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榛名防衛備忘録:装甲車は何故必要なのか?:第二回・・・防御陣地と防御戦闘の発展史

2015-01-28 22:16:30 | 防衛・安全保障
◆防塁・城壁・塹壕・塹壕陣地・掩蔽陣地
 装甲車は何故必要なのか、という特集、第一回は本論に入ったところで終わりましたが、本日はここからすすめます。

 城壁という防衛手段が古来の戦史における防御の基本形を為していましたが、これを覆したのが、火砲の出現です。攻城兵器が発展を続けるとともに城壁に対し有効的に破壊できる技術革新が城壁の位置づけを大きく転換させます。大火力の火砲が射程内に入るまで城壁に依存することは無意味ですし、幾重に城壁を巡らせる代案が検討されるも城壁造営には過度な財政負担が加わり現実的ではありません。

 16世紀、火砲の出現により戦場は城壁から野戦へ転換します。城壁は塹壕へと発達し稜線に防塁を建設し砲兵の火力を避ける運用が一般化します。防衛線という概念は野外へ展開しました。しかし17世紀に携帯火器が発展し、痰ある塹壕では体を為さなくなりました、マスケット銃など小銃火力が増大化するとともに塹壕による砲兵火力からの退避だけでは近接した歩兵により射撃され制圧されやすくなるため、斜射や側射により塹壕間が相互補完する必要が出てきます。つまり、城壁という概念は防衛線という概念に置き換わったという事ですね。

 稜郭陣地は、塹壕とその拠点となる防塁を連携するようその周囲を塹壕により連絡する陣地が構築されるよう進化した結果誕生したものです。これにより、18世紀には稜郭陣地を念頭に運動戦や迂回戦術と連絡線遮断といった現代戦術の根幹要素が大きく発展をみた、といえるやもしれません。

 しかし、稜郭陣地は、火力の命中精度という面での発展により一掃される脅威に直面し、防塁等は地下化し位置を掩蔽しなければ生き残れなくなりました。こうして、塹壕は一本の溝から第一次大戦期に見られるような個人用掩体と連絡線の連続により構成される塹壕陣地へと姿を変えてゆきました。

 第二次世界大戦期には、航空機の出現により陣地をある程度秘匿する必要性が高まり、個人用掩体と連絡線により構築される塹壕陣地は意味をなさなくなり、秘匿性を掩蔽により高め、第一次大戦中に萌芽し大きく実用性を増した戦車を移動する火力拠点として用いる掩蔽陣地が一般化し、特に東部戦線において多用されています。

 この掩蔽陣地は、第二次世界大戦後の機械化部隊一般化に対して、やはり陳腐化するようになりました、具体的には掩蔽陣地構築に要する時間は、地下陣地など建設へ必要な労力が限りなく増大したためです。一方で機械化の普及は特に建設機械の発展により難易度は下がっており、戦線の展開と陣地構築技術の発展は短期間、競争することとなります。

 結果的に、運動戦という概念の下に堅固な掩蔽陣地の建設は追随を断念します。これは運動戦の展開に機械化とともにヘリコプターによる空中機動が戦線と策源地を結ぶ連絡線遮断に用いられる蓋然性が高まり、陸と空から掩蔽陣地の急速建設という概念は陳腐化へ追いやられた、という形に他なりません。

 装甲車はこうした陣地構築の歴史の中に歩兵戦闘の延長線上として位置しています。城壁という初期の概念は、防塁と野戦陣地の防衛線に概念が置き換わり、この概念は初期には塹壕、続いて火力発達は個人用掩体と連絡線により構築される塹壕陣地へ展開し、塹壕陣地がそのまま防御力を増す掩蔽陣地へ、発展していきましたが、これが運動戦のなかで陳腐化した、という流れの中で用途を得ました。

北大路機関:はるな
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