2009年7月旅の途中、平取町にある歴史の散歩道を歩いた。
この道は登山が趣味の私たちはよく利用した国道237号線沿いのアイヌ文化博物館のエリアにある。
レリーフには松浦武四郎(1818年ー1888年)と刻まれ「幕末、維新期の北方探検家で著述家。開拓判官。幕末、武四郎h「北海道」の名付け親として知られる。アイヌに案内されて、数度にわたる探検により「東西蝦夷山川取調日誌」「東西蝦夷地理取調図」などを著した。沙流川旅には安政5年(1858年)に来訪。門別の奥から貫気別に入り、岩知志方面に抜け、そこから沙流川の本流を下る経路を探査し、地名・人名・続柄・年歳などコタン(集落)ごとの状況を詳しく記した。ホロサル(現振内付近)でアイヌの人たちの立派な居住まいに驚きつつ、次の和歌など平取で5首を残した。
「世ばなれし 保路さる山の奥えみし 都の手ぶり いつならひけん」 と刻まれていた。
そのほか、歴史の道には「ジョン・バチラー」や「金城マツ」のレリーフがある。
歴史の道の「ふくろう」トーテムポール
金城マツは「ユカラの伝承者。アイヌ名イメカノ、妹のナミとともに函館の伝道師養成の愛隣学校で学んだ後、明治31年に平取聖公会に着任、伝道看護師ブライア女史を助ける。晩年は故郷の登別で暮らし、アイヌ伝統文化の記録保存のために尽力。「アイヌ神謡集」を著し知里幸恵と北海道大学教授知里真志保は妹ナミの子どもたちである。」と刻まれている。
登別に「知里森舎」があり、幸恵の資料が展示されている。函館に愛燐学校があったということにも印象があった。
この道は登山が趣味の私たちはよく利用した国道237号線沿いのアイヌ文化博物館のエリアにある。
レリーフには松浦武四郎(1818年ー1888年)と刻まれ「幕末、維新期の北方探検家で著述家。開拓判官。幕末、武四郎h「北海道」の名付け親として知られる。アイヌに案内されて、数度にわたる探検により「東西蝦夷山川取調日誌」「東西蝦夷地理取調図」などを著した。沙流川旅には安政5年(1858年)に来訪。門別の奥から貫気別に入り、岩知志方面に抜け、そこから沙流川の本流を下る経路を探査し、地名・人名・続柄・年歳などコタン(集落)ごとの状況を詳しく記した。ホロサル(現振内付近)でアイヌの人たちの立派な居住まいに驚きつつ、次の和歌など平取で5首を残した。
「世ばなれし 保路さる山の奥えみし 都の手ぶり いつならひけん」 と刻まれていた。
そのほか、歴史の道には「ジョン・バチラー」や「金城マツ」のレリーフがある。
歴史の道の「ふくろう」トーテムポール
金城マツは「ユカラの伝承者。アイヌ名イメカノ、妹のナミとともに函館の伝道師養成の愛隣学校で学んだ後、明治31年に平取聖公会に着任、伝道看護師ブライア女史を助ける。晩年は故郷の登別で暮らし、アイヌ伝統文化の記録保存のために尽力。「アイヌ神謡集」を著し知里幸恵と北海道大学教授知里真志保は妹ナミの子どもたちである。」と刻まれている。
登別に「知里森舎」があり、幸恵の資料が展示されている。函館に愛燐学校があったということにも印象があった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます