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大野町の歴史に触れて歩く(3)千代田エリア:箱館街道~千代田庚申塚

2015-08-23 08:04:24 | 日記
大野町一本木から隣千代田エリアに入ると、何かの説明版を見つけた。
「箱館街道」の説明であった。

 『松前街道には松前からシヨヤマ村(現北斗添山)を経て箱館に宿泊し、箱館から大野へ達する道路があり、これが箱館街道で、文月道路より後にできたものとされているが、亀田番所の設置や蝦夷地の場所(アイヌとの交易場所)開設が慶長年間(1596~1615)であるから、このころから箱館~亀田~大野を経由した蝦夷地(道央)との交通が行われたとみられる。
文化4年(1807)に書かれた「蝦夷紀行」(館野瑞元著)は箱館から宗谷までの旅日記の冒頭の一部には箱館を出発した後、海浜をすぐれば広野数理、汚水を渡り、行くこと1里ばかりにして新発の田多し。地すこぶる肥えたり。五穀とも熟すという。北行五里として大野に宿す」とある。蝦夷紀行がたどった道は現在の北斗市久根別から一本木、千代田を経由して本町(大野)に至るかつての箱館街道として交通の拠点を担っていたことがわかる。』
平成25年3月北斗市教育委員会  (約2年前にこの説明版は設置されたもの)
箱館街道説明版の立っているところ

千代田庚申塚と忠魂碑東屋がある小公園の敷地内に説明版と庚申塚、2~3m位離れた所に忠魂碑がある。

千代田についての説明には

『千代田の開村は「大野村史」や「蝦夷実検考録」にある千代田稲荷神社勧請の記録から寛政年間(一七八九~一八〇〇)と推定され、藤田家の記録にも「先祖藤田八五郎は陸奥国軽米村に生れる。
寛政元年本道へ渡り、本村に居住をぼくす。』と書かれ、更に、文化二年(一八〇五)大野平野一帯で幕府直轄による大開田が行われ、千代田でも文化元年に渡来した島図才兵門が南部八戸より農家十に戸を募集して開墾している。
千代田の地名由来については
言い伝えによると『鶴の飛来が多かったので鶴田と称したとあるが、「蝦夷実検考録」の記述から、江戸の千代田村にあやかって後の繁栄を願い千代田と称するようになったと推定できる』とあり、幕府の米の施策を行った際に千代田と記されている。
道道大野上磯線を境に西側を西川原、東側を東前谷内と呼ばれていたが昭和七年の字改正で千代田・東前の二字となった。東前には私の父方の祖父の親戚が住んでいた所でもあるので何となく親しみを感じる地名である。

千代田庚申塚について

『庚申塚は干支の六十日または六十年ごとに巡ってくる「庚申」(ひのえさる)のことで、信仰は中国の道教に始まったといわれる。奈良時代に日本に伝わり、室町以降、通行の安全や五穀豊穣、悪病退散など御利益や庶民の願いに代わると、江戸時代にはますます村はずれや辻に塔を建てる琴が盛んになった。神道では申と猿を結び付けて猿田彦をまつる。』次に廻る本郷の庚申塚にはこの「猿田彦」の名が刻まれている。
碑面には「庚申塚 嘉永三年八月、名主島津・・・、大和屋・・・など当時の主な人の名が刻まれている・・・ということですが、裏面は見てこなかった。

忠魂碑は明治四十四年(一九一一)建立され「日露戦没・戦死者 法典・旅順戦没者 陸軍藤田弥三郎 建立
千代田在郷軍人と刻まれている。

千代田稲荷神社と藤田翁頌徳碑
『千代田稲荷神社は寛政6年(1793)に勧請されたもので、、祭神は倉稲魂命である。明治9年には村社となって鎮守の森造っており、祭神は毎月8月25日に行われている。』
千代田稲荷

藤田市五郎翁頌徳の碑について

『慶應元年(1865)千代田西川原でいまれ、幼少時、米沢藩の漢学者杉本新平の門下生として学問を志した。
温厚な人柄で多き公職につき、住民の信望も厚く、開拓精神に富み、農業発展の基礎作りに励んだ』という人であるが、札幌農学校長の佐藤昌介博士の紹介で灯台農学部に西洋野菜栽培を学び、明治44年(1911)ケチャップの製法に取り組み、温室を作りトマト、サンショウなどを栽培し、昭和6年にはピューレ(ケチャップの原料)の製法に成功し、年間2500本を生産し、函館の五島軒ホテルと契約し納入した・・・と記録がある。碑文は難しい漢字・・・。

千代田稲荷神社の境内に「千代田巡査駐在所跡」の説明版があり、住民には頼りにされていたよう。
現在は消防団の建物。
 
明治37年千代田村有志の寄付により千代田稲荷神社の境内に設置され、明治40年大野警察文書の諸葛に成り、地域住民の安全確保や人馬の往来、物流などに大きな役割を果たしたという。

道路を挟んで、ひまわり畑が広がっていた。何年か経ったら、広大なひまわり畑になるかもしれない・・・

この後、箱館戦争とのかかわりのある意冨比神社や本郷の鹿島神社などに向かった。

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