 | 
穂村弘さんの『短歌ください』を読みました。

先日下北沢にライブを観に行った時、
時間があったのでヴィレッジヴァンガードを物色していて出会いました。

本の情報誌『ダ・ヴィンチ』の読者投稿コーナー「短歌下さい」の作品をまとめたもので、
穂村さんの解説、批評が添えられています。


一般読者の作った短歌ですがびっくりしました。どれもみな素晴らしい作品です。
私は短歌や詩、小説はもちろん、絵でも音楽でも、
なにかを「創造する」ということが出来ない人間なので、
この煌めくような言葉のセンス、感性には嫉妬すら感じます。

例えばこんなもの。

 ○こんにちは私の名前は噛ませ犬 愛読書の名は『空気』です。
  (女性・18歳)
 ○石川がクラス名簿のトップですあから始まらない朝もある
  (男性・27歳)
 ○今顔が新種の猫になっててもいいや歩道の白だけ歩く
  (女性・26歳)


これも好きです。

 ○コンビニで聞こえた遅刻の言い訳が「尾崎にバイクを盗まれました」
  (男・25歳)

尾崎豊の名曲『15の夜』の一節、「盗んだバイクで走り出す」の"本歌取り"です。

年齢的には"尾崎世代"の私ですが、正直、当時から全く引っかかりませんでした。
むしろ、「盗まれたバイク」の持ち主に感情移入する方でしたので。
だからこの作品、笑いとともにその頃の感情が胸に迫ってきます。



先日読んだ、穂村弘さんの『世界音痴』の中に、
面白い映画を見たときほど「早く終わらないかなと思う」、と書かれていました。

 一刻もはやく「面白い映画を観終わった後の自分」になって、安心したいのだ。

私もこれと同じような気持ちになることがあります。
何かに激しく感動した時、早くそのことを誰かに話したい、早く自分の世界に行きたい
(だから早く終わってほしい)
と思ってしまうのです。

そんな感覚に近いのかもしれません。次の一首。

 ○こんなにもしあわせすぎる一日は早く終わって思い出になれ
  (女性・19歳)

クラシック音楽の場合、逆に「いつまでもこの時間(演奏)が続いてほしい」
と感じることもごく稀にありますが・・・。


言葉を吟味して、あれこれ単語を足し引きして作られたものもあるとは思いますが、
多くの歌は、まるでその言葉がふっと湧いて出てきた、天から降ってきた、みたいな
閃きのようなものを感じさせます。
若い方の作品が多いですけど、本当に驚かされます。

 ○「髪切った?」じゃなく「髪切ったんだね」と自信をもって言えばいいのに
  (男性・19歳)
 ○来年はコスプレだねって話したら白セーラーは遺影の沈黙
  (女性・18歳)


穂村さんは、これらの歌について、
どこが優れているのか、その面白さ、恐ろしさ、違和感、意外性を、
あるいは同じ音(おん)の繰り返しや、リズム感、押韻等の技術的な点など
的確に論評されており、「さすがはプロだなあ」と感じます。


 ○「大丈夫、お前はやれる」拒否された10円玉をきつくねじ込む
  (男性・36歳)
 ○一秒でもいいから早く帰ってきて ふえるわかめがすごいことなの
  (男性・35歳) 
 ○「罪」という鞄を持ったたくさんの男の人が揺れている朝
  (女性・27歳)

最後の歌は「TUMI」というブランド名を「罪」に見立てた歌です。



私はこのロゴを見るたびに、映画「ターミネーター」を思い出してしまうのですが、
「"罪"を持った人たち」という連想はなかったです。

同じ世界の観方、感じ方、受け取り方の多様さ、齟齬、断絶、誤解、意思疎通の難しさ
そして、それが故の面白さを改めて意識します。



"不穏な空気"や"恐ろしさ"を感じさせる歌について、穂村さんは「怖い歌は全ていい歌だ」
と書かれています。

それは、画家・中村宏さんの言葉

 「事件性がないとほとんど描く気がしない。いわゆる「癒し」の絵など私には描けません」

と呼応する、芸術における"真理"だと思います。

穂村弘 『世界音痴』 (小学館文庫)

