平取の義経神社にイザベラバードのフットパス・ゴール点の碑があるが、その地を探検した松浦武四郎は「東蝦夷日誌」にこの土地の記録を残している。
日誌の概要は『沙流川を舟で下り、幌去に宿泊・・・ニブタニ(二風谷)・・ハヨ平(西岸、平高十餘丈)舟を寄せて上る。・・・重畳(じゅうじょう)たる連山の上に糠平山・尖岳(アポノボリ)・沙流山等空を凌ぎて聳ゆ。岩間には石楠花・雪もゆう、種々見慣れぬ異草一面に生じ、此処に一ッの小社を安置し、毘羅取大明神との額を懸し、八十年前は卿〔源義経〕の甲冑有りしが、今は其像會所元に有と。』
現在は、義経資料館に義経公の像写真と説明が展示されている。
資料館と義経公の像説明

「義経公北方之伝記」という古書もガラスケース内に収められている。

ハヨ平(現在のハヨピラ)は閉鎖中であるが、偶然にも説明看板に武四郎のスケッチが書かれていた。
閉鎖中の入り口
入り口説明版内の松浦武四郎のスケッチ○囲み内
「ハヨピラとは、オキクルミカムイ(アイヌにあらゆる生活の方法を教えたとされる文化神)の伝承が残る由緒ある土地として、地域の人たちに語り継がれている崖をさしている」
ハイ メカジキの吻 オ 置く
ハヨピラのアイヌ語の語源には次の二つの説がある。
「ハヨㇰ 武装したピラー崖」略
ハヨピラは、オキクルミカムイが降臨しピラ崖に住んだとされる言い伝えが古くからある、一方、本当は魚を取るための漁小屋があった場所で、居城(チャシ)は10㎞ほど上流にある、旧シケレペ(現在の平取町荷負附近の額平川を挟んだ対岸の岩山であったとされている。いずれにしてもオキクルミカムイが住んだ土地ということを沙流川流域にすむアイヌの人々はとても誇りに思っています。また、パピヨラは寛政十一(1799)年に江戸幕府の幕史であった近藤重蔵が千島調査の際に立ち寄り、義経像を寄進して神社を建てられた場所ともあります。義経神社の前進であるこの崖の様子は、安政五(1858)年にこの地を訪れた松浦武四郎によって描かれています。・・・平取町」と説明が書かれている。
=追加=
2013年11月16日の北海道新聞に「平取のアイヌ文化景勝地」として文化審議会が文部科学省に追加答申した・・と記事があった。オキクルミの居城と伝えられている山が認定されたら、私個人としてはこの場所ピラ崖のことを蝦夷日誌に記録した松浦武四郎のことも含めてほしい。
義経神社境内の様子
神社
チセ風の屋根が珍しい手水舎
馬主が奉納した幟
これは資料によると義経公による戦いの多くが騎馬によるものだったことにちなみ、毎年二月初午祭が行われ競走馬の勝利と安全を祈願した・・・ということで、愛馬の名前が入った幟が沢山奉納されていた。お祭りに使われたものか・・・お神輿

静御前や常盤御膳の石碑
現在の義経神社境内には「平取油田記念碑」があった。裏書は雑木が生茂って見るスペースがなかったので何が書かれているか分からないが・・・、エネルギー資源として掘削をしていたのであろうか・・・?
大きなご神木
「紫雲古津」について武四郎の探検日誌では
『ヒラトリ〔平取〕村(西小川、人家一軒)一條の町に成、大なる家有。ヲハウシナイ(西川)、・・・ニナ(荷菜)・・・シュムンコツ(紫雲古津)村、本名シュムンコツにして、西地面の義也。畑多く有。夕方、乙女(おとな))イヨラツケ家に宿す。』
私たちは、北海道内の彼が野宿や宿泊した石碑等を巡ってきたが、彼の日誌の中から知ることが出来るのもまた興味が深まるものです。
交通手段の発達していない安政年間に探検した松浦武四郎、明治初期に歩いたイザベラ・バードの情熱に触れるのも楽しい・・・。
日誌の概要は『沙流川を舟で下り、幌去に宿泊・・・ニブタニ(二風谷)・・ハヨ平(西岸、平高十餘丈)舟を寄せて上る。・・・重畳(じゅうじょう)たる連山の上に糠平山・尖岳(アポノボリ)・沙流山等空を凌ぎて聳ゆ。岩間には石楠花・雪もゆう、種々見慣れぬ異草一面に生じ、此処に一ッの小社を安置し、毘羅取大明神との額を懸し、八十年前は卿〔源義経〕の甲冑有りしが、今は其像會所元に有と。』
現在は、義経資料館に義経公の像写真と説明が展示されている。
資料館と義経公の像説明


