芭屋框組(はなや かまちぐみ)

残しておきたい情報や、知っておきたい事

木曽檜と、きそひのき

2010-03-28 14:32:11 | 基本用語、基礎知識
少し時間ができたので見学の為、木曽の官材市売(=原木の競市)に出かける。



同じ長野県下に、大きく分けて3つの組合がある。その中で支部が2~3つあり
各支部が、年間20回程の競市を行う。

木曽の市に来たのは、この日が初めてで、言わずと知れた木曽檜が一体どんな物で
また、どういった値段で取引されているのか興味深々であった。

まず土場の雰囲気は心なしか整然としており、山ごとの本数も少なめで、きれいに
丁寧に置かれているという、印象をもった。

手前の方から見ていくと、いきなり天然林の木曽檜が登場する。
目のつまり具合が、緻密で普段見ている檜とは全く別物である。




節だらけの丸太の節の切り口ですら、非常に年輪が細かく、赤身がきれいで、
模様としても成立している。

関心しながら足を進めると、ひらがなで「きそひのき」の表示があった。
檜は檜だが、先ほどの天然木曽檜とは明らかに年輪の詰み具合が違う。



後で分かったことだが、同じ径で天然木曽檜が200~250年生
きそひのきが約80年生、おおよそ3倍の年輪の差がある。
天然林と人工林との差だそうだ。値段も1桁違う。

同じ産地でもこの様な差が生まれる。もっと言えば同じ県内でも北信と南信では
それぞれに違いがある。杉に関しては北の方が良いという訳ではなく、
南信の飯田の方が良質のものが多い。
因みに地元の伊那で建具材で使える杉は中々出てこない。




ところで、これだけ地元で原木が流通していても、地元の職人は殆どこの様な所に
足を運ばない。生産性を考えればロスが多く当然の事かもしれないが、残念に思う。

かく言う私も原木から仕入れたのはここ数年の話。中には使えない物を仕入れた事も
あるが、そうやって授業料を払って得た経験は大きな財産となっている(と、思いたい)。




耳(=辺材)を落とされた、四角い製品材や木取り材ばかりを扱っていると、仕事は楽かも
しれないが、得る物が少なく、進歩が無かった様に思う。

さて話は戻るが、「木曽檜」と「きそひのき」おそらく木曽というブランドがついていた
方が、通りが良く売りやすい理由からだろうが、そんな物に惑わされず、物を見究める
目を養っていきたい。









実行する人々

2010-03-21 10:01:01 | 心に残った話、出来事
山梨の山中で黙々と作業に励む若者たちがいた。
電動工具を使わず、伐採から建物の完成までを人力で行う。




この時は2日間にわたって前挽き大鋸を使った板材の挽き割り作業。

以前私も地元のイベントで体験したことがあるが、見た目以上に
作業は大変である。30分もやったら嫌になってしまった。
ましてや小屋一件分の板材を挽き割るのは気の遠くなるような話だ。

参加している人たちは山小屋に泊まりこみ、自炊をしながら作業を
進める。





甲州大工、雨宮氏の指導のもと、基本作業を教わった後は各自が
分担分をこなしていく。かといって好き勝手にやっているのではなく、
人手が必要な時は、黙っていても助け合いながら、作業が進む。

大鋸で挽き、疲れた頃に刃を目立てまた、大鋸で挽く。
静かな山間でゆっくりとした時間が流れる。





よく見ると木の伐採方法をはじめ、作業台や作業場所に入ってくる橋や林道も
全て昔の方法で作られたことに気づく。





昔の人々はこうして身の回りの物を作り上げていったんだなと
改めて感心させられる。
機械がないと仕事にならない普段の生活がちょっと恥ずかしい。

暗くなる前に片付けを終え、雨宮氏の作業場へ場所を移し、
簡単なミーティングが行われた。

一緒に見学に行った大工さんとパンと飲み物をご馳走になり、
自己紹介や見学の感想等を言う羽目になってしまった。

そこでも参加しているメンバーの方々からは重い丸太を大勢で
持ち運べた事の素晴らしさが語られていて、作業の大変さを述べる人
が少なかったのは印象的だった。

大工、刀鍛冶、欄間職人等様々な業種の人が毎月一回都合をつけて
遠くから集まってくる。
手間代や交通費が出る訳でもなく、逆に参加するのには保険代等
を支払わなくてはならない。

このせちがらい御時世に、このような志を持った人々が存在することを
実感した。いろいろの否定的な意見や考えがあるだろうが、
彼らはまさしく黙って実行する人々であり、大きな物を動かせる力のある人々である。



長谷川幸三郎の仕事

2010-03-07 14:14:34 | 心に残った話、出来事
竹中大工道具館のビデオライブラリーで、動いている長谷川幸三郎を初めて見た。
映像ではヒツ穴の穴あけや、焼入れの様子が映し出されている。



驚いたことに、穴あけは上下の片方ずつから打ち抜かれている。冶具等は一切なく、
結構無造作に作業がすすめられる。それでいて、あの精度の穴あけが出来るのだから、
凄いとしか言いようが無い。

又、昨年の暮れに幸三郎氏の晩年の切り出しを拝見する機会があった。
黙って渡されたその切り出しは一見すると、少し野暮ったいくらいごつい感じで、
何よりも刃裏がでこぼこと、乱れた物であった。「これは一体・・・」
疑問が頭をよぎる。

しばらくすると、持ち主の御主人が静かに次のような説明を始められた。
「これは、親方(=幸三郎)が、晩年の頃に、作られたもので、最盛期の頃に
比べて手が落ちたなんて言う人もいるが、とんでもねえ。全ての仕事が
施されている、よくあの満身創痍の状態でできたもんだ。」

刃先の方は鑿の様に鋼がまかれており、でこぼこに見えた、異形の裏は
透かれた物ではなく、叩いて作られた裏だったことに初めて気付かされた。



その他にも、銘の違いの説明等もして下さったが、残念ながらあまり良く
覚えていない。

家に帰ってからそういえばと思い、本棚を調べるとやはりあった。
千代鶴是秀写真集②のP28右側の写真「蒼峰秋雲更白」(手元に有る方は
御覧になって欲しい。)
幸三郎氏はきっと、この切り出しを見たに違いない。



素人目には、一見不細工に見える刃裏だが、こうした説明や、ストーリー
を知ると、全く違って見えてくる。

20代の頃より、幸三郎氏に誘われて東京の土田刃物に通い詰められ30余年。現在も
月に何度かは勉強に行かれている、この御主人。まだまだ知らない色んな話
が聞かれそうだ。