2011-04-03 14:58:58 | 
歌人、穂村弘さんを知ったのはもう20年近く前になります。


その時、第一歌集『シンジケート(SYNDICATE)』を読みました。
普段、短歌、俳句などは全く読まないのですが、
「現代短歌」(といっていいのでしょうか?)とは面白いなあと感じました。

  ★子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」
  ★ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
  ★桟橋で愛し合ってもかまわないがんこな汚れにザブがあるから

当時、とても心に染みました(今読んでもそうです)。


こんなのも好きです。

  ★「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
  ★「酔ってるの?わたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
  ★サバンナの像のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
   (穂村弘『シンジケート(SYNDICATE)』沖積舎)

その後も歌集を数冊読みましたが、最近はご無沙汰しておりました。
本屋で待ち合わせをしている時にこの『世界音痴』が目に留まり、
思わず買ってしまいました。


「自分が見ているのとは違う世界」を見せてくれる作品が好きだと常々書いておりますが、
"詩の世界"、詩人(歌人や俳人も含む)が見ている世界というのは、
そういうこととは少し違うかな、と感じていました。

確かに、自分と同じ世界に住んでいても、見ているところが違う、目の付け所が違う、
とは感じますが、それよりも「言葉の選び方」の方が重要なのかな、と・・・。


穂村弘さんの『世界音痴』を読んでいると、それともちょっと異なります。
この方は、私たちが住んでいる"この世界"に違和感を感じています。


穂村さんは「自然さ」を持てない・・・といってます。

例えば、寿司屋で注文する時、板前さんに「自然に」声をかけるのが、
飲み会では、両隣の人とのバランスを気にしすぎて「自然に」話をするのが、
場が盛り上がってきて、ほかの席に「自然に」移動するのが・・・。


決して"非社交的"な方ではない、人と接したり話をしたりするのが
嫌いな人ではないと思われますが、「自然に」することが苦手だ、と。
この感覚は何となくわかる気がします(穂村さんほど極端ではありませんが)。

  「自然さ」を奪われたものは世界の中に入れない。

同じ世界に住み同じ世界を見ていながら、その世界に入れていない。
その違和感、"入れなさ"を作品にしているのだな、と感じます。


例えば穂村さんは、毎年半袖に着替えるのが人より一日だけ遅れる、と言います。
他の人達が半袖に着替えたのを発見してから自分も半袖を着るからだと。


私もこの季節、出勤の際にいつまでコートを着るかに悩みます。
もちろん、朝のニュースでその日の天気や気温を確認したり、
自分自身の気温に対する感覚(暑がり、寒がりなど)を頼りにするわけですが、
それとは別に、「コートを着ている人が少なくなったなあ」といった"反応"も気にします。

私だけではなく他の人もおそらく同じでしょう。
でも私(や他の人)はそれを「自然に」行えています。「不自然」だと感じたことはありません。
だから私は、世界の中に入れています。


「音痴」という言葉を辞書で引くと、
  ・音程や調子が外れて歌を正確にうたえないこと
  ・あることに関して感覚が鈍いこと
などの説明があります。
後者の例として「方向音痴」「運動音痴」「味音痴」などがあります。

  「自然さ」を奪われたものは世界の中に入れない。

世界の中に入れない、上手に"世界"が出来ない・・・それを称して『世界音痴』という・・・。


この、言葉の選び方に感動します。

『核兵器のしくみ』 (山田克哉/講談社現代新書)

2011-03-20 00:12:09 | 
核分裂、核融合などの核物理学に興味があったので
以前、山田克哉著『核兵器のしくみ』(講談社現代新書)という本を読みました。

タイトルは「核兵器の・・・」となってはいますが、
内容は、原子核の構造から始まり、陽子・中性子、アイソトープ・・・、
ウラン235の核分裂、臨界、アルファ線・ベータ線などの放射線、
そして核爆弾や原子炉の構造、核融合反応・・・と多岐に渡ります。


