2010年6月19日、虎杖浜のホテルいずみに一泊し、目的地の千歳サーモン橋にある松浦武四郎の歌碑などを訪ねた。
橋の両欄干には武四郎が探検した当時の千歳川周辺の様子や詩が描かれている。
その一つには「昭和62年11月竣工」『松浦武四郎(一八一八~一八八八)北海道の名付親で六度にわたる探検を行い道内の山川の様子を世に紹介した功労者でした。彼が最初に千歳を遡ったのは弘化三年(一八四六)二度目の蝦夷探検の時でした。
そして安政四年(一八五七)五度目の北海道探検の時に著した「夕張日誌」の中でその頃の千歳のことをくわしく紹介しています。
千歳番屋のレリーフ、この年七月に訪れたときに篆刻家でもあった武四郎が描いたもので、これに石場高門が跋文したものです。
跋文読解
~ここの名を改められし事とも思出て あしたつの跡 ととめたる
ちとせ川 ちとせの後も かくてすむらむ~ユウフツ 高門』丸山道子訳「夕張日誌」より
二つ目は武四郎の歌碑『里遠き しこつの湖に筏より 棹さしゆけば 魚のより来る』安政四年七月松浦武四郎
歌碑のレリーフ写真
武四郎が描いた千歳川周辺の番屋などの図には山や神社、千歳川には7~8隻の船や大きな橋を長い荷を担いで渡る人や荷引く数等の馬や家屋が相当数描かれている。番屋のあったところは賑わっていたと思われる。
西蝦夷日誌・五編(松浦武四郎著・吉田常吉編)では千歳領について「(島松川川筋)左にニヲベツ(小川)、右本川、瀧あり。源は札縨岳より、惣て蛾々岸壁なり。・・・従ㇾ是千歳領なり。九折鼻をも衝計の峻を上がり、平地有。・・・芒が原をしばし過て千歳番屋に宿す。・・・昨秋飯田某と相謀。漸々針盤を手におき、方位を振りて荒萊(あれくさ)を分け來りしも、今馬上にて高跨て往来しける様に成りしも有難けれ。其の時しも石場と共に戯て詩し置きむ。(※ 石場高門のこと)
千歳川 千代經ん道の しほりにと むすぶにあまる 露の八千草 石場高門
あした鶴(づ)の しきる聲にも 千歳の里の ほど近しをば 弘 と読んでいる。(※ 弘は松浦武四郎の名
雅号としては多気志楼を名乗る
橋の両欄干には武四郎が探検した当時の千歳川周辺の様子や詩が描かれている。
その一つには「昭和62年11月竣工」『松浦武四郎(一八一八~一八八八)北海道の名付親で六度にわたる探検を行い道内の山川の様子を世に紹介した功労者でした。彼が最初に千歳を遡ったのは弘化三年(一八四六)二度目の蝦夷探検の時でした。
そして安政四年(一八五七)五度目の北海道探検の時に著した「夕張日誌」の中でその頃の千歳のことをくわしく紹介しています。
千歳番屋のレリーフ、この年七月に訪れたときに篆刻家でもあった武四郎が描いたもので、これに石場高門が跋文したものです。
跋文読解
~ここの名を改められし事とも思出て あしたつの跡 ととめたる
ちとせ川 ちとせの後も かくてすむらむ~ユウフツ 高門』丸山道子訳「夕張日誌」より
二つ目は武四郎の歌碑『里遠き しこつの湖に筏より 棹さしゆけば 魚のより来る』安政四年七月松浦武四郎
歌碑のレリーフ写真
武四郎が描いた千歳川周辺の番屋などの図には山や神社、千歳川には7~8隻の船や大きな橋を長い荷を担いで渡る人や荷引く数等の馬や家屋が相当数描かれている。番屋のあったところは賑わっていたと思われる。
西蝦夷日誌・五編(松浦武四郎著・吉田常吉編)では千歳領について「(島松川川筋)左にニヲベツ(小川)、右本川、瀧あり。源は札縨岳より、惣て蛾々岸壁なり。・・・従ㇾ是千歳領なり。九折鼻をも衝計の峻を上がり、平地有。・・・芒が原をしばし過て千歳番屋に宿す。・・・昨秋飯田某と相謀。漸々針盤を手におき、方位を振りて荒萊(あれくさ)を分け來りしも、今馬上にて高跨て往来しける様に成りしも有難けれ。其の時しも石場と共に戯て詩し置きむ。(※ 石場高門のこと)
千歳川 千代經ん道の しほりにと むすぶにあまる 露の八千草 石場高門
あした鶴(づ)の しきる聲にも 千歳の里の ほど近しをば 弘 と読んでいる。(※ 弘は松浦武四郎の名
雅号としては多気志楼を名乗る
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