「義経公北方之伝記」という古書もガラスケース内に収められている。

ハヨ平(現在のハヨピラ)は閉鎖中であるが、偶然にも説明看板に武四郎のスケッチが書かれていた。
閉鎖中の入り口

入り口説明版内の松浦武四郎のスケッチ○囲み内

「ハヨピラとは、オキクルミカムイ(アイヌにあらゆる生活の方法を教えたとされる文化神)の伝承が残る由緒ある土地として、地域の人たちに語り継がれている崖をさしている」
ハイ メカジキの吻 オ 置く
ハヨピラのアイヌ語の語源には次の二つの説がある。
「ハヨㇰ 武装したピラー崖」略
ハヨピラは、オキクルミカムイが降臨しピラ崖に住んだとされる言い伝えが古くからある、一方、本当は魚を取るための漁小屋があった場所で、居城(チャシ)は10㎞ほど上流にある、旧シケレペ(現在の平取町荷負附近の額平川を挟んだ対岸の岩山であったとされている。いずれにしてもオキクルミカムイが住んだ土地ということを沙流川流域にすむアイヌの人々はとても誇りに思っています。また、パピヨラは寛政十一(1799)年に江戸幕府の幕史であった近藤重蔵が千島調査の際に立ち寄り、義経像を寄進して神社を建てられた場所ともあります。義経神社の前進であるこの崖の様子は、安政五(1858)年にこの地を訪れた松浦武四郎によって描かれています。・・・平取町」と説明が書かれている。
=追加=
2013年11月16日の北海道新聞に「平取のアイヌ文化景勝地」として文化審議会が文部科学省に追加答申した・・と記事があった。オキクルミの居城と伝えられている山が認定されたら、私個人としてはこの場所ピラ崖のことを蝦夷日誌に記録した松浦武四郎のことも含めてほしい。
義経神社境内の様子
神社

チセ風の屋根が珍しい手水舎

馬主が奉納した幟

これは資料によると義経公による戦いの多くが騎馬によるものだったことにちなみ、毎年二月初午祭が行われ競走馬の勝利と安全を祈願した・・・ということで、愛馬の名前が入った幟が沢山奉納されていた。お祭りに使われたものか・・・お神輿

静御前や常盤御膳の石碑

現在の義経神社境内には「平取油田記念碑」があった。裏書は雑木が生茂って見るスペースがなかったので何が書かれているか分からないが・・・、エネルギー資源として掘削をしていたのであろうか・・・?


「紫雲古津」について武四郎の探検日誌では
『ヒラトリ〔平取〕村(西小川、人家一軒)一條の町に成、大なる家有。ヲハウシナイ(西川)、・・・ニナ(荷菜)・・・シュムンコツ(紫雲古津)村、本名シュムンコツにして、西地面の義也。畑多く有。夕方、乙女(おとな))イヨラツケ家に宿す。』
私たちは、北海道内の彼が野宿や宿泊した石碑等を巡ってきたが、彼の日誌の中から知ることが出来るのもまた興味が深まるものです。
交通手段の発達していない安政年間に探検した松浦武四郎、明治初期に歩いたイザベラ・バードの情熱に触れるのも楽しい・・・。
いろいろ収穫の多い旅だったようで、何よりです。
先日、南奥駈道の山小屋で三重県の方々とご一緒しました。郷土の偉人・英雄として有名なようです。私の知っているいろいろ業績等を話してあげました。
とても誇りを感じると話していました。