文系の素人にもわかるように順を追って要点を解説してあり、とてもよい本だと思います。
もちろん、一度読んだだけですべて理解できるわけではありませんので、
何度も読み返していますが。

今回の地震による福島原発の事故が起こった際、この本を手元において
ニュース解説を聞きながら、改めて内容を確認したりしていました。


3月16日付の新聞で「再臨界の可能性がゼロではない」
とのニュースが報じられています。

『核兵器のしくみ』に書かれている内容と、それに関する私の理解では、
どのようにして、この「再臨界」が起こるのかは理解できません。
(そもそも本当に「再臨界」などあり得るのかも)


本に書かれていることで、私なりに重要だと思う点を(私の理解のもと)いくつか上げます。

 〇核分裂によって生じる熱を利用し、水を水蒸気にしてタービンを回し発電するのが原子力発電である

 ◇通常の原子力発電(原子炉)には「ウラン燃料」が使用されている
 ◇ウランとプルトニウムの混合「MOX燃料」を使用したのが「プルサーマル原子炉」である

 ◇ウラン核(ウラン235)を核分裂させるには[中性子]が必要である

 ◇核分裂を起こしたウラン核からは、熱と平均2.5個の[中性子]が新たに放出される
 ◇放出された[中性子]が、次々と別のウラン核の分裂を引き起こすのが核分裂連鎖反応である

 ◇核分裂連鎖反応を短時間に一気に起こす(暴走)のが核爆弾である
 ◇分裂から放出され、新たに分裂を引き起こす[中性子]数を(一定に)制御したのが原子炉である

 ◇ある世代の分裂を起こす[中性子]数が、その一つ前の世代の分裂を起こす[中性子]数と
  同じになった状態の時、原子炉が「臨界」に達したという

 ◇ウラン燃料が「何事も起きていない状態」(=原子炉が完全に停止している状態)では
  自然に(勝手に)核分裂連鎖反応は起きない

 ※[中性子]によって分裂したウラン核から、新たに[中性子]が出てくる点が重要だと
  著者は何度も説明しています。
  そしてその数が2個以上であることで、連鎖反応が続くと分裂する核の数が
  「ネズミ算」式(2倍、2倍)に増大し、制御しないと「暴走」(爆発)が起きます。


核分裂連鎖反応をスタートさせるには、最初に必ず[中性子]が必要であり、
それがなければ、ウラン核(燃料棒)がいくら熱くなろうが再度連鎖反応は起こらない、
(ゆえに「再臨界」にもならない)というのが私の理解です。


ですから今、懸念されている最悪の事態も、
燃料棒が「余熱」で格納容器等を溶かし、それによって生じる水素などで大爆発が起きる、
そしてその爆発により核燃料などの放射性物質が大量にかつ広範囲に飛び散る・・・
というものだと理解しています。

放射性物質の飛散となれば、大変重大な事態です。
(放射性物質がなぜ危険か、ということも本の中に書かれています)

しかし爆発自体はあくまでも「化学反応」によるもので、
「核分裂連鎖反応」による爆発(≒核爆発)ではありません(と思います)。



『核兵器のしくみ』には、チェルノブイリやスリーマイルなど
過去に起きた事故についても説明されています。

そこで次のようなことも書いておられます。少し長くなりますが、引用致します。

   事故が起きて原発側が隠蔽しようとするのは「世間が騒ぎ立てる」ということと
  「誰が責任を取るか」という問題が絡んでくるためであろう。
  しかしこれは必ずしも原発側だけを責めることはできない。
  そこには「説明したところで話が専門的になり、世間は分かってくれないだろう」
  という先入観もあるからだ。
  世間一般の人達がもう少し原子力の知識を持たねばならない。
  今、日本にある全原発の運転を停止したら、停電や節電だけでは済まなくなるだろう。
   (山田克哉著『核兵器のしくみ』141ページより)


今の事態を予測していたような内容です。一読をお勧め致します。


(注)
核分裂、原子炉、臨界等に関する私の理解(記述)で重大な誤りや誤解を招く点、
または私の知らない知識や情報などがありましたら、是非、ご指摘下さい。

松浦理英子 『犬身』

2011-01-04 00:00:00 | 
家でじっくり音楽を聴いたり本を読んだする機会があまりありません。
どうしても録画したTV番組やDVDを観てしまいますので。

