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大野町の歴史に触れて歩く(4)本町・本郷エリア:意冨比神社~本郷庚申塚など

2015-08-25 08:02:46 | 日記
大野町本町にある意冨比神社は漢字にフリガナが付いていなかったら、何と読でいいのか解らない・・・しかし説明版には歴史や箱館戦争とのいわれが書いてあります。
意冨比神社


「箱館戦争と意冨比神社の戦い」
『明治元年(1868)旧10月20日、旧幕府軍は森町の鷲ノ木に上陸し、本体は(現函館)に向かい、分隊は峠下コースを進軍し、10月24日、午前7時ころ、風雪の中、今の峠下から五稜郭へ進軍のため向かおうとする榎本隊大鳥圭介舞台と阻もうとする官軍藩兵と市渡で遭遇戦になり、意冨比神社内を中心に先頭に成り白兵戦になった。しかし、作戦に長ける榎本軍には官軍は相手でなく、敗走する官軍を南大野まで追撃。約1時間の戦い』此の間、大鳥部隊の放った大砲の弾が下町の家に当たり、強い北風にあおられて十数軒の家が焼失したとのこと。
 なお意冨比神社の一井の期に弾痕がある・・・。しめ縄で囲まれた数本のイチイの木の弾痕を探したが、いろいろな窪みがあり、どれが弾痕か私にはわからなかった。

「意冨比神社の水松記念樹木林」「大野町には江戸時代初期のころから人々が住みはじめ、寛文9年(1669)頃、既に家が20軒ほどあった。 このイチイの木は其の頃植えられたもの。大野町の350年の歴史を物語る古木として指定されたことが説明版に記されている。(昭和47年3月25日指定 北海道)
説明版とイチイ

境内には大野稲荷神社がある。
『意冨比神社境内にある「倉稲魂命」を祭る稲荷神社で、安政年間(1854~60)に作成された「大野絵図(北斗市文化財)」には西鍛冶在所(現南大野)に稲荷と山神を祭る社祇がみられた』と記載されている。
意冨比神社の記録によると、明治19年(1886)、境内に稲荷神社を合祀した・・・。
大野稲荷神社

意冨比神社の次に本郷の鹿島神社へ向かった。
境内に大野町で一番古い庚申塚がある・・・と文月庚申塚を見たときに書かれていたので、これは見るべきでしょう・・・と思った。本郷2丁目16の番地のついた家屋があった。
ところが、境内には庚申塚というイメージの石はなく台座の高い古いお墓と思ったものしかなかった。社殿うらや林に埋もれていないかしばらく歩いたが・・・あきらめて帰るか・・・。
家に戻ってから大野郷土資料館に問い合わせたら、学芸員さんがわざわざ確認に行ってくださいまして、社殿の前にあります・・・と。
 後日、再訪問したら、古いお墓のように見えていたのが庚申塚であった。
鹿島神社

石碑には
確かに文字は鮮明ではないが・・・『奉鎮祭庚申太祖猿田彦太神』と刻まれているではないか・・・。
私の庚申塚のイメージは文月・千代田の土の上に建立されている真四角ではない尖った自然石しかなかった。四角ち柱のイメージは頭の中になかった。
庚申塚


『鹿島神社の起源はつまびらかではない。市川重郎の「蝦夷実検考録」では寛政年間(1789~1801)とし、村史では文政年間(1818~1830)となっている。
本郷村の鹿島神社の祭神は「武壅槌大神」である。農村には稲荷神社が多いのに、本郷だけが鹿島明神が奉祇されている。』
『境内にある庚申塚は大野で一番古いもので、寛政8年(1796)に建てられた。当時の9名の有名人の名が刻まれている。庚申信仰は、庚申の年に禁忌を要求したもので、村のはずれや辻に建てられたといわれている。』
平成3年5月大野町教育委員会
境内に明治初年の植樹されたカツラの大樹が残されている。


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