となると通勤・帰宅途中が主な鑑賞時間になるのですが、
昨年は音楽ばかりであまり本を読みませんでした。

そんな中で久しぶりに衝撃を受けたのが、戦慄を覚えたのが
松浦理英子さんの『犬身』でした。


好きな作家(小説家)を問われれば、
半村良、赤江瀑、宮部みゆき、逢坂剛・・・など挙げられますが、
誰か一人と言われれば、松浦理英子さんになります。
今までの人生で(色々な意味で)一番影響を受けた一人です。


松浦理英子さんは驚くほど寡作です。
刊行された小説は1978年「葬儀の日」でデビュー以降、

『葬儀の日』(1980年)
『セバスチャン』(1981年)
『ナチュラル・ウーマン』(1987年)
『親指Pの修業時代』(1993年)
『裏ヴァージョン』(2000年)
『犬身』(2007年)

とわずか6冊(他にエッセイ集や対談集が数冊)です。


大学時代に最初に『セバスチャン』を読んでから
松浦理英子さんの作品は全て読んでいます。

『親指Pの修業時代』は女流文学賞を受賞しベストセラーになりましたが、
彼女の代表作はやはり『ナチュラル・ウーマン』だと思います。
私自身今でも時折読み直します。

でも『裏ヴァージョン』以来の新作である『犬身』が2007年に出た時、
すぐに読むことができませんでした。
期待と不安が入り混じっていたのと、読むと必ず"後を引く"からです。
昨年文庫になってようやく手にした次第です。


これほど一つのテーマで作品を書き続けている方も
あまりいないのではと思います。
なぜなら彼女のテーマは常に「ナチュラル・ウーマン」だからです。

最も自分らしい愛し方、愛され方・・・
最も自分らしくいられる場所を求める女性・・・

それが彼女の作品のテーマであり、松浦理英子さん自身の姿だと思います。


『犬身』
お読みになっていない方にはネタバレになってしまいますが、
文字通り「犬に変身するお話」です。

しかしそれこそが主人公(および松浦理英子さん)にとって
"ナチュラル"なのです。
だから「ナチュラル・ウーマン」なのです。


松浦理英子さんの作品に出逢えてよかった、
そして、彼女の作品の愛読者でよかった、と心から思いました。


衝撃でした。


中山康樹 『エレクトリック・マイルス 1972-1975』

2010-10-21 09:18:09 | 
中山康樹さんの著書
『エレクトリック・マイルス 1972-1975』
(ワニブックス新書)
を読みました。


中山康樹さんのマイルス関係の著作では、

 「マイルス・デイヴィス 青の時代」(集英社新書)
 「マイルスの夏、1969」(扶桑社新書)

をすでに読んでいます。


「青の時代」は『Kind Of Blue』誕生まで、
「マイルスの夏」は『Bitches Brew』誕生までの軌跡を
丹念に追っています。

本作品は、その後の
『On The Corner』、『Get Up With It』、
そして『Agharta』、『Pangaea』という
1975年に日本でライブ・レコーディングされた
アルバム誕生のまでの経緯が書かれています。


新たな(画期的な)作品が生まれるまでに、
マイルスがどんな音楽に興味を持ち、誰と出会い、
どのようなセッションを繰り返したか、という部分が、
様々な資料や関係者へのインタビューを交えて
ある意味淡々と(ルポルタージュのように)描かれます。

しかしながら、関係者の経年による記憶違いや
(虚栄心からの?)矛盾を一つひとつ丹念に検証していき、
マイルスの真意を探っていく様子は
ミステリー小説のようにスリリングでもあります。


どのようなジャンルの音楽でもより深く理解しようとするなら、
曲を聴くだけでなく、それなりの「勉強」が必要だと思います。

その点、ジャズは音楽理論などがある程度わからないと
その「真の面白さ、凄さ」に気付くのは難しいです。


私のとってはクラシック音楽よりも遥かに手